◆第07話

 その日、エフタルはいつものように屋敷を出てダガラ城を目指した。途中、輿の御簾を扇の柄にひっかけて街並みを覗くと、朝焼けがカナヤの街並みを鮮明な曙色に染めていた。憂いのため息を一つ吐き出して、扇を胸元にしまう。

 目を閉じれば、嫌でもまぶたの裏にあの日の光景がありありと映る。着の身着のまま、裸足で屋敷から駆け出した。ダガラ城へ向かう輿入れの行列は朝焼けの色より華やかで、氷のように冷たい石畳の感触が足の裏を突き刺した。

 エフタルは、朱門の前で輿をおりて門番に近寄った。昨日の日暮れから夜通し門を守った五人の武官が、エフタルの腰にさげられたくちなしの玉佩を見て、恭しく敬礼する。

「王妃様に謁見する。門を開けよ」

 エフタルが命じると、朱塗りの大きな門が重たい金属音を響かせてゆっくりと開いた。門をくぐれば、神の領域である。王家に次ぐ高貴な身分であろうとも、ここから先は万人と同じように自らの足で歩かなければならない。エフタルは、遥か先の皇極殿を望んで、ぎりぎりと奥歯を噛む。

 四家では駄目なのだ。この世では、神の系譜こそが絶対だ。エフタルは、王宮へ続く石畳を進んだ。ダガラ城の地を踏みしめる度に、その一歩一歩に誓いをこめる。王統を手に入れるためなら、人の道を踏みはずしても構わない。

 ――先王もそうしたではないか。

 マハールと共に研鑽を積み、互いを無二の親友と認め合った若き日を思い出すと心がすさむ。くだらないと人は笑うだろう。だが、捨てきれない積年の怨恨。三十年近く前の冬、心から大切にすると誓った女をマハールに奪われ、エフタルの純真な精神と王への忠誠心は粉々に砕け散った。

 ――下位の女官から生まれた下賤な奴め。死んでもなお、憎い。

 マハールは、エフタルとシャロアが将来を誓い合った仲だと知っていながら、シャロアを正妃にした。己の出自をティムル家の後ろ盾で補完し、王としての誇りを守るために親友を裏切ったのだ。

「王妃様。朝でございます」

 女官に起こされて、タナシアは急いで着替えを済ませた。

 神陽殿に足を運び、歴代の王の御霊に夫の無事を祈願するのが毎朝の日課になっていた。それは、日の出前でなくては意味がない。しかし、窓に目をやると障子が朝日に赤々と染まっている。アユルが旅立ってから一日も欠かさなかった。タナシアが祈りの時刻を逃したのは、今日が初めてだった。

「毎日お祈りなされたのです。王妃様の御心は天に通じておりましょう」

「そう言ってもらえると心が救われるわ。ありがとう、カイエ」

 親しげに名前を呼んで、タナシアは若い女官に笑みを向ける。いつも優しく真心をつくしてくれるカイエという女官は、年の近い妹のようでもあり心を許せる友のようでもある。

「すぐに朝餉をお持ちいたします。お待ちくださいませ、王妃様」

 タナシアは、庭の見える場所に座って朝食を待った。鳥の清かなさえずりが耳に心地いい。今朝も冷えること。そう独りごちて、白いため息をつく。キリスヤーナに旅立って一カ月、夫からはなんの音沙汰もない。先日、無事に着いたようだと父親から知らされただけだ。

「早くお戻りになられるといいのに」

 緋袴の腰紐に、婚儀で賜った扇がさしてある。タナシアは、桂花の香りが薄れてしまったそれを後生大事に身に着けている。時折、懐かしむようにそれを広げては、夫を思い出すのだ。

「王妃様」

 朝餉を用意すると言って出ていったはずのカイエが、息を弾ませて戻ってきた。

「そのように慌てて、どうしたのです?」

「エフタル様がお越しです」

「そう。お出迎えの準備をしてちょうだい」

「それが、もう……」

 カイエが部屋の入口を見やる。すると、正装に身を包んだエフタルが荒い足音を立てながら部屋に入ってきた。いかに娘であろうとも、タナシアはカデュラス国王の王妃となった身。タナシアの身分の序列は、エフタルよりも上だ。そのことを、由緒あるアフラムの当代が知らないはずはない。しかし、エフタルは、堂々と上席に腰をおろして脇息に肘をついた。

