「婚礼の日が決まった」
そうおっしゃるディフィシル様の声には、いつもの威厳も張りもない。透きとおるガラス玉のような青い瞳で、窓の向こうのどこか遠く地平のかなたを眺めたまま、僕を見ようともなさらなかった。
「フォン」
低い声が僕を呼んだのは、しばらくの沈黙のあと。僕は、ディフィシル様のかたわらにひざまずいて、御手を両手でそっとつかんでくちづける。
正義感が強くて、凛とした威厳をかねそなえたディフィシル様。
うなじで一つに結われたプラチナブロンドの髪に華やかな刺繍の施されたジュストコールをまとうすらりとした体躯。男らしく精緻に整った顔はいかにも聡明で、すべてが神の造形たる美々しさだ。
僕は、この御方のほかに美しい人を知らない。僕のすべては、クロストリージオ国王ディフィシル様のもの。心も体も、細胞の核一つにいたるまで、この御方のためにだけ存在している。
「おめでとうございます、ディフィシル様」
「本当にそう思っているのか?」
青い瞳にじっと見つめられて、僕は返す言葉を失った。
ディフィシル様を誰かに盗まれるのは嫌だ。結婚なんてしないでほしい。ディフィシル様の立場を度外視した、わがままな僕の本心。それを見透かされるのが怖くて、少し目が泳いでしまう。
「もちろんです。国王であるディフィシル様のお立場を、僕はちゃんと理解しております」
「なら、私が公爵の娘を抱いても我慢できるのか?」
「……はい。なにがあっても、そばにいられるだけで僕は幸せです」
僕の、感情をおし殺した精一杯の返事だった。
「フォン、許せよ」
顔に影がかかり、唇がふわりと重なる。ディフィシル様のジュストコールに染みた香水の匂いに、麻酔を打たれたかのように感覚がしびれて甘美な夢におちていく。
目を閉じて身を任せれば、あたたかな舌で口元をなめられて口をふさがれた。僕の渇きを満たせるのは、ディフィシル様しかいない。絡みつく舌が、息が、唾液が、僕の腹の中でうずく衝動を突き動かす。
「……はぁ、っ」
ディフィシル様を離したくない。僕はキスの合間にうまく息継ぎをして、舌先で器用にディフィシル様の舌をつかまえる。僕のすることは全部、この御方に教えてもらった。口にたまった唾液が、ふたつの唇の間であふれてぬちゅりと音を立てる。
僕は、両親を知らない。古い修道院の聖堂のすみっこで子猫のように弱々しく泣いていたのを保護され、慈善が美徳の修道士たちに育てられた。
禁域である聖堂に、誰が生まれたばかりの赤子を捨てたのか。当時は物議をかもしたそうだが、それは僕の知るところにない。
小さなころから小柄で女の子のような顔立ちをしていた僕は、修道士たちの欲をはらんだ視線にさらされた。外部と遮断された修道院という檻の中で、幼心にいつも危険を感じ、恐怖を抱えて生きていた。
ここにいれば、いつか剪髪の儀式をうけて修道士になるしかない。そうなれば、修道士たちの餌食になるのは時間の問題だろう。
だから、僕は修道院から逃げだした。
9歳の夏、太陽が一番高い位置にある時刻だった。
「うまくなったな」
唇を離して、ディフィシル様がくすりと笑う。彫像のような美々しいお顔がやわらかなほほえみに満ちていたから、恥ずかしくてほっぺたがぽっと熱くなってしまった。
修道院から逃げ出した日は、ディフィシル様と運命の出会いを果たした日でもある。修道院の外を知らない僕にとって、王都の街路はまるで異世界の迷路のようだった。
前日から明け方にかけて降り続いた雨のせいで、石畳がびしょびしょに濡れていて足裏がひどく不快だったのを鮮明に覚えている。そう、僕は着の身着のまま、裸足で修道院を飛び出したのだった。
