◆Story 10
驚き過ぎて声も出ない。どどっどっどどっと耳の近くで乱れた心音が響いて、持っていたマンガがばさっと床に落ちた。
「ああ、よく寝た」
目を見開いて固まる彩の視界で、仁寿がのっそりと体を起こす。
先生は寝起きが弱い。それを知っているから確信できる。目をこすって、さも寝起きのように装っているが、目の前にいるのはしっかり覚醒した藤崎仁寿だ、と。
「い、いつから起きてたんですか?」
「ずっと寝てたよ」
「嘘!」
「じゃあ、藤崎君のあたりから?」
「ひ……っ!」
喉が詰まるような悲鳴のあと、彩の顔からみるみる血の気が引いていく。
――じゃあって、なに?
あたりから? って、どうしてクエスチョンマーク? もしかして、ずっと起きてたの? 心躍らせて本を読んでいたのも知ってるわけ? 次から次へと疑問がわいて、頭が混乱し始める。それに追いうちをかけるように、自分の放った言葉が雷電のごとく脳を直撃した。
――どうして、わたしなんかを好きなのよ。
とんでもない独り言が頭の中でリフレインする。頭蓋骨が割れそうなほどの大音量、エコーつき。なんならビブラートだって効いているし、ファンファーレまで鳴り響いている。
――死ぬ。
一生の不覚としかいいようがない。どうしよう。穴があったら入りたいと本気で思ったのは、これが生まれて初めてかもしれない。恥ずかしさのあまり、今にも頭が爆発して卒倒しそうだ。
「マンガ、面白かった?」
余裕たっぷりな仁寿の笑みに、彩の耳が夏の夕焼けのように真っ赤になる。
「え、ええ。まぁ……、楽しませていただきました」
どうにか平常心を保とうとするが、声はうわずり目は泳ぎ、まったく動揺を隠せない。
「そう。主人公が高校生だから、今の僕たちが読むと幼く感じるストーリーだけど、まずはこれくらいがちょうどいいかな」
「ちょうど、いい?」
「どうも、彩さんから恋愛に対するパッションを感じないからさ。刺激になればと思って。どう? 胸がきゅんとして、乙女心に火がついたんじゃない?」
仁寿の目がきらきらと無邪気な光彩を放っていたので、彩は思わず「パッションって」と小さく吹きだしてしまった。もうパッションとか乙女心なんて年齢は過ぎてしまったけれど、確かに懐かしさも相まって、気分が澎湃するには十分な刺激だったと思う。
――まったくもう、先生は。
予想もしない方向から球が飛んでくるからびっくりする。だけど、先生は言うことにもすることにも厭味がなくて、その優しさについ甘えてしまいたくもなる。もしそれを口にしたら、遠慮せずに甘えてよと満面の笑みが返ってくるのだろう。その顔を想像すると、少しだけ動揺が落ち着いた。
「はい、久しぶりにピュアな気持ちを思い出しました」
「よかったね。大事だよ、それ」
「……あの。わたしの独り言、全部しっかり聞いてましたよね?」
「どうかな」
くすっと笑う仁寿の顔が近づいて、ふわりと唇が重なる。マンガの影響か、マシュマロみたいな感触に胸がじんわりどきどきした。触れるだけのキス。なのに、甘い余韻が全身に広がっていく。どこか、物足りなさを伴って――。
「お腹がすいたね」
立ちあがった仁寿が、メガネをかけてベランダ側のサッシを開ける。日差しに温まったリビングを、乾いた冬の風がさっと吹き抜けた。
リビングの時計を見て、仁寿がキッチンでごそごそと食材を探し始める。彩は、落ちたマンガをほかの巻と一緒にテーブルに積むと、仁寿を手伝おうとキッチンへ急いだ。
「彩さんはゆっくりしててよ。テレビつけようか?」
「いえ、そんな」
「手伝ってもらうほど豪華なものは作らないよ。時間も時間だし、軽くね」
洗った手をタオルで拭う彩の隣で、仁寿がパスタを二束とレトルトのミートソースを並べる。小麦粉だからなぁ。百グラムでも多いか、とつぶやきながら鍋にお湯を沸かし、フライパンにミートソースを入れて刻んだ野菜とマッシュルーム、それから赤ワインを少し足す。
