◆第11話

 ハウエルは、執務室で頭を抱えていた。大事な妹をカデュラス国王にさし出して、なんとか自分の身は守れた。しかし、ラシュリルを取り戻すためには、徹底的な調べを受ける覚悟をしなければならない。そうすると、やはりエフタルとのつながりを知られてしまうだろう。

 ――どうすればいいんだ。

 どうにかして、カデュラスへ連れていかれるのを阻止したい。だが、時間も知恵もない。あるのは身を破滅に導く秘密だけだ。

 銅が欲しかったのは、民の暮らしを良くしたかったからだ。キリスヤーナでは銅を採ることも製錬することもできない。だから、隣国のサリタカルと交易する必要があった。しかし、一国の君主とは名ばかりで、民の生活など知りもしないカデュラス国王の許可がなければ、なに一つ思い通りにできない。千数百年前に失った王権さえ取り戻せれば……。そう思ったのが、ことの始まりで過ちだった。

 こんこん。扉をノックする音がした。ハウエルが返事をすると、王都の統括を任せている叔父のミジュティーが、一人の女性を連れて入ってきた。こしのある黒髪をひとつに結わえ、控え目な華のないワンピース姿の彼女は、ラシュリルの生母ラウナだ。

 ハウエルは叔父に挨拶をしたあと、ラウナの前に立って会釈した。彼女を見るのは何年ぶりだろうか。髪の色も目の色も、姿かたちが妹と瓜二つだ。

 二十年ほど前に、時のカデュラス国王マハール様に謁見するためにカデュラスへ行った父王が連れて帰ってきた女性。一夫多妻を禁じるこの国で、妃を持つ身でありながら父王は彼女との間に子をもうけた。誰からも愛される、太陽のようなラシュリルを――。

「お越しいただいて感謝します、ラウナ様」

 ラウナは、膝を折ってスカートをつまみ上げると「ごきげんよう、ハウエル様」とキリスヤーナの流儀で頭をさげた。

 一夫多妻を禁じるとはいっても、それは法の上のこと。上流階級の貴族たちは、愛妾を持ったり一夜の火遊びを楽しんだりしている。夫婦、恋人同士でパートナーを取り替えて淫らな情事を愉しむ輩もいるそうだ。

 当時、父王はカリノス宮殿の一室を彼女に与え、そこに住まわせるつもりでいたらしい。しかし、彼女はそれを断った。愛娘を取り上げられ、父王には会うこともできず、身寄りのない王都の屋敷でひっそりと一人で暮らしている。

「詳しいことは、ミジュティー様からうかがいました」

「僕の不手際で、ラウナ様にはご心労をおかけすることになってしまった。お詫びします」

「……いいえ。それで、ラシュリルはどちらに?」

「離宮に。これから叔父上がご案内します。僕は、カデュラス国王陛下からラシュリルに会うことを禁じられていますので」

 叔父上、とハウエルがミジュティーに目配せする。ミジュティーは黙ってうなずくと、ラウナを連れて執務室を出ていった。外は、目を開けていられないほどの吹雪だった。

 ラディエは、目を細めて宿泊している建物を出た。

 陛下が、王女様の母君を離宮へお呼びになられました。コルダがそう報告に来たのは、ついさっきだ。アユルの出立を明日に控えて、従者たちが朝早くから忙しなく準備に追われている。ラディエは、一人の従者が、吹雪の中で洗い物をしているのを目にして立ち止まった。そして、何気なく近づいて労いの言葉をかけた。

「このように冷える日は、大変であろう。ご苦労だな」

「い、いいえ、宰相様。恐悦至極にございます」

 その年若い従者は、慌てて前掛けで濡れた手をぬぐった。冷え切って真っ赤になった指先。仕事とはいえ、慣れない土地で寒空のもと難儀なことだ。ラディエは、従者の右の人差し指にざっくりと割れた切り傷のようなものがあるのに気づいた。