異世界の迷路では、三半規管がイカれて方向感覚がまったく機能しない。それでも必死に、修道院が遠ざかっていることだけを確認して、目の前にある道をひたすら前に向かって走った。
そして、大きな通りを横切ったとき、大きな馬車にはねられそうになった。その馬車に乗っていたのが、ディフィシル様だった。
「ディフィシル様、愛しております」
懇願するように告白すると、男らしい手が僕の赤髪を優しくなでた。
「私もだよ、フォン」
僕はたまらず、ディフィシル様のキュロットに手を伸ばす。脚にぴったりとフィットしたキュロットが、その部分だけより窮屈そうに張りつめている。そこを手のひらでそっとさすると、ディフィシル様の眉根がよった。膝立ちになってディフィシル様のキュロットをおろし、たくましく反り勃つ雄茎に舌先をつける。
「……っ、あ」
僕たちの関係は、絶対に知られてはならない秘事だ。硬派で人望も人気もある御方が、僕の前でだけ見せる淫らな顔。漏らす甘い息。ああ、世界のすべてを手にしたような幸せに震える。もっと気持ちよくしてさしあげたい。僕の舌で、口で、手で、ディフィシル様を悦ばせてさしあげたい。
透明な汁をこぼして、くぱくぱと小さな口を開けたり閉じたりしている先端にくちづけて汁をすする。それだけで、ぴくりと反応するディフィシル様が愛おしい。僕はもっとディフィシル様を味わいたくて、食らいつくように切っ先にしゃぶりついた。
「……フォン、やめ……ろっ」
吐息にまみれた熱っぽい声が、僕の欲望をあおる。頬をすぼめて口の中にある肉塊を舌と粘膜でしごきながら陰嚢を手のひらでころがすと、ディフィシル様の息が激しく乱れて僕を見下ろす青い目がぎらりと輝いた。
僕の名を呼び、恍惚とした表情で果てたディフィシル様の熱い飛沫を喉の奥でうけとめ、僕もスカートの中で吐精する。ディフィシル様を愛する時間は、僕にとって至福の時だ。
◆◇◆
数カ月後、ディフィシル様と公爵の令嬢との結婚式が教会の大聖堂で盛大に執り行われた。ふたりの結婚は、貴族から国民まで大勢の人々に祝福された。
僕はディフィシル様のご命令をうけて、きれいな祭礼用のドレスを身にまとって聖堂のすみっこに控えていた。ドレスといっても使用人の着る服だから、貴族のご令嬢方のそれとは雲泥の差だ。
だけど、僕にとってはどんな豪華なドレスにも……、公爵のご令嬢が着ている婚礼の衣装にすら勝るんだ。だって、僕の服はすべてディフィシル様が選んでくださるのだから。
「クロディア殿」
厳かで仰々しいパイプオルガンの音色が大音量で響き渡る中、式の最中だというのに司祭の一人が僕に話しかけてきた。表向きの僕はクロディアという名の女性で、国王につかえる侍女だ。服装はもちろん、腰まである赤髪を清楚に結いあげて完璧に女性に擬態している。
16歳になった今も、僕の体は男性とは思えないほど骨格が細くて、顔も女の子のような面差しのままだから女性を演じることに難はない。ただ、最近になってあごのあたりが男っぽくなってきて、ヒゲが生えてくるようになってしまった。
声だって以前と比べると低くなったし、のどに塊がぽこっと浮きでている。いわゆる、|アダムのリンゴというやつだ。
そのことをディフィシル様に相談すると、ケラケラとおかしそうに笑ってヒゲを剃る刃物とヴェールを用意してくださった。今日も僕は、ディフィシル様にいただいた薄絹の白いヴェールで目の下から顔半分と胸元までを隠している。
軽く会釈して応じると、司祭が手に持っていた木の札をさしだした。目を大きく開いて「これは?」と尋ねた僕に、司祭はにっこりと神のようなほほえみで「今宵、陛下に神の祝福を」と言った。
