◆Story 04

 仁寿のマンションに着いた時、雨はすっかりあがっていた。
 車を降りた仁寿が大きなリュックサックを背負って、彩の荷物とウイスキーなんかが入ったビニール袋を両手に持つ。

 彩は、仁寿のリュックサックに医学書や資料がぎゅうぎゅうに詰め込まれているのを知っている。以前、医局のテーブルに置かれていたそれを動かそうとして、その重さに驚いたからだ。

「自分の荷物は自分で持ちます」

「いいよ、気にしないで。彩さんはそのバッグだけ持ってよ」

「でも」

「いいから」

 バックシートからハンドバッグを取って、彩は「すみません」と小さく謝る。

「彩さん」

「どうしました?」

「僕のポケットから鍵を出してくれないかな。両手が塞がっちゃって」

 こっちの、と仁寿が上着の右ポケットを顎でさす。

 ――だから荷物は自分で持つって言ったのに……。

 心の中で思いながら、しかし相手の好意を無下にするような言葉は言いたくなくて、彩は素直に仁寿のポケットに手を入れた。深いポケットの奥で、指先に硬い金属が触れる。体温で温まった鍵。寄り添うような仁寿との近い距離に緊張してしまう。

「あった?」

「はい。ご、ごめんなさい」

 なんで謝ってるんだろう、わたし。
 慌てて鍵をつかむ。そんな彩を見て、仁寿が嬉しそうな笑みを浮かべながら「行こう」と言った。
 エントランスの一つ目の自動ドアを通って、両手が塞がった仁寿の代わりに彩がオートロックを解除する。その先にある、ソファーとイス、それからテーブルと観葉植物が置かれた広いホール。暖色の照明が照らす空間は上品で、まるで都会のホテルのよう。

 二人が中に入ると、集合ポストの前にスーツ姿の女性が立っていた。両腕に買い物袋と大きなバッグ、そして二歳くらいの子供を抱きかかえた若い女性だ。
 ちょっと待ってね。ごめんごめん、はいはい。
 泣いて暴れる子供をあやしながら、女性がポストの中を必死にまさぐる。

「大丈夫ですか?」

 彩の声に、女性は一瞬だけ驚いて、困り果てた表情でポストに視線を移した。どうやら、大きな茶封筒がポストの角に引っかかって取り出せずにいるらしい。彩はそれをポストから抜き取ると、了承を得て彼女の腕にさがっている大きなバッグに入れた。

「ありがとうございます。助かりました」

「いえ、大変ですね。エレベーター、押しましょうか?」

「一階なので……」

「あっ、そうですね。ごめんなさい」

 ポストに書かれた部屋番号を見て彩が気恥ずかしそうに笑うと、女性は「いいえ、いいえ」と笑顔で眉尻をさげた。

 涙目の子供が「ばあばい」と彩に向かって笑顔で小さな手を振る。女性は何度か彩に会釈して、廊下の角を曲がっていった。

 かわいいい男の子だった。だけど、ただかわいいと思えるのは他人だからで、ママは大変なんだろうな。
 もう八時を過ぎている。これから食事を作るのだろうか。仕事をして、子供の世話をして、家事をして。見ず知らずの人だけれど、頭のさがる思いがする。

「彩さん」

 仁寿に呼ばれて、はっと我に返る。彩は、慌てて仁寿に駆け寄った。

「悪いけど、僕のポストも開けてくれる?」

「分かりました」

「番号はね、748だよ」

 ダイヤルを回してポストを開けると、中には封書とはがきが数枚入っていた。職業柄、個人情報に触れるのはよくない気がして、住所や差出人を見ないようにそれらを手に取る。

「ありがとう」

「いいえ」

「エレベーターも押してもらっていい?」

「はい。えっと、何階ですか?」

「八階」

 エレベーターで八階にあがった二人は、足音とビニール袋が擦れる音がこだまする廊下を無言で歩く。仁寿の部屋は南の角部屋だった。ここでも仁寿に代わって彩が鍵を開ける。

「先生、どうぞ」

 自分の家ではないのに、どうぞって変。しかし、ほかに言いようがない。
 仁寿が先に靴を脱いで、鍵をかけてと彩に言った。彩は、施錠して脱いだパンプス玄関の端にそろえる。
 二度目だけど、まるで初めて来た場所のような感じがした。記憶はしっかりあるのに、景色とか時間とか、そういったものが曖昧でよく思い出せない。

「彩さんの荷物は寝室に置くね。ほかにも部屋はあるんだけど、掃除してないから今日は我慢してよ」

 寝室という単語に、思わず左胸がどきっと反応する。

「家の中、遠慮しないで好きに使っていいから」

「……は、はい」

「彩さん、そこのスイッチ押して。浴槽って書いてあるやつ」

 彩の着替えなんかが入ったバッグを寝室に置いて、仁寿が向かいの壁を指差す。彩は、つい条件反射で「これですか?」とボタンを押して、しまったと内心で焦った。
 不眠で限界の時は思考回路がまともではないけれど、今はそうじゃない。ハイボールをジョッキ二杯飲んだけれど、それくらいじゃ酔わない。

