嫌だ、まぶたが腫れてる。
とりあえず着替えだけを済ませて、ラシュリルはドレッサーのイスに座った。顔の状態を見て、化粧は諦める。今日も離宮へ行ってみようかしら。でも、勝手なことをしてご迷惑になるといけないし……。
独り言を言いながら、腰まである長い髪を梳いた。化粧台の隅に置かれた時計の針は、九時十三分を指している。マリージェの部屋にお使いに行ったナヤタが、なかなか戻ってこない。ラシュリルは、髪を高い位置で一つに結んで窓辺から遠くの海をながめた。
大きな雪がふわりふわりと舞っているけれど、日が差していい天気だ。それなのに、気分はまったく晴れない。出てくるのは、涙とため息だけ。アユル様、とラシュリルは胸の前で祈るように両手を組んだ。ばたばたと騒がしい足音が近づいてくる。
「ラシュリル様! 大変です、カデュラス国王陛下が!」
ナヤタの叫ぶような声が静寂を破った。ラシュリルは、ひっと息を詰めた。体から力が抜けて、絨毯敷きの床にぺたんと座り込む。恐れていたことが、現実になってしまったのだわ。やっと止まった涙が、またあふれてくる。
「嘘よ……」
「お目覚めになられたそうですよ!」
「……えっ、目覚めたの?」
「はい。知らせを受けて、ハウエル様がさっき離宮に向かわれたそうです。って、ラシュリル様。大丈夫ですか?」
「てっきり、アユル様がお亡くなりになってしまったのだと思ったわ。ナヤタ、悪いけれど手を貸してちょうだい。腰が抜けちゃって……」
ナヤタが、慌てて手をさしのべる。イスに座ると、すぐにナヤタが苺の果実茶を淹れてくれた。アユル様が無事でよかった。果実茶を口にすると、緊張の糸が切れてほっと心が落ち着いた。途端に、空腹感に襲われる。
「ナヤタ。なにか、食べるものはないかしら」
「ございますよ。ラシュリル様が朝食を召し上がらないとマリージェ様に言ったら、ご覧ください。ラシュリル様の大好きな菓子を焼いてくださいました」
「それで遅かったのね?」
「はい」
ラシュリルが、目を輝かせて焼き菓子に手を伸ばす。いつもと変わらない様子に、ナヤタが嬉しそうな顔をして、ラシュリル様は笑顔が似合いますと言った。
ハウエルが、アユルを見舞って離宮から自室に戻ったのは数時間後のこと。ハウエルは、ひどく苛立っていた。旅の思い出に冬の絶景を見せてやろうと思い立って、カデュラス国王を海に連れ出した。銅の交易を許可してくれたことへの感謝もあった。しかし、それが思わぬ事態を引き起こしてしまった。
「海に誘ったのは、これが狙いだったのか?」
離宮で、カデュラス国王は開口一番そう言い放った。左肩に手を当てて、薄く無精ひげの生えた口元をゆがめたカデュラス国王の顔。底の見えない闇のような目を向けられて、言葉が出なかった。カデュラス国王が自国で襲撃されるという未曽有の事件が起きたのだから、当然、責めを負わなければならい。しかし、カデュラス国王は警備の甘さとかそういったことではなく、事件そのものを僕が謀ったと疑っている。
「なんなんだ、あの……っ! 僕を首謀者だと決めつけやがって!」
ハウエルは、テーブルに置かれたティーカップを乱暴につかむと、怒りに任せてそれを壁に投げつけた。ティーカップが、激しい衝撃音と共に粉々に砕け散る。ハウエルのただならぬ様子に、マリージェとアイデルはただおろおろと狼狽えるしかない。いつもにこにことしているハウエルが、ここまで感情的になったのは初めてだった。
「アイデル。ラシュリルを呼んできて」
「しかし、ハウエル様。ラシュリル様が聞けば、お心を痛めるのではございませんか?」
「僕だって不本意だ。だけど、仕方がないだろう? カデュラス国王は僕を疑っている。徹底的に調べられたら、エフタルとのつながりがバレてしまう。そうなったら、逃げ道がなくなる」
「だからといって、ラシュリル様を質にさし出すなどあまりにも惨いことです。今からでも遅くはございません。別の策を考えてはいかがです?」
「ラシュリルには悪いと思ってるよ。だけど、アイデル。エフタルはカデュラスの大臣で、キリスヤーナ国王である僕よりも身分が高く財力も権力も持ってるんだ。それらしい理由をつけて、属国の首をすげ替えるくらい造作もないはずだ。カデュラス国王に裁かれるか、エフタルに命を狙われるか。今の僕には、そのどちらかしかないんだ!」