なるほど、ディフィシル様と公爵のご令嬢の初夜の護符ってわけか。僕は、ヴェールの下で奥歯を噛みしめる。
――ディフィシル様が僕以外と共寝なさるなんて、想像するだけで吐き気がするんだけど。
僕が護符を見つめたまま動かないので、不審に思った司祭が近づいて「陛下にお渡しを」と念をおす。耳にかかる司祭の湿った息の気持ち悪さったらありゃしない。
僕はおおげさな愛想笑いをして、司祭に深く礼をした。僕がどんなに願ったところで、神は僕の願いを叶えてはくれない。残酷にも予定どおり、今宵ディフィシル様は王妃との初夜を迎える。
その日の夕刻、僕はいつものように浴室でディフィシル様の体を丁寧に磨いた。体を清めたあと、ほぐしてさしあげるまでが僕の役目だ。
現在、国王の身の回りの世話をする侍女は多くない。僕をふくめ片方の手の指で数えられる人数で、もちろん僕のほかはみんな正真正銘の女性だ。ディフィシル様が王子だったころから仕えている少し年齢のいったお姉様ばかりで、最近は近くがよく見えなくて針仕事に難儀するらしい。
みんな、もとが貴族の子女だから品がよくて、そのうえ親切で善良だ。僕が男性だという秘密は、彼女たちの忠誠と誠実によって固く守られている。信じられない話だけど、侍女長ですらも知らない事実なんだ。
彼女たちは、ディフィシル様に拾われて宮殿にやってきた僕をお風呂に入れて、あたたかい食事で満たしてくれた。僕は、彼女たちから様々な作法や仕事、それから文字を教わった。
「フォン」
浴槽のそばにある長椅子にあおむけになって、ディフィシル様が少し疲れたような声で僕を呼ぶ。
修道院で僕は、5番と呼ばれていた。年に一度だけ支給されるボロ布の服を着て、腹のたしにもならない冷えた食べ物を与えられて生きていた。僕は、修道院を出るまで自分が人間だという自覚すら持っていなかったように思う。
僕に、フォン・ウィルブランドという立派な名前を授けてくださったのはディフィシル様だ。僕は、ディフィシル様のもとで9歳にして初めて人間になれた。だから、この真名は僕の命そのものであり、ふたりきりの時だけ呼ばれる特別な宝物でもある。
両親の愛情も知らず家畜のように生きていた僕には、ディフィシル様の厚意や優しさがあたたかすぎて、憧れや尊敬のほかに好意まで抱いてしまったんだ。僕に芽生えた恋は、親鳥についていく雛鳥のようなものなのかもしれない。
それにしても、長椅子に横たわるディフィシル様は無防備でかわいいなぁ。
濡れた手をエプロンでぬぐって、ディフィシル様の首の側面を優しく押して揉む。ディフィシル様は、気持ちよさそうに目をつむって僕に身をゆだねた。僕を信頼し、命まであずけてくださっているような気がして、心の底から嬉しさがこみあげる。
「力の加減はいかがですか?」
「うん、いい」
プラチナブロンドの頭にダイヤモンドやブルーサファイアが輝く王冠を戴き、最高の絹織物で仕立てられた衣装とマントを羽織った婚礼の御姿も最高に素敵だった。
クロストリージオの太陽と称されるにふさわしい神々しさが満ちあふれていて、床に引きずるマントの裾持ちをする手が感動に汗ばんで震えた。
だけどやっぱり、一糸まとわぬディフィシル様が一番美しいと僕は思う。
「お疲れのようですね」
「うん、少し疲れた」
無理もないよね。教会で婚礼をあげて、宮殿に戻ると息つく間もなく貴族たちの謁見が待っていたから……。少しではなく、大変お疲れなのだろう。
ふと、王妃の顔が脳裏をよぎる。教会から宮殿へ向かう馬車の中で、王妃はディフィシル様の腕に自分の腕を絡ませて、ひとり陽気に話し続けていた。
陛下の好きなお花はなんですの?
陛下はどんな本をお読みになるのです?
