この世界に存在する季節はふたつ。光満ちる夏と闇に覆われる冬しか無い。
人も季節と同じだと思う。光と闇。それを巧みに使いわける人もいれば、光だけの人もいて、闇だけの人もいる。奇しくも、今日は夏が終わる日だ。日付が変われば、この世は凍てつく闇に飲み込まれる。
――お願い、見ないで。
ライラ・ヨーデルは、夫の虚ろな視線から逃れるように顔をそむけた。ライラにのしかかる男は、彼女のそんな行動にすら昂るらしい。美しく整った顔を喜悦に歪めて、はっはっはっと興奮した犬のように浅い息をしながら腰を打ちつける。
ライラの夫は不自然な姿勢で椅子に腰掛けて、ただ虚ろな目でふたりを見ていた。そこは、夫婦の寝室に設えられた特別な席だった。目覚ましに、窓から差し込む朝日を浴びながら、ラズベリー香る西国の紅茶を味わうのが夫婦の日課で、幸福な一日はいつもその席から始まった。
パンッ! パンッ!
男の肌がぶつかって、その度に悪魔のような猛りの先が子宮の入り口を突き上げる。
――お願い、あなた。見ないで。
涙で潤む目を向けて、ライラはもう一度「あなた」と唇を動かす。
首筋をぬるっとした生温い舌が這い、引き裂かれた衣からこぼれた右胸を揉みしだかれる。
あなたと愛し合ったベッドで、わたしは今、あなたを殺した男に犯されている。頭ではわかっていても、どうしても受け入れられない。
あなたがもう、息絶えているなんて――。
男が至近から突き刺した剣が、夫の左胸を貫通している。男は、ベッドを一望できるように夫の死体を座らせると、その体を縄で縛って椅子に固定した。夫の姿勢が不自然なのは、顔が下を向かないように首を折られているからだ。
「どうだ、ライラ。あいつに見られながら俺に抱かれるのは、天にも昇る心地だろう?」
「……つ、この、けだもの……っ!」
「そういう割には、よく締めつけてくる」
「……なんて、ことを……っんっ!」
獣の唇に口をふさがれて、抵抗する間もなく蛭のような舌に口内を蹂躙される。女としての貞節と人としての尊厳が、粉々に打ち砕かれて宙に舞っていく。
――わたしは、生きて地獄に落ちた。
ライラが産声を上げたのは十八年前、こと座のベガが一際輝く夏の夜だった。父親は砂漠の小国サムハインの貴族で、国王の信頼厚く執政官を務めていた。
濡れ羽色の艷やかな髪に、黒曜石をはめ込んだような煌めく黒い瞳。砂漠では珍しい白い肌。成長するごとに彼女の美しさは輝きを増し、近隣諸国にまでその噂が広まるほどだった。
十六になった年の暮れ、ライラはサムハイン国王とその嫡子である太子に望まれて王太子妃となった。国をあげての盛大な結婚の儀が執り行われ、彼女をひと目見ようとたくさんの人が宮殿に押し寄せた。
国民の祝福と太子の無垢で一途な愛情を一身に受けて、ライラは順風満帆で一点の曇もない幸せな人生を歩んでいた。
「ああ、ライラ。睨みつける目も怒りで紅潮した顔も、すべてが美しく愛おしい」
男が動きを止め、唇を解放してライラの顔をじっくりと観察する。
美青年と名高い男の瞳は、高貴なサファイアのように青く透き通っているのに、そこに宿っているのは光のない闇。狂気だ。
男が、汗や唾液にまみれたライラの美しい顔に満悦して形の良い口唇の片端を上げる。
「ようやく俺のものになった。この日を待ち詫びていた」
「恥を知りなさい、フリンゲス。こんな蛮行、神がお赦しにならないわ!」
バシッ!