――わたしの出番はなさそう。
彩は、邪魔にならないようにキッチンを出て、カウンター越しに仁寿の手際を眺めた。
「先生、ちゃんと寝ました?」
「うん。眠れない当直のあとでも、昼寝は三十分くらいで十分かな」
「そう、なんですね」
「彩さんは?」
仁寿が、ぐつぐつと煮だった鍋に菜箸でパスタを沈めながら尋ねる。
「わたし?」
「CTとか検査したんでしょ? どうだったの? ずっと気になってはいたけど、メッセージアプリで聞くような内容じゃないから聞けなかった」
「ああ……」
どう答えよう。楽しい話ではないから適当に言葉を濁そうかと迷って視線を流しから上に向けると、こちらを見ている仁寿のメガネが湯気で真っ白に曇っていたから、彩は素直に話すことにした。
――なんだか気が抜けちゃう。
彩の表情が、穏やかなほほえみに変わる。彩本人は、それに気づいていないのだろうけれど。
彩の主治医は、見た目からの推定年齢五十歳くらいの恰幅のいい男性で、神経質そうな顔をしているが話すと物腰の柔らかい先生だ。
「変わりはありませんでしたか? 生理痛がひどいとか経血の量が増えたとか、そのほかにも気になる症状があれば教えてください」
「特に、なにもありませんでした」
CTを撮ったあと診察室に呼ばれて、いつも同じような言葉を交わしてイスに座る。手術から二年。良性の腫瘍なら年に一回の婦人科検診だけで済んだのに、境界型だったから四カ月に一度、病院で画像と採血で経過をみている。気になる体調の変化はなにもない。しかし毎回、検査の結果を聞く時は、やはり不安が先行する。
「今日のCT、大丈夫でしたよ」
モニターに表示した二つのCTの画像をスクロールしながら、先生が言う。一つは前回、もう一つは今日撮ったものらしいのだが、素人が見たってどこの部位かも分からないから、先生の「大丈夫」をそのまま鵜吞みにする。
「それから、前回採った採血ね。腫瘍マーカーも陰性、ほかもOK」
「よかった。安心しました」
「経過が良好だから、受診の間隔を少しあけましょうか。若いからしばらく定期的な検査をしたほうがいいけれど、お仕事をされていると受診するのも大変でしょうから。次は半年後、またお腹のCTと採血をさせてもらいますね」
先生に御礼を言って診察室を出た瞬間、「やったー!」と両手を挙げたくなるくらい嬉しかった。ほんの少し、けれど確実に再発の恐怖から解放されるような気がしたから。
仁寿が茹であがったパスタを皿に盛って、フライパンのミートソースをかける。すると、湯気に乗って漂ってきたおいしそうな匂いが、彩の鼻腔をくすぐった。
「なにも問題はないみたいで、四カ月おきの受診が半年おきになりました」
「半年後か。病院に行ったのは十月だったから、次は来年の六月くらい?」
「そうですね」
「少しは、ほっとした?」
「はい、ほっとしました」
「僕もほっとした」
何気ない日常こそ幸せ。ふと、いつかの、仁寿の言葉が胸をよぎる。思えば、今までなにが幸せかなんて、真剣に考えたことがなかった。僕もほっとした、と言われて目の奥が熱くなるのはなぜだろう。
彩は、カウンターに置かれた二人分の小盛りパスタをダイニングテーブルに運ぶ。席に着く間際、仁寿が黒い長袖のシャツを彩に手渡した。彩が着ている、白いコットンリネンのブラウスへの気遣いだ。
「これ使って」
「ありがとうございます」
仁寿サイズの長袖を着て、イスに座る。横髪を耳に掛けると、向かいに座った仁寿がスプーンとフォークを差しだした。
「彩さんの口に合うといいけど」
「おいしそう。いただきます」
ほっぺたが落ちちゃうくらいおいしいパスタを頬張った時、仁寿が「幸せだなぁ」と笑ったので、彩はこみあげる涙をこらえるのに必死だった。それをまぎらわすために、コミックの話題を持ちだす。
「あのマンガは、先生が買ったんですか?」
「ううん、姉からのおさがり」
「お姉さん?」
