第5話 病魔の足音




 喉の奥までマルタンを咥えながら窓に目をくれると、真っ暗な景色にふわりふわりと真っ白な雪が舞っていた。僕は冬が好きだ。なぜなら、ディフィシル様がお生まれになった季節だから。

 毎年、ディフィシル様の誕生日の夜に、宮殿で華やかな舞踏会が開催される。ディフィシル様はいつも席に座って貴族たちの舞踏を鑑賞なさるのだけれど、今年は王妃と一緒に舞台へ上がってメヌエットを披露なさるそうだ。

 王宮での暮らしが始まってしばらくたったころ、僕は侍女の仕事を覚えるかたわら舞踏を教わった。誕生日の舞踏会をひかえた王子の練習相手に僕を指名して、ディフィシル様が直々に仕込んでくださったのだ。



 もしも僕が女性だったら、ディフィシル様にエスコートされて煌々とした舞台でベル・ダンスを踊れたのかな。



「はぁ……、サンク。気持ちよすぎてイっちまいそうだぜ」


 マルタンが、僕の尻にバシッと平手を見舞って体を起こす。ぐるんと視界が反転して、仰向けになった僕の体をマルタンの大きな黒い影がおおった。


「っ、あぁ……ッ!」


 張りつめたマルタンの剛直が、ぐちょぐちょにふやけた尻穴をつらぬく。塗りたくられた潤滑液と前戯のおかげで、僕の体はするりとマルタンをうけいれた。ハッハッと息を荒らげて、マルタンがとりかれたように腰をふる。



 ――バカだな、僕は。



 女性だったとしても、最下層に生まれた僕ではディフィシル様の相手になれないのに……。身の程をわきまえずディフィシル様を愛し、王妃に嫉妬し、こうして禁じられた行為に身を染める僕に、神はどんな罰を与えるのだろう。

 ぎしぎしと、今にも壊れそうな音をたててきしむベッドの上で、僕はマルタンに揺さぶられながらディフィシル様の顔を思い浮かべた。

 使用人のままでいい。クロディアとしてずっとそばにいたい。今までと変わらず宝石のような青い瞳で僕を見つめて、そよ風のような優しい声で僕を呼んでほしい。



 ――あぁ。やっぱり僕は、ディフィシル様が大好きだ。



 僕はその日、マルタンの家で夜を明かした。侍女長に申しでていた帰りの時間はとっくの昔に過ぎていたから、マルタンの好意にあまえてパンとベーコン、コンソメのスープをごちそうになって店を出る。

 身売りして手に入れた薬を手に王宮に戻ると、案の定、侍女長の叱責が待っていた。僕が男だと知っているのは、ディフィシル様の側仕えのお姉様方だけ。侍女長は、クロディア相手に王宮の規律についてあるいは年頃の子女のたしなみについてつらつらと説教をたれたのだった。





 ◆◇◆





 王妃の体調不良は、数週間続いた。部屋にこもりきりの王妃のもとには、高位の司祭や宮廷医が入れ代わり立ち代わり訪れた。ディフィシル様が王妃についてなにもおっしゃらないし、王妃の侍女ではない僕には王妃の身になにが起こっているのかまったくわからなかった。



 ――皮膚がただれたにしては、大袈裟だし長くないか?



 そう思いながらも、ディフィシル様と王妃の仲睦まじい姿を見なくてすむ日常は、僕にひとときの安寧をもたらした。ひとつ残念だったのは、王妃に配慮してディフィシル様の誕生日を祝う舞踏会が中止になったことだ。王妃とメヌエットを踊るのは許せないけれど、ディフィシル様の誕生日をお祝いできないのは寂しい。

 そして、ディフィシル様の誕生日。
 僕は、いつもと同じように朝鳥の鳴き声で目を覚まして顔を洗った。リンネルの布で顔をふきながら鏡を見る。すると、下唇に白いできものがふたつで並んでいた。痛くもかゆくもないから、まったく気がつかなかった。ただれたような痛々しい見た目が、グロテスクで気味が悪い。