再びティーカップをつかんで投げようとするハウエルを、マリージェがそっとなだめる。妻の悲しそうな顔を見て、ハウエルは「ごめん」とティーカップから手を離した。
離宮では、ラディエが険しい顔でアユルに詰め寄っていた。
「王女殿が、なんの役に立つというのです」
ラディエが不機嫌なのには理由がある。事の発端は、アユルがハウエルを離宮に呼びつけて、襲撃事件の首謀者ではないかと嫌疑をかけたことだった。身に覚えがないというハウエルの弁解を聞き入れず、アユルはその忠誠心まで疑った。ハウエルの言葉尻を捕らえ、執拗に揚げ足を取るような話し方だった。カデュラス国王を害したとなれば、詰め腹を切らされるどころの話ではない。問答の末、ハウエルは容疑が晴れるまで妹を人質に預けると言ったのだ。
アユルは、ふっと笑って紅茶に口をつける。砂糖を入れなければ、すっきりとして美味い飲み物だ。
「王女がなんの役に立つかなど、余が知るわけがないだろう。忠誠の証として命よりも大事な妹をさし出すと言ったのは、ハウエルだぞ」
「それはそうですが、陛下。まずはこのラディエに考えを教えてください。キリスヤーナ国王は、陛下がお疑いになられたから王女殿をさし出すと言ったのです。矢じりは我が国のもの。キリスヤーナが関与している可能性は低いでしょう」
「キリスヤーナが関与していないと言い切れるのか?」
言い切れるか、と言われれば言いきれない。全容が見えない今、あらゆる可能性が残されているのだ。ラディエの沈黙に、アユルはにたりとする。思わぬところで牙城を崩す機会が巡ってきた。毒に犯され、生きたまま全身を焼かれるような苦しい目にあったのだ。割に合う代償を支払ってもらわなければ。
「即位して間もない余に銅の交易を奏上するところを見ても、ハウエルにはなにか腹積もりがあるのだろう。今は憶測の域を出ないが、余は命を狙われたのだ。疑うのは当然ではないか?」
「確かに、陛下のおっしゃるとおりではありますが……」
「役に立つ立たないは余の知ったことではないが、王女の身がこちらにある限りハウエルは下手なことをできない」
「ですが、全容が解明されるまで陛下がキリスヤーナに留まるわけにはまいりません。ただでさえ、今回の件で帰国の予定が遅れています。王女殿をカデュラスへ連行せよとおおせですか?」
アユルは、あえてその問いには答えなかった。コルダが、夜の食事をテーブルに並べる。
陛下の言うことに矛盾はない。だが、なにか引っかかる。ラディエは曇った表情のまま、食事の邪魔しないように部屋を出ていった。
「宰相様は、アユル様と王女様のことをお気づきではないようですね。どうなさるのですか、アユル様」
「このままラディエに隠しておくのは得策ではない」
「では、宰相様にお話しになるのですか?」
「ラディエに認めさせなければ、ラシュリルはただの人質になってしまう。王宮に入れるために、ラディエには知ってもらわないとな」
「お怒りになるでしょうね。想像するだけで体が震えます」
「世の男どもの気持ちが分かる」
「どういう意味です?」
「皆、妻となる者の両親に許しを得るために頭をさげると聞いたことがある。中には反対されて、ひどい目にあう男がいるらしいな」
「よくご存知ですね。アユル様は、市井のことには疎い御方だとばかり思っていました」
「口を慎め、コルダ。なにも知らないわけではないぞ」
「どなたに聞いたのですか?」
「十年ほど前に、カリナフから聞いた。相手が誰なのかは知らないが、猛烈に反対されて妻にできなかったそうだ」
「カデュラス国王の従兄弟で、ティムル家の跡取りであるカリナフ様を断る方がいらっしゃるとは……」
「明日は我が身か。まさか、こんな日が来るとは思いもしなかった」
「楽しそうですね。宰相様が怖くはないのですか?」
「ラディエを恐れて、大事なものを守れるか」
翌朝、ラシュリルの部屋にラディエが文官武官を引き連れてやってきた。
人質と聞いた時は、正直、耳を疑った。大変なことが起きたのだから、国王である兄の立場が苦しいのはよく分かる。けれど同時に、保身のために切り捨てられたような気がして悲しくもある。
