◆序章

 ちりばめられた星を従えて、月が悠然と輝く夜のこと。

 吐息のように優しい風が、王宮の庭に敷き詰められた玉砂利をなでて、庭の一角に咲くくちなしの花をさわさわと揺らした。じっとりと肌にまとわりつく初夏の空気に、甘い花の香りが溶け込んでいく。むせ返るようなくちなしの香りは、匂いを強めながら窓をすり抜けて、病の床に臥せるカデュラス国王にじわりじわりと忍び寄る。今、死に憑りつかれた神が、静かに最期の時を迎えようとしていた。

 ――アユル。

 王は、混濁する意識の中で息子を呼んだ。

 枯れ枝のようにやせ細った王の腕が、傍に座っている王子に伸びる。玉を抱くように大切に育てた。息子は、きっとこの手を取って父との別れを惜しんで涙してくれよう。彼の胸には、そんな期待があったのかもしれない。しかし、至高の身とは時に非情で残酷なものだ。世のありとあらゆるものを手にしても、愛や絆が織りなす幸福を知ることはできない。

 王の腕が敷布の上にぱさりと落ちて、脈を診た侍医が首を横にふる。

 カデュラス歴一六〇五年七月、カデュラス国王マハールが崩御した。

 マハールが息を引き取ってから、そう時間のたっていない夜ふけ。ダガラ城の朱門から二頭の馬が勢いよく駆け出した。手綱を握るのは、小柄で少年のような男とひょろりとやせた華奢な男で、どちらも仕官してまだ三年ほどの若者だ。

 寝静まった王都に、蹄の音が高らかに響く。二人は、宰相から直々に手渡された書簡を携えて、月明かりに照らされた大通りを脇目もふらずに並走する。そして、王都から国境へ向かう岐路を二手に分かれた。一人は東へ、もう一人は西へ。彼らは、大陸の諸国へ速やかに訃報を届ける任を負っている。それは、十分な休息を取る間もなく大陸を駆け続ける、とても過酷な任務である。

 マハールの遺体が、王の居所である清殿から運び出されたのは、死後一日を経た翌々日の昼近くだった。黒い礼服を着た屈強な十数人の武官が、マハールを乗せた鳳輦をかつぐ。武官たちは、そのまま清殿前の庭で王子の到着を待った。あちらこちらから、女人たちの嗚咽と鼻をすする音が聞こえてくる。玉砂利の上で、もぐら塚のようにうずくまって悲しみに暮れているのは、黒い喪色の袿を着たマハールの妃たちと王宮に勤める女官らだ。

 しばらくすると、侍従を連れた白装束の青年が清殿へ向かってきた。ざくざくと玉砂利を踏みしめる音に、庭がしんと静まり返る。そして、泣きはらした女人たちの目が、食い入るようにその白皙の青年を追う。青年は、武官の一人と言葉を交わしたあと、マハールに寄り添うように鳳輦の横に立った。

 太陽の光に白装束の光沢がなめらかに波打ち、背に刺繍された小さな王家の紋章がきらりと輝く。着物や袴の正絹、紋章の刺繍に使われている金糸は、王家直轄の由緒ある工房から納められる逸品。そして、これらを身に着けることができるのは、カデュラス国王と王位を継承する王子のみと定められている。

 アユル・タニティーア・カデュラは、天をあおいでまぶしさに目を細めた。

空には、ぎらぎらとした灼熱の太陽がのぼり、肌を突き刺すように強烈な日差しが地にそそぐ。マハールは、王妃の他に十八人の妃を持った。しかし、子を残したのは王妃だけだった。

 夏の風が颯爽と吹き抜けて、アユルの白装束が軽やかな羽根のようにふわりと風になびく。そこにいる者たちは、泣くことも忘れてアユルの立ち姿に見入った。つやつやと黒く光る玉砂利を踏むすらりとした体躯は、潔白の装束と相まって、地に舞いおりた天人と見紛うばかりに清々しい。マハールにはなかった気品、凛とした王の威厳。そういうものが、風にひるがえる表着の裾からでも漂ってくる。

