東の空に欠けた月がのぼる。昼勤めと宿直の女官が交代する時刻は、王宮が手薄になる絶好の機会だ。タナシアは、カイエと二人で華栄殿を出た。目立たない暗色の袿を着て、手燭の明かりを頼りに清殿へ繋がる廊下を渡る。
「誰も近づけないでくださいね」
「はい、王妃様」
清殿の鍵をカイエに預けて、タナシアは妻戸から殿内に入った。扉の閉まる音に、びくりと肩がすくむ。手燭を持つ手は汗ばんで、衣擦れと床の軋む音がやけに大きく耳に響く。
清殿は、華栄殿とは構造も広さも違っていた。まるで、目隠しをして迷路を歩いているようだった。道標を残すように、殿内にある燭台に手燭の火を移しながら真っ暗な殿内を歩く。
どれくらいの時間を要しただろうか。なんとか書斎を探し当てて、タナシアは室内にある七つの燭台に火をともした。余計な物が一つもない、整理された部屋。文机の上も、数冊の本が積まれているだけだ。それも、少しのずれもなく神経質なほど角がそろえてある。
「これは、陛下が」
一番上の書物に、タナシアの双眸が見開く。それは初夜の翌日、アユルが華栄殿で黙々と読んでいたものだった。タナシアはそれに触れて、アユルの横顔を思い出した。
わたくしは、陛下をお慕いしている。それなのに、父上に逆らえず陛下に背いている。罪の意識が、タナシアの心臓を鷲掴みにするようにぎゅっと胸を締めつける。
――息が、苦しい。
けれど、その一方で喜ぶ自分がいる。一度も入ったことのない夫の居所。ここで寝起きして、食事をして。自分が今座っているこの場所で、本を読んだり書をしたためたりなさるのかと思うと、これまでに感じたことのない幸福感が胸を満たす。
――いつか、わたくしをここへ呼んでくださるかしら。
タナシアは、わずかにずれてしまった書物の角を両手で丁寧にそろえた。
「なにかしら」
書物の間から、紐のようなものが出ている。書物を持ち上げて紐を引き抜いてみると、それは玉佩だった。陛下は、玉佩を忘れてキリスヤーナへ行ってしまったのだろうか。タナシアは、不思議に思って手燭の明かりにそれをかざした。揺れる炎に照らされる、花が彫られた深い緑色の鉱石と赤い飾り紐。陛下の玉佩にしては鉱石の質が悪いし、殿方は赤い飾り紐なんてつけない。
「陛下のものではないわ」
鳥肌が立つように、心がぞわりとざわめく。
かん、かん、かんと、女官の交代を知らせる拍子木の高く澄んだ音が鳴った。タナシアは玉佩を書物の間に戻すと、急いで王印を探した。手当たりしだいに文机の引き出しを開けて、それらしいものを漁る。二段目の引き出しに、桐箱が入っていた。
「王妃様、まだでございますか?」
待ちかねたカイエが、書斎に入って来た。道標を残しておいたおかげで、カイエは迷うことなく書斎まで辿り着けたようだ。
「少し待って」
「お急ぎくださいませ、王妃様」
桐箱を文机に置いて、中を確認する。手のひらが妙な汗で湿る。桐箱の中に、金の玉璽らしきものが収められていた。
二度目の拍子木が聞こえる。昼勤めの女官が宿舎に帰る合図だ。タナシアは、桐箱を引き出しにしまって立ち上がった。カイエが、部屋の明かりを素早く消す。そして、二人は殿内を小走りに廊下に向かった。
――女物の玉佩……。一体、どなたの物なのかしら。
書物の間に、隠すように置かれていた。誰かに贈るつもりなのだろうか。それとも、もらったのだろうか。それが気になって足が動かない。
「王妃様、いかがなされました。早く華栄殿へ戻りましょう」
たたずむタナシアをカイエが急かす。そうしている間に、宿直の女官が数人、タナシアに挨拶をして通り過ぎていった。
