◆第01話

 西へ向かったカデュラスの使者が大陸最西端の国キリスヤーナに到着した夜、カリノス宮殿では盛大な祝宴が開かれていた。国王の妹ラシュリル・リュゼ・キリス王女が、十八歳の誕生日を迎えたのである。

 晩餐のあと、若者たちは舞踏の間へ移動してダンスに興じていた。豪奢なシャンデリアの下で、一組になった男女が、楽師の奏でるワルツの調べに合わせて優雅なステップを踏む。こうした社交場は、恋の芽生えに最適な場だ。特に今夜は、王女の相手を探すという国王の思惑もあって、未婚の若い貴族だけが舞踏の間への入室を許可されていた。

 ハウエル・ナダエ・キリスは、少し離れた所から妹の様子をうかがった。先程から社交界の貴公子たちがラシュリルにダンスを申し込むが、彼女はごめんなさいと断ってばかりで一向に応じる気配がない。見かねたハウエルは、ラシュリルに近づいて声をかけた。

「主役の王女様。皆の誘いを断って、こんな隅っこでなにを?」

「お兄様……。見ていらしたの?」

「ずっとね」

「嫌だわ。恥ずかしい」

「もしかして、お目当ての相手がいるのに声をかけられずにいるのかな? ここから見えるのは……。ああ、見目麗しい近衛隊の将校様か」

 兄の冷やかすような言葉に、ラシュリルが目を大きくしてうっすらと頬を染める。くっきりとした二重に縁取られた綺麗な目にふっくらとして柔らかそうな唇。それから、きらびやかなドレスが強調するしなやかな体つき。ラシュリルは充分に大人だ。実は、年頃の貴族たちが随分前から、かわいらしくて美しい王女にざわめき立っている。しかし、そんな男たちの視線に気づいていないのか、妹は色恋にまったく関心を示さない。それが、ハウエル目下の悩みだ。

「ち、違うわよ、お兄様」

「僕は、兄としてキリスヤーナ国王として、君がそういう青年を紹介してくれる日を待ちわびているんだよ」

「わたしは……。皆の話を聞くだけで胸がいっぱいなの」

「そうは言っても、君はもう十八だ。気になる人くらいいるだろう?」

「いないわ。本当よ、お兄様」

「まあ、そういうことにしておくよ。でもね、これは君のための舞踏会なんだよ。相手を見つけて、一曲踊ってきなさい」

 ハウエルがいたずらっぽく片目をつむるので、ラシュリルは恥ずかしさに耐えきれずにうつむくしかない。ハウエルが、ほらと背中を押す。嫌よ、と顔を真っ赤にして首を横にふるラシュリルの後頭部で、一つに結われた黒髪が馬のしっぽのように激しく揺れた。

「まったく、今日の主役なのに君ときたら。いつもの元気で活発な王女様はどこだい?」

「もうやめて。わたし、こういうのは本当に苦手なの」

「はぁ……、しかたがないなぁ。僕が、奥手な王女様の相手をするとしよう」

「もう、お兄様!」

「はいはい。お手をどうぞ、ラシュリル王女」

 ハウエルが、ぷくっと頬を膨らますラシュリルの手を引いてシャンデリアの下にいざなう。照明にきらめくハウエルのくるりとした柔らかな金髪とラシュリルのつややかな黒髪。髪だけではなく、瞳の色もまったく違う。しかし、今となっては兄妹の対照的な容姿を気に留める者はいない。

 ラシュリルは、兄の顔を見上げてほほえんだ。いくつになっても仲のいい兄妹に、貴族たちが羨望を含んだまなざしを向ける。そして、二人が最初のステップを踏み出そうと呼吸を合わせたその時だった。扉が勢いよく開いて、老齢のアイデルがひどく慌てた様子で駆け込んできた。

「ハウエル様、カデュラスより使者が到着いたしました!」

「カデュラスから?」

「はい。カデュラスの国王陛下が崩御なされたそうでございます。とにかく、お急ぎください!」

 突然の知らせに、ワルツの調べがぴたりと止んで舞踏の間がしんと静まり返る。ハウエルがアイデルと共に舞踏の間を出ていき、祝宴は中断を余儀なくされた。

 翌日、カリノス宮殿の大広間には、朝早くから大勢の貴族が集った。噂好きの彼らは、早速、カデュラス国王の話題で盛り上がっている。ラシュリルは、いつものように貴族たちと挨拶を交わして席に着いた。すると、すぐに四人の令嬢が寄ってきた。彼女たちは、ラシュリルの幼馴染だ。