「父上、早くからどうされたのですか?」

「お前に聞きたいことがあってな」

「は、はい」

「王印を見たことがあるか?」

 もしかして、婚儀の前にいただいた書簡に押されていた印章のことかしら。タナシアは、王印とつぶやいて小首をかしげる。

「あれが持っているであろう。御璽のことだ」

「……いいえ。見たことはございません」

「清殿に置いてあるはずだが、本当に見たことはないのか?」

「はい。わたくしは、清殿に入ったことがございませんので」

「清殿に入ったことがない、だと?」

「は、はい。それがなにか……」

 エフタルは、奥歯で苦虫をつぶす。

 マハールに嫁いで、王宮を意のままにしたシャロア・ルブーラ・ティムルのような王妃にはなれなくとも、足元に及ぶくらいの気概は持って欲しいものだ。誰よりも美しくて賢くて、隣に立つ王の威光すら奪ってしまうような王妃。現王を産んだのは、そういう女だった。困惑の表情を浮かべるタナシアに、エフタルは顔をしかめてちっちっちっと舌を鳴らした。

「つくづく、情けない娘よ。清殿に呼ばれないとは、どういう意味なのか。お前には分からぬのか?」

「清殿は王にのみ許される場所だと陛下が」

「それを鵜呑みにしたのか、愚か者。お前は寵を得ておらぬようだな」

 思いもよらない言葉だった。鋭利な刃物で胸を突かれたような激しい痛みと衝撃が体中を走る。タナシアは、膝の上でぎゅっと両手を握った。

「まあ、よい。城の外へ持ち出すことはなかろう。王印を探せ」

「わたくしにはできません。陛下より清殿には入るなと、きつく申しつけられております」

「探せ。お前は王宮の主であろう。なにを恐れることがある。誰かに見られたとて、口を封じればよいだけのこと」

「口を封じるとは?」

「ひと匙、毒を盛ればよい」

「なんと恐ろしいことを……!」

「先の王妃もそうして王宮を治めた」

「……そんな」

「権力とは、そういうものだ」

 にたりとエフタルが笑う。顔は笑っていても、目はぎらぎらと得体のしれない不気味な光を放っている。父上は、こんなに醜悪な顔をしていただろうか。逆らうことを少しも許さないといった威圧が、タナシアを震撼させる。

 娘の性質を熟知し、篭絡の術を知りつくした者の業。粘性の糸で身動きを封じられ蜘蛛に捕食される蝶のように、タナシアはエフタルの視線から逃れることができなくなった。

 エフタルが去った後も、タナシアは魂の抜けた人形のように座っていた。立ち上がろうとしても体が動かない。

 ――陛下、早くお戻りくださいませ。

 タナシアは、この世のありとあらゆる神仏に懇願した。キリスヤーナから戻った夫が、温かく抱きしめてくれることを。

 アユルは、ううっと低い声でうなりながら背伸びをして、ごろりと身体を回転させた。夢見心地でふかふかの枕に顔をうずめて、ラシュリルが残していった香りに酔いしれる。しかし、寒さにぶるりと体が震えて仕方なく起き上がった。

「……コルダ」

 返事がない。どうやら、コルダは部屋の中にはいないらしい。アユルは夜着の乱れを整えると、ごそごそとベッドをおりて暖炉の前に立った。薪は真っ黒な炭になり、炎の勢いはすっかり衰えていた。どうりで寒いはずだと、アユルは暖炉に向かって指先から小さな青い火を放つ。そして、火が炭の上で赤い色になるのを待って薪を放り投げた。

「おはようございます、アユル様」

 コルダが、荷物を抱えて部屋に入ってきた。アユルが暖炉の前にしゃがんで、鳥の鉤爪のような火かき棒の先で火をつついている。その横から暖炉を覗いて、コルダは「代わります」とアユルから火かき棒を受け取った。

