車をおりる前に、メッセージアプリを立ちあげる。今日はあいにくの曇り空。今季一番の寒気が流れ込む影響がなんとかで、午後から数年ぶりの雪がふるそうだ。朝のローカルニュースで、なじみの気象予報士がそう言っていた。エンジンを切った車内が冷えていく速さからしても、その予報ははずれないのだろう。
『誕生日にほしいものは、決まりましたか?』
昨日の朝届いた、彼女からのメッセージ。今までは仕事の連絡が主だったのに、院外研修が始まってから、それ以外の内容も増えた。合鍵は使ってもらえないが、距離は少しずつ縮まっている。彼女には、一緒に生活するより、こういうなだらかなプロセスのほうが性に合っているのかもしれない。
初めて彼女に気持ちを伝えたのは、四月だった。週末に開催された、医局の歓迎会の帰り道。二次会には行かないと先生たちの誘いを断って、週末のにぎわう繁華街を駅へ向かって歩いていく彼女を追いかけた。
ちょっとちょっと、藤崎先生。歓迎会の主役が二次会に行かないとは何事だ。若手の先生たちから足止めされたせいで、一度見失った彼女の姿を雑踏の中に見つけたのは十分近くたってから。
街角でたむろっているスーツ姿のサラリーマンに声をかけられているのを見て、猛ダッシュした。あんなに全力で走ったのは、いつぶりだっただろう。
「彩さん」
息を切らして手をつかんだ時の、驚きと安堵が混ざった彼女の表情は忘れられない。
「大丈夫?」
サラリーマンたちが遠ざかったところで手を離して、顔色をうかがう。彼女は、困ったような顔で首をかしげて小さく謝罪の言葉を口にした。
「すみません」
もともと誰に対しても言葉遣いが丁寧な人だけど、大学生のころはもっと気さくに接してくれていたような気がする。晴れて同じ場所で仕事をできる間柄になったのに、今度はお互いの立場が障壁になったのだと痛感した。物理的な距離と違って、自分ではどうにもできない溝のようなものを感じて、もどかしい気持ちにもなった。だから、駅に着いて別れ際、思い切って告白した。彼女が僕の気持ちを知ったら、なにかが変化するかもしれないと、淡い期待をしながら。そして――。
「……あ。先生のお気持ちは嬉しいけど、ごめんなさい」
僕の気持ちを聞いた彼女は深々と頭をさげ、申し訳なさだけを残して去っていった。ライトアップされた駅前の桜並木が夜風に花弁を散らして、頭上の星空もきれいで、なんというかすごく幻想的で風流な失恋だったと思う。もしも僕が平安貴族だったら、百人一首に選ばれるような美しい名歌を詠めたんじゃないかな。
――まぁね。誰だって、いきなり好きだと言われたら困るよ。
自分で自分を慰めながら帰路に着く。すると、彼女からメッセージが届いた。
『ありがとうございました』
余計な文字が一つもない、彼女らしいメッセージ。彼女は、今までの関係のまま変わらずにいてくれるのだろう。この一言のお陰で、僕は恥ずかしい思いも痛い思いもせずに済んだ。彼女はなにも悪くないのに、人を傷つけないようにあれこれ考えている姿が目に浮かぶ。
――ああ、だから僕は彩さんが好きなんだ。
◆◇◆
つい、過去の思い出に浸ってしまった。
仁寿は、スマートフォンをバッグに突っ込んで車をおりると、軽い足取りで職員通用口へ向かった。今日は、医学書を詰めた重たいリュックは必要ない。学生のころに愛用していた、今では滅多に使わない帆布のトートバッグに財布とスマートフォン、念のために聴診器を入れただけの軽荷一つだ。
職員通用口から二階にあがり、正面ではなく研修医室の入り口から医局に入る。二人いる一年上の研修医は休みなのだろうか、研修医室は無人で電気もついていなかった。
