◆第10話

 丸鏡に、赤い紅をさした女人が映っている。高く結い上げた黒髪に挿された、花型をあしらったかんざし。それは、華栄殿の軒を支える斗栱のように色鮮やかだ。

 じっと食い入るように鏡の中を覗く。不安に満ちた顔が情けない。王妃の衣をまとっていても、ちっともそれらしくない。神々しい夫の隣に立つには、美しさも威厳もまったく足りない気がする。

 ――何を恐れているの?

 鏡の中の自分に問いかける。心細さに耐えながら皇極殿の高座に上がった日。扇を手渡された瞬間に胸がときめいた。陛下の妃になれて幸せだと思った。この瞬間にも、わたくしは陛下の声や温もりをかみしめている。タナシアは、丸鏡を伏せてカイエを呼んだ。

「お呼びでございますか、王妃様」

「女官を減らします。手配してください」

「はい?」

「陛下の意に沿うのが、王妃であるわたくしの勤めですから」

 戸惑うカイエを尻目に、タナシアは筆を握る。そして、ほほえみを浮かべて文を書いた。王宮の規則を記した書物は全巻、隅々までしっかり目を通した。陛下の御名を許しを得ずに呼ぶのはご法度。わかってはいても気持ちをおさえきれない。さらさらと筆先を走らせて、アユル様と細くしなやかな文字で呼ぶ。陛下がキリスヤーナから戻られたら、今度こそ声でお呼びしてみよう。

「これを陛下に届けてください」

「はい、お預かりいたします」

 書簡を手に、カイエが足早に華栄殿を出ていく。タナシアの文は、王妃からの正式な書簡として記録されたうえで、使者ではなく官吏の手によってアユルの元へ届けられることになる。

 ラディエは、離宮を出て深い深いため息をついた。

 ラシュリルに触れるアユルを思い出して、それを打ち消すように首を振る。とても信じられない。頑としてに婚姻をしぶり、挙句には王宮から女官を追い出すほどだったというのに。それに、いつ二人は出会ったのだろうか。謎ばかりが、次から次に湧いてくる。

 それにしても、困ったことになった。陛下は王女を望んでいる。王女を王宮に入れるためには、女官とするかもしくは妃とするしかないが、どちらにしても簡単ではない。しかし、陛下のおっしゃることはごもっともだ。王を害すなど、これまでに聞いたことのない所業で、決して許されることではない。

「宰相様?」

 コルダの声に、ラディエは我に返った。こちらの状況など知らず、にこやかに笑う侍従に無性に腹が立つ。

「勝手に陛下の傍を離れて、どこに行っていた。この、うつけめが」

「お許しください。陛下の命を受けて、用を済ませてまいりました」

「どんな用だ」

 お許しを、とコルダは一礼した。それは、陛下から他言するなと口止めされていることを意味する。ラディエは、諦めて次の質問を投げた。

「お前は、陛下と王女殿の仲を知っていたのか?」

「……それは、陛下にお聞きしたのですか?」

「どのようなご様子かと部屋にうかがったら、逢瀬の最中であられた」

「それは驚かれましたでしょう」

「驚いたどころの騒ぎではない。なぜ言わなかった。私はそんなに信用できないか?」

「いいえ、滅相もございません。わたくしは陛下に従う者でございますので、陛下のご下命なしに勝手に口にしたり動いたりいたしません。ただそれだけでございます。曲解なさらないでくださいませ、宰相様」

 ふん、とラディエは左右互いの袖に冷えた手をしまう。そして、三日後に帰国なさるそうだ、とだけ言い残して離宮をあとにした。

「ラシュリル、こちらへ来い」

 窓際のテーブルから手招きされて、ラシュリルはベッドをおりた。まだ、心臓がばくばくして心なしか足が震える。喉もからからだ。アユルは、イスに座って窓の外をながめている。吹雪になるかと思ったのに、よく晴れてあたたかな日の光が窓にさし込んでいた。

「アユル様。傷は大丈夫ですか?」

「なんともない。そこへ座れ」

「その前に飲み物を用意してきます。喉が渇いてしまって」

「できるのか?」

「そ、それくらいはできます。ナヤタみたいに上手ではありませんけれど」

 アユルがテーブルに頬杖をついて待っていると、ラシュリルがティーカップを二脚、盆に乗せて戻ってきた。そして、テーブルにティーカップを並べて、向かいのイスに座る。

「少し、落ち着く時間をいただいてもいいですか?」

「かまわない」

 ティーカップから、甘酸っぱい香りが漂ってくる。ふぅっと優しい息で湯気を散らして、ラシュリルがカップに口をつけた。

「そなたはいつも果実茶を飲むのだな」

「はい、香りのするお茶が大好きで」

「嬉しそうだな」

「はい。だって、こうやってアユル様とお茶をするなんて、夢みたいで幸せです」

「そうか」

 朗らかに笑う愛らしい顔。一緒に時間を過ごせて幸せなのは私も同じだ、とアユルは思う。この笑顔を見ていられるのなら、どのようなことでもする。そう決めたのだ。

「一つ、覚えていてほしいことがある」

「はい」

「カデュラスでは菊花茶を口にするな」

「なぜですか? 一度、カデュラスの菊花茶を飲んだことがあります。甘くて美味しいのに……」

「王宮で煎じられる菊花茶を飲むと、子が出来ない」

「こっ?」

 思わず素っ頓狂な声が出る。ラシュリルはカップを置いて咳き込んだ。顔が、ぼんっと熱くなる。

「そういう効果のある薬を混ぜた水で菊を育てている。王家の秘伝で、侍医しか知らないことだ。気をつけておけ」

「……は、はい」

 真面目な話なのは分かるけれど、恥ずかしくて顔を直視できない。ラシュリルは、テーブルに置いたカップに浮かぶ苺の実を見ながら、胸を押さえて耳まで赤くした。

「どうした?」

「ア、アユル様の、お、御子だなんて、想像もしていなかったから」

「そうだな。まだ先の話だ」

 アユルの手が伸びて、つややかな黒髪が指先にすくわれる。指が髪を巻きつけながら、二人の距離を縮めていく。向けられる慈愛に満ちたまなざしに、落ち着いたばかりの心臓がまたうるさくなる。