「火は……、消えていないようですね」

「お前を待とうかと思ったが少し寒くてな。先に、私が火を入れておいた」

「申し訳ございません、もっと早く来るべきでした。……ところでアユル様。火をお持ちで?」

 アユルは、コルダの問いかけを無視して食事はまだかと言った。

「もうすぐ朝食が届きます。ナヤタ殿がお持ちくださるそうです」

「ナヤタ……。ああ、ラシュリルの侍女か」

「そうです。ところで、王妃様は変わりなくお過ごしでしょうか」

「さあな。なんの連絡もないところをみると、変わりないのだろう」

 アユルの素っ気ない返事に、コルダは気を取り直して身支度に取りかかった。

 顔の手入れから始め、手足の爪を削る。アユルの体に傷をつけないよう、肌に当てる剃刀の刃先にまで神経を集中する。コルダが用心するのには理由がある。侍従になったばかりのころ、一度、アユルの肌を切ったことがあるからだ。たいした傷ではなかったが、女官たちが大騒ぎして華栄殿に呼ばれる事態になったのだ。

「だから申したであろう」

 マハールの王妃シャロアは、そう言って鞭を手にアユルをにらみつけた。

 不義の子を傍に置くなど正気の沙汰ではない。この者は母親を殺された恨みを抱えておる。次はそなたの首をかき切る気ぞ。

 シャロアは美しい顔をしかめて、語気を強める。アユルが、傷はなんともない、コルダを打たないで欲しいと懇願したが、シャロアはコルダの背中に鞭をふりおろした。

「どうした?」

 アユルの声に、コルダははっとした。過去を、映像として鮮明に思い出すのは初めてだった。まるで昨日の出来事のように、シャロアの冷たい表情や口調までが再現されていた。

「表情が険しいな。ラディエのようだぞ」

 コルダは、剃刀を湯桶につけてそんなことはないと笑って誤魔化す。確かあの時、アユル様が身を挺して仲裁に入ってくれたおかげで打たれずに済んだ。それからどうなったのか記憶が定かではない。アユル様に詰め寄られたシャロア様と傍にいた女官の悲鳴が聞こえたような気がする。コルダはこめかみをおさえた。

「具合が悪いのか?」

「い、いいえ。申し訳ございません」

 その時、アイデルとナヤタが朝食を運んできた。ナヤタがテーブルに食事を並べる間に、アイデルがアユルに挨拶する。今日は、銅の交易について協議する予定だ。アイデルは、アユルに時間を告げてナヤタと共に部屋を出ていった。

「いかがですか? キリスヤーナの食べ物は」

 コルダが、湯桶を片づけながら尋ねる。頬張ったパンが、口の中の水分を残らず吸収する。喉に詰まりそうな塊を紅茶で流し込んで、アユルは口に合わないと答えた。

 離宮から戻ったアイデルは、両手にいくつもの書簡を抱えてハウエルが待つ政務室に急いだ。近頃、階段を駆けあがるのも容易ではなくなってきた。もう十分に老体だ。そろそろ後進に役目を譲るべきだと、アイデルは実感する。だが、とアイデルは机に向かうハウエルを見て息を整えた。キリスヤーナの国運を任せるには、彼はまだまだ未熟だ。

「ああそうだ、アイデル。カデュラスから書簡が届いてなかった?」

「ございましたよ。こちらです、ハウエル様」

 ハウエルが、アイデルから受け取った書簡に目を通す。書簡には、カデュラス国王の許可さえ出れば、望む量の銅が手に入るよう手配すると書かれていた。キリスヤーナは小さな国だ。カデュラスと一戦交えるほどの力は持っていない。しかし、今なら新王が統治する世を混乱させることはできそうだ。神の威厳も今や見せかけなのか? ハウエルは、書簡の結びに書かれた差出人の名前にほくそ笑む。