「ねえ、カイエ。陛下がどなたかをお望みになられたら、わたくしはどうしたらよいのでしょう」
「ご冗談を。陛下には、王妃様しかおられないではありませんか」
「そうですね。おかしなことを言いました。気にしないで」
庭の暗がりから、木々の擦れる音が聞こえる。肌で感じることのできないほどの微弱な風が吹いているようだ。手燭の炎が揺れて、廊下に伸びるタナシアの影がぐらりと形を変えた。
「ラシュリル様。そんなに泣いてばかりでは、気が滅入ってしまいますよ」
「だって」
寝起きのまま、ラシュリルは窓際のイスに腰かけた。四日がたつのに、まだ意識が戻らないという。いつものように、テーブルには朝食と大好きな苺の果実茶が並んでいる。けれど、とても口にする気にはなれない。
ラシュリルは、真っ赤に腫れたまぶたに手巾を当てた。どすっと、矢が刺さる瞬間の鈍い音が耳に残っている。離宮で見た顔は、人の肌とは思えないほど白くて生気がなかった。矢には毒が塗られていたという。怖い。このままアユル様が死んでしまったら……。
――だめよ、そんな不吉なことを考えては。
いつもしてくださるように、わたしも好きだと伝えたい。言葉だけではなくて、目で、声で、仕草で、あなたのことが大切なのだと示したい。だからお願い、早く目を覚まして――。
テーブルに突っ伏して、ラシュリルは祈りをこめるようにアユルの名前を呼んだ。
――アユル様。
かすれた小さな声が、遠くから聞こえる。アユルは、その声に応えるように眉根を動かした。頬に温かいしずくが落ちてくる。泣いているのか?
――ラシュリル。
夢か……。まぶたを震わせながら、静かにアユルの目が開く。まぶしさに目がくらんで、すぐ反射的にまぶたを閉じた。それから、光に慣らすようにもう一度ゆっくりと開ける。ぼんやりと天井画をながめて、アユルは自分が離宮にいるのだと認識した。
ぱちぱちと火の弾ける音がする。そちらに顔を向けると、コルダが暖炉の前に膝をついて薪を足していた。何気なく、アユルの視線がコルダの向こうの大きな窓に向く。空に点綴する雲と数羽の鳥。そこから、綿花のようにふわりとした大きな雪がゆっくりとした速さでおりてくる。
「……ルダ」
しわがれた声は、自分の声とは思えないものだった。口の中がからからだ。喉を潤そうと水を探すが、手の届く所にそれらしきものはない。コルダは、真剣な顔をして火かき棒で暖炉をつついている。アユルは諦めて、コルダが近くにくるのを待つことにした。左肩をかばうようにおさえ、ふかふかの枕を背もたれにして上体を少しだけ起こす。
しばらくして、コルダがアユルに気づいて火かき棒を放り投げた。投げ捨てられた火かき棒が、無残に絨毯の上を跳びはねる。
「アッ、アッ、アユル様!」
アユルは、ぎょっとした。目に涙を浮かべ、両手を広げたコルダが突進してくる。いくら腹心の侍従でも、抱き合って喜びを分かち合うのはごめんだ。アユルは、人差し指で喉をさして、必死に口を動かす。
「み、ず」
「水、水でございますね! はい、すぐにお持ちいたします!」
なんとか、歓喜の抱擁は回避した。コルダが持ってきた白湯を口に流しこむと、喉がちくりと小さな痛みを伴って潤った。
「私は、どれほど臥していた?」
「今日で四日になります」
左肩に、じんじんと鈍い痛みが間欠的に走る。傷は、キリスヤーナ国王専属の医者が適切に処置したが、矢に塗られた毒が奏功して化膿していた。
「ラディエはどうした」
「今回の件をお調べになっておられます。昼前には必ずこちらにおいでになるので、もうすぐいらっしゃるのではないでしょうか」
「すぐ呼んでこい」
「かしこまりました」