「ねえ、知ってる?」

 席に着くや否や、侯爵令嬢が意味ありげに笑って皆の顔を見回す。ラシュリルたちは、一斉にテーブルに肘をついて身を乗り出した。これは、侯爵令嬢の「ねぇ、知ってる?」に対する条件反射であり、彼女の話を聞く時の基本姿勢である。四人の鮮やかなドレスの色彩で、丸テーブルが大輪の花と化す。

「カデュラスの新王様よ」

「その方がどうかしたの?」

 侯爵令嬢の投げた餌に食らいついたのは、十五歳の子爵令嬢だった。いい気になった侯爵令嬢が、得意げな表情で話し始める。

「ハウエル様と同じくらいのお年だとか」

「二十三、四歳ってこと? お若いのね」

「真っ黒な御髪に漆黒の瞳。背がすらりと高くて、面立ちは女性と見違えるほど美しいのですって!」

「ああ、想像するだけで胸が高鳴るわね。お会いしてみたい」

「無理よ。だって、ハウエル様でもそうそうお目にかかれない方なのよ。残念だけれど、わたくしたちが御姿を拝見する機会なんて一生ないわ」

「キリスヤーナへお越しくださらないかしら」

「知っているでしょう? カデュラスの国王陛下が国をお離れになることなんてないの。それに、新王様は病弱でダガラのお城を出たことがないらしいわ。そのせいか、まだご結婚もされてないそうよ」

 ここは、カデュラスから遠く遠く離れた地。それに、貴族たちの暇つぶしのような噂というのは、往々にして事実とは異なっていて、もれなく尾ひれはひれがついている。ラシュリルは、うわの空で相槌を打ちながら、新王ではなく、カデュラスの地に思いをはせる。書物の中でしか知らない国。空はなに色をしていて、どのような花が咲いているのだろう。そこに暮らす人々は、活気に満ちて意気揚々としているのだろうか。想像するだけで気持ちが高揚する。

「お兄様にお願いしてみようかしら」

「なにか言った、ラシュリル?」

「ううん、なんでもないの。用事を思い出したから、先に失礼するわね」

 新王様の即位式に、キリスヤーナ国王であるお兄様は必ず参列する。それに同行できれば……。

 ご婦人方は、それぞれの会話に夢中でこちらに関心がない。ラシュリルは席を立つと、天敵の目から逃れる草食動物のように身を低くして大広間を抜け出した。廊下によく見知った衛兵が立っていたので、ご苦労様とにこやかに声をかけてハウエルの部屋へ続く廊下を曲がる。そして、誰もいないことを確認すると、ドレスの裾をたくし上げて走った。とても年頃の令嬢とは思えないその身のこなしを、伯爵夫人が笑いをこらえて見ていたとも知らずに。

 カデュラスの使者は、二日後に帰国するそうだ。それまでに、追悼と新王即位の祝辞をしたためた書簡と即位式に参列する者の名簿をそろえなくてはならない。

 ハウエルは、ペンを置いて大きく伸びをした。カデュラスへの忠誠を示すことこそ、属国の君主に課せられた最大の使命だ。書簡に並べる言葉を選ぶ作業は、実に根気を要する。ふと暖炉の方に目を向けると、妻のマリージェが本を読んでいた。イスの背もたれに体を預けてぱらりとページをめくり、時々、本から離れた片手がテーブルの上で湯気をくゆらせるティーカップをつかむ。ああ、なんて綺麗なんだろう。愛妻の優雅な所作に、ハウエルの鼻の下がだらしなく伸びる。

「お兄様!」

 突然、ラシュリルに視界を遮られて、ハウエルは「うわぁ!」と情けない悲鳴を上げた。

「ねぇ、お兄様。お願い!」

「びっくりしたな、もう。いつの間に来たの……」

「あら、ちゃんとノックしたわ。ねぇ、お兄様。お願いがあるの。わたしをカデュラスに連れていってくださらない?」

「また突拍子のないことを言う。ほら、向こうでマリージェと紅茶でも飲んで落ち着くといいよ。僕は仕事中だ」

「仕事中ですって? お義姉様を見てうっとりしていたのに?」

「いや、それはだね……」

「一生のお願いよ、お兄様」

「どうしてカデュラスに行きたいの?」

「新王様のお姿を一目見てみたいから」

「本当に?」

ハウエルの怪訝な表情に、ラシュリルはどきりとする。

「わたし、変なことを言ったかしら?」

「昨夜の奥手な王女様とは別人だな、と思ってね」

「そっ、それとこれとは別よ」

「へぇ、そう」

「本当よ。皆が噂しているのを聞いて、新王様への興味が湧いたの」

「疑わしいな」

「ねぇ、お兄様! 信じて!」

 二人のすぐ傍で、アイデルが呆れた顔をして書簡が出来上がるのを待っている。彼は、先王の代から四十年近くキリスヤーナ国王の側近を務めている温和な紳士だ。マリージェが、肩をすくめてアイデルに目配せした。