――仕方がないのよ。お兄様も望んでそうしたわけではないわ。
ラシュリルは、色味をおさえた大人しいドレスに外套を羽織って宮殿を出た。そして、ラディエと武官につき添われて離宮へ向かった。薄曇りの空が、ごうごうと低く鳴いている。こんな日は、必ず吹雪になる。
ラディエは、アユルの部屋から一番遠い手狭な一室にラシュリルを案内した。武官が、荷物を次々に運び込む。とはいっても、三人の武官が一度に運べる量の荷物だ。ラシュリルはラディエにナヤタの同行を許してほしいと訴えたが、聞き入れてもらえなかった。
ラシュリルを部屋に残して、外から鍵がかけられる。さらにラディエは、左右の扉の取っ手に鎖をかけた。そして、コルダに鍵を渡すと、矢を調べてくると言い残して武官と共に離宮を出ていった。
コルダが、ラディエを追いかけるように外に出る。コルダは、ラディエの姿が回廊の向こうへ消えるまで深々と頭をさげ、急いでラシュリルが閉じ込められている部屋に戻った。鎖を解いて、鍵を開ける。
「コルダさん!」
ラシュリルは、驚いた顔をしてコルダに駆け寄った。早くこちらへ、とコルダが手招きする。
「王女様、アユル様がお待ちです。お急ぎください」
「アユル様にお会いできるのですか?」
「はい」
二人は、小走りで廊下を移動した。ふと、伯爵夫人の言葉がラシュリルの脳裏をよぎる。少しは王女らしく振る舞いなさいませ。ドレスをたくしあげて走るなど、断じてなりません。そう言われたのはいつだったかしら。あんなに努力したのに、全然身についていない。ふふっと笑うラシュリルに、コルダがどうしたのかと尋ねる。わたしって本当に王女らしくないわね、とラシュリルはコルダにほほえんだ。
アユルの部屋の前で、コルダは用事があると言ってどこかへ行ってしまった。仕方なく、ラシュリルは扉を少しだけ開けて中の様子をうかがった。
「ラシュリルか?」
アユルの声に、ラシュリルは「はい」と小さく返事をして部屋に入る。アユルは、ふかふかの枕を背もたれにしてベッドの上に座っていた。
「そう警戒するな。誰もいないから、こちらに来い」
ラシュリルは、ベッドの脇に置かれたイスに腰かけた。アユルの顔色は死を匂わせるような色ではなく、表情も凛としている。いつもと違うのは、口元に生えた少し野性的な無精ひげだけだ。
「よかった。いつものアユル様だわ」
「あの日、ここへ来たそうだな」
「心配だったから……」
「宰相に、なにか言われなかったか?」
「いいえ、宰相様はなにもおっしゃいませんでした」
「そなたは、本当に嘘が下手だな」
近くに来い、とアユルがベッドを手の平でぽんぽんと軽く叩く。ラシュリルは靴を脱いでベッドに上がると、ベッドが軋まないように四つん這いでアユルに近づいた。
「一国の王女とは思えない格好だな」
「ベッドを揺らしたら、傷に障るんじゃないかと思って」
アユルが、座ろうとするラシュリルの手首をつかんで引く。ラシュリルはそのままアユルの胸になだれてしまった。
「平気なのですか?」
「傷が? それとも私のしていることが?」
どきっとして、頬が熱を帯びる。こんなに近くで、穏やかに微笑まないでほしい。恥ずかしくて顔を見ていられなくなる。ラシュリルはうつむいて、どちらもと口ごもった。アユルが、ラシュリルの前髪を指ですくって耳に掛ける。
「私は、心からそなたを愛している」
矢が突き刺さる音。倒れた体に蒼白な顔。思い出すだけで恐ろしい。失うのが怖かった。ラシュリルは、体を起こしてアユルの左肩にそっと触れた。
「わたしもです、アユル様」
「私は、数日のうちに帰国する。今回のことがなければ急ぐつもりはなかったのだが、返事を聞かせてほしい。私の妃になってくれないか?」
「でも、わたしは人質なのでしょう?」
「そなたの本心を知りたい。私に、そなたを人質として扱う気は毛頭ないのだから」
「……アユル様が死んでしまうのではないかって、怖くてたまらなかった。アユル様は、わたしの大切な人です。ずっと一緒にいたい。この命がつきるまで」
ラシュリル、と肩を抱き寄せられて唇が重なる。アユルの胸に添えた手の平に、力強い鼓動が伝わってくる。