「出発しろ」

 アユルが、先頭の武官に目配せして命令する。

 乱世の大陸を平定したのは、カデュラスの若き初代王だった。気が遠くなるほど大昔の話だ。初代王は、人々にとって希望の光だった。いつ終わるともしれない戦乱から救い出して、穏やかな暮らしを与えてくれる唯一だった。初代王の統治下で人々は大地を耕し、焦げと死の臭いがしみついた土地は緑に潤って、暗雲に覆われた空は澄んだ青になった。やがて初代王は神格化され、大陸は恒久の平和を手に入れたのである。

 初代王の直系子孫であるカデュラス国王は、今でもあまねく大陸を支配し、神と崇められている。命がつきても、その尊さは失われない。これから神陽殿で行われるホマの儀式で、マハールは魂と体を引き離されて永遠に朽ちない神となる。

葬列は、王宮の北の端にある神陽殿へ向かって粛々と進んだ。あまりの暑さに、鳳輦をかつぐ武官の額や鼻の下には玉汗が浮かび、顎から絶えず汗のしずくが落ちる。途中、アユルは何気なく鳳輦を覗いた。王に影がささないよう、四方の御簾は上げられている。今日はやけに風が強い。風にあおられた面布がめくれて、マハールの顔が半分ほど露出していた。

「止まれ」

 武官らに片膝をつかせて、マハールの面布を両手で丁寧に整える。肉の削げた頬と土色の肌。マハールの顔は、生前のそれとはすっかり変わり果てていた。それから神陽殿に着くまで、同じように何度か立ち止まった。

 葬列が神陽殿に着くと、既に侍医たちが庭に出て待っていた。武官が神陽殿の前で鳳輦をおろして、マハールの遺体を殿内に移す。その間、アユルは炎天下で筵に座り、地面に額が触れるほどひれ伏して、父への礼をつくさなければならなかった。身を焦がすようなじりじりとした陽光を浴び続けて、アユルの白い肌が汗で湿り始めたころ、若い侍医が小走りで神陽殿から出てきた。そして、傍に膝をついてアユルより身を低くして言った。

「王子様、ホマの儀式を始めます。中にお入りくださいませ」

 緊張に震えた侍医の声に、アユルは返事もせず立ち上がる。それから、袴をはたいて一度空を見上げると、ゆっくりとした足取りで階を上がって敷居をまたいだ。殿内は、外とはまるで違って薄暗く、ろうそくの炎がゆらゆらと揺れながら道標のように並んでいた。ホマの儀式は、神陽殿の中心にある広間で行われる。明かりを辿って奥へ進む。広間に設えられた、白木の床板に畳を二段に積んで綿入りの柔らかな敷物を敷いた寝台に、薄絹の単衣をまとったマハールが侍医たちに囲まれて眠っていた。

「それでは王子様」

 侍医の長が、広間の入り口でアユルに手燭を渡す。

 アユルは、マハールの枕元に立て膝をついて手燭の火をろうそくに移した。黄金に輝く器の中で、王家の紋章である桔梗《ききょう》をかたどったろうそくが、じじっと濁った音を立てる。

 死んだ王の枕元に焚かれるのは、死者を死後の世界へ導く弔いの火ではない。輪廻を絶つためのものだ。万が一、王が家畜などに生まれ変わってしまったら、神の威厳もへったくれもあったものではない。だから、転生できないように、王の魂を体から誘い出して焼いてしまうのだ。

 火がマハールの魂を焼き切って、自然に消えるのを待つ。それは、息が詰まるような時間だった。やがて炎が、一瞬、強く輝いて黒煙をくゆらせた。

「始めろ」  アユルが、低声で命じる。それを合図に、侍医たちが魂を失ったマハールの体に腐敗を防ぐ処置を施し始めた。王位を継ぐ王子は、神陽殿に留まって儀式の一部始終を見届けなくてはならない。

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