「ハウエル様。どうぞ、書簡を書き上げてくださいませ。早くいたしませんと、名簿の処理が間に合いません」

「分かってるよ、アイデル。書く。書くから、このわがままな妹をどうにかしてくれないか?」

「アイデルに泣きついたって無駄です。お兄様がいいって言ってくださるまで、絶対に傍を離れませんからね!」

「あのね、ラシュリル。カデュラスはとても遠いんだよ。それに、王族の君を連れていくとなると、当然、即位式にも出てもらわなくてはいけない」

「ええ、新王様を拝見したいのだもの。お兄様と一緒に参列します」

「簡単に言うけれど、即位式は遊びじゃない。お転婆な君が粗相でもしてごらんよ。僕は……」

 ハウエルが神妙な顔をして、右手の親指をナイフに見立てて首を切る真似をする。その仕草に、さすがのラシュリルも恐ろしくなってごくりと生唾を飲んだ。しかし、こんな脅しにひるんでは、せっかくの機会を逃してしまう。

「じゃあ、おしとやかにする。それなら問題はないでしょう?」

「なんだって? 君がおしとやかにするだって?」

 ハウエルが、青い目を細めてあからさまな疑いを妹に向けた。兄妹の間を、拮抗の沈黙が支配する。

 ハウエルは過去に一度、カデュラスまでの旅を経験していた。それは、先代が譲位を決めて、襲位の許しを得るためにマハールに謁見した時だった。国を越えて、ひたすら山道を行く長旅。男の身でこそなんとか耐えられたが、宮殿での平穏な暮らししか知らない妹にあの旅は酷だろう。

「だめなものはだめだ。君はマリージェと留守番を頼むよ」

「お願い、お兄様。わたしをカデュラスに連れていって!」

「ラシュ……」

 腕をつかまれて、困り果てたハウエルがラシュリルの顔を見る。ラシュリルはにっこりと笑っていた。彼女の笑みは、朗らかで少しの翳りもない温もりに満ちた優しい光だ。ハウエルは、観念したように短い息を吐いて肩の力を抜く。

「お隣のサリタカル王国との国境近くからはずっと険しい山道だよ。何日か野宿もしなくちゃならない。カデュラスはずっとその先だ。最低でも二十五、六日はかかる。耐えられる?」

「……お兄様」

「それから、王女らしく振る舞えるようにならないとね。さっきも言ったけれど、粗相があれば僕の首だけではなく、この国もどうなるか分からない。できる?」

「わたし、努力するわ」

「出発まで一カ月ほどある。君に礼儀作法の先生をつけるから、しっかりやるんだよ。名簿には名前を載せておくけど、一カ月後に僕が合格と言わなければ、君はマリージェと留守番だ」

「ありがとう、お兄様!」

 ラシュリルはハウエルに飛びかかるように抱きついて、それから嬉しそうに小走りで部屋を出ていった。ハウエルは、やれやれと頭をかく。道中のことは、不自由のないよう自ら手配すればいい。それで、妹の屈託のない笑顔を失わずに済むのなら――。

「とうとう根負けなさいましたね、ハウエル様」

 マリージェが、おかしそうに含み笑いをしてティーカップに口をつける。

「うん。結局、僕はラシュリルに弱いんだ」

 そう軽やかに笑って、ハウエルは再びペンを握った。

 大陸が恒久の平和を手に入れたのは初代カデュラス国王の偉業であり、キリス家が存続できたのは初代王の温情である。だから、初代王の崇高な血と遺志を継ぐカデュラス国王に敬意をはらい、忠誠をつくさなければならない。キリス家の跡継ぎとして、幼いころからそう教えられてきた。しかし……。

「いつまで神とやらにへつらって、ご機嫌をうかがわなきゃならないんだ?」

 この国の王は僕だぞ。虫の羽ばたきの音にも劣る小さな独り言が、アイデルやマリージェの耳に届くことなく紅茶の香り漂う部屋の空気に溶ける。程なくして、新王に宛てた書簡がアイデルに手渡された。

