最終話 有明




「そなた、宇宰相の娘か?」


 男の身にまとっている深衣が太陽の光に金色の輝きを放って、蓮珠の手が小さく震える。目の前にいるのは、ちょう高僥こうぎょう。皇帝陛下である。


「陛下、俺の夫人つまです」


 蓮珠が「はい」と言うより早く、高僥に追いついた濤允が答えた。蓮珠は、息を弾ませる濤允を見て驚く。濤允の顔に、いつもと違う焦りの色が浮かんでいるからだ。様子がおかしい。直感がそう告げる。


「濤允。お前はやはり、宇宰相の娘を得てなにか画策しているのだな?」


 高僥が、濤允をにらみつける。口を慎みなさい。皇太后が高僥をたしなめるが、高僥は濤允を威圧的ににらんだまま皇太后に言葉を返した。


「濤允は罪人です。朕の許しなく皇宮へ入れてはなりませんと、何度言えばお分かりになる」
「なにを言うの、高僥」

「高僥ではなく、陛下です。呼び方に気をつけてください。そういえば、その娘は我が後宮に入るはずだったのでは? それを濤允に嫁がせてほしいと、宇宰相に頭をさげたのはあなただそうですね。皇太后」

「私は濤允の母よ。我が子の幸せを望んでなにがいけないの?」

「白々しい。朕もあなたの息子ですが、あなたはいつも濤允の味方だ。宇家という強力な後ろ盾を濤允に与えるとは。あなたの望む濤允の幸せとは、濤允が帝位に就くことですか?」

「濤允が帝位を望んでいないことは、あなたが一番よく知っているはずよ。お願いだから、もう濤允を苦しめないで」

「朕も心苦しいのです。未だに濤允を担ぎ上げようとする輩がいるものですから。では、こうしましょう。朕が皇太后と濤允を信用するために、宇宰相の娘を朕の後宮へ入れてください」

「……なんてこと。蓮珠は濤允の夫人なのよ!」

「濤允は、嫌とは言いません。誰よりも朕の味方でいると誓っていますからね。宇宰相としても、皇籍を剝奪された罪人より朕の方が娘の相手として満足でしょう」


 なぁ、濤允。
 高僥が、濤允にゆがんだ笑みを向ける。濤允は、皇太后と蓮珠の顔を見たあと、高僥と真正面から視線を合わせた。


 ――どこまでも愚かで哀れな人だ。


 兄に対して思うのは、ただそれだけ。血を分けた兄弟であるのに、冷たい感情しか湧いてこない。


「分かりました、陛下。しかし、急なことで夫人も驚いています。支度もありますから、少し日をください」
「馬鹿なことは考えるなよ」
「心得ております」
「三日後、湖光離宮に迎えを寄越す。よいな」


 濤允は「御意に」と答えると、青ざめた皇太后を背負った。まともに喋っているように見えるが、高僥は明らかにを起こしている。外廷で、精神を揺さぶられるなにかがあったのだろう。

 気が昂っている高僥に食い下がるのは得策ではない。高僥の性格をよく知っているからこそ、濤允はすんなりと身を引いたのだ。しかし、皇太后と蓮珠は地に足がつかない心地だった。


「皇太后、お体を大切になさってください」


 にたりと笑って、高僥が言う。その言葉に、情はこもっていないように聞こえた。濤允が、皇太后を背負ったまま高僥に一礼して木香薔薇の庭を歩き出す。蓮珠は、急いでそれに続いた。

 皇太后が、濤允の背中で涙する。もう先が長くないのだとおっしゃっていた。皇太后の悲しみの深い悲痛な表情に、蓮珠の胸が締めつけられる。
 濤允は、皇太后を寝所へ送り届けると、蓮珠を連れてすぐ皇宮を辞した。


「あの、わたくしは本当に陛下の後宮へ……?」


 帰りの軒車の中で、蓮珠は沈黙する濤允の顔をうかがいながら尋ねた。陛下の姿や声を思い返すと、恐ろしくてたまらない。

 数々の罪を犯した楊濤允が皇籍を剥奪されただけで済んだのは、陛下の実弟への温情あったればこそ。そう聞いていたから、陛下は血のつながりを大事になさっている御方なのだと思い込んでいた。

 けれど、ご生母である皇太后様への物言いも横柄で礼に欠けていて、聞いていた人柄とは程遠い印象を受けた。実弟の夫人を後宮へ召し上げるなんて、どう考えても尋常ではない。