電気をつけてバッグを自分の机に置き、机の右端に積まれた郵便物と雑誌を一つずつ確認する。それからコートを脱いで、不要な書類や封書をシュレッダーにかけた。席に座って、充電器に繋がれたままのPHSの電源を入れる。その時、クリーニングされたスクラブを抱えた彩が、研修医室を通りかかった。
「あれ、先生。来てたんですか?」
「お疲れ様、今来たところ。家にいても暇だからさ。体制が悪いんでしょ? 僕に手伝えることがあったら、ここにいるから声をかけて」
とはいえ、医療安全上、今の仁寿が一人でできる医療行為は限られているから、言葉どおり手伝い程度にしかならない。
「助かります。今日は患者さんが多くて、すでに外来がまわってないみたいで。救急車の受け入れ要請があったら、ちょっときつい状況です」
ポリプロピレンに包まれたスクラブの名前を確認しながら、彩が仁寿の隣の席にそれを置く。
仁寿は更衣室でスクラブに着替えてドクターコートを羽織ると、ポケットに聴診器を押し込み、医局内にある給湯室でコーヒーを淹れた。コーヒーカップを手に彩の席をちらりと覗く。彩は、眉間にしわを寄せてパソコンの画面とにらめっこしていた。
研修医室は医局と隣接していて、スライドドアで仕切られている。ドアを閉めてしまえば、医局内の音はほぼ聞こえない。仁寿は、ドアが閉まらないようにロックして、自分の席に腰を据え、研修医向けの医学雑誌を広げた。
「んん? 藤崎先生じゃない? どうしたの?」
次に登場したのは、郵便物を手に持った医局秘書課課長の平良だった。オールバックに固められた白髪交じりの頭髪と人のよさそうな顔。ぽっこり膨らんだお腹がキュートな、四十代後半の男性だ。
「明日の研修医会で発表するポートフォリオを、篠田先生にチェックしてもらおうと思って来ました」
「ああ、そうか。竹内先生が急遽参加できなくなったからねぇ」
「はい」
「頑張って。よろしく頼むよ!」
「ありがとうございます」
平良は、製薬会社からの封書を仁寿に手渡して研修医室を出ていった。それからしばらくは静かだったが、救急車のサイレンが聞こえてから医局内が騒がしくなった。内線はひっきりなしに鳴るし、外来や病棟の看護師長が出たり入ったり。今日は平良と彩しかいないから、日常業務と対応に追われて大変そうだ。
あらかじめ、救急車の受け入れ要請があったらきつい状況だと聞いていた仁寿は、雑誌を片づけてコーヒーカップを洗うと、内線を切ったばかりの彩に声をかけた。
「人手、足りてる?」
「ああ、先生。外来の看護師さんが、点滴のルート取れなくて困ってるみたいです」
「どうして?」
「急性アルコール中毒で運ばれてきた患者さんらしいんですけど、看護師さんが手を握ってくれないと点滴しないって暴れてるんですって」
「そういう理由……、大変だね。見にいってくるから、給湯室のお湯でジュリアンの手を温めておいてくれない?」
ジュリアンは、動脈からの採血をトレーニングするための人工腕だ。肌の弾力や感触が、内部まで人間の腕に近い質感で精密に作られている。数年前に購入して、数えきれないほど研修医たちに針を刺されてきたが、お値段相応に丈夫で、今でも現役で活躍中なのである。
仁寿が一階の点滴室に直行すると、ベッドが十台並んだ点滴室は満員で、外来の看護師が二人で患者の対応にあたっている状況だった。どうやら、医師だけではなく、今日は看護師も体制がよくないらしい。
「お疲れ様です。ルートが取れない患者さん、どの人ですか?」
院外研修に出ているはずの仁寿が突然あらわれたので、看護師たちは面食らった様子だったが、それに構わず近くの電子カルテにログインして、看護師が読みあげる患者番号を打ち込む。カルテの記録を順に追い、仁寿は患者のもとへ行った。