「では、ハウエル様。参列者は、先立ってお話ししたとおりでよろしゅうございますね?」

「いいよ。あと、お転婆でかわいらしい王女様もね」

「かしこまりました。にぎやかな旅になりましょう」

「そうだね。頼んだよ、アイデル」

「はい、手配してまいります」

 かくして、ラシュリルはカデュラスに行く機会を得た。けれどもそれは、過酷なひと月の幕開けでもあった。翌日、ハウエルが礼儀作法の先生として連れてきたのは、宮廷のしきたりや礼儀を重んじ、厳しいと有名な伯爵夫人だったのだ。年相応の落ち着いた色とデザインのドレスの裾を少し持ち上げて、夫人が「ごきげんよう、王女様」と白髪を結った頭を優雅にさげた時、ラシュリルは思わず顔をひきつらせて二、三歩あとずさった。

 ハウエルはお転婆と言うが、ラシュリルは王女としての教育をちゃんと受けている。だから、品がないというわけではなく、少しばかり威勢がよすぎるのである。

「高貴なご令嬢が、ドレスをたくし上げて廊下を走るなんて断じてなりませんよ」

 それが、夫人から受けた最初の指導だった。朝から晩まで夫人と行動を共にして、歩き方から目や手の動きまで注意される日々。ラシュリルにとってなによりもつらかったのは、使用人たちと部屋の掃除をしたり庭の草刈りをしたり、そういった日課を禁じられたことだった。悪いことではないのだから……、と夫人に言ってみたけれど、身分にそぐわないと一蹴されてしまった。夫人は正しい。幼馴染の令嬢たちからも王女らしくないと笑われる。でも、恥ずかしいとかやめようとか思ったことは一度もない。掃除をしながら、たわいもない話をしたり悩みを相談し合ったり。年の近い彼女たちは、宮殿で一緒に暮らす家族同然で、身分よりも大切な存在だから。

 ある日、昼食のパンを頬張りながら意気消沈したようなため息をつくラシュリルに、夫人が言った。

「わたくしは、誰に対しても分け隔てなく接する王女様の人柄を、とても好いているのですよ」

 夫人から注意されてばかりのラシュリルは、一瞬、面食らってしまった。しかし、夫人のにこやかな表情を見て、ほめられたのだと気づく。

「……夫人」

「王女様としての振る舞いが完璧にできるようになったら、いくらでもお好きになさいませ。ただし、人目につかないようにね」

 茶目っ気たっぷりに片目をつむって声をひそめる夫人に、ラシュリルは笑顔で「はい!」と返事をしたのだった。夫人は、すぐにいつもの厳しい先生に戻ってしまったけれど、夫人の言葉がとても嬉しかった。

 礼儀作法の他にも、即位式に着用する衣装をあつらえたり髪飾りをそろえたり、一カ月は慌ただしくあっという間に過ぎていった。

 朝日がさし込む王女の私室で、伯爵夫人がラシュリルのドレスを整えて一歩後ろにさがる。そして、鏡越しに目を合わせてにっこりと笑った。夫人がラシュリルのために選んでくれたのは、レースをふんだんに使った薄い橙色のドレスだった。

「王女様は、淡い暖色がとってもよくお似合いになるわ」

「本当?」

「ええ。華やかで柔らかくて、王女様の笑顔にぴったり」

ラシュリルは、頬を赤く染めて夫人の笑顔にほほえみ返す。

「お兄様は、わたしをカデュラスへ連れていってくださるかしら」

「まだそんなご不安が?」

「……ええ」

「堂々となさって。大丈夫、このわたくしがみっちりと指導いたしましたもの」

「ありがとう、夫人」

「王女様にたくさんの祝福がありますように」

 夫人が、礼をとって部屋を出ていく。もうすぐハウエルがやってくる時間だ。ラシュリルは、侍女にハウエルを出迎えるように言った。

 行儀作法を徹底的に叩き込む修行のような毎日に、王女様は泣き言一つ言わずに耐えていらっしゃいます。王女様の変わりように、きっと驚かれることでしょう。指導を任せた伯爵夫人はそう言っていた。しかし、たった一カ月でそんなに変わるものだろうか。にわかには信じがたい。ハウエルは、ラシュリルの部屋の前に立って「よし!」気合いを入れた。もしも妹に変化がない時は、はっきりと留守番を申しつける。あの笑顔に負けてなるものかと、意を決してドアをノックする。

「ラシュリル、僕だよ」

 声に応えるように、大きな扉がゆっくりと開く。ハウエルは、いつものように両手を広げた。ラシュリルは、必ずこの胸に飛び込んでくる。かわいらしい笑顔で、仔犬のように。さぁ、おいで!