「その傷は、どうした?」

「はい?」

「右手の傷だ」

 従者が、なんでもございませんと手を前掛けで包む。その様子はひどく不自然に見えたが、しかし謙虚さのあらわれのようでもあり、ラディエは特に気に留めなかった。

「名はなんと申す」

「は、はい。ファユと申します」

「私はこれから離宮に行かねばならん。上の者に言って、傷に効く薬をもらうがいい。それから、水仕事ではなく別の仕事と交代してもらえ」

「あ、あありがとうございます、宰相様」

 アユルがハウエルを部屋に呼んで、ラシュリルの母親を連れてくるよう命じたのは昨夜のことだった。ハウエルは、ラウナの存在をアユルが知っていることに驚いて胸の内をざわつかせた。

 カデュラス国王が襲撃された件で、キリスヤーナ国王をはじめとした要人たちが査問を受けている。ラシュリルの母親も例外ではない。しかし、それは表向きの理由だった。

 ラシュリルの話では、幼いころに父親に引き取られてから母親と会ったのは数えるほどで、もう何年も顔を見ていないという。国を離れる前に、ラシュリルと母親を会わせてやりたいというアユルの配慮だった。それに、アユルには、どうしてもラシュリルの母親に確認したいことがあった。

「少し落ち着いたらどうだ」

「だって、信じられないのですもの。お母様が会いにきてくださるなんて」

「私が命じたのだ。必ず来るから、とりあえず座れ」

 アユルから呆れたような視線を向けられて、ラシュリルはようやく席についた。

 胸が躍る。最後に会ったのは、デビュタントとして舞踏会でダンスをした十二歳の夜だった。大きくなったわね。そう言って、お母様は優しく抱きしめてくれた。その夜は、お母様と二人で過ごすことを許されて、積もりに積もった話をたくさんしたのを覚えている。

 ラシュリルは、隣の席に目を向ける。アユルが、眉間にしわを寄せて真剣な顔で書簡に目を通していた。

 優雅なお姿も素敵。けれど、わたしのすべてを受け入れて愛してくださるのが、なによりも嬉しい。わたしもそうありたい。生まれ育った場所を離れるのは寂しくてつらいことだけれど、大丈夫。アユル様を信じて、愛し抜いて、幸せにしてさし上げたい。視線に気づいたアユルが、書物をテーブルに置いてラシュリルに顔を向けた。

「ありがとうございます、アユル様」

「礼には及ばない。私もそなたの母君に用があるからな」

「お母様にですか?」

「ああ。私の用が済んだら、心ゆくまで母娘の時間を過ごすといい」

「はい!」

 しばらく待っていると、コルダの先触れがあった。そして、ラディエとミジュティーに続いて、ラウナが部屋に入ってきた。ラシュリルは、母親に駆け寄って抱きつきたい衝動をぐっとこらえる。各々の挨拶を受けたあと、アユルはラウナだけを残して他は隣室で待つよう言った。ラディエの眉がぴくりとしたが、アユルはそれに気づかないふりをして、ラウナに向かいの席をさす。

「恐れ多くも、カデュラス国王陛下に……」

「堅苦しい挨拶はよい。楽にしろ」

 ラウナが、しずしずと席に座る。

「せっかくの再会に水を差して悪いが、母君に尋ねたいことがある」

 なんでございましょう、とラウナがアユルを向く。

「玉佩のことを詳しく教えてほしい」

「ラシュリルに持たせた玉佩のことでしょうか?」

「そうだ。そなたのことは、先立ってラシュリルから聞いている。なぜ、商家の娘が玉佩を持っているのか、それを知りたい」

「……わかりました」

 あれは二十数年前のことでございます、とラウナが静かに話し始める。

 ラウナの実家は、カナヤで宿屋を営んでいた。大通りから少しはずれた人通りの少ない場所にあって、他国の商人が多く宿泊する店だった。とても繁盛していて、朝から晩まで忙しい両親を少しでも助けようと、ラウナは店を手伝っていた。

 そんなある日だった。雨が激しく降る初夏の昼下がり、ラウナが店番をしていると、一人の若い女性が入ってきた。つぼ装束の女性は、苧麻の布を垂れた藺笠を脱いで、部屋を貸してほしいと言った。それから月に一度か二度、同じ時刻にやってきて、数時間だけ部屋を借りるようになった。