「ん……っ」
甘い唾液が、唇の境界を曖昧にする。ラシュリルはアユルに身を任せた。お互いの呼吸が色づき始めると、アユルが離れた。
「コルダ様より許しが出ていないからな。ここまでだ」
「まあ」
ふふっと笑うラシュリルの口元を、アユルが見つめる。
「ひとつ、尋ねたいことがある。そなたの玉佩だが、どこで手に入れた?」
「あれは……、その……」
「言えないのか?」
「そうではなくて、なにからお話しすればいいのかしら。あの玉佩は、母の思い出の品なのです」
「そなたとハウエルの母親か?」
ラシュリルは、しばらく黙ったあと「いいえ」と細い声で答えた。
「実は今、コルダにそなたの身をあらためるよう命じている。コルダは忠実な男だ。必ずそなたの素性を暴いて私に報告する」
「どうしてそんなことを?」
「そなたを疑ってのことではない。前にも言ったが、私の傍にいればそなたの身に危険が迫る。私はそなたを守るために、そなたのことを知る必要があるのだ。ただ、それをそなたに隠してこそこそとするのは間違っていると思って打ち明けた」
アユルの真摯なまなざしに、ラシュリルは納得するようにうなずいて母親のことを話し始めた。母親がカデュラス人であること。一夫一妻の国で、自分が許されざる存在であること。時折、相槌を打ちながら、アユルはラシュリルの話に真剣に耳を傾けた。ひとしきり話し終えたラシュリルが、肩の力を抜くようにため息をはく。アユルは、ラシュリルの背に手を回してぎゅっと抱きしめた。
その時、部屋の扉がきぃと音を立てて開いた。アユルとラシュリルの目が同時にそちらへ向く。そこには、コルダではなくラディエが立っていた。
「なにをなさっておられるのです、陛下」
表情や声、ラディエの全身に計り知れない怒りがこもっている。ラシュリルは急いでアユルから離れようした。けれど、動きを封じるように抱きすくめられてしまった。
近づいてくる荒い足音に、ごくりと喉が鳴る。ラシュリルは、アユルの衣をつかんで顔を上げた。そして、アユル様、アユル様、と声を絞り出す。けれど、アユルは悪びれた様子もなく、それどころか薄笑いさえ浮かべて、ラシュリルを抱いたまま背もたれにしていた枕に背を沈めた。
ラディエが、ベッドから四、五歩離れたあたりで形式的に礼をとる。腰から抜いた刀を持つ手はかたかたと小刻みに震え、額には青筋まで浮いている。
「早かったな。調べはついたのか?」
「お戯れですか、陛下!」
静かな部屋に、怒気を含んだ声が響く。あまりの剣幕に、ラシュリルは顔をこわばらせておびえた。それを慰めるように、アユルの手が頬を優しくなでる。
「戯れではない。余は、ハウエルではなく王女に会うために遥々この地へ赴いたのだからな」
「ご冗談を。お望みであれば、カデュラスの良家よりいくらでも妃になる方をお選びください。陛下のご帰還に間に合うように手配させておきます」
「王女だけでよい」
「本気でそのようなことをおっしゃっているのですか!」
「戯れではないと言っただろう。同じことを二度も言わせるな」
「ご承知のはずです。異民族など言語道断。崇高な神の血が穢れますぞ!」
かっと目を見開いて、ラディエが一段と語気を強める。
少し待っていろ。ラシュリルにそう言うと、アユルはベッドをおりてラディエの前に立った。そして、ラディエより高い位置から見おろして淡々とした口調で言った。
「無礼者。誰に向かって声を荒げている」
いつもにも増して冷ややかな目を向けられて、ラディエは服従の意を示すかのようにその場にひざまずいた。
「……申し訳ございません、陛下。ですが、異民族の女人が王宮に入るなど、長い歴史の中で一度もなかったこと。こればかりは、宰相として認めるわけにはまいりません」
ラディエ、とアユルがかがむ。
「認めるだと? 笑わせるな。いつから崇高な神の行いに裁可を下すほど偉くなった?」
「……陛下」
「それに、そなたらも長い歴史の中で一度もなかったことをしたではないか。王を害するなど、前代未聞であろう」
アユルが左肩をおさえて、意味ありげな含み笑いをする。ラディエはぞわりと背筋を凍らせて生唾を飲んだ。