「ハウエル様?」

「……えっ?」

 侍女の声に、ハウエルはうろたえた。侍女が、肩を揺らして笑っている。不遜にもキリスヤーナ国王を笑うこの侍女は、子供のころからラシュリルに仕えているナヤタだ。

「あれ、ラシュリルはどうしたの? いないの?」

「いいえ、いらっしゃいますよ。奥の部屋でハウエル様をお待ちです」

「あ、ああ……、そうなんだ。あ、ほら、いつも飛びかかってくるから」

 肩透かしを食らったハウエルは、姿勢を整えて奥の部屋に向かった。そして、部屋の入り口で立ち止まって目を丸くした。なんと、あのラシュリルが、優雅にドレスをつまみ上げて、貴婦人のようにほほえんでいるではないか。化粧や華やかなドレスのせいではない。落ち着いた雰囲気が漂っていて、立ち姿だけでも印象がまるで別人だ。

「お待ちしていました、お兄様」

「見違えたよ。伯爵夫人の言ったとおりだ」

「……それで、カデュラスに連れていってくださる?」

「うん、合格だよ。よく頑張ったね」

 ハウエルは、ラシュリルの手を取ってその甲にくちづけた。白くほっそりとした指先から、甘い花の香りがする。その香りに、キリスヤーナ人とはまるで違う風貌の女の子が宮殿に来た日を思い出す。母に手を引かれた黒髪の女の子は、ぽかんと口を開けて宮殿を見回していた。あのかわいらしい姿が、今でもしっかりと記憶に刻まれている。あなたの妹よ。そう母に言われた時の気持ちは、よく思い出せない。けれど、あの日からラシュリルは、なによりも大切な宝物になった。

「お嬢様、僕と庭園を散歩してくださいませんか?」

「お兄様ったら。もちろん、喜んでご一緒させていただきます」

 ラシュリルは、嬉しそうに笑ってハウエルと部屋を出た。その後ろを、ナヤタがついていく。二人が並んで絨毯敷きの廊下を歩いていると、向こうで一人の使用人が両手にあふれそうな布を抱えてあたふたしているのが見えた。「大変!」と言って、ラシュリルが使用人に駆け寄る。

「大丈夫? わたしも持つわ」

「ラ、ラシュリル様、おやめください。ハウエル様にしかられてしまいますわ」

「大丈夫よ。どこへ運ぶの?」

「……三階の客室です」

「分かったわ。一緒に運びましょう」

 ラシュリルが、ハウエルとナヤタを置き去りにして階段を上がっていく。ナヤタの背後で、ハウエルがくすっと笑った。

「申し訳ございません、ハウエル様」

「心配しなくてもいいよ。これくらいのことでカデュラス行きの許可を取り消すほど、僕は意地悪じゃないから。それに、僕はラシュリルのああいうところが好きで、うらやましいと思っているんだ。庭で待っているから、ラシュリルにそう伝えて」

「かしこまりました」

 三階の客室から戻ったラシュリルは、ナヤタから言伝を聞いてハウエルが待つ庭園へ急いだ。濃い灰色の雲が空を覆って、今にも雨が落ちてきそうだ。

「ごめんなさい、お兄様。お待たせしてしまって」

「気にしないで」

 ハウエルが、ラシュリルの手を取ってエスコートする。少し歩いた先に、手毬のような赤い花が咲いていた。毎年、必ず誕生日のころに咲くこの花には、『あなたがいて幸せ』という花言葉があるそうだ。

「なんて綺麗なの!」

「二、三日前から咲き始めてね。早く君に見せたかったんだ。最近は、ゆっくり庭を歩く暇もなかっただろうから」

「ありがとう、お兄様」

 花に触れるラシュリルの顔に、自然と笑みが浮かぶ。

 ぽつりぽつりと雨が降り始めた。キリスヤーナの夏は短い。季節の境目に降る雨が本降りになると、途端に気温がさがる。ハウエルが宮殿に戻ろうと言う。しかし、ラシュリルは花をながめ続けた。

 よみがえる幼い日の記憶。当時、国王だったお父様は、庭師のように麦わら帽子をかぶって、汗をかきながら花の手入れをしていた。そして、これはお前が生まれた日に植えたのだと頭を優しくなでてくれた。