「エフタル・カノイ・アフラムか。カデュラスも、内部ではいろいろとあるようだね」

 ハウエルが、エフタルの書簡を暖炉に投げ入れる。炎がばちばちと音を立てて、美味そうに書簡を飲み込んだ。

「しかしハウエル様、その方を信用しても大丈夫なのですか?」

「どうだろうね。でもさ、気が遠くなるくらい長いことカデュラスに従ってきたんだ。そろそろ王権を取り戻したいじゃないか」

「ハウエル様。どうか、間違いを犯さないでくださいませ」

「間違いだって? 千年以上も前の忠誠なんて、もうとっくに死んでいるだろう?」

 アイデルに言われた時刻が迫って、アユルはコルダと離宮を出て宮殿へ向かった。回廊の途中で、ラディエが二人を待っていた。

「おはようございます、陛下。ゆっくりお休みになられましたか?」

「ああ。寝たが、体が重い」

 私もでございます、とラディエが頭をかきながらアユルの後ろを歩く。

「宰相はどう思う」

「キリスヤーナ国王のことですか?」

「そうだ」

「好青年と見受けましたが……」

「そうか?」

「しかし、警戒はすべきかと」

 大広間には、キリスヤーナの要人たちが集まっていた。アユルは席に着くなり、銅を必要とする理由を説明するよう命じた。ハウエルが、神妙な面持ちで立ち上がって話し始める。

「我がキリスヤーナの国民は、大半が夏の海での漁で生活しております。船はすべてが木造でして、船腹に銅を用いれば海水による腐食を防げますので、船の持ちがよくなります」

 なるほど、と相槌を打ちながら、アユルはハウエルの話に耳を傾けるふりをした。必要な銅の量、製錬についての説明が延々と続く。身振り手振りを交えて話すハウエルの表情は、晩餐の時とは打って変わって真剣そのものだった。そして、話し終えたハウエルが喉を潤そうとテーブルの上のティーカップに手を伸ばした時、アユルはにこやかに許可するとだけ言った。

「陛下!」

 ラディエが、血相を変えて立ち上がる。同席していたキリスヤーナの貴族たちも、すんなりと許可が出たことに驚いている様子だ。警戒するべきだと話したばかりだというのに、どういうおつもりか。そう言わんばかりの鋭い眼光をアユルに向けて、ラディエは身を乗り出した。

「今の説明で十分ではないか。余が、ハウエルを信頼するということだ」

 アユルは、淡々とした口調でラディエに座れと命じる。警戒して疑うからこそ許可する。コルダに筆と紙を用意させて、アユルはその場で詔書をしたためた。

「これを以て、サリタカルから銅を仕入れるがよい。ただし、その量はそなたが求める量の半分とし、船腹にのみ使用を認める」

「なんと感謝申し上げたらよいのか……!」

 ハウエルは頬を上気させて、勝負に勝ったような満面の笑みで謝辞を述べた。アユルが、詔書の最後に名を入れる。アユルは、わざとタニティーアの文字をカデュラスの古語で綴った。詔書は、ラディエが確認したあとに文官が記録してハウエルの手に渡った。

「宰相、直ちにカデュラスへ知らせを出せ。それから、サリタカル国王にも同じように知らせておけ。帰路でまた寄ると添えてな」

「かしこまりました」

 ラディエは、ひどく納得のいかない顔で返事をした。

「では、陛下」

 すっかり上機嫌になったハウエルが、海をご覧になりませんかとアユルを誘う。窓の外は、とても良い天気だった。アユルが快く誘いを受けると、すぐにマリージェとラシュリルが呼ばれた。先日と同じように、ラシュリルがアユルとラディエに挨拶する。顔を上げたラシュリルと目を合わせて、アユルは一瞬だけ表情をゆるめた。

 カナヤの城下、その一等地にエフタルの屋敷は堂々と門を構えている。アフラム家の祖が、初代王より姓と永世の身分を賜ってから千数百年の時が流れた。通りに面した高楼の門は、建て直される度に絢爛になり、今ではダガラ城の朱門をしのぐ美しさだと賞賛されるほどだ。

 エフタルは、朝議が終わると急いで屋敷に戻った。

 甘露の降る日を待ちわびて、じっと息をひそめ耐えてきた。王子の即位が間近になり、未婚の王などあり得るかと頭を抱えるラディエに、早急に王妃を決めるべきだと助言した。無論、タナシアが王妃になるよう二重、三重の根回しもしていた。目論みどおりに王家と繋がった。しかし、タナシアの様子では、仲睦まじいというのは単なる噂に過ぎないようだ。さすがはシャロアの息子よ、とエフタルは鼻を鳴らす。