耳が痺れるような音がして、左頬に激しい痛みが走る。フリンゲスの平手を喰らったのだと認識するまで、少し時間がかかった。打たれた頬の裏側から、苦い血の味が口に広がる。
「フリンゲス様と呼べ。それに、これは蛮行ではなく神聖な愛の行為だ。俺はお前を愛しているのだからな」
「こんなの……っ、愛なんかではないわ……っんんっ……!」
ぎしっと再びベッドが軋み始めて、ライラはぎゅっと唇を噛みしめる。
フリンゲスは隣国の皇帝だ。ライラと太子の結婚式に参列して、彼女のあまりの美しさに一瞬で心を奪われた。そして、二年もの歳月をかけて、次期サムハイン国王となるライラの夫と信頼関係を築き、国境の警備を解かせた。
「お前が生む俺の子は、さぞかし可愛いだろうな」
「い、いやよ……、やっ、やめてっ! それだけは!!」
「……あぁ、ライラ。愛している。お前は俺の戦利品だ……、くっ!!」
フリンゲスが青い目を細め、激しく腰を振りたてて甘い喘ぎと共に身震いする。夫にしか許したことのない胎内で、フリンゲスの猛りがどくどくと脈打った。大量のおぞましい汚濁が、ライラの子宮に注ぎ込まれる。
「……死んだほうがましだわ。殺して……、もう、殺してよ!!」
泣きながら首を左右に振るライラの頬にキスをして、フリンゲスが射精を終えた陰茎で肉襞を何度も擦る。一向に衰えないそれで最奥を突いて浅い所を抉って、自分の体液をライラの中に擦り込むように、ゆっくり、執拗に、じっくりと――。
フリンゲスがライラの体から出て行ったのは、随分と経ってからだった。
それから十月後、ライラはフリンゲスの城で男の子を出産した。
国境の警備が解かれたサムハインは裸同然だった。フリンゲスが率いたのは、たった二百の兵だったと聞いた。赤子の手をひねるよりも簡単に、祖国はフリンゲスの手に落ちたのだ。
孫の誕生を心待ちにしてくれていた国王陛下も優しかった夫も、みんな惨たらしく殺された。連行される馬車から見た街並みも、目を背けたくなるほど悲惨だった。
あの日から、ライラはずっと自分を責め続けている。
わたしが、フリンゲスの目に留まったりしなければ……、と。
ライラは、腕の中でむにゃっと口を動かす赤子を見つめた。ライラの顔が、我が子を慈しむ母の表情になる。
慣れない手つきで、もごもごと動く小さな口に乳首を当てると思いのほか強い力で吸いついてくる。
――可愛い子。
黒く羽毛のように柔らかな髪をなで、額にちゅっとキスを落とす。この世に生を受けてまだ三日。目を開けている時間は短い。それでも、この子の目が祖国の血の象徴である黒曜石の瞳だと知っている。
「皇妃様がお越しです」
宮殿の使用人が、部屋を仕切る紗を上げてライラに冷たい目を向ける。ライラは急いで乳房を服の中にしまうと、まだ腹が満たされずぐずる我が子をあやしながら冷たい石床に両膝をついた。
「あら、乳をあげている最中だったの。邪魔をして悪いわね」
フリンゲスには皇妃がいる。しかも、一夫一妻制の国だ。いくらフリンゲスが望んで連れ帰って来たとはいえ、ライラが妃として扱われることはない。世継ぎとなる第一王子を産もうとも、国の法は絶対だ。
「滅相もございません。ようこそお越しくださいました、皇妃様」
「アルタイルをこちらへ」
「……はい」
身をかがめ、皇妃が赤子を胸に抱く。ライラが出産してすぐ産屋に来た皇妃は、赤子にアルタイルという名を授けた。
皇妃がフリンゲスと結婚したのは五年前だという。フリンゲスよりも四つ年上の彼女は、未だ子に恵まれないことを悩んでいるそうだ。
「おお、可愛い子よ。陛下の御心を奪った女は憎いけれど、アルタイルに罪はないものね」
ごらん、と皇妃が侍女に赤子の顔を見せてほほえむ。その薔薇のような華のある美しい顔は、まるで聖母のように優しく穏やかだ。こんなに美しい皇妃様がいながら、どうしてフリンゲスはわたしなんかに目をつけたのかしら。ふと、そんな疑問が頭をよぎる。
しかし、そんな疑問も皇妃の言葉によって砂のように消えて無くなった。
