◆Story 03

『突然電話してごめん。今、ちょっとだけいい?』

「はい、大丈夫です」

『もう家に帰った?』

「いえ、銀天街で北川先生と食事してます」

『そうなんだ。食事のあと、時間ないかな』

「いいですよ。病院でなにかありました?」

『仕事の用事じゃないよ。彩さんに会いたいなーと思って』

「あ……。ああ、そういうことですね。えっと、まだ食事の途中なので時間がかかりそうです」

『分かった。終わったら連絡してよ、迎えにいくから』

「は、はい」

『僕も今からサマリ書いて、ほかにもしなきゃいけない雑務があるから、急がなくてもいいからね。それじゃ、あとで』

 彩が電話を切ると同時に、由香が「帰りますか」と上着を羽織る。

「どうしたの?」

「どうしたのって、彩。藤崎君が待ってるんでしょ?」

「待ってないよ。だって、急がなくていいって、今からサマリ書くって言ってたから」

「なに寝ぼけてるの。それ、彼の気遣いに決まってるじゃない。いいから、ほら、早く!」

「う、うん」

 由香に急かされるように店を出て、雨降りしきる街路を真っ直ぐ繁華街へ向かう。駅前の大通りで由香がタクシーに乗り、彩はそれを見送ってバッグからスマートフォンを取り出した。画面を見つめたまま、どうしたものかとため息をついて途方に暮れる。

 由香は気遣いだと言っていたが、本当に仕事をしているかもしれないから、邪魔をしては申し訳ないと少しためらってしまう。しかし、スマートフォンの画面に表示された時刻は十九時四十七分。明日は普通に仕事だし、遅くなるのはどうかとも思う。彩は、悩んだ末に意を決して仁寿に電話をかけた。

『あ、彩さん。終わった?』

「はい」

『今、どこにいるの?』

「駅の近くです」

『じゃあ、ヒノキヤ書店で待ってて。すぐ行くから』

「よろしくお願いします」

 なにをよろしくお願いしてるんだろ……。自分がおかしくて、なんだか変な感じがする。
 待ち合わせ場所に指定された書店は、彩がいる場所から徒歩で三分もかからない。エントランスが屋根つきのフリースペースになっていて雨を気にしなくていいし、隣が派出所だから夜も安全だ。
 待つこと十五分ほど。彩の前に白いアルファロメオが停車して、「お疲れ様です」と遠慮がちに助手席に乗る。

「お疲れ様。食事中に電話して、ごめんね」

「いいえ。こちらこそ、仕事の邪魔してすみません。サマリ、書けました?」

 シートベルトを締めながら尋ねると、「うん」とにこやかな笑顔を向けられた。なんだか気恥しい。一方的にそう感じて、彩はいそいそと視線を前方に移す。

「彩さんに似合いそうなスコッチ・ウイスキーを買って来たよ。あと、ライムも。彩さんは、ハイボールしか飲まないんだったよね」

「え、ええ」

 驚いて運転席に視線を戻す彩の膝の上から青いハンドバッグを取って、仁寿がそれをバックシートに置く。ガサッとレジ袋と思しきビニールの音が聞こえた。
 彩の知るかぎり、病院の近距離にウイスキーを売っているお店はない。時間を考えると、最初の電話を切ってすぐに病院を出たのだろう。

「彩さんの家、どこ?」

「家ですか?」

「着替えがないと、明日が困るでしょ?」

 瞠目する彩にかまうことなく、車が動き出す。

「この通りをどっちに行くの?」

「あの、先生」

「ごめん、彩さん。後ろから車が来てる。どっち?」

「ひ、広原町の方へ」

「了解」

 一線をこえたら一瀉千里。由香の言葉が頭の中でリフレインする。
 はっきりと言われなくなって、仁寿の家に泊まる流れだということくらい分かる。

 ――もしかして、今日もするつもりなのかな……。

 小さなため息をついた瞬間、彩の脳裏に忌々しい過去が浮かんだ。記憶から消してしまいたいのに、いつまでもべったりと張りついて忘れられない先輩の笑顔。心臓がどくどくして、心に残る古傷がズキズキと痛みだす。