 庭の池で、錦鯉が水面を波立たせながら優雅に泳いでいる。エフタルは、離れに下級の武官を呼びつけた。しずしずと現れた武官が、縁側で床に額がつくほど深くひれ伏す。

「大臣様、手配いたしました。上手くいけば、キリスヤーナ国王が罪をかぶってくれましょう」

「殺してはならぬぞ。世継ぎがまだゆえな」

「心得ております。少しばかり苦しみを味わえば、陛下も身の程をわきまえられるかと」

 王とは、ちょこんと頭に乗った金の飾りに過ぎない。余計なことに口を出さず、血を繋いで我々の言うとおりに大人しく座っておればよいのだ。そのことを、あの若造に指南してやろう。今は、命までは奪わぬ。だが、娘が王子を産めば現王に用はない。庭に向けた目を細めて、エフタルはにたりと口の端を上げた。

 ヘラートを蛇行する運河を渡って、キリスヤーナ国王とカデュラス国王を乗せた馬車が海に到着した。ハウエルが、お得意の話術で海についてのうんちくを語る。それを聞きながら、アユルはラディエと並んで雪の上を歩いた。

 先王の唯一の功績といえは、ラディエという実直な男を宰相の職に据えたことだ。だからこそ、この牙城を崩さなければならない。ラディエは、カデュラスの血に誇りを持ち、カデュラスに魂を捧げている。王統に異民族の血が混ざることを、決して許さないだろう。

 アユルは、ハウエルの話が途切れた隙に浜辺から浜堤の方へ足を向けた。そこから、白銀の海が一望できる。書物で読んだ、波のうねりや潮騒のない凍った海。初めて目にした海は、華栄殿に渡る廊下に立って想像したものとはまったく違っていた。引きずり込むような怖さも仄暗さもない。地平線の彼方まで、きらきらと輝いていた。

「宰相、王女を近くに呼べ」

「キリスヤーナ国王ではなく、王女殿をでございますか?」

「銅の交易のことで、少し探りを入れたい」

「なるほど。しかし、王女殿が有力な情報を持っているでしょうか」

「さあな。だが、兄妹の仲がよい。ハウエルが、妹になにか話しているかもしれない」

「安易に許可なされたので心配しておりましたが、考えがあってのことでしたか」

「当たり前だ。余は父上のように暗愚ではない」

「それを聞いて安堵いたしました。すぐに王女殿を連れてまいります」

 ラディエが、小走りでハウエルたちを追う。雪が積もった浜辺を、ハウエルとマリージェ、ラシュリルが並んで歩いている。アユルの目が、ハウエルとラシュリルを見比べる。初めてラシュリルと会った時、カデュラス人だと思い込んでしまった。風貌がそうだったからだ。同じ民族でも個人差があるのかもしれない。しかし、同じ親から生まれた兄妹で、こうも違うものなのだろうか。

「コルダ、ここに来い」

 少し先に進んでいたコルダを呼んで、アユルは声を小さくする。コルダは、アユルの視線の先に楽しそうに笑うラシュリルの姿を見つけた。

「キリスヤーナに滞在している間に、ラシュリルの身をあらためて報告しろ」

「なにをおっしゃいます。王女様の身を探るなど」

「ラシュリルが何者だろうが、そのようなことはどうでもよい。だが、これから先は小さなほころびがラシュリルの身を危うくする。私はすべてを正確に知り、守る術を考える必要がある」

「それはもしや……。王女様を王宮にお迎えになられるのですか?」

「そうだ。よいか、機が熟すまで誰にも気づかれるな。上手くやれ」

「お任せください!」

「それから、宰相がラシュリルを呼びにいっている。ラシュリルが来たら、宰相を連れて私から離れろ」

「はい?」

「お前たちがいては、話ができないだろう」

「宰相様がお許しにならないのではありませんか?」

「なんとかしろ」

「アユル様、近頃……」

「なんだ」

「いいえ、なんでもございません」

 ラディエは、すぐにラシュリルを連れてきた。陛下を待たせるなとでも言って急がせたのだろう。ラシュリルの息が弾んでいる。アユルはコルダに目で合図した。早くラディエを連れていけ。はい、すぐに。視線だけでそんなやりとりができるのも、幼少のころから培った信頼の賜物だ。コルダが、なかば強引に衣を引っ張ってラディエをアユルから引き離す。そのまま、二人は浜堤を上がって針葉樹の林の方へ去っていった。