「青木さん、ちょっと触りますね」
仁寿が声をかけると、患者は仰向けの姿勢でとろんとした目を向けて、「うるせぇ」と呂律のまわっていない声と手を振りあげた。体に力が入らないのか、猫パンチほどの威力もない。それをかわして患者のズボンの裾をまくる。足が、目視で容易に分かるほどぱんぱんにむくんでいた。
「青木さん、心臓の病気をお持ちですか?」
「はぁ?」
酩酊状態だから、本人に聞いてもだめか。仁寿は一度その場を離れて、青木を診察した茅場にPHSで内線をかけた。
「研修医の藤崎です。……あ、はい。ちょっと所用で。ええ、そうなんですよ。ははっ、ありがとうございます。それで、先生が診た青木敬三さんについて相談があります。……そうです。六十七歳の……、はい、その方です。カルテを見たら点滴のオーダーしかないので、採血と胸写を出してもいいですか? 浮腫が著明で、補液いく前に採血したほうが……」
PHSを耳と左肩で挟んで、茅場と話しながらキーボードを叩いてカルテに記録を書いていく。
「ああ、そうなんですね。それなら、僕がそれぞれ検査の指示を出しておきます。……いいえ。こちらこそすみません、診察中にお電話して。お手数ですが、指示の確認だけお願いします」
茅場と仁寿の話が終わると、看護師の一人が隣で採血の準備を始めた。
「茅場先生、機嫌悪くなかったですか? さっき茅場先生に青木さんの件で相談したら、そっちでなんとかしろって怒られちゃって」
「外来が忙しいから、気が立ってるのかもしれませんね」
「よかったです、藤崎先生が来てくださって」
「例の青木さんですけど、点滴を中止して採血と胸写をオーダーします。採血は、僕がするからいいですよ」
「すみません、先生」
「いいえ。手を握ってなんて言われたら、怖いですよね」
マウスをクリックして採血の検査項目を選び、次にレントゲンの指示を入力してカルテを保存する。それが終わると、仁寿は医局に連絡した。内線を取ったのは彩だった。
「藤崎です。さっき頼んだジュリアンを、点滴室の五番ベッドまでお願いします」
『分かりました。すぐ行きますね』
仁寿が、採血用のグローブをはめて採血管を準備していると、大きなバッグを肩に掛けた彩が点滴室に入って来た。
「ちょっと彩さん、その大きな荷物はなんなのよ」
ちょうど通りかかった外来の看護師長が、目を丸くして彩に近づく。彩は、窓際の棚にバッグを置くと、中からリアルな人工腕ジュリアンを取り出した。
「見た目が本物みたいで物騒だから、人目に触れないようにして持って来ました」
彩が言うと、師長の目がますます大きく丸くなる。
「え? これをどうするつもり?」
「あ、師長さん。それ、僕が使います」
「藤崎先生が? ってなんで先生がいるの」
「お久しぶりです。詳しい話はまたのちほど。五番ベッドの患者さんが看護師さんの手をご所望と聞いたので、それを握らせたらいいんじゃないかと思って」
「ああ、なるほどね。もう大変だったのよ、大声出すし暴れるし」
「みたいですね。すみません、師長さん。それを持って一緒に来ていただけませんか? お時間は取らせませんので」
「いいですよ」
ありがと、と彩に言って仁寿がベッドサイドに立って青木に話しかける。彩はそれを見届けると、ジュリアン用のバッグをたたんで点滴室を出ていった。
「青木さん、採血しますよ」
「触るな、ばかやろう。てめぇ、ねぇちゃんはどこ行きやがったんだ」
「ここにいます。文句を言わない大人しい子ですから、安心していいですよ。青木さん、優しく握ってあげてくださいね」
仁寿が目配せすると、師長が苦笑しながらジュリアンを患者の手元に置いた。