 キリスヤーナは、一夫一妻を法で定めている国だ。しかし、先代のキリスヤーナ国王は禁忌を犯した。妃を持つ身で、カデュラス人の娘と恋に落ちたのだ。二人はすぐに引き離されたが、既にカデュラス人の娘には新しい命が宿っていた。宮廷を揺るがす大事件だった。事態を収めるには、母娘を処断して追放するしかない。しかし、王妃であったハウエルの母親は、子供に罪はないとラシュリルを引き取って我が子のように育てた。

 ――わたしは、皆に愛されている。

 新王様の姿を見たいと、本心ではないことを言って大好きなお兄様を困らせた。嘘は嫌い。だけど、お母様が生まれ育った国をこの目で見て知りたいと言えば、悲しい思いをする人がいるから……。

 勢いを増した雨が、ラシュリルの頬を伝う。しずくの温かさは、雨のものか涙のものか分からない。体が冷えてしまうよと、ハウエルがジュストコールを脱いでラシュリルの肩にそっと掛けた。

 ラシュリルが、ハウエルと共にカデュラスへ向けて旅立ったのは、それから数日後のこと。宮殿には大勢の貴族が、王都の沿道にはおびただしい数の民衆が押し寄せて、とてもにぎやかな旅立ちだったという。

 カデュラスの王宮では、女官たちが新しい主を迎える準備に追われていた。もうすぐ、ホマの儀式が終わる。それまでに、王宮の御殿という御殿を隅々まで掃除して、調度品や衣、紙一枚にいたるまで、すべてを新調しなくてはならない。

そんな中、女官長が王子の侍従を訪ねて神陽殿にやってきた。身の回りの世話もさることながら、アユルと女官を取り次ぐのも侍従の大事な役目である。

 コルダは、控えの間で女官長に深々と頭をさげて服従の意を表す。彼は、若草色の衣が似合う二十歳そこそこの若者だ。顔つきからして柔和で、男性特有の勇ましさというものがなくどこか中世的な感じがする。

 カデュラスでは、王の住まいである王宮に男を雇う習慣はない。神の血筋を厳格に守るために、男子の出入りをきつく制限しているからだ。本来であれば、二、三十人の女官が王子に侍って日常の世話をするのだが、当代の王子は違っていた。女官を毛嫌いして寄せつけよともせず、コルダ一人にすべてを任せている。

「儀式が終わる前に、必ずお目通しいただくよう王子様にお伝えください」

女官長が、声を落として巻物を一巻コルダに手渡す。

「こちらはなんです?」

「王子様の御ために、清殿にお仕えする女官を選定しました。その名簿です」

「……なるほど。かしこまりました」

「王子様は、変わりなくお過ごしか?」

「少しお疲れのようです」

「なんと……。大切な御身であらせられます。しかとお世話つかまつりなさい、コルダ殿」

「重々に承知いたしております」

 王宮には、下働きまで入れると二千人を超える女人が勤めている。清殿に仕えるとなると、女官の中でも特に高家出身の者に限られる。一体、誰が選ばれたのだろうか。

 女官長を丁重に見送って、コルダは巻物をそろそろと広げた。女官の名前とその父親の官位が、三十余名分、ひょろひょろとした字で書かれている。やはり皆、高官の娘ばかりだ。誰の差し金かは見当もつかないが、あけすけな意図が見て取れる。

 ――これは、アユル様の機嫌を損ねてしまいそうだな。

 コルダは、慣れた手つきで巻物を紫檀の軸に巻いて紐をくくった。

 それから幾日か過ぎた。腐敗処理を施されたマハールの遺体が黄金の棺に納められて、ひと月半にも及んだホマの儀式は終わった。

 アユルは、神陽殿を出て大きく伸びをした。空に向かって、黒い長着に濃紫の袴をまとった長身の体が気持ちよさそうにしなる。少し遅れて、侍医たちに挨拶を済ませたコルダが、荷を抱えて神陽殿から出てきた。

「お待たせいたしました、アユル様」

「日差しが弱まったな」

「もう秋でございますね」

「そうだな。さて、行くとするか」

 二人は、これからアユルの居所となる清殿を目指す。

 神陽殿の一帯と王宮との間には小川が流れていて、朱塗りの反橋が一本架けられている。アユルは、橋の手前で歩みを止めた。橋の向こうにあるのは、五重の楼閣が一つに延々と甍を連ねる入母屋造りの御殿たち。重たい色をした御殿の琉璃瓦が、陽光を反射して大海原の白波のように美しく波打っている。そこは、ダガラ城の奥。カデュラス国王と妃たちが暮らす後宮だ。