 ――なんだ、これ。



 鏡に顔を近づけて、唇をまじまじと観察する。こんな変なモノ、昨日まではなかったし今までだってできたことはないんだけどな……。

 指先でつんつん突いて押してみる。やっぱり痛くもかゆくもない。ただれているように見えるのに、表面は乾いていて、硬くて、できものというよりはしこりみたいだ。

 面紗ヴェールで隠せるから今日はいいとしても、長引くと厄介だ。誰かに知られて、病人扱いされる前にどうにかしないと……。



 ――そうだ、マルタンに相談すればいい薬をもらえるかも。



 すっかりマルタンを頼りにしている自分が情けないけど、誰かに知られる前に治す方法をほかに思いつかない。

 僕は、さっさと身支度を済ませて侍女長のもとへ急いだ。外出の許可をもらおうと思ったのだ。昼間なら、マルタンも店があるから無体な要求はしないはずだし、金貨で薬を買ってすぐに戻れば、ディフィシル様が公務を終える時間に十分間に合う。そう簡単に考えていた。しかし……。


「あなたの外出を許可するわけにはいかないのよ、クロディア」


 侍女長が、僕をじっと見つめて淡々とした口調で言った。やはり、先日の朝帰りが尾を引いているのだろう。


「今日は、ちゃんと時間を守ります。ですから、どうかお願いします」
「あら、反省はしているようね。でも、理由はそれじゃないの。あなたを王宮から出さないよう、陛下に命じられているのよ」

「ディフィシル様がですか? どうしてです?」

「街で奇妙な死病が流行っているらしくてね。陛下がいたく心配なさっていたわ。最近よく外出しているから、あなたが街で悪魔デモンに魅入られてしまうんじゃないかって」

「……そうでしたか。あの、その奇病というのは一体……」

「私も詳しくはわからないのだけれど、変なできものが体中にできてやがて死にいたるそうよ。あなたは陛下の側近だから、特に気をつけないと。急ぐのなら、下働きの子たちに使いを頼みなさいな」

「あ……、いえ。急ぐ用事ではありませんので」
「そう」

「お忙しいのに手間を取らせてしまってすみません。失礼します」

「待って、クロディア。陛下が、昼前に戻るから部屋で待つようにとおっしゃっていたわ。今日は陛下のお誕生日ですもの。舞踏会もないことだし、お部屋にお花でも飾ってさしあげたらどうかしら」

「はい、かしこまりました」


 侍女長の部屋を出た僕の心臓が、ばくばくと嫌な鼓動を響かせる。
 変なできものだって? いや、唇のこれは関係ない。だってここ数週間、街には行ってないんだから。もしこれが街で流行っている病気と関係あるなら、もっと早く症状が出るはずだろ?

 体が浮遊して、地をふみしめる感覚がなくなっていく。背後で、カチャリと音を立ててドアが開いた。


「どうしたの? クロディア」


 侍女長だった。僕は、侍女長に一礼してその場を立ちさると、その足で庭園にあるハウスにむかった。庭師のおじさんが大事に育てた花を切ってもらって、オシャレな花瓶にさしたそれをディフィシル様の部屋に飾る。

 部屋の片づけや掃除などは、お姉様方がすませたのだろう。僕は、部屋の壁際に置かれたゴブラン織りのフットスツールに腰かけて体を壁にあずけた。



 ――なんだか、疲れちゃったな。



 暖炉の中で、炎がぱちぱちと弾けてゆるやかに揺れる。室温が適度で、あまりの心地よさに僕はうっかり寝入ってしまった。意識がすっと遠のいて、夢の世界に迷いこんでいく。まるで、過去の時間に引きこまれるような感覚だった。

 僕には、明確な誕生日がない。修道士が僕を保護してからの年月としつきが、僕の年齢だった。不憫に思ったディフィシル様が、出会った日を誕生日にしようと言って僕に誕生日ができた。