面白くもなんともない稚拙な質問に、向かいの席で顔を伏せていた僕はひどく不快な気分だった。ディフィシル様は物静かな御方だ。うるさい女の相手は、儀式や公務よりも体力を奪われたことだろう。
「疲れの原因は、おしゃべりな王妃様なのではありませんか?」
「そういうな、フォン。王妃は、無邪気でかわいい人だ」
僕の予想に反して、ディフィシル様が少年のような笑みをこぼす。途端に、どんな答えを予想していたのかわからなくなった。
なんだろう、不愉快を優に超えるこの気持ちは。心の奥で、ごろりと転がる黒い塊。それが、僕がはっきりと認識した、王妃という女への最初の小さな嫉妬だった。
「そろそろ時間だな。支度をたのむ」
「……は、はい。ディフィシル様」
初夜には習わしというものがあって、その通路を通る時刻や服装、王妃の寝室を照らすろうそくの数と寝室に仕える侍女の人数、そのほかにも事細かなきまりがある。
初夜の寝室に待機する侍女はひとり。衝立を隔てて国王夫妻の交わりを見届け、ことが済んだら明かりを消す。ディフィシル様は、僕にその役目を命じた。
国王の寝室と王妃の寝室は、国王だけが使える隠し通路でつながっている。共寝の刻になり、ディフィシル様を先導して隠し通路から王妃の寝室へ向かう。王妃の寝室に入ると、僕は衝立の向こうに設えてある席に座ってそのときを待った。
「……陛下」
王妃の色づいた声がして、蜜ろうそくの柔らかな暖色の炎がベッドの上で重なるふたりの影をゆらゆらと天井に投影する。僕は、ヴェールの下で唇を噛んで、太腿の上でぎゅっと拳を握った。
時間が経過していくごとに、寝室の静寂がベッドのきしむ音とふたりの淫らな声に支配されていく。肌がぶつかって、なにかを吸って離れて……。
衝立向こうから聞こえてくる和音は、大聖堂に響き渡っていたパイプオルガンの音色より醜悪だ。
「……は、ぁんっ、……あっ、あぁ……ああっ!」
中でも、王妃の嬌声は僕が知る限りこの世のなにより不愉快だった。王妃が声をあげるたびに、心の奥で黒い塊がごろりごろりと転がりながら大きくなる。
ふたりの間には愛なんてこれっぽちもないのに、ディフィシル様と王妃の行為は神に許され祝福までうけている。頭が狂ってどうにかなってしまいそうだ。
僕は、お仕着せのスカートをまくりあげると、右手の中指と薬指を根元まで咥えた。声が出ないように、まくったスカート部分を口につめて下着を下にずらす。そして、唾液でぬれた指を後孔に添わせた。
あぁ、ディフィシル様にここを荒らされたい。
王妃の声にまぎれたディフィシル様の声に聴覚を集中して、きゅっとすぼんだ孔をいじくりまわす。だけど、唾液じゃ香油のようにスムーズにはいかない。すぐに乾いて滑りが悪くなってしまう。しかたなく後孔でイクのをあきらめて、僕はいきり勃った淫茎をしごいた。
――ディフィシル様……っ!
国王夫妻と一緒に僕も達する。僕の白い吐液は、遠い東の国から伝わったという高価な衝立とかごに入っていた手巾に飛び散った。
スカートを噛んだまま弾む息をおし殺して、かごから手巾を取る。一輪の真っ赤なアネモネが刺繍された絹生地の高級品で、明日の朝、王妃が紅茶を飲むときに使用する予定のものだ。それで衝立を雑にふいて、ついでに自分のモノまでぬぐう。
身なりを整えた僕は、席を離れて何食わぬ顔で部屋の明かりをひとつひとつ吹き消して回った。ベッドサイドの明かりを消そうしたとき、ディフィシル様が手をさしだしたので、いつものように両手でそれをつかんでくちづける。
「もうさがっていいぞ、クロディア」
「はい。おやすみなさいませ、陛下」
ディフィシル様に身をよせて幸せそうな顔で寝息を立てる王妃を尻目に、僕はもう一度ディフィシル様の手にくちづけて王妃の寝室を出た。
それからの日々は、絶望そのものだった。公務を終えたディフィシル様が、自室には戻らず王妃の部屋へ直行するようになったからだ。僕の前で、ふたりはチェスを楽しみ時に体をよせあい、火を見るよりも明らかに仲を深めていった。
クロストリージオの太陽が王妃にほほえめば、僕の心には暗雲が立ちこめて嫉妬が魂を焼く。
ディフィシル様が王妃の寝室で眠る夜、僕は自分の部屋で自慰にふけった。僕の部屋は、王宮の裏庭にある小宮殿の屋根裏部屋だ。今は使われていない廃屋を、ディフィシル様が僕のために改装してくださったのだ。