「先日申し渡した通り、アルタイルは今日からわたくしの手元で、わたくしの子として育てるわね。悪く思わないで。これがきまりなの」
「……はい」
「心配は要らないわ。お前は憎くとも、アルタイルは別よ。お世継ぎとして立派に育てる」
「……はい」
肩を落として頭を垂れるライラに、皇妃は冷たい視線と軽い笑みを残して産屋を出て行こうとする。
この世に、神など存在しないのだと痛感する。夫を殺されて、死体の前で犯された。自分の気持とは関係なく、可憐な皇妃の恨みを買った。そして今、十月腹の中で育てた我が子と引き離されようとしている。永遠に、母と名乗ることも許されないのだろう。
体には、まだ生々しく出産の痛みが残っている。愛おしい我が子を奪われるのは、死を賜るよりもつらく耐え難い。
「皇妃様」
ライラは床に手をついて、深々とひれ伏した。神は存在しなくても、希望はまだこの手の中にある。一縷の望みを託して、ライラは皇妃に静かに語りかけた。
*****
「おお、ライラ!」
産後ふた月を経過して、ライラは宮医の許しを得て産屋を出た。この日を待ちわびていたフリンゲスが、早速ライラを寝所に呼びつけた。
ライラに駆け寄って、ほっそりとした手を取るフリンゲス。その美貌は、無邪気な少年のようにほころんでいた。
フリンゲスは、我慢できないとばかりにライラをベッドに押し倒して、引き裂く勢いで衣を剥いた。そして、アルタイルのために大きく膨らんだ乳房にしゃぶりついて、枯れかけた母乳を啜った。
フリンゲスの性欲は底なしだ。それも、ライラばかりを所望するものだから、懐妊中も臨月間近まで相手をしなくてはならなかった。
「ああ、ライラ。お前は瑞々しい果実のように甘い」
「……もう、フリンゲス様ったら」
ライラは、はにかむような声でフリンゲスに甘える。そして、じゅるじゅると音を立てて無我夢中で乳を吸い立てるフリンゲスの頭を撫でた。
アルタイルを失ったライラの体は、母親としての機能を失いつつある。待っているのは、女としてフリンゲスを満たす日々だ。
「フリンゲス様。もうアルタイル殿下にはお会いになりまして?」
「もちろんだ。俺の目に狂いはなかった。やはり、お前が産む俺の子は可愛い」
そう言いながら服を脱ぎ捨てるフリンゲスに、ライラは「ふふっ」と嬉しそうな笑みを返す。
「次は女が良い。きっと、絶世の美女になる」
「もう二人目をお望みですの?」
「二人でも三人でも。お前が産むのなら何人でも欲しい」
「……あっ、ん!」
ゴツゴツとした指が、秘裂を弄って孔に突っ込まれる。湯浴みの時に催淫効果のある香油を塗ったお陰で、ライラのそこは痛むこと無くすんなりと二本の指を飲み込んだ。
「フリンゲス様。お願い……、キスして」
ライラが目を潤ませて、恥じらいながら懇願する。するとフリンゲスは、ライラから引き抜いた指を舐めてサファイアの目を細く光らせた。獲物を狩る獰猛な獣の目。狂気を宿したようなその輝きに、背筋がぞくりとする。
「随分と素直になったな」
「だって、フリンゲス様があまりにもわたしを愛してくださるから」
「太子のことは、きれいさっぱり忘れたのか?」
「ええ、とっくに。わたし、美しくて強い方が好きです。フリンゲス様のような……」
フリンゲスを誘惑するように両脚を広げて、ライラは自分の唇を指先でなぞった。蝶を誘う花になりきって、フリンゲスを蠱惑に導く。
「早く……、ねぇ、キス、して」
甘く囁くような声が、フリンゲスの好みなのはとっくに知っている。はぁ、と息を吐きながら舌先を唇から覗かせると、狩猟本能に目覚めた獣が喰らいつく。
「ライラ、ライラ……っ!」
「ふ、っん、ぁん」
フリンゲスが、噛みついて、喉の乾きを潤すように夢中でライラの唇を貪る。唾液に混ざってじわりと溶ける口紅。今日は、フリンゲスが喜ぶ真っ赤な色を選んだ。
ライラは、右手を伸ばしてフリンゲスの陰茎を握る。激しいキスの合間にそれを扱けば、ぎんぎんに反り勃ってみるみる先走りを垂らした。
「はぁっ、我慢できない」