 嬉しかったなぁ。両親の愛情も知らず、家畜のように生きていた僕には、ディフィシル様の厚意や優しさがあたたかすぎて、憧れや尊敬のほかに好意まで抱いてしまったんだ。

 僕に芽生えた恋は、親鳥についていく雛鳥そのものだった。だけど、これはディフィシル様を困らせてしまう感情だから、僕は一生胸に秘めておく覚悟でクロディアを演じた。

 とある夏の日。その日は、僕の12歳の誕生日だった。図書室で本を読むディフィシル様のかたわらで、紅茶を淹れる僕にディフィシル様がぼそりと言った。


『私は、女性を好きになれないんだ』


 当時、20歳を目前にしたディフィシル様は、結婚の催促と毎日のように持ちこまれる縁談に頭を抱えておられた。いずれクロストリージオの国王になられる身。真面目で浮いた噂もなく、神に愛された美貌の持ち主だ。そのころの社交界は、ディフィシル様の妃になりたい令嬢たちの美を競い合う品評会になっていた。


『自分でも、どうしてそうなのかわからない。神の教えに従順でない私は、クロストリージオの太陽となるに不相応だ』


 いつも凛とした御方が吐露した苦しみ。自己を否定する姿と言葉に、驚きよりも心が痛んだ。ディフィシル様のほかに、クロストリージオの太陽となるにふさわしい人はいない。だって、ディフィシル様は優しくて穏やかで、窓からさしこむ日差しみたいな人だもの――。

 どれくらい眠っていたのか。ふわりと覚えのある香りに鼻をくすぐられて、僕はぼんやりと目を開けた。僕の体には上等のジュストコールがかけられていて、すぐ隣でぱらりと紙をめくる音がする。はっとして体を起こすと、隣でディフィシル様が本を読んでいた。どうやら僕は、不遜にもディフィシル様にもたれて眠りこけていたらしい。


「も……っ、申し訳ございません!」

「疲れているようだな。ベッドに運んでやろうと思ったが、起こしてはかわいそうだからそのままにしておいた。体は痛くないか?」

「……はい」

「まだ昼食ディネには早い。もう少しでこの本を読み終わるから、あなたもゆっくりするといい。ほら、私の肩を貸してやる」


 ふっと軽やかに笑んで、ディフィシル様の視線が僕から本に移っていく。見ると、ディフィシル様が座っておられるのは、いつも隣の部屋に置いてあるフットスツールだった。
 国王たる御方が、足乗せに座って使用人の僕をあなたと言う。



 ――ディフィシル様の愛は、まだ僕のものだと信じてもいいの?



 本なんて見ないで。僕の渇きを満たせるのは、この世にディフィシル様しかいないんだ。本能が渇望するままに、本を持つディフィシル様の手元に手を伸ばす。本が宙をまって絨毯じゅうたんの上にバサリと落下した。

 僕の手首が角ばった手につかまれ、細腰を力強い腕にさらわれる。刹那、僕の小さな体はお尻を軸にしてディフィシル様の太腿ふとももに乗っかっていた。


「今日も外出しようとしていたらしいな」
「……あ、あの、それは……」
「行き先は大通りの薬屋だったのか?」


 鼓膜を叩かれたような衝撃に、僕はディフィシル様を凝視して表情をこおらせる。



 ――どういうこと?



 瞠目する僕に、ディフィシル様が鼻先を近づけた。


「あなたが私に隠し事をするから、調べさせてもらった」
「ディフィシル様……、ちっ、違うんです。それには理由が……」

「王妃が身ごもったそうだ」
「はい。……えっ?」

「7日後、バティヌス離宮へ行く。あなたも同行するように」
「わかるようにご説明ください、ディ……ふぁ、ッ」


 面紗ヴェール越しに、ディフィシル様の唇が僕のそれに触れる。ディフィシル様は直にキスするように僕の唇をついばんで、ヴェールをまとった舌先を僕の口の中に滑りこませた。


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