「は、っ……、ディフィシル様……ッ」
香油と指でほぐした後孔に、ディフィシル様を模した張形を深く挿入して文字どおり自身を慰める。達したときの気持ちよさと、同時におしよせる虚しさ。僕は、ディフィシル様のためだけに存在している。
ディフィシル様に必要とされなくなったとき、僕はどうしたらいいのだろう。いや、僕は確かに愛されている。ああ、ディフィシル様に触れたい。どうして、平穏な日々は失われたのだろう。そんな思考ばかりが頭を巡る。
そして、ディフィシル様の婚礼から数カ月後がたって冬が深まったころ、司祭と宮廷医が王太后様の宮に出向いて正式に王妃の懐妊が公表された。
◆◇◆
冬は、雌鹿狩りがおこなわれる季節だ。
鹿は古くから高貴の象徴であり、それを狩るのは国王の権威を示すにふさわしい最高の娯楽とされてきた。毎年、国王は宮殿から北西の方角へ数日かけて移動した先にあるバティヌス離宮で、貴族たちと狩りに興じてひと月ほどを過ごす。
しとめた雉を宮廷の料理人が数日かけて熟成するフザンタージュや赤ワインのソースでいただく野兎なんかは絶品だ。ディフィシル様は山鶉を好んで召しあがる。
しかし、今年は新婚の国王夫妻に配慮するという理由で、早々に伝統ある娯楽の中止が決まっていた。王太后様や有力な貴族たちから、後継の誕生をのぞむ声が多くきかれたからだ。
王妃の懐妊が公表された日、僕はディフィシル様からバティヌス離宮へ行くと告げられ、それに同行するよう命じられた。クロディアとしての仕事を終えた僕は、小宮殿に戻ってあわただしく荷造りにとりかかった。
トランクにお仕着せや下着、肌の手入れに使う道具なんかをぎゅうぎゅうに詰めこむ。僕の荷物なんてこの程度。トランクひとつあれば、僕の秘密や痕跡は簡単に消せてしまう。
翌日、僕は国王の随行者のひとりとしてバティヌス離宮へ向けて旅立った。いつもなら王太后様と|大勢の貴族、国王の日常に従事する者たちがそろって随行するのだけれど、今回は上位の貴族が数名と身の回りの世話をする最低限の人数だけの寂しい旅路だった。王妃は気分がすぐれないとかで、ディフィシル様の見送りにも顔を出さなかった。
――ディフィシル様の相手として、天下みんなに認められて神の祝福をも受けたいまいましい女……。
ゴトゴトと轍に揺れる馬車の中で、僕は苦虫を嚙みつぶす。すると、向かいの席からクスクスと笑い声が聞こえた。
「眉間にしわが寄っているぞ、フォン」
あ、と目を丸くして、僕は右手の中指で眉間をさする。国王の馬車には御者台にふたりの御者が座り、両脇に衛兵隊士の白馬が護衛としてぴたりとよりそっている。
車内は、顔の下半分をヴェールで隠した世話係の侍女クロディアとディフィシル様のふたりきりだった。僕だけに向けられる笑顔が嬉しくて、なさけなくも涙が出そうになる。
「あなたとこうして馬車に乗るのは婚礼以来だな」
「そうですね」
「あのとき……。王妃から好きな本や花を聞かれたとき、昔のあなたを思い出した」
あのときって、いつの話?
僕は急いで記憶をあさる。そして、婚礼のあと大聖堂から王宮へ帰るときの話をしているのだと理解した。
「僕をですか?」
「そう。王宮で暮らし始めたばかりのころのあなたは、いつも影のように私のあとをついてきて、それが好きな花ですか? いつもその本を読んでいるのですか? って目を輝かせていただろう? 無邪気でとてもかわいかったよ」
ディフィシル様の表情がとても柔らかくて、まるで結婚なさる前に時が戻ったかのような錯覚におちいる。
9歳の僕か……。
当時の僕は、ディフィシル様のそばを片時も離れなかった。着なれないスカートに戸惑いながら、ディフィシル様の背中を追いかけた。闇のような人生にさした一筋の光を見失いたくなくて、必死だったんだ。
「覚えていてくださったのですね」
「当たり前だろう。あなたと出会ってからの日々は、私にとってなにものにも代えがたい宝物だから」
「ディフィシル様、僕は」
許せよ、フォン。おだやかな声で、ディフィシル様が僕の言葉をさえぎる。
「王宮では、男を私の側仕えにはできない。だから、あなたにクロディアでいることを強いてきた。それに対してあなたはなにも言わないが……、男でありたかっただろうと思うとそれだけが私の後悔だ」