「あの、アユル様。わたしに聞きたいことがあるとうかがいましたけれど」

「ああ」

「ごめんなさい。わたし、政治のことはまったく。銅の交易について、お兄様からはなにも聞いていないのです」

「宰相が言ったのか?」

「はい。陛下に尋ねられたら、包み隠さず話すようにって」

「本当に真面目な奴だな、宰相は。そのようなつまらない話をするために、わざわざそなたを呼ぶわけがないだろう」

 ラシュリルは、アユルの言葉の意味を理解してふふっと笑った。涼しい顔をして、アユルが浜辺にいるハウエルとマリージェを見ている。

「そなたの兄夫婦は仲睦まじいのだな」

「ええ。お兄様は、お義姉様のことが大好きなんですよ」

 ラシュリルが、口元に手を当てて愛らしく笑う。アユルの顔が、それにつられるようにゆるんだ。

「では、ハウエルが望んで妃にしたのか?」

「はい。お兄様の熱狂ぶりったら、とても凄くて。あんなふうに情熱的に言い寄られたら、嬉しいに決まってい……っ」

 そこまで言って、ラシュリルはしまったと口をつぐむ。そうしてほしいと、強請っているように聞こえたかもしれないと思ったからだ。アユルはハウエルとは真逆だ。人前では目を見つめて優しくほほえみかけないだろうし、手を握るだなんてとんでもない話だろう。

「ああいうのが好みなのか?」

「いえ、そうではなくて」

「私には無理だ。あのような男女の作法は身に着けていないからな」

「誤解しないでください、アユル様。わたしは、アユル様にお兄様みたいなことをしてほしいとは思っていません。そのままのアユル様が好きですから!」

 ラシュリルが真剣な顔で弁解する。語気の強さから、必死なのが伝わってくる。しかし、アユルは困惑した。慌ててラシュリルから視線をはずす。そうしないと、今にも理性が吹き飛んで抱きしめてしまいそうだ。ラシュリルは分かっているのだろうか。今の言葉の威力を。

「そ、そうか」

「ただ……」

「ただ?」

「笑ってくださったら、もっと素敵で魅力的です」

 向こうで、ハウエルがマリージェの手を握って歩いている。優しくマリージェに語りかけるハウエルの声が、こちらまで聞こえてくるようだ。

「そなたが傍にいれば、私もいつかああなるのではないか?」

「えっ?」

 ラシュリルが、目を丸くして顔を上げる。アユルはラシュリルを見つめて、にんまりと意地の悪い笑みを浮かべた。

「覚悟しておくとよい」

「ア、アユル様?」

 遠くから、ハウエルが手を振る。ラシュリルは、顔を真っ赤にしながらハウエルに手を振って応えた。

「嫌だわ。わたしだけが、青くなったり赤くなったり」

 ラシュリルの隣で、アユルがくすくすと笑う。ころころと変わるラシュリルの表情は、面白いから見ていて飽きない。

「ラシュリル。私の傍にきてくれないか?」

 分かりました、と笑顔でラシュリルが一歩アユルに近づく。

「そうではなくて、カデュラスに来てほしい」

「カデュラスに?」

「私の妃として」

 ラシュリルは、求婚されているのだと気づいて一歩後ずさった。てっきり、近づけという意味だと思ってしまった。恥ずかしくて、消えてしまいたい気分だ。アイデルが、こちらへ向かってくる。ラシュリルは、どう返事をしていいのか分からずに困り果てた。

「今すぐ返事をしなくてもよい。今夜、時間はあるか?」

「は、はい」

「では、離宮でゆっくり話そう」

 ラシュリルが、こくりとうなずく。

 ふと、アユルはなにかの気配を感じて周りを見回した。気のせいだったか、と視線を戻すと同時に、背後から空風が吹き抜けた。気のせいではない。第六感が、確かに危険をとらえている。早くコルダとラディエを呼び戻さなければ。アユルは、針葉樹の林の方へ体を向けた。