 セックスは愛の行為なんかじゃない。膝の上で、ぎゅっと手を握る。あれは、不眠を解消してもらうだけの手段で、心身が限界になった時以外は必要ない。

 ――なんて皮肉なんだろう。

 セックスがよくないって嘲笑されて不眠になったのに、セックスをしなきゃ眠れないなんて。ほんと、笑っちゃう。
 恋愛だってそう。あんな風に傷ついて、無様に泣いて、惨めな思いをするのはもうこりごり――。
 先生、今日は……と彩が言おうとすると同時に、仁寿が口を開いた。

「医局に戻ったら彩さんがいなくて、焦ったよ」

「どうしてですか?」

「いつも八時過ぎまでいるのに、どうしたんだろう。もしかして、まだ眠れてないのかなって。よかった、北川先生と一緒だったなら」

 交差点の信号が黄色から赤に変わって、車がゆっくりと停車する。仁寿が助手席を向いて、彩の顔を覗き込んだ。

「ちゃんと眠れてる?」

「……はい。すみません、心配をかけてしまって」

 信号が青に変わる。仁寿は、ただにこやかな顔をするだけでなにも言わなかった。
 ハンドルを握る横顔を眺めながら、彩はしみじみ思う。
 初めて会った時、先生は十九歳の医学生だった。あれか五年がたったけれど、顔つきが大人びただけで中身はまったく変わらない。

 柔らかな物腰と表情、見た目の雰囲気にもにじみ出ているおおらかな性格で人を惹きつける。飄々としているように見えて実は努力家で、指導医たちが教え甲斐のある有望株だって評価していた。だから余計に自分とは不釣り合いだと思うし、罪悪感みたいなものまで抱いてしまう。

 彩のアパートに着き、来客用駐車場に車を停めて階段をあがる。彩の後ろを、上機嫌な顔をした仁寿がついていく。

「ここ、僕の家から歩いて十分かからないんじゃない? 彩さんが、こんな近場に住んでるなんて知らなかったな」

「知ってたら怖いですよ。ストーカーじゃないですか」

「ははっ、そうだよね」

 開錠して玄関を開ける。瞬間、手に汗握るような緊張感に襲われた。だって、父親以外の男性を入れるのは初めてだから。

「どうぞ、狭いですけど」

「お邪魔します」

 仁寿が、男子禁制の根城に足を踏み入れる。廊下から順に照明をつけて、彩は仁寿にリビングのソファーに座るよう言った。

「すぐに準備しますから、大人しくしていてくださいね」

 彩がリビングを出ていく。

 仁寿は言われたとおり、借りてきた猫のように大人しくソファーに座って彩を待った。
 物が少なくて、きれいに片づいた部屋だ。職場でも、彼女の机の上は整頓されていて、書類や道具が散らかっているのを見たことがない。

 ふと、壁に掛けられたコルクボードに目がとまる。ピン留めされたA5サイズの紙。目をこらして、印字された文字を読む。

 10/18(木) 14:45 A-CT(骨盤腔)
 廣崎 彩
 Mucinous cystic tumor of borderline malignancy.

 明日の日時。検査の予定があるのだろうか。
 あごに手を当てて、仁寿は記憶をさかのぼる。彼女のお腹に、はっきりと分かる手術痕はなかったと思う。しかし、腫瘍についての診断名がしっかり書かれている。手術をして、病理検査の結果まで出ているということだ。

「お待たせしました」

 彩がリビングに戻って来て、仁寿は慌てて視線をそちらに向けて立ちあがる。
 以前読んだ本によると、人が日常的に敬語を使うのには理由があるそうだ。集団生活を円滑に営むための常識的な使い方ともう一つ、他人との距離を保つため。つまり、これ以上あなたとは親しくなりませんよという意思表示らしい。

 仁寿は、彩に近づいて荷物を持った。二重のきれいな目をくりっとさせて、彩が「ありがとうございます」と言う。

「彩さん、明日は仕事だよね?」

「はい」

「一日?」

「いいえ、午前中だけです。どうかしました?」

「秘書さんに頼みたいことがあるのを思い出してね。明日、朝のカンファレンスが終わったら時間をもらってもいいかな。忙しいなら、明後日でもいいよ」

「分かりました。明日、先生が病棟に行く前に声をかけますね」

「ありがとう、助かるよ。じゃ、行こうか」

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