「そうして何度も顔を合せるうちに親しくなって、よくしてくれた御礼にとあの玉佩をくださったのです」

「玉佩は身分証だ。それを他人に譲るとは……。その女人の名は分かるか?」

「はい、よく覚えております。アイルタユナとおっしゃる方です」

「……アイル、タ……ユナ?」

 覚えのある名前に、アユルはあからさまに驚いた顔をする。アイルタユナというのは、とてもめずらしい名前だ。玉佩を持てる身分で、めずらしい名の者が二人いるとは考えられない。それも二十数年前。時期もぴたりと一致する。

「とても優しい方でした。お元気にお過ごしなのかと、今でも懐かしく思い出します」

「その者は、どういった目的で部屋を借りていたのだろうか」

「待ち合わせをしておられる様子でした」

「待ち合わせ?」

「さる殿方とお会いになっていたようです」

「その男は誰だ」

「お名前は存じ上げませんが、高価なお召し物と……。確か、腰にくちなしの玉佩を下げておられました」

 アユルは、目を見開いて言葉を失った。

 ラシュリルが、カデュラスの高家と関係があるのではないかと思って母親に確かめた。しかし、とんでもない話を聞いてしまった。胸がざわざわと波立って気持ちが悪い。こんなに息が詰まるような感覚に襲われるのは初めてだ。

「もう十分だ。あとは、二人でゆっくり過ごせ」

 アユルが席を立つと、ラシュリルが嬉しそうに笑って礼を言った。楽しく会話を弾ませる母娘を残して、アユルは応接室を出る。廊下で、コルダが待っていた。

 コルダの優しげな相貌は、思い出の中のアイルタユナにそっくりだ。あれから貴妃様のことは一度も口にしたことはない。だが、コルダは知りたくないのだろうか。貴妃様が身を挺して守った、父親のことを――。

「アユル様、もう宜しいのでございますか?」

「ああ。ラシュリルの気が済むまで母親と一緒にいさせてやれ」

「はい。宰相様とミジュティー様が、隣の部屋でお待ちですが」

「二人を私の部屋へ。ハウエルの叔父と話しをしてみたい」

 ラシュリルは、椅子をラウナの横に移動して紅茶を淹れた。どうぞ、とティーカップをすすめる指先についつい力が入ってしまう。

「元気そうで安心したわ」

「心配しないで、お母様。元気だけが、わたしの取り柄だもの」

「つらいことがあったら、あなたを愛して大切にしてくださった人たちのことを思い出すのよ」

「はい」

「あなたは私の誇りよ、ラシュリル」

「もう、お母様。これでは、まるで今生の別れみたいだわ」

「そうね。縁起でもないわね」

 ふふっとラシュリルが笑うと、それにつられてラウナも声を立てて笑った。それから時間がたつのも忘れて、ラシュリルとラウナは水入らずの時間を過ごした。ラウナがカリノス宮殿を出たのは、すっかり夜が更けたころだった。