「どうしたのですか?」

「動くな」

「アユル様?」

 アユルがラディエの名を叫ぼうと、息を大きく吸い込んだ時だった。林から光線を描いて飛んできた矢が、どすっと鈍い音を立てて正面からアユルの左肩に突き刺さった。

「きゃぁっ!」

 ラシュリルが大きな悲鳴を上げると同時に、アユルの体が雪の上に崩れる。肩の肉に食いこんだ矢じりが熱い。まるで直火にあぶられているように熱い。視界が霞んで、急激に体の力を奪われる。ラディエとコルダはまだ針葉樹の林の中だ。二人が戻るまでは、気を失うわけにはいかない。身の置きどころのない苦痛に耐えながら、アユルは苦悶の表情を浮かべて必死に意識を保った。

「誰か!」

 ラシュリルが、体を震わせながら必死に叫ぶ。異変に気づいたラディエが、凄まじい勢いで走り出した。

「陛下!」

 ラディエとコルダが、鬼気迫る形相でアユルに駆け寄る。ラディエは、うつ伏せになったアユルの上半身を抱き起して、左肩の矢を凝視した。

「陛下、一体なにがあったのです!」

「……さ、い」

 アユルの口元で、白くわだかまる荒い呼吸。その顔面から、みるみるうちに血の気が引いていく。生気を失った肌に浮かぶ玉汗に、ラディエの背筋が凍りついた。

「毒矢か!」

 カリノス宮殿は大変な騒ぎとなった。

 ハウエルは、爪を噛みながら部屋の中を行ったり来たりと落ち着かない。毒矢だったと報告を受けた。もちろん、心当たりはない。しかし、このことが直ちにカデュラスへ伝えられるのは明白だ。どのような形で詰め腹を切らされるのか、考えるだけで恐ろしくて震えが止まらない。万が一のことがあれば、責めを負って国と共に滅ぶしか道はないだろう。万が一、カデュラス国王が死ぬようなことがあれば……。

 待てよ、とハウエルは暖炉の前で足を止める。

「世継ぎのいないカデュラス国王が死ねばどうなる。カデュラスは直系しか王になれないのだろう? 王がいなくなるじゃないか」

 なにかおっしゃいましたか、とアイデルがハウエルの独り言を聞き返す。

「だから、あの王が死ねばどうなると言ったんだ」

 ハウエルの言葉に、七十年近く働き続けてきたアイデルの心臓が、どくどくと嫌な律動を刻む。

「な、なっ……。なんということをおっしゃるのです、ハウエル様!」

 ラシュリルがナヤタを連れて離宮へ向かったのは、日が沈みかけた時分だった。離宮の前には、帯刀したラディエが立っていた。浅黒い肌と彫りの深い顔立ちのせいか、忿怒の相をした仁王のようだ。

「なんの用ですか?」

 ラディエが、鋭い眼光をラシュリルに向ける。

「お薬と包帯をお持ちしました」

「必要ない。お引き取りください」

「あの……」

「なにか?」

「陛下は……。陛下は、どのようなご様子ですか?」

「なぜ、あなたに教えなくてはならないのです? あなた方が、陛下のお命を狙っている真犯人かもしれないというのに」

「王女様に向かって、なんと無礼な!」

 ナヤタが、一歩前に出てラディエに声を荒らげる。ラシュリルはナヤタをなだめて、ラディエにかごをさし出した。

「侍女が失礼いたしました。どうぞ、こちらをお使いください」

 ラシュリルの表情にラディエは戸惑う。目は今にも泣き出してしまいそうなほど潤んで、かごを持つ手はかたかたと小刻みに震えている。陛下が倒れる瞬間を目の当たりにしたから、恐怖で動揺しているのか。それとも、兄王に科せられる罰を恐れているのか。ラディエは王女の心情を推し量ってみたが、彼女の表情はそのどちらにも当てはまらない。疑問が浮かぶ。なぜ、王女はこんなにも陛下を心配しているのだろうか。ラディエは、しぶしぶラシュリルの手からかごを受け取った。