「だめ……っ、まだっ……ん。まだ挿れないで、フリンゲス様」
そうそう、抵抗も大事。無理矢理犯すのがフリンゲスの嗜好だ。
いや、と身をよじるライラの肩を押さえつけて、フリンゲスが息を荒くして腰を振る。ライラの手の中で、フリンゲスのそれがますます重量を増した。
「手を離せ」
興奮しながらも、冷たい声でフリンゲスが命令する。ライラが素直に従うと、いきり勃った怒張がずぷりとねじ込まれた。
「……はぁあんんっ!」
二本の指とは比べ物にならない。めりめりと体の内側を引き裂かれるような感覚に、ライラの美しい眉が寄る。つつ、っと無意識に涙がこぼれた。それに興奮したのか、フリンゲスがはっはっはっと犬の呼吸で腰を振り始めた。
ライラを見初めるまで、フリンゲスは王宮にいる女を手当たりしだい寝所に連れ込んで色事に耽っていた。それを見かねた皇妃が、王宮に勤める女たちを醜女に総替えするほどだった。それから暫くは、大人しく皇妃と夜を過ごしたフリンゲスだったが、サムハイン国の婚礼に参列した日からライラの虜になった。
王宮の醜女たちにサムハインの衣装を着せ、顔に白い布を被せて寝所に引きずり込む始末。とうとう陛下は狂ってしまわれた。そんな噂が飛び交った。皇妃が咎めると、フリンゲスは容赦なく手を上げて殴りつけた。
「あぁ、ライラが俺を咥えて喜んでいる」
「ああ、んっ! フリンゲス様……っ、たくさん、たくさんください……っ!」
「……くっ! いくぞ、ライラッ!」
どくどくと、忌まわしい子種が子宮を満たす。
フリンゲスは、ライラがそばにいれば他の女に手を出すことは無い。ライラは、中で脈打つ猛りごとフリンゲスを抱きしめた。
それから歳月は流れて、アルタイルが三歳の誕生日を迎えた。
宮殿では祝宴が開かれて、アルタイルは次期皇帝としてたくさんの貴族から祝福された。そこに、生母であるライラの姿はない。アルタイルは、皇帝と皇妃の息子として育てられ、大切に扱われている。
フリンゲスが倒れたとの一報がライラの元に届いたのは、祝宴の最中のことだった。王宮の隅の小さな館に、青ざめた女官が駆け込んで来た時は驚いた。しかし、ライラは女官の報告に「そう、お大事にとお伝えして」と微笑んだ。
*****
「皇妃、体がおかしいんだ。鉛のように重くて動かない」
寝所のベッドで、フリンゲスは天井をぼーっと見つめて皇妃に語りかけた。
「日々のお勤めでお疲れなのでしょう。ゆっくりお休みになるといいわ」
「そうだろうか。もう二年ほど前から、頭痛やめまいがあったんだ」
「まぁ、そうでしたの。わたくしにはそのような事お話しくださらないから、ちっとも気付きませんでしたわ」
ベッドサイドの椅子に腰掛けて、皇妃が薬湯をスプーンで掬ってフリンゲスの口に流す。ひと匙、もうひと匙。フリンゲスがそれを嚥下する度に、皇妃の顔に笑顔が灯る。
「何だ。嬉しそうだな」
「ええ。あなたとこうして過ごすなんて、初めてですもの」
「初めてではないだろう」
「いいえ、初めてよ。あなたはいつも、わたくし以外の女をここへ連れ込んでいらしたから」
「恨んでいるのか?」
「少しだけ。結婚する前は、あんなにも情熱的に愛を囁いてくださったのに……」
「昔のことで、もう忘れたな」
「そう。悲しいわ」
皇妃が、立ち上がってテーブルにスプーンと空になった器を置く。背後から「眠くなってきた」と声がした。皇妃は、ふふっと薔薇の花のように笑む。
ひと匙ひと匙フリンゲスの口に流した薬湯は、内臓を破壊する毒を溶かしたものだ。ごく少量だから、すぐに効果があらわれる事は無い。
それから、フリンゲスの容態は悪化の一途を辿る。急激に悪くなるわけではなく、時間をかけてじわりじわりと病魔に蝕まれていった。起き上がることも出来ず、ベッドの上で食事をして、着替えをして、身を清めて排泄する。すべて、皇妃の手を借りなければままならない状態だった。
アルタイルが五歳になる頃には、起きている時間よりも寝ている時間の方が多くなった。