「十分くらいでお湯がたまるから、先にお風呂入ってね。それまで、リビングでゆっくりしててよ」

「あの、先生。部屋に来ておいて今さらですけど」

「なに?」

「あの日のことは、忘れていただけませんか?」

「……彩さん」

 気落ちした様子で仁寿が肩を落とす。ちくりと胸が痛んで、彩は深く反省した。
 わたしの優柔不断な態度が、先生を傷つけてしまった。最初から間違っていたのよ。先生とセックスなんてしちゃいけなかったし、今日だってちゃんと断るべきだった。今ならまだ間に合う。ちゃんとここで、はっきり言わなくちゃ。
 ごくっと喉を鳴らして、彩が「先生」と呼ぶ。すると、仁寿がみぞおちをおさえながら顔をあげた。

「僕ね、すっごくお腹が空いてるんだ」

「あ……」

 そうか。わたしは由香とおいしいご飯をお腹いっぱい食べたけれど、先生はまだなんだ。自分の都合ばかりで、先生のことに全然気が回っていなかった。申し訳ない気持ちになって、しかし彩はすぐに思い改める。

 いや、違う。ちょっと待って。
 会話が噛み合ってない!

「先生、わたし帰り」

「もう、無理。低血糖で倒れちゃいそう。知ってる? 血糖値が高いのはそうでもないけど、低血糖って死ぬ時があるんだよ。ああ、もう限界だ。めまいがしてきた。ほら、彩さんも早くこっちに来て」

 仁寿が、彩の言葉をさえぎって足早にリビングへ向かう。死ぬなんて言われると、さすがに怖い。とりあえずご飯を食べてもらってから、ゆっくり話そう。彩は、気を取り直して仁寿のあとをついていく。

 まぁ、僕みたいに健康な人間は、空腹程度じゃ低血糖なんて起こさないけどね。仁寿が心の中でつけ加えて、後ろの足音を確認しながらリビングの照明をつける。

「ソファーに座って。こっちのテーブルでもいいよ」

 彩はハンドバッグをダイニングテーブルのイスに置いて、上着を背もたれに掛けた。カットソーの袖をまくって、キッチンで手を洗う仁寿の隣に立つ。

「彩さんは、気遣いが上手だよね」

 ふいに褒められて、彩はきょとんとした。泡まみれの手をぬるま湯で流した仁寿が、立ち位置を彩にゆずって新しいタオルを後ろの棚から取る。

「ほら、さっきの。病院でもそうだけど、声をかける時のトーンとか表情をちゃんと考えてるよね。普段の颯爽とした雰囲気が嘘みたいに、すごく優しい」

「そうですか?」

「よく気がつくし、思いやりをああやって行動に移せるって素晴らしいよ」

「たいしたことじゃないです」

「誰にでもできることじゃないと思うけどな」

 はい、と渡されたタオルを受け取って洗った手を拭く。その阿吽の呼吸というか、自然な感じがなんだかくすぐったい。

「ハイボールは、お風呂を済ませてから作ってあげるね。先にグラスを冷凍庫で冷やしておくよ」

「いえ、今日はもう」

「北川先生とたくさん飲んだ?」

「二杯しか飲んでないですよ。酔ったんじゃなくて、もう時間が遅いので」

「まだ八時半だよ。少しくらい、いいじゃない。もうそろそろお湯張り完了のアラームが鳴るから、彩さんはお風呂入って来なよ。僕はその間にご飯を食べようかな」

 仁寿がごそごそと、キッチンに置かれた半透明のレジ袋からウイスキーとライム、玉葱、豚のこま切れを順に取り出す。

「先生、もしかして自炊するんですか?」

「うん。高校のころから一人暮らしだから結構するんだよ、料理」

「へぇ……、高校生でひとり暮らしですか」

「高校が実家から遠くてさ、とても通学できる距離じゃなかったんだ」

「寮とかは?」

「あったけど、なんとなく嫌でね。父に頼んで部屋を借りてもらって……。って、あれ? もしかして彩さん、僕に興味津々?」

「ちっ、違います。変な言い方しないでください」

 短いメロディーが軽快に流れる。彩が思わず後ずさりすると、ゆっくり浸かって来てねと満面の笑みが返ってきた。

 先日と同じように、体を洗って髪を洗って、湯船の中で膝を抱える。
 一人暮らしの男性の家に行ったのは、大学生の時が最後だ。狭いワンルームは物が散乱していて、小さなキッチンもユニットバスも掃除がまったくされていなかった。トイレに座るのも気が引けて、一刻も早く帰りたいと思ったのを覚えてる。