「陛下の侍従にお渡しましょう。宮殿へお戻りください」

「……はい」

 肩を落としてしょんぼりとした王女と唇を噛んでにらんでくる侍女を一瞥して、ラディエは離宮へ入った。アユルの傍で、コルダが懸命に看病し続けている。

「陛下はお変わりないか」

「はい。まだ朦朧としていらっしゃるようで」

「そうか」

 ラディエは重いため息をつきながら、蒼白な顔で横たわるアユルを見た。そして、ラシュリルから預かったかごをコルダに渡した。

「こちらは?」

「王女が持ってきた」

「今でございますか?」

「ああ」

「宰相様、王女様はどちらに?」

「追い返した。キリスヤーナ国王から、陛下の息の根を止めろと命じられているかもしれないからな」

 例えそうだとしても、王女様がアユル様を害するなどあり得ない。コルダは、眉間にしわを寄せる。

「今から、陛下を射た矢を調べてくる。用心しておけ。ここへは誰も入れるな」

「承知いたしました」

「陛下に変わりあれば、すぐに知らせろ」

 コルダは、ラディエを見送るために離宮の玄関へ向かった。すると、庭にラシュリルとナヤタの姿があった。

「まだいたのですか?」

 ラディエが、冷ややかな視線を投げて素っ気なく二人に言う。コルダは、ちらりとラシュリルに目配せしてラディエに礼をとった。

「宰相様。王女様にお礼を申し上げたく存じます」

「好きにしろ。さっさと済ませて、陛下の傍に戻れ」

「心得ております」

 ラディエが、ラシュリルを横目でにらみながら去っていく。コルダは、ラディエの姿が遠のいて見えなくなるのを待った。ラディエが、何度かふり返って回廊へ消えていく。

「王女様、申し訳ございません。アユル様がこのようなことになって、宰相様は気が立っておられるのです」

「当然だわ。あなたにはいつも気を遣わせてしまって、許してくださいね」

「わたくしなどに、頭をさげないでくださいませ。ところで王女様、ナヤタ殿は……」

「ナヤタは、アユル様とわたしのことを知っています」

「そうでございましたか。では」

 コルダは、念のため周囲を注意して離宮のドアを開けた。離宮に入ろうとするラシュリルの服を、ナヤタが引っ張る。

「お願い、少しだけ。お顔を見たらすぐに戻るから」

「分かりました。ここで待っております。誰かきたら、すぐに声をかけますね」

「ありがとう、ナヤタ」

 部屋に入ると、ラシュリルは一目散にベッドへ向かった。ドアに鍵をかけて、あれからずっとこうして熱に苦しんでいるのだとコルダが言う。血の気のない顔色は、熱があるという感じでなく、むしろ死の冷たさを感じさせる。

「アユル様」

 ラシュリルの声に反応するように、アユルの眉根がぴくりと小さく動く。けれど、目が開くことはなく声も返ってこない。青白い顔に影がかかって、ぽたぽたと生温いしずくがアユルの頬に落ちて弾けた。

一瞬の出来事だった。恐怖に足がすくんで、ただ見ていることしかできなかった。傍にいたい。目を開けた時、よかったとほほえんであげたい。それをできないのが、とても悲しくて心苦しい。

「コルダさん、一つお聞きしてもいいかしら」

「はい、王女様」

「アユル様は、わたしとのことが皆に知られたら、わたしに害が及ぶとおっしゃっていました。今回のことと、関係があるのでしょうか」

「それはないかと思います。お二人のことを知る者は限られていますので」

「では、わたしの身代わりになったわけではないのですね。でも、どうしてこんなことに……」

 ラシュリルは、手巾を取り出してアユルの額ににじむ汗と頬に落ちた自分の涙をそっと拭いた。

「アユル様に疑念がおありですか?」

 サイドテーブルに湯を張った桶と布を置いて、コルダが尋ねる。

「いいえ、コルダさん。アユル様は、わたしに嘘をつく御方ではないわ。アユル様を疑って聞いたのではなくて、わたしのせいでアユル様がこんなことになってしまったのではないかと思ったの」

 アユルの顔が、苦痛にゆがむ。

 雨の中を会いにきてくれた時も、今日も、アユル様の気持ちに応えられなかった。いつだって、真剣にわたしと向き合ってくださるのに。

 ラシュリルは手の甲で涙を拭うと、コルダに礼を言って離宮を出た。すっかり日の暮れた庭で、ナヤタが待っていた。ポケットから手袋を取り出してナヤタに手渡す。

「寒かったでしょう? 待たせてしまって、ごめんなさいね」

「ありがとうございます、ラシュリル様」

「お礼を言うのはわたしの方よ。今日は一段と冷えるわね。凍えてしまいそうだわ。早く宮殿に戻りましょう」

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