「父上の妃どもは、まだ王宮にいるのか?」

「いいえ。ホマの儀式が始まって早々に、王都の屋敷へお移りになったそうです」

「そうか、ならばよい」

 アユルには、正妃や妃はおろか手つきの女官などもいない。マハールの妃たちが暮らした御殿は、主を失って空っぽのまま新しい御代を迎えることになった。橋の下から、清々しい小川のせせらぎが聞こえてくる。アユルは、三途の川を渡る死人のような気分で橋を渡った。

「女官長が神陽殿に来たらしいな」

「はい。アユル様にお仕えする女官の名簿を持ってこられました。わたくしがお預かりしておりますので、後程ご覧ください」

「なんだ、そのような用事でわざわざ神陽殿まで来たのか。女官の名簿など、私が見る必要があるか?」

「必ずお目通しいただくようにと言われました」

「私が手をつけても障りない身分の者が選ばれたのだろうな」

「……まぁ、そのようでございますね」

「据え膳のつもりか。わずらわしい」

 コルダの予感は的中した。案の定、アユルは顔をしかめて不機嫌になってしまったのだ。

 清殿は広大な王宮の中央に建っていて、神陽殿からは相当な距離がある。反橋を渡り終えて、いくつもの御殿を通り過ぎる。それから池泉庭園の池を周回して、剪定された木々の合間を行く。玉砂利の庭を歩いてやっと清殿の前に着いた時、アユルの涼しげな顔にはうっすらと汗がにじんでいた。

 五段の階を上がって、コルダがアユルの装いを整える。そして、二人は高欄に沿って白木の廊下を歩いた。最初の角を曲がると、着飾った女官たちが整列して座っていた。王の居所に仕える女官たちには、それ相応の位と禄が与えられる。なにより、彼女たちにとって王に近侍することは大変名誉なことだった。

「お待ち申し上げておりました、王子様」

 女官が一斉にひれ伏す。

 アユルは女官たちを一瞥して、コルダが開けた妻戸から清殿に入った。後ろを、ぞろぞろと女官がついてくる。殿内には、お香と化粧の匂いが立ち込めていた。背後から影のようにつきまとう衣擦れの音。これからこの者たちに囲まれて生活しなければならないのかと思うと、心底うんざりする。

 その日、アユルは早々に寝支度を済ませて、月がのぼる前に床についた。ホマの儀式が行われていた間、まとまった睡眠をとれない日々が続いたせいで体が疲れきっていたのだ。死んだように深く眠って、喉の乾きをおぼえて目を覚ます。今は夜か朝か。近くに人の気配がある。アユルは夢見心地で、いつもコルダにそうするように声を発した。

「……み、ず」

「お目覚めでございますか、王子様」

 細い声に、一気に目が覚める。アユルは、体を起こして声の主を凝視した。女官が一人、褥の傍に座っていた。燭台の明かりが、黒髪と白い顔を照らす。女官は真っ赤な紅をさした唇でほほえんで、枕元に置かれた盆に手を伸ばした。

「コルダはどうした?」

「お休みになられたのでしょう。もう夜半過ぎでございますから」

 女官が、茶杯に白湯を注いで手渡す。アユルは、それを飲み干して茶杯を女官に戻した。五衣の袖から少しだけのぞく白い手が、わざとアユルの手に触れるように茶杯を受け取る。

「ここでなにを?」

「なにをとは。わたくしは、王子様にお仕えする者です。真心をつくしてお世話するのが、本分でございますわ」

「それは感心なことだな」

「王子様……」

 茶杯を盆に置いて、女官が身を乗り出すように夜着の上からアユルの胸板に両手をついた。美しい顔に浮かぶ妖艶な笑み。上目に見つめてくる目は、ただならぬ欲を孕んでいる。

「私の妃になりたいのか?」

「いいえ、そのような高い望みはございませんの。ずっと……、ずっと王子様をお慕い申し上げておりました」

 王宮に棲む魔物は、呼吸をするようにしたたかで白々しい嘘をつく。アユルは、女官の腰に手を回して抱き寄せた。息が触れ合い、唇が重なりそうな距離。とぼしい明かりの中でも、女官の顔が上気しているのが分かる。

