最終話 この身を捧げる、あなたのために(前編)




「……ん、ふっ」


 ヴェール越しに、分厚い舌がもどかしくうねる。ディフィシル様の指が、後頭部で結ばれている面紗ヴェールの紐をほどいた。一瞬だけ唇が離れて、ふたりを隔てる薄絹がとり除かれる。そして、再び唇が重なろうとしたとき、ディフィシル様の熱がすっと遠のいた。

 僕は、途端におそろしくなった。ガラスのように美しくきらめく瞳が、わずかに揺れて視線を僕の下唇にさだめたからだ。


「これは、どうした?」
「あ……」


 ディフィシル様の御身をまもるために、体にいつもと違う不調があれば必ず女官長に知らせるのが王宮のきまりだ。僕はそれを破った。アダムのリンゴのどぼとけが、無意識にごくりと音を立てて大きく上下する。


「も……っ、申し訳ございません。隠すつもりはなかったのです。ひどくなる前に治そうと思って……、その薬屋に」

「痛むのか?」
「いいえ。痛くは……、なんともありません」


 なにか言いたげに、ディフィシル様の親指の腹が僕の唇をなでる。そのとき、コンコンとドアをノックする音が聞こえた。僕は、慌ててディフィシル様からおりてお仕着せの乱れをととのえる。まるで僕たちに時間を与えるように一呼吸おいて、フィーネが部屋に入ってきた。

 フィーネは眉をひそめ、足乗せに座っているディフィシル様に冷ややかな目を向けて、僕に退出しなさいと言った。いつになくいかめしいフィーネの様子に気圧されて部屋を出る。間際、背後から聞こえたフィーネの言葉に耳を疑った。


「御子を授かった途端に、なんてこと。クロストリージオの太陽たる陛下が禁忌を犯すから、神がお怒りになり、罪なき民が代償として悪魔デモンの餌食になるのですよ。王太后様が、死病のことで大変お心を痛めておられます。すぐに王太后様の……」


 ぞっとするほど冷たい声。静かに閉じたドアの前で、僕の左胸がバクバクと嫌なリズムをきざむ。

 なに、今の。国王に向かってあんな不遜な態度……。
 フィーネが、フィーネじゃないみたいだった。ドアの向こうで、ふたりがどんな会話をしているのか。聞き耳を立てようとする僕を、廊下からほかの侍女が呼ぶ。僕は面紗ヴェールをつけると、しかたなくディフィシル様の部屋をあとにした。





 ◆◇◆




 冬は、雌鹿ビッシュ狩りがおこなわれる季節でもある。鹿は古くから高貴の象徴であり、それを狩るのは国王の権威を示すにふさわしい最高の娯楽とされてきた。毎年、国王は宮殿から北西の方角へ数日かけて移動した先にあるバティヌス離宮で、貴族たちと狩りに興じてひと月ほどを過ごす。

 しとめたフザンを宮廷の料理人が数日かけて熟成するフザンタージュや赤ワインのソースでいただく野兎リエーヴルなんかは絶品だ。ディフィシル様は山鶉ペルドローを好んで召しあがる。

 しかし、今年は新婚の国王夫妻に配慮するという理由で、早々に伝統ある娯楽の中止が決まっていた。王太后様や有力な貴族たちから、後継の誕生をのぞむ声が多くきかれたからだ。


 王妃がみごもったそうだ。


 ディフィシル様がそう言った数日後、司祭と宮廷医が王太后様の宮に出向いて正式に王妃の懐妊が公表された。王宮をたつ前日だった。

 その日の夜、クロディアとしての仕事を終えた僕は、小宮殿に戻ってあわただしく荷造りにとりかかった。まっさきにトランクに放り入れたのは、他人に見られるとまずいもの。具体的にいうと、香油や張り型、それからマルタンの毒薬だ。

 それを隠すように上からお仕着せや下着、肌の手入れに使う道具なんかをぎゅうぎゅうに詰めこむ。僕の荷物なんてこの程度。トランクひとつあれば、僕の秘密や痕跡は簡単に消せてしまう。

 翌日、僕は国王の随行者のひとりとしてバティヌス離宮に向けて旅立った。いつもなら王太后様と大勢の貴族とりまき、国王の日常に従事する者たちがそろって随行するのだけれど、今回は上位の貴族が数名と身の回りの世話をする最低限の人数だけの寂しい旅路だった。

 王妃は相変わらず体調がすぐれないとかで、ディフィシル様の見送りにも顔を出さなかった。



 ――婚礼以降、あんなにディフィシル様から大事にしてもらっておいて……。



 ディフィシル様の相手として、天下みんなに認められて神の祝福をも受けたいまいましい女。ゴトゴトとわだちに揺れる馬車の中で、僕は苦虫を嚙みつぶす。すると、向かいの席からクスクスと笑い声が聞こえた。