「僕は、クロディアとしてお仕えできることに幸福は感じても不満なんかありません。なにかあったのですか?」
「なにもない。フォン……、それは本心か?」
ディフィシル様が、首をかしげて僕の顔を覗きこむ。本心に決まってる。だけど、本当は悔しくもある。
僕は、こみ上げる感情を言葉にできなくて、ただうなずくことしかできなかった。窓の外を見ると、ふわりふわりと真っ白な雪が舞っていた。
「もうすぐ、ディフィシル様のお誕生日ですね。よろしいのですか? お祝いの舞踏会を中止してまで離宮行きを敢行なさるなんて……」
「私にとっては、舞踏会より大事なんだ」
「狩りがですか?」
「違う。あなたと過ごす時間が」
「……ディフィシル様」
「兄上がご存命だったなら、私は王にならなかった。跡継ぎを望まれることもなく、どこか辺境にでも行ってあなたと幸せな日々を送れただろうね。今も時々、そんな途方のない夢を見る」
僕は、ディフィシル様の立場をちゃんと理解しているつもりだった。けれど、胸の内まで理解できていたのだろうか。
24歳になる国王が、いつまでも独身でいられるはずがない。それに、王妃は公爵の娘だ。いくら国王だからって、王妃をぞんざいに扱えるはずがないんだ。
ディフィシル様は、どんな思いで僕に婚礼の日が決まったと告げ、初夜の証人になれと命じたのだろう。
「離宮にいる間は、私の途方もない夢を叶えてもいいだろうか」
ディフィシル様の静かなほほえみが、僕の胸をきゅっと締めつける。それから離宮に着くまでの数日、ディフィシル様はあまり話をなさらなかった。
離宮のエントランスで馬車をおりると、ディフィシル様は誰もいない控えの間に僕を連れていき、服を着替えるよう命じた。言われるがまま、女物のお仕着せとヴェールを脱いでディフィシル様から手渡された白いシャツと薄紫色のトラウザーズに着替える。
王宮で暮らすようになって、男性の服を身にまとうのはこれが初めてだ。ちゃんと僕の身丈に合わせてある。嬉しいような気恥しいような、僕は気分の高揚を感じながら姿見にうつる自分の全身をまじまじと見た。
――あれ、なんだか変だな。
ほんの数年前、貴族のご令嬢たちの間で男装が大流行した時期があった。僕も彼女たちと顔つきや体の大きさに大差がないから、男装した女性にしか見えない。もっとも、胸やお尻は彼女たちと違って平べったいけどさ。
「似合うよ」
「本当に似合っていますか? 自分ではそう思えなくて……」
「見慣れないからだろう」
レカミエのカウチソファに座ったディフィシル様が、僕の反応を楽しむかのように笑う。ふたつ積んだロールクッションにもたれかかるように肘をつくディフィシル様の図は、まるで王宮に飾られている豪華な絵画みたいだ。どうしたら、ディフィシル様のような男になれるんだろう。
「フォン、おいで」
ディフィシル様が手招きする。僕が御前に立って膝をつこうとすると、ディフィシル様が僕の腰を抱きよせて鳩尾に顔をうずめた。
「あなたは、なにを着ても似合うよ」
「あ、ありがとうございます」
「私は貴族たちの相手をしてくるから、あなたはここで待っているように。ほかの者には、クロディアは具合が悪くて休んでいると伝えておく。いいね?」
「……は、はい」
「また夜に来る」
夜になって、僕は部屋の明かりを消してカウチソファに横たわった。部屋は離宮の奥まったところにあって、人の声も物音もしない。
パチパチと暖炉で薪がはじかれる音と揺れる炎の暖色に、眠気が誘発されてまぶたが重たくなる。僕がまどろんでいると、ドアが開いてディフィシル様が部屋に入ってきた。
ディフィシル様は、足首が隠れる丈のカシュクール・ワンピースみたいな白い寝間着に赤い更紗のローブを羽織っただけの軽装で、給仕の侍女を数名つれていた。
僕は起きあがって、ディフィシル様に礼をとる。その間に、給仕の侍女たちが暖炉の前にあるテーブルに皿やグラスを並べた。ふうわりと鼻先をくすぐるのは、ブランデーと焼き菓子の甘いヴァニラの香りだ。
ディフィシル様が、侍女たちをさげてドアを施錠する。僕は、暖炉から火をとって部屋の明かりを灯そうとした。しかし、ディフィシル様が「このままで」と言ってそれを制した。