「そうか。明日の夜、皆が寝静まったあとにここへ来い。ホマの儀式が終わったばかりだ。今宵は疲れていて、お前を満足させてやれそうにないからな」

「わたくしめの思いを、本当に受け取ってくださいますの?」

 女官の目が、驚いたように大きく開く。大胆に仕掛けてきたくせに、とがめられるとでも思ったのか。それとも、期待に現を抜かしているのか。考えるのも面倒だ。

 アユルは、言葉の代わりに表情をゆるめて軽い笑みを女官に返した。恍惚とする女官をさげて、褥にごろんと仰向けに体を投げ出す。女官の残り香が、体にまとわりついて不快極まりない。結局、満足に眠れないまま夜明けを迎えてしまった。

 アユルは、朝の支度にやってきたコルダに、女官長と清殿に仕える女官を広間に集めるように申しつけた。そして、食事と身支度が済むと広間に赴いて、女官たちを尻目に女官長に向かって淡々とした口調で言った。

「私に女官は必要ない。免職しろ」

 一度王宮に入った者は、死ぬまで王宮から出られない。それが古来よりの掟である。女官長がそれはできないと反論すると、アユルは女官から下働きまですべての女人を王宮から追い出すよう命令を下した。さらに、猶予は三日とし、四日目に残っている者の首をはねるとまでつけ加えた。

 前代未聞の事態に、女官たちは右往左往の末、蜘蛛の子を散らすように王宮を出ていくしかなかった。残されたのは、つつましい古参だけだった。

 王宮は、不気味なほど静かになった。特に、アユルとコルダしかいない清殿は、夜ともなれば水の底に沈んでいるかのように物音一つしなかった。

 こうして、時の流れをじっくりと感じる夜は生まれて初めてかもしれない。アユルは、書斎の御座に座って脇息にもたれかかった。御座の畳や文机、脇息や調度品など、ありとあらゆる品が新調されている。マハールの名残はどこにもない。しかし、しんしんと身にしみる静けさが、マハールの死を呼び起こす。

 父上が息を引き取った夜はもっと静かで、まるで時が止まっているかのようだった。いまわの際、病にむしばまれて骨と皮だけになった父上の手は、空をつかんで、顎で喘ぐような呼吸が止まると同時に敷布に落ちた。あの瞬間、胸にはなんの感情もなかった。

 母上が身罷られた時と同じように、もう死ぬのだなと、ただ生命の終焉をながめていただけだった。あの手を握り返せば、悲しみがこみ上げたのだろうか。父を思慕する情がわいて、先の王たちに恥じない立派な王になろうと思えただろうか。

 いや、とアユルは眉をひそめる。

 神の系譜に、人の情は無縁だ。それに、カデュラス国王は死んでも人として土に還れない。名と朽ちることのない体だけを残して、死後も神を演じなければならないのだ。

 ――ばかばかしい。

 文机の端に、手つかずの書簡が山積みになっている。アユルは、一番上に置かれた宰相からの書簡を手に取って、すぐに元の場所へ戻した。読まなくても、なにが書かれているかなど容易に想像がつく。

 十五の春、成人の儀と同時に正妃を迎えるはずだった。あれから十年。かたくなに拒み続けてきたが、さすがにこれ以上は無理だろう。臣下からおしつけられる女人を娶って、王統を存続させなければならない。それは、王の義務。神の系譜を継ぐ者につきまとう、決して逃れられない呪い。これ以外の人生など、思い描くことすら許されないのだ。

 脇息から体を離して、文机の上に地図を広げる。アユルの短い黒髪は部屋の暗がりと同化して、顔の白い輪郭がゆらゆらと燭台の炎に揺れた。

 大陸のほとんどが、カデュラス領だ。地図には、カデュラスの他にタナン公国、キリスヤーナ王国、サリカタル王国、ハンリー公国、デュライス王国だけが描かれている。それらの国は、内政や国王の即位、王族の婚姻など、国の統治に係るほとんどをカデュラス国王の許可のもとに執り行わなくてはならない。つまり、カデュラスの属国として生かされている。

 燭台からじじっと濁った音がして、煙が一筋立ち昇る。随分、時間がたっていたようだ。アユルは地図をたたんで、燭台にふっと息を吹きかけた。今夜からは、誰にも邪魔されずに朝まで快適に眠れるだろう。

 明日、マハールの棺が王都のはずれにある陵墓に納められて国中が喪に服す。アユルが王位に就くのは、喪が明けて秋が深まるころだ。

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