「眉間にしわが寄っているぞ、フォン」


 あ、と目を丸くして、僕は右手の中指で眉間をさする。国王の馬車には御者台にふたりの御者が座り、両脇に衛兵隊士をのせた白馬が護衛としてぴたりとよりそっている。

 車内は、顔の下半分を面紗ヴェールで隠した世話係の侍女クロディアとディフィシル様のふたりきりだった。僕だけに向けられる笑顔が嬉しくて、なさけなくも涙が出そうになる。


「あなたとこうして馬車に乗るのは婚礼以来だな」
「そうですね」
「あのとき……。王妃から好きな本や花を聞かれたとき、昔のあなたを思い出した」


 あのときって、いつの話だ?
 僕は急いで記憶をあさる。そして、婚礼のあと大聖堂から王宮へ帰るときの話をしているのだと理解した。


「僕をですか?」
「うん。王宮で暮らし始めたばかりのころ、あなたはいつも影のように私のあとをついてきて、それが好きな花ですか? いつもその本を読んでいるのですか? って目を輝かせていただろう? 無邪気でとてもかわいかったよ」


 ディフィシル様の表情がとても柔らかくて、まるで結婚なさる前に時が戻ったかのような錯覚におちいる。

 当時の僕は、ディフィシル様のそばを片時も離れなかった。着なれないスカートに戸惑いながら、ディフィシル様の背中を追いかけた。闇のような人生にさした一筋の光を見失いたくなくて、必死だったんだ。


「覚えていてくださったのですね」
「当たり前だろう。あなたと出会ってからの日々は、私にとってなにものにも代えがたい宝物だから」
「ディフィシル様、僕は」


 許せよ、フォン。おだやかな声で、ディフィシル様が僕の言葉をさえぎる。


「王宮では、男を私の側仕えにはできない。だから、あなたに女でいることを強いてきた。それに対してあなたはなにも言わないが……、男でありたかっただろうと思うと、それだけが私の後悔だ」

「僕は、クロディアとしてお仕えできることに幸福は感じても不満なんかありません。なにかあったのですか?」

「なにも……。ところで、フォン。その口のできものは、その後どうだ?」
「は、はい。治ってきているようです」

「そうか。だが、用心したほうがいい。離宮についたら、村の医者にみてもらおう」
「ありがとうございます、ディフィシル様」


 数日後、僕たちは予定どおりバティヌス離宮に到着した。離宮のエントランス前で馬車をおりると、ディフィシル様は誰もいない控えの間に僕を連れていき、服を着替えるよう命じた。言われるがまま、女物のお仕着せと面紗ヴェールを脱いでディフィシル様から手渡された白いシャツと薄紫色のトラウザーズに着替える。

 王宮で暮らすようになって、男性の服を身にまとうのはこれが初めてだ。ちゃんと僕の身丈に合わせてある。嬉しいような気恥しいような、僕は気分の高揚を感じながら姿見にうつる自分の全身をまじまじと見た。


 ――あれ、なんだか変だな。


 ほんの数年前、ご令嬢たちの間で男装が大流行した時期があった。僕も彼女たちと顔つきや体の大きさに大差がないから、男装した女性にしか見えない。もっとも、胸やお尻は彼女たちと違って平べったいけどさ。


「似合うよ」
「本当に似合ってますか? 自分ではそう思えなくて……」
「見慣れないからだろう」


 レカミエのカウチソファに座ったディフィシル様が、僕の反応を楽しむかのように笑う。ふたつ積んだロールクッションにもたれかかるように肘をつくディフィシル様の図は、まるで王宮に飾られている豪華な絵画みたいだ。どうしたら、ディフィシル様のような男になれるんだろう。


「こちらに来い」


 ディフィシル様が手招きする。僕が御前に立って膝をつこうとすると、ディフィシル様が僕の腰を抱きよせて鳩尾みぞおちに顔をうずめた。


「ディフィシル様」
「すぐに医者が来る。それまで、こうしていたい」


 衛兵が離宮に老齢の御仁を連れてくるまで、そう時間はかからなかった。衛兵に男装の僕を見られないように、ディフィシル様が部屋のドアをあけて直々に御仁を出迎える。

 その御仁は、バティヌスの村でひっそりと商っているという医者だった。ディフィシル様と言葉をかわしたあと、医者は僕をカウチソファに仰向けにして口の中や体をくまなく観察した。そして、ディフィシル様に向かってけわしい顔をした。


「口の中と体にも同じようなできものがある。大変申しあげにくいが、これはシフィリスだと思われます」

「シフィリス?」

「王都で流行している死病です。はるか昔、神を冒涜ぼうとくした罪でこれと同じ死病にかかった羊飼いの記録が文献に残っております。その羊飼いの名から、我々はこの病魔をシフィリスと呼んでおります」



   

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