美しい容貌は年齢よりも老けて、サファイアの瞳は輝きを失って淀んでしまった。言葉を発する事も無くなって、唇はひび割れた大地のように枯れていた。
「皇妃様、ライラ様がお越しです」
「そう。お通しして」
ライラは、二年ぶりにフリンゲスの寝所に足を踏み入れた。ベッドに横たわるフリンゲスをちらりと見て、視線を皇妃に向ける。そして、ドレスのスカートを軽く持ち上げて礼を執った。
「堅苦しいことは結構よ。こちらへ座って」
「はい、皇妃様」
「大丈夫。フリンゲスは、薬でぐっすりと眠っているから」
皇妃は、侍女に紅茶を用意させてライラを席に誘った。侍女が淹れてくれたのは、ラズベリーの香りのする紅茶だった。懐かしい香りに、ライラは思わず目頭を熱くする。
「西国の紅茶がお好きだと聞いたわ」
「お心遣い、ありがとうございます。皇妃様」
「本当に故郷へ戻るの? 良いのよ、ずっとここにいても」
「わたしはここに残るべきではありません。それに、故郷で人生を終えたいのです」
「そう」
ライラは、紅茶を一口飲んでにこりと笑った。その向かいで、皇妃も同じように紅茶を飲んで微笑む。
フリンゲスの寝所に行く時は、必ず口紅をさして秘所に香油を塗った。どちらにも、神経を蝕む毒を仕込んだ。体内で分解される事の無い毒は、摂取した分だけ体に蓄積されていく。
もちろん、ライラ自身も無傷ではない。左半身は麻痺して、自由に動かせなくなっていた。それに、飲み続けた避妊薬の影響で、医者からは数年の命であろうと宣告されている。
「皇妃様には感謝しています」
「それはわたくしの言葉よ、ライラ。あなたのお陰で王宮は平和になった。諦めていた可愛い息子に恵まれて……。そして今、フリンゲスと穏やかな夫婦の時間を過ごしてる。あなたがいなければ、わたくしの今日は無いのよ」
「……良かった」
「ありがとう、ライラ」
いいえ、とライラは頭を振った。すると、皇妃が一枚の絵をライラに見せた。高級な台紙に描かれた笑顔の少年。生後三日で別れたけれど、息子だとすぐに分かる。
「もう五歳ですって。月日が流れるのは早いわね」
「大切に育ててくださっているのですね。描かれた笑顔が、愛情に満ちていますもの」
「良い子よ。素直で無邪気で、賢くてね。立派な皇帝になると、勉強を見ている教師たちが口を揃えて言っているわ」
アルタイルには、背中に夫と同じあざがあった。皇妃がアルタイルを引き取りに来た時、親子諸共手打ち覚悟でその事を皇妃に話した。皇妃はとても驚いて、それから「分かったわ」とアルタイルを抱いて産屋を出て行った。それから何度か、産後の見舞いと称して皇妃は産屋を訪れた。
「皇妃様、アルタイルをお願いします。フリンゲスの血を継いでいない子です。その事だけが気掛かりで……」
「心配は要らないと何度も言ったでしょう? あなたはわたくしに誠実で真摯だった。わたくしはそれに応えるわ。必ずね」
紅茶を飲み終えたライラが、静かに席を立つ。
「サムハインに着いたら、手紙をちょうだい」
「はい、皇妃様」
「必要なら、住居なども手配させるわ」
「はい。困った時は、遠慮なく甘えさせていただきます」
「必ずよ」
「はい、必ず」
ライラが出て行き、扉が重たい音を響かせながら閉じた。皇妃はゆっくりとベッドに近付いて、横たわるフリンゲスの顔を見下ろす。淀んだ青い瞳が、怯えたように皇妃をとらえた。
「あら、起きていらしたの? 眠っていれば聞かずに済んだのに」
皇妃の優雅な微笑みに、フリンゲスの唇がふるふると小刻みに震える。皇妃はベッドに腰掛けて、湿らせた布でフリンゲスの枯れた唇を拭った。
「可哀想に。事実を知ったところで、声も出せないあなたにはどうする事もできないわね」
*****
サムハインまで道のりは、半身が不自由なライラにとってとても険しいものだった。けれど、心は懐かしい日々と同じようにときめいて、少しも苦にならない。数カ月を経て、ライラはあの忌々しい出来事が起きたかつての居城に辿り着いた。
城があったはずの場所。
ここで結婚式を挙げて、優しい夫と愛に満ちた二年を過ごした。幸せな日々は確かにあったのに、そこは幾度の砂嵐に飲み込まれて、城壁の一部だけが残る廃墟と化していた。