「あったけぇなぁ」
ジュリアンの手をつかんだ青木が、視線を宙にさまよわせて深いため息をつく。仁寿は、その隙に青木の腕に針を刺した。
「青木さん、息が苦しくないですか?」
「どうだかなぁ、ずっとこうだから」
「お腹は? 痛くないですか?」
「あー……」
青木さん、と針を抜いて仁寿が話しかけると、今の今まで喋っていたはずの青木は、口をもごもごさせて寝入っていた。胸と腹部を聴診したあと、眼球と結膜を見て青木に毛布をかける。仁寿は、師長と電子カルテの場所まで移動して、一緒にカルテを見ながら青木について話した。
「検査の結果を見ないとなんとも言えないけど、状態がよくなさそう。こまめにバイタルチェックしてください。起きあがれないと思うので、レントゲンはポータブルで撮ってもらうよう放射線科に伝えておきます」
「分かりました。採血の結果が出たら、先生に連絡すればいいかしら」
「いえ、茅場先生に報告してくださればOKです。採血結果を待たずに画像を見てもらったほうがいいかも。あとはお願いしますね。僕はひとまず、採血を検査室に出して医局に戻ります」
「藤崎先生、ありがとう」
「由々しき問題ですね、セクハラ」
「そうよ、まったく。いまだにたったそれだけでって言われることが多いけど、怖くて看護師の仕事をできなくなっちゃう子だっているんだから」
◆◇◆
仁寿が医局に戻ると、篠田が待っていた。軽い挨拶と雑談を交えながら院外研修の話をして、本題に入る。
竹内の負傷により急遽ピンチヒッターとして仁寿が出席することになったのは、様々な病院の研修医が集まる、一言でいえば振り返りの研修会だ。出席する研修医は、一人につき最低一症例のポートフォリオをプレゼンテーションする。それに対して他院の指導医からフードバックがもらえて、研修医同士でもお互いに評価し合うから、日々の学びを定着させるいい機会でもあるのだ。
彩がセッティングしたスクリーンにポートフォリオを映して、仁寿は本番と同じように症例についての考察などを篠田相手に説明する。毎日まめにまとめている甲斐あって、仁寿のポートフォリオは完璧だった。
「藤崎先生、すごいね。腎機能のデータをもっと強調して分かりやすく見せたほうがいいけど、ほかは問題ない。ポートフォリオの修正間に合わないだろうから、口頭で説明を入れたらいけるんじゃないの」
「本当にそれで大丈夫ですか?」
「いいと思うよ」
昼が近くなり、窓の外を見ると雪が舞い始めていた。大学を卒業して故郷に帰って来てから、初めての雪かもしれない。
彩は、篠田と仁寿の話が終わるタイミングを見計らってタクシーを手配する。それから、スクリーンとノートパソコンを片づけ、上司の平良に業務を引き継いで医局を出た。
「ごめん、彩さん。遅くなっちゃった」
タクシーのトランクに荷物を載せていると、キャリーケースを引いた私服姿の仁寿が駆けて来た。
「先生、スーツ持って来ました?」
「もちろん」
「じゃあ、行きましょうか」
「うん!」
仁寿と彩はタクシーで駅に行き、そこから在来線と新幹線を乗り継いで目的地へ向かった。病院を出て約三時間半。出張先は、仁寿が六年間学んだ大学のある市だ。二人は、予約してあるビジネスホテルにチェックインすると、夕食を一緒に食べる約束をして二時間ほどそれぞれの部屋で過ごした。
結局、仁寿からはまだ、誕生日になにがほしいのか教えてもらえていない。彩は、明日の研修医会の準備をしながら、もしかして迷惑だったかな、とか、聞かずに用意するほうが嬉しかったのかな、などと考えて悶々としていた。
そして、夕食時。彩のスマートフォンに、仁寿からメッセージが届いた。
『彩さん、花火を見に行こうよ』