「寝つきに、あなたとホット・ブランデーを飲もうと思ってね。もう春が近いというのに、今夜はやけに冷える。ここが山間いだからかな」
コポコポと音をたてて、ホット・ブランデーがグラスにそそがれる。
「ほら、体が温まるよ」
「あ、ありがとうございます」
僕にグラスを手渡して、ディフィシル様が立ったままブランデーを一気に飲みほす。僕は、極上のホット・ブランデーを口にふくんだ。途端に、芳醇な香りが鼻腔から抜ける。
ひとくち、もうひとくち。ディフィシル様がそそいでくれたブランデーをじっくりと味わう。僕がブランデーを飲み終わると、ディフィシル様は脱いだローブを暖炉の前にあるイスの背もたれに掛けてカウチソファに寝転んだ。
「フォン、今夜はここで一緒に眠ろう」
僕の左胸がドクンと大きく鼓動して、バクバクと強くて乱れたリズムを刻む。ほっぺたも熱い。これは、ブランデーを飲んだせいじゃない。嬉しさと恥ずかしさと、大好きな人に向けられる気持ちが一気にこみあげて、体中が歓喜しているんだ。
でも……。
僕はいつも自分の部屋で寝るから、ディフィシル様とひとつ屋根の下で夜を過ごしたこともなければ体をつないだこともない。カウチソファとはいえ、ディフィシル様と同じベッドで寝るなんて初めてで恐れ多くて――。
「いえ、僕は隣の部屋で」
「国王の命令にさからうのか?」
ふふっと、おかしそうにディフィシル様が笑う。僕は少しの間もじもじと部屋着の端を指先で揉んで、戸惑いながらカウチソファに腰かけた。
えっと……、背中を向けるのは失礼だし、かといって向かい合いのも恥ずかしいし……。どうしたらいいのかな。ちょっと悩んで、途方に暮れながら仰向けになる。
「私の方を向いて」
「は、はい」
ごそごそと、体をディフィシル様の方へ半回転させると|赤髪《レディシュ》を梳くようになでられた。
カウチソファは、いくら僕が小柄だといってもふたりが並んで寝るには狭い。必然的に体が密着して、目線の高さが同じで、まつげの1本1本がよく見えるほど顔が近くて、目のやり場に困ってしまう。
「愛してるよ、フォン」
「僕もディフィシル様を、あ……、愛しています」
ふいをつく愛の告白に、思わず声がうわずる。王冠を装飾するブルーサファイアより美しい瞳が、じっと僕を見つめている。
今まで数えきれないくらい視線を交わしてきたのに、どうしてだろう。妙に緊張して、ブランデーで潤ったはずの喉がカラカラだ。
「キスしてもいい?」
ディフィシル様が、そっと親指を僕の下唇にのせる。こくりと小さくうなずくと、ディフィシル様は僕のうなじに手をまわして引きよせた。息がふれ合う距離に、僕の心臓がひときわ大きな爆音を響かせる。
「王妃とのことで、あなたの気持ちが私から離れていくのではないかと不安でしかたなかった」
「僕の気持ちがディフィシル様から離れるなんて、そんなこと絶対にありません! でも、少しだけ寂しいです。王妃様とばかりお過ごしになるから……」
「怒っているのか?」
「いいえ」
「私が真実の愛を告げる相手はあなただけだよ。今だから打ち明けるが、あなたが修道院にいたころからずっと好きだったんだ。知っていたか?」
「え……」
目を見開いた瞬間、僕の声は唇ごとディフィシル様の唇に奪われた。待ってよ。僕が修道院にいたころからって、一体どういうこと? 僕の驚きを無視して、ディフィシル様の舌が口の中で僕の舌をつかまえる。
「はぁ、っ」
息継ぎもままならないほどの荒々しいキスをしながら、ディフィシル様が僕の服をはぐように脱がせる。むき出しになった胸の粒を指先で引っ掻くように弾かれて、体がびくんとはねた。
「あ……っ」
「あなたが修道院からいなくなったと聞いて、私がどんな気持ちだったか……。あなたには想像もつかないだろう?」
少し息をはずませて、ディフィシル様が僕を組み敷く。そして、僕の下着を取りさって素っ裸に剥くと、胸や首元についばむようなキスをしてアダムのリンゴに痛みを伴うほど強く吸いついた。
「……っ!」
「少女のようなあなたもかわいかったが、男らしくなっていくあなたはなおいい。愛おしくて、歯止めが効かなくなる」
ディフィシル様の舌が首筋を這って、僕は体をしならせる。体中をなで回すディフィシル様の手のあたたかさが気持ちよくて、僕は自分のモノが硬くなるのを感じた。