 それから相手の部屋(なわばり)には立ち入らない誓いを立てて不眠を解消してきたから、そのほかは知らない。

 でもここは、新しいマンションだというのを抜きにしても、玄関も廊下もリビングも、余計なものがなくてきれいに片づいていると思う。病院にいる時間のほうが長いはずなのに、一人暮らしをするには広いこの家をいつ掃除しているんだろう。

 ――そうじゃなくて。

 考えなきゃいけないのは、先生の生活じゃない。どうやって切り出せばいいの……? カビ一つ生えてない浴室を見回して、彩は深いため息をつく。

 髪を乾かしてリビングに行くと、仁寿は食器を洗っている最中だった。あれこれ考えて長湯している間に、彼は夕食を作って食べ終わってしまったようだ。

 ――おかず、なにを作ったのかな。

 彩はキッチンカウンター越しに、ビルトインのIHクッキングヒーターに乗ったままのフライパンを覗く。

「待ってね、すぐハイボール作るから」

「いえ、別に催促しているわけでは」

「彩さんの好みの分量は?」

「えっと……。一対二でお願いします」

「了解」

 すすいだ食器を水切り棚に立てて、仁寿が冷凍庫からグラスを出す。鮮やかな青いマーブル模様が印象的なかわいいグラスだ。

「素敵な青色ですね。きれい」

「でしょ? これ、僕のお気に入りなんだ。彩さんは、青が好きなの?」

「そうですけど……。どうしてそう思うんですか?」

「バッグも青だし、彩さんの家も小物とかカーテンとか青が目立ってたから」

「単純ですよね」

「そんなことないよ。クールな彩さんに似合ってる。このグラスはね、スウェーデンで見つけて一目惚れしたものなんだ。彩さんに出会う前……、高校生の時の話だから、運命的なものを感じるね」

 彩の目の前で、仁寿が手際よくライムを切って手で搾る。ごつごつとした指の間から染み出した果汁がグラスにしたたって、柑橘の爽やかな香りが漂って来る。搾り終わると、果汁の上に丸氷が落とされた。

 スコッチ・ウイスキーを入れてマドラーでかき混ぜる。そして、炭酸水をグラスの淵に這うようにそっとそそいで、最後に一回だけ縦にマドラーを動かす。

 素人がハイボールを作ると、大抵は順序が滅茶苦茶で炭酸水のそそぎ方が雑になるのだが、仁寿の手順は完璧だった。

「ハイボールの作り方をよくご存知ですね」

「まぁね。はい、どうぞ」

「ありがとうございます」

「向こうのソファーでゆっくり飲んで。僕はお風呂に入って来るから」

 彩は、言葉に甘えてソファーの端に腰かけた。だだっ広いリビングで一人、ぎんぎんに冷えたハイボールを堪能する。ウイスキーの芳醇な香りが、スパーンと爽快に鼻腔を突き抜けた。冷たさも炭酸のはじけ方も、お店で飲むものと遜色ない。いや、それよりもはるかにおいしい。

「うーん、最高!」

 思わず歓喜の声が出てしまう。
 仁寿は、二十分くらいでリビングに戻って来た。普段の服装とは違う、ラフな部屋着姿に心臓がどくんと脈打つ。違う。いつもより鼓動が早いのは、ウイスキーのアルコール濃度が高いせいだ。彩は、グラスに半分残ったハイボールをぐいっと喉に流し込んだ。

「北川先生から酒豪だと聞いてはいたけど、ペースが早いね」

「酒豪って……。先生、由香とどんな話をしてるんですか?」

「内緒。二杯目いれようか?」

 仁寿が彩の隣に座る。
 ソファーもっと幅ありますよね、とつっこみたくなるほど近くに座られて、彩は不自然な動きで横へ移動した。仁寿からシャンプーのいい香りがして、胸がとくとくと早鐘を打つ。

「いえ、もう結構です。とってもおいしかったです。ご馳走様でした」

 彩が、グラスを片づけようと立ち上がる。すると、手首をつかまれて、はずみで後ろに倒れるようにソファーに尻もちをついた。

「ねぇ、彩さん。キスしてもいい?」

 仁寿が、彩の手から空のグラスを取ってテーブルの上に静かに置く。

「だっ、だめです」

「ごめん、言い方を間違えた。キスするね」

「待ってく……ッ」

 逃げる間もなく顎をつかまれる。AEDの講習で気道確保された心肺蘇生訓練用人形みたいに上を向かされて、荒々しく口を塞がれた。

「……ふぁ、んんっ!」
 先日の優しいキスとは全然違う獰猛さに、彩は息を乱しながら仁寿の胸を叩く。必死の抵抗を試みる彩の動きを封じるように、仁寿が下顎挙上法で急角度に首をロックする。

 ――なにこれ!

 彩の手がジタバタもがいている間に、歯列を割って舌が口の中に滑りこんでくる。腰を抱き寄せられて、舌が絡んだままソファーの上に押し倒された。

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