 明日は出立の日。人質としてラシュリルを閉じ込めた部屋から、武官たちが荷を運び出していく。残されたのは、明日の着替え一着と身の回りの物だけだった。

 湯を浴びて、肩の手当てを済ませたアユルは、ごろんとベッドに仰向けになって天井画をながめた。あの玉佩が、貴妃様のものだとは思いもよらなかった。

 ――ご恩に報いること叶いませんけれど、お許しくださいませね。

 痛々しい顔の痣と骨の折れた指。そして、儚くて優しいアイルタユナの声がよみがえる。なんということだろう。貴妃様が、ラシュリルと巡り合わせてくださったのか。

「あの、アユル様」

 アユルが起き上がると、ぶかぶかの夜着を着たラシュリルがベッドの脇に立っていた。アユルとの身丈の差分だけ裾を引きずって、はだけないように胸元をおさえている。

「やはり、私の着物では大きかったか」

 アユルに笑われて、ラシュリルはベッドに上がると布団に潜り込んだ。しかし、すぐに掛け布団をはぐられた。

「どうした」

「お、お願いです、お布団を掛けてください。服が服の役割を果たしていないのです」

「そうか」

 布団を掛けてやると、ラシュリルが真っ赤な顔を半分だけ出した。アユルは、腕を枕にしてラシュリルの隣に横たわる。

「アユル様、今日はありがとうございました。お母様とたくさんお話しできて、とっても幸せでした」

「それはよかった。だが、余計に寂しくなったのではないか?」

「いいえ。アユル様が一緒にいてくださるから、寂しくはありません。けど……」

「けど?」

「心臓が持つかしら。今もとっても、その、どきどきして……」

 ふわりと布団が舞い上がって、アユルがラシュリルに覆いかぶさる。

 アユルは、柔らかな唇にくちづけを落として首筋に顔をうずめた。夜着の上から左の乳房に手を当てると、確かにばくばくとおかしくなりそうな鼓動が伝わってくる。

「だめ、アユル様。明日から長旅……っ」

 鎖骨の近くを甘く噛まれて、思わず声が上ずる。ラシュリルは、アユルの頭をそっとなでてみた。硬い黒髪から、ジャスミンの匂いがする。石鹸の効果で、肌もつるつるとして潤っているのかしら。そんなことを考えて、ふふっと笑みがこぼれてしまった。

「ラシュリル」

 いつの間にか腰紐が解かれて、夜着が左右に開かれていた。太腿に触れる手の温もりも、声も、目も、全部が好き。熱い吐息が肌をかすめて、舌で胸の頂を転がされる。ラシュリルの口から、つやめいた声がもれた。

 朝日がさし込んで、淡い桃色の大理石の床に列柱の影が落ちる回廊を、カデュラス国王とその一行が歩いてくる。ハウエルは、妃と上位の貴族たちを従えてカデュラス国王を迎えた。一行の列の中ほどに、前後両脇を武官に囲まれた妹の姿が見える。隣でマリージェが、ラシュリルと小さく声を震わせた。結局、妹を助ける策は見つからなかった。

「陛下」

 ハウエルに呼ばれて、アユルは足を止めた。

 昨夜はあまり眠れなかったのか、ハウエルの顔色は冴えず、目の下にうっすらと影ができている。くるりとした金の髪も、心なしかぺたんとして元気がない。昨夜、ラシュリルの母親の帰りが遅かったことで、相当な探りを入れられたとでも思い込んでいるのだろう。母娘で楽しく歓談していたぞ、と言って元気づけやりたいが、今はそれをすべきではない。

「僕は忠誠の証として妹を陛下に預けました。お願いです。ラシュリルに手荒なことはなさらないでください」

「それは、そちら次第だ。妹が大事なら下手なことはするな」

 はい、とハウエルが顔を伏せる。その横で、マリージェがラシュリルの方を向いて目に涙をためていた。それからアユルが貴族たちの列を見渡すと、ラシュリルと変わらない年頃の令嬢たちが手巾を目に当てていた。

 ――ラシュリルは、温かな場所で育ったのだな。

 アユルはラディエを傍に呼ぶと、王女に最後の別れをさせれやれと言って庭へ向かった。雪をかぶった春の女神像が凍った噴水を見おろす庭で、出立の準備を終えた従者たちが列をなしていた。アユルは、左肩をおさえて顔をしかめる。時々、焼けるような痛みがぶり返す。それに、左手の指先には、まだ痺れが残っている。

「傷が痛みますか?」

 コルダが心配そうに尋ねる。アユルは、大丈夫だと答えて馬車に乗り込んだ。しばらくして、ラディエとラシュリルが庭に出てきた。寂しくなんてないと言っていたが、本当に嘘が下手だ。ラシュリルは、手巾で目をおさえていた。

「コルダ。カデュラスに着くまで、お前はラシュリルの傍にいろ」

「御意に」

「私は、ラディエの説教を聞きながらサリタカルへ向かうとしよう」

「平和的にお話し合いください」

「私はそのつもりだが、ラディエはどうだろうな」

 泣いて目を真っ赤にした王女を連れて、カデュラス国王は帰国の途についた。それから十三日後、一行はキリスヤーナとサリタカルの国境に達した。そこでは、連絡を受けていたサリタカル国王が兵を従えて待っていた。サリタカル国王はマハールと変わらない年頃で、カデュラスに敬虔の念が深い。

「ラディエ様より知らせをいただいて、お待ち申し上げておりました」

 サリタカル国王はアユルに叩頭して立ち上がると、後続の馬車からおりてきたラシュリルに会釈した。キリスヤーナとの国境からサリタカルの首都までは、さらに数日を要する。アユルは、ラディエの小言を浴びながらサリタカル国王の居城へ向かった。

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