コルダは、アユルから空になったカップを受け取ってベッドから数歩離れた。そして、大切なことを思い出して足を止めた。
「王女様がこちらに来られまして、大変ご心配なさっておいででした」
「ラシュリルが、ここへ来たのか?」
「はい。泣いておられましたよ」
「そうか。あれは、夢ではなかったのだな」
アユルの顔が、色を取り戻してやわらぐ。
コルダが部屋を出ていったあと、アユルはベッドをおりてイスに腰かけた。東側のステンドグラスに目を向ける。絵の意味はさっぱり分からないが、鮮やかで深い群青色の美しさに見入ってしまう。
必ず返すと約束した玉佩は、清殿の書斎に置いてきた。返してしまえばそれきり、縁が切れてしまいそうな気がしたからだ。そのことも話そうと思っていた。それから、故郷を離れる決心がつくまで待つつもりでいることも。襲撃などされなければ、ちゃんと話せたのだ。
「陛下!」
勢いよく扉が開き、ラディエが部屋に飛び込んできた。アユルは一瞬、身構える。病み上がりの今、ラディエのようながたいのいい男に抱擁されたら、今度こそあっという間にあの世行きだ。しかし、さすがは一国の宰相たる漢である。侍従とは違い、ラディエの行動は冷静だった。ほっと安堵のため息をついて、ラディエはアユルの足元にひざまずいた。
「お加減はいかがですか?」
「体はなんともないが、まだ指先が痺れている。それで、なにか分かったのか?」
「はい。矢に塗られていた毒ですが、キリスヤーナに自生している木の樹液から作られた麻痺毒でございました。狩りに使うもので、致死性の毒ではなく市中でも売られていて比較的入手しやすいそうです」
「なるほど。では、矢じりはどこのものだ」
ラディエが「失礼を」と立ち上がってアユルに近づく。部屋には二人しかいない。それにもかかわらず、ラディエはアユルの耳元で声をひそめた。
「我が国のものでございました」
ふいを突かれたように目を見開いたあと、アユルは声を出して笑った。カデュラスの武具は、特別な製法で鉄を加工して造られる。門外不出であり、他国は同じものを入手することも造ることもできない。無論、ラディエもそれを分かっているから声をひそめたのだ。
「このことは、国に知らせたのだろうな」
「あの日、すぐに文を出しました」
「文にはなんと書いた」
「陛下が襲撃されたとだけ。不確かなことを伝えれば、混乱を招くと判断いたしました」
「矢じりや矢毒のことは書いていないのだな?」
「はい。陛下の容体についても触れてはおりません」
アユルは、顎に手を当てて考えを巡らせる。
姿の見えない所から射抜いてきた。射手は、相当な腕の持ち主だと推測できる。しかし、殺すつもりはなかったのだろうか。殺すつもりなら、急所をはずしても確実に仕留められるように致死の毒を塗るはずだ。目的はなんだ?
「矢には、死に至らしめる毒が塗られていたが幸いにも一命は取りとめた。そうつけ加えておけ」
「は……?」
「この件は表向きには騒ぎ立てず、慎重に調べろ。矢じりのことは、国に帰るまでそなたの胸に秘めておけ」
「陛下……」
「死なない毒で苦しみを味わわせるとは面白い」
「先日の銅の件といい、一体なにをお考えなのです」
「心配ばかりを先立たせるな。余の言うとおりにやれ」
「かしこまりました。では早速、手配してまいります」
「ああ、そうだ。キリスヤーナ国王を呼んでくれ。話がある」
ラディエが部屋を去ったあと、アユルはテーブルに拳を振りおろした。こみ上げたのは、自分への怒りだった。反省しなければならない。愚かなのは、無知な官吏どもではなく自分だったと。
――決して、二度目はない。