どうしよう。勃った先っぽがディフィシル様のお腹に当たってる。恥ずかしくてたまらない。身をよじると、ディフィシル様が僕の淫茎に触れてしごいた。
「ディフィシル様。や、やめて……っ!」
「ねぇ、フォン。私と王妃の初夜を見届けながら、なにをしていた?」
「なっ……、なにも!」
「あなたは嘘までかわいいね。いいよ、フォン。私の手で果ててみせて」
羞恥に耐える僕に意地悪な笑みが向けられる。まるで僕を知り尽くしたかのような絶妙な力加減に、あっけなく屹立の先端から白濁が飛び散ってディフィシル様の手や服を汚してしまった。
息を乱しながら謝る僕に軽くキスをして、ディフィシル様が寝間着のポケットから取りだした小瓶のふたを開ける。恍惚としたディフィシル様の青い目に、背筋がぞくりとした。
「まっ……、待ってください」
「待たない」
ディフィシル様が、僕に見せつけるように小瓶を傾けて中の香油で手をたっぷりとぬらす。そして、僕の後孔をほぐし始めた。孔の周りを指でくちゅくちゅとこねられて、プツッと指先を突っ込まれる。
「……は、っ」
「よく慣らしてある」
「ん、あっ……」
「自分で触っていたのか?」
そんな意地悪なこと聞かないで。ディフィシル様を思いながら自慰にふけっていたなんて、恥ずかしすぎて口が裂けても言えないよ。
ぬちゅぬちゅと香油の卑猥な音を響かせて、ディフィシル様の指が中を激しく責めたてる。ああ、自分で触るより数倍いい。
「く、ぁ……ッ!」
「気持ちいい?」
ディフィシル様が僕のあられもない場所に触れている。嬉しくて、体と心が快感と幸福に満たされていく。
「フォンの気持ちいいところを教えて」
「全部……。ディフィシル様が触ってくださるとこ、全部、気持ちいいです」
「そうか」
にっこりと笑って、ディフィシル様が指を深く挿入する。目から涙がこぼれて、口の端からだらしなく涎が垂れた。
僕は今、どれほどだらしない顔をしているんだろう。指を増やされて、中をこねくり回されて、身の置き所のない快楽に溺れる。ぞわぞわと体が小刻みに震えて、体のうずきが大きくなった。
「あっ、だめ……っ、また、またイク……ッ!」
僕は、体をのけ反らせて再び吐精しながらのぼりつめる。息を整える間もなく、ディフィシル様がとろとろにふやけた後孔に熱塊の先端をすりつけて体重をかけた。
「愛してるよ、フォン」
「あぁ――ッ!」
指や張り型とは比べ物にならない重量の雄茎が、僕の腸壁をじゅぶじゅぶとこする。ずっとずっと、ディフィシル様と愛し合いたかった。
もっと深いところまで、僕の淫孔を荒らしてほしい。
僕の願いを見透かしたかのように、ディフィシル様が奥を突いて激しく僕をゆさぶる。王妃と僕は違う。
ディフィシル様が僕を求めるのは、国王としての義務なんかじゃない。本当に愛してくださっているからだ。そう確信すると、より強い快感が体中を支配した。
「はっ、んん……ッ! いい、っんん……ぁああっ!」
めまいを覚えるような絶頂。チカチカと視界が点滅して白む。それから何度も体位をかえて、僕たちは長い時間愛し合った。
最後に、神経がおかしくなったみたいに僕の体がビクビクと痙攣して、体の中でディフィシル様の熱がはじける瞬間は至上の幸福だった。
意識が戻ったとき、僕はディフィシル様の腕の中にいた。意識が戻ったといっても、体は重たいし頭にかすみがかかってとても眠い。ブランデーが回ったのかな。
ディフィシル様が、まどろむ僕の赤髪をなでて頭にキスを落とす。
朝になってクロディアに戻っても、僕はこれまでと変わらずディフィシル様を愛し続けるよ。
ディフィシル様の愛を、今夜、僕は確かに手に入れたから――。
そういえば、僕が修道院にいたころから好きだったって一体どういうことなんだろう。
明日の朝にでも、勇気を出してお尋ねしてみようかな。きっと、素敵な初恋の話を聞かせてくださるような気がするんだ。根拠は……、ないけど。僕は、夢見心地でディフィシル様の胸に顔をすり寄せる。
「おやすみ、愛しい人」
ディフィシル様の優しい声に導かれて、僕は幸せな夢の中に落ちていった。
FAでいただいた表紙
すいようび様(@wed_novels)より♡

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