あの日、夫の遺体は惨たらしい格好のまま置き去りにされた。肉は砂漠の獣に喰われ、骨は虫に食まれたかもしれない。その無残な姿を見なくて済んだのは、唯一の救いだろう。
「あなた」
愛し合って、子を生み育て、老いてしわしわになった手を繋いで穏やかな時間を共に過ごす日を夢見ていた。そんな日が来ると信じていた。
「来世では、必ずそうなりましょうね。あなた」
憎いフリンゲスに抱かれる度に、背負う罪が増えていくような孤独と怖さと悲しみに苛まれた。
あなたに愛された日々の思い出だけを胸に耐えたわ、とライラは涙を拭ってはっとする。自分が泣いていることに気付いたのだ。
フリンゲスの前で涙すれば、あの男はこの身を奪った喜びに打ち震える。それが許せなくて、泣きたい衝動を殺し続けた。
ただ、復讐を果たすためだけに――。
「ねぇ、あなた。穢れたわたしを許してくださる? 頑張ったねって抱きしめてくださる?」
地を響かせて、向こうから巨大な砂嵐が一枚の壁のようにこちらへ向かってくる。
今日は夏が終わる日。どこの国の言い伝えだったが忘れてしまったけれど、夏が終わる日に死者の魂が還って来ると聞いたことがある。きっと、太子様が砂嵐に姿を変えて迎えに来てくれたのだわ。
死ぬ瞬間は苦しいのかしら。いいえ、フリンゲスに犯された苦しみを思えば、それに勝る苦痛など無い。それに、太子様の所へ行けるのだもの。とても幸せ――。
ライラは地面にひれ伏して、さらさらと乾いた故郷の砂に口付けた。まるで、愛おしい夫の唇にそうするように。
――あなた、愛しているわ。
*****
満天の星を見上げて、皇妃は憂いのため息をついた。
待てど暮せど、ついにライラからの手紙は来なかった。今ごろ、どこにいるのかしら。約束を破るような人ではないのに。
「母上」
すっかり声変わりした息子の声に、皇妃はゆっくりと振り返る。そこには、壮麗な好青年に成長したアルタイルが立っていた。ライラにそっくりな艶のある黒髪と黒曜石のような黒い瞳。容姿に、フリンゲスと似た所は少しもない。
皇妃は、遠い記憶の中からライラの横で幸せそうに笑うサムハインの太子の顔を拾った。
――この子の優しげな顔は父親ゆずりね、きっと。
華やかな結婚式の映像が、頭の中を流れる。あの日、太子とライラは幸せに満ちていた。フリンゲスが邪な心を抱かなければ、アルタイルと三人でより幸福な日々を過ごせたでしょうに。
「今宵も蒸し暑い夜ですね」
「そうね。父上に、夜のご挨拶は済ませたの?」
「はい、今済ませて参りました。深く眠っておられる様子でした。少しずつ衰弱しているようで、心が痛みます」
「もう長くはないでしょう。実はね、そろそろあなたに帝位をと考えているの」
「いえ、僕はまだまだ未熟で……」
「父上より随分と立派だわ」
皇妃が笑うと、アルタイルはどう応えていいのか分からないというような顔で小首をかしげた。
「ご覧なさい、アルタイル」
「はい、母上」
アルタイルが、皇妃の指さす先を見上げる。その先で、恒星が強い光を放っていた。
「こと座の星に誓うのよ。立派な皇帝になると。父上のように、私欲で不幸を生んではなりませんよ」
「心得ております、母上」
アルタイルの戴冠式が行われたのは、一年後の夏のこと。そして半年後、長く臥せていたフリンゲスが息を引き取った。
【あとがき】
お読みくださいましてありがとうございます!
ストレスフルな日々が続いて、だだーっと文章が降りてきた奇跡の短編です( ´艸`)
そのため、設定もあまり考えていません。
文章を出し切った時のスッキリ感が凄かったー!
2021年5月12日にムーンライトノベルズの日間ランキングにて短編1位、総合5位になりました。読んでくださった皆様に心から感謝です!
一生に一度のことだろうから、とっても嬉しかった😭❤
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