「宰相様は大丈夫でしょうか」

「怖かったか?」

「……はい。それに、わたしがカデュラスの人ではないから、宰相様はいつも険しいお顔をなさっておられたのですね」

「気にするな」

「でも」

「ここに来い」

 ラシュリルが、席を立ってアユルの傍に立つ。アユルは、ラシュリルを膝の上に座らせた。ふわりと漂う桂花の香りが、狂おしい気持ちを呼び起こす。禊の日、運命が大きく変わった。この気持ちを知った今、絶対に手放したくない。

「私は、そなたに出会って桂花の香りにとらわれてしまった」

「……アユル様」

「他の者が入り込めないほど互いを愛し抜いてこそ、私たちは添い遂げられる」

 はい、と照れながら、ラシュリルがアユルの首に腕を回す。そして、目を閉じてちゅっとくちづけた。

 その日もエフタルは早朝に華栄殿へやって来た。

 タナシアは、深いため息をついて父親を迎える。昨日、キリスヤーナから無事に銅の交易について許可が出たと知らせが届き、エフタルはいたく上機嫌だった。

「タナシア、王印はあったか?」

「はい。清殿にございました」

 わずかな戸惑いが、喉を締めつけて言葉に詰まる。タナシアは、カイエが用意してくれた白湯で喉を潤した。

「ならば、今からこれに王印を押してこい。私はここで待っておる」

 さし出されたのは、紫檀の軸に巻かれた書簡だった。それには「許」の文字が堂々と書かれている。内容は難しくて意味が分からないが、明らかに詔書だ。タナシアは、驚いて目を丸くした。

「父上、これは陛下がお許しになられたことでございますか?」

「あの若造の意思などどうでもよい。お前は父の言うとおりにすればよいのだ。それとも私が行くか? 私が清殿に入るところを見られれば、それこそ一大事。一族郎党、即斬首ぞ」

「父上、わたくしは陛下をお慕い申し上げております。ですから、あの若造などとお呼びにならないでくださいませ。それに、そのようなことはしたくありません」

「いい加減に自覚せぬか。王とは権力の的に過ぎぬ。せっかく我が家門から王妃を立てたのだ。慕っているのなら早く世継ぎを得るように努めよ」

 エフタルがにやにやと嫌らしい笑いをタナシアに向けて、行けと顎をしゃくる。タナシアは、仕方なく書簡を持って清殿へ向かった。

「カイエ、鍵をお願いします」

「陛下に知れたなら大変なことになります。どうかお止めくださいませ、王妃様」

 カイエが、縋るようにタナシアを止める。しかし、タナシアは「早く、鍵を」と言った。

 扉が開くと、タナシアは急いで書斎を目指した。

 先日と違い、窓の障子が淡い橙色の朝日を透かして、殿内は心が温まるような明るさだった。タナシアは、迷うことなく書斎へ辿り着いた。

 机上に詔書を広げて、文机の引出しから桐箱を取り出す。動揺して桐箱を開ける手がかすかに震えたが、タナシアは意を決して王印を取り出した。黄金に輝くそれを朱い印肉に押しつける。印面に顔料がついたのを確認して、詔書の上に王印をおろす。そして、体重をかけるように、ぐっと上から押えた。

 ――どうか、どうか、お許しください。陛下……!

 許しを乞いながら、ゆっくりと王印を詔書から離す。もう後戻りは出来ない。けれど、これきりなのだから大丈夫。陛下がお戻りになれば、父上も二度とこんなことを頼めないはずだもの。

 ふと横を見ると、書物の間から赤い飾り紐が垂れている。それを気にしながら、懐紙を出して印面を丁寧に拭く。王印を桐箱に戻して、書物の下から玉佩を抜き取った。美しい翡翠。しかし、四家の者が持つ玉佩に比べてもいくらか質が落ちる。

「王妃様、お急ぎください」

 カイエが書斎に入って来た。タナシアは玉佩を書物の間にはさんで、引出しに王印の桐箱をしまった。そして、詔書を手に急いで華栄殿へ戻った。震える娘の手から取り上げるように書簡を受け取って、エフタルが満足気にうなずく。

「どうか、これきりにしてくださいませ。陛下がこのことを知ったら、きっとお許しになりません」

「知ったところで、あれになにができる。我ら四家の後ろ盾なくては、カデュラ家は成り立たぬ。己の無力さを痛感して、穏便にことを収めるしかなかろう。もはや、王など血統書つきの種馬のようなものだ」

「父上、お控えくださいませ!」

「お前はこうして父の言うことを聞き、あれを王宮にとどめておけばよい。澄ました顔をしていても、あれは好色なマハールの息子だ。美しい花を与えれば、政への興味などすぐに失せる」

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