「あれ、彩さんには言ってなかったっけ。僕には、安寿(あんじゅ)っていう、七歳年上の姉がいるんだ。小児科医で今は千葉の大学病院にいるんだけど、後々、故郷で母がやってる小児科のクリニックを継ぐみたい」
「へぇ……」
ご両親どころか、お姉さんまでお医者さんだったなんて。一瞬、飲み込んだパスタが喉に引っかかる。
「先生、単刀直入にお聞きしてもいいでしょうか」
「どうしたの、改まって」
「わたし、先生には不釣り合いじゃないですか? わたしは平凡な一般家庭の出身だし、先生のご両親とかご実家とか、いろいろ迷惑になるような気がして」
失礼な物言いになったかもしれない。彩は、内心で反省しながら仁寿の顔を見る。しかし、仁寿は特に気にする様子もなくいつもの調子で彩に答えた。
「彩さんについては、ずっと前から両親に話してるからまったく問題ないよ」
「それ、本当ですか?」
疑ってしまうのは仕方がない。だってほら、よくあるじゃない。どこの馬の骨とも知れない輩め! みたいなどろどろした展開。裏で手切れ金なんかを渡して、二度と息子に近づかないでちょうだいっていうあれ。ちょっと、最近見た韓国ドラマの影響を受け過ぎかもしれないけど……。
「嘘じゃない。本当だよ」
「じゃあ、お見合いとかは? 先生のご実家は、由緒ある家柄でしたよね?」
「ないない。彩さん、由緒もなにも廃藩からどれだけたったと思ってるの。今や、仕える藩主もいないのに」
「でも……」
「いい機会だから打ち明けるけど、大学二年の時から好きな人がいると言い続けて、一向に彼女を紹介しないからさ。家族みんな、僕がモテなさ過ぎてイマジナリー・ガールフレンドと疑似恋愛してるんじゃないかと疑ってるみたいなんだよね。だから、僕としては一刻も早く彩さんを両親に紹介したいところ」
彩の手が、フォークにパスタを巻きつけたまま停止する。
「でも、まずは彩さんの気持ちが大事だし、僕の両親より彩さんのご両親のほうが先だと思うから」
にこやかな表情とは裏腹に、声から真剣な気持ちが伝わってくる。鼻の奥がつんと痛くなって、また涙が出そうになった。
「先生は、いつもそんなふうに考えてくださってたんですね」
「うん」
「ありがとうございます」
ぽたっと涙が落ちて、彩は慌てて仁寿のシャツの袖で目尻をおさえる。その時、シャツの胸元に筆記体でpassionとプリントされているのに気がついて、彩の涙腺と腹筋はあっけなく崩壊してしまった。
その日は、夕方から二人でショッピングモールへ行って出張に必要なものを買い、夜ご飯まで一緒に過ごした。
「それじゃ、彩さん。次は土曜日、病院で会おうね」
「はい。土曜日は先生たちの体制が悪いので、午前中は医局が空っぽになると思います。だから、病院に来るのはお昼近くでいいですよ」
「うん、分かった」
「おやすみなさい」
「おやすみ」
アパートの玄関先まで送ってくれた仁寿を見送って、玄関の鍵をかける。左手に残る仁寿のぬくもり。ショッピングモールで買い物をしている時も道を歩いている時も、ずっと握っていてくれたから、まだ手を繋いでいるような感じがする。
――先生は、待ってくれている。
わたしが、いろいろ時間がかかってしまうかもしれないと言ったから。院外での研修で、自分だって毎日大変なのに。仁寿の顔を思い浮かべると、胸がきゅっと締めつけられるように切ない。
先生の思いを知った。わたしは、どうするべきだろう。
彩は、お風呂と洗濯を済ませて仁寿にメッセージを送った。
『今日はありがとうございました。
もうすぐ誕生日ですね。なにかほしいものはありますか?』
今週の土曜日、仁寿と彩は昼過ぎの新幹線で出張先へ向かう予定だ。仁寿の誕生日が日曜日だから、その時にプレゼントを渡そうと思ったのだ。すぐに既読がついて、返事がきた。
『考えておくね』
画面いっぱいにはじける真っ赤なハートマークに仁寿のパッションを感じて、おかしいやら嬉しいやら。その夜、彩は幸せな気持ちで眠りについたのだった。