「蓮珠。あなたは、今も皇后になりたいと願っているのですか?」
「いえ……。わたくしは、あなたの夫人ですし……」

「そうですね、蓮珠。あなたは俺の夫人です。ですから、あなたが皇后の座を望んだとしても、俺は絶対にあなたを手放しません」


 ふふっと軽やかに濤允が笑ってみせる。不思議。楊濤允の顔がほころぶと、心がほっとする。それに、手放さないという言葉がとても嬉しく胸に響いた。


「皇太后様は、大事なくお休みになられたでしょうか」

「薬を煎じるよう申しつけたので、大丈夫でしょう。しかし、最近は具合のよくない日が多いとか。俺がふがいないばかりに、気苦労が絶えないのでしょうね。親不孝な息子です、俺は」

「あの……。あなたは、本当に悪いことをなさったのですか?」
「ええ。ですから、皇籍を剥奪されて皇宮を追い出されました」


 屋敷に戻ると、濤允は蓮珠の手を引いて軒車をおり、門の前で出迎えた家令に宇宰相を呼ぶよう命じた。皇宮での出来事や今の状況を上手く整理できず、蓮珠はただ濤允の手を握って、黙々と濤允のあとをついて歩く。


 ――なんだか嬉しそう。


 濤允の横顔は、そんな感想を抱かせる相をしていた。濤允が、蓮珠の手を引いて輝蓮宮へ続く回廊を足早に進む。

「これから、あなたの父君と話をしなくてはなりません。疲れたでしょうから、あなたは輝蓮宮でゆっくり休んでください。陽佳に胡桃酪フーラータオを用意させます」

「……あの、わたくしがいては不都合ですか?」


 濤允の手をきゅっと握って、蓮珠が足を止める。心がざわざわと騒ぐ。今は一人になりたくない。楊濤允の傍を離れたくない。


「不都合ではありませんが、退屈な話ですよ。あぁ、そうだ。話が終わったら、宇宰相を輝蓮宮に案内しましょう。せっかくだから、父君と水入らずで……」


 いえ、と蓮珠は濤允の言葉を遮った。どうかしましたか? 表情でそう言いながら、濤允が背をかがめて蓮珠の顔を覗きこむ。一緒にいてと頼めば、楊濤允はきっと嫌とは言わない。けれど、素直にそれを口にできない。蓮珠は、濤允の澄んだ目を見つめて眉尻をさげた。


「もしかして、胡桃酪はお嫌いですか?」


 軽やかにほほえんで、濤允が尋ねる。蓮珠は、頬をほんのり赤く染めた。


「いえ、大好きです。胡桃酪は、とっ……、濤允様のお部屋でいただいてもよろしいですか?」

「今、なんと言いました?」

「あ……、厚かましくお願いしてごめんなさい。皇宮でいろいろとあったので、心もとなくて。い、一緒にいてほしいのです」


 わたくしは、どうして言い訳しているのかしら。
 らしくない自分の言葉に、ますます顔が熱くなる。きっと不審がられているに違いないわ。蓮珠は、恥ずかしさに耐えかねてふいっと視線をそらしてしまった。一方の濤允はというと、蓮珠を凝視したまま思考停止していた。


 ――濤允様。


 さえずりのような声が、俺の名前を呼んだ。心の中で、恭悦の大波がざぶんと押し寄せてしぶきを散らす。
 大好きというのも、もしかして胡桃酪じゃなくて俺のことなんじゃないか。そんな気さえしてしまう。


「あ、あの……」

「あ、あぁ……。申し訳ございません、蓮珠。俺の庵は、あなたを招くには華にも品にも欠けます。それでもよろしければ、その、喜んで……」


 だめだ、喜びが胸に収まりきらない。濤允は、だらしなくゆるみそうになった顔の筋肉に力を入れて必死に平静を装った。礼を言って赤い顔を伏せる蓮珠の手を引いて、回廊を引き返す。

 琉璃瓦の殿舎が甍を連ねる中に、ぽつんと建っている藁葺き屋根の小屋。そこが濤允の住まいだ。自室に着くと、濤允はいつも自分が使っている席に蓮珠を座らせて、陽佳に胡桃酪を用意させた。

 家令が宇宰相を伴って庵に現れたのは、陽佳が温かい胡桃酪を運んできた直後だった。父親との再会の喜びが胸をよぎったのは一瞬。美髯びぜんをたくわえた宇宰相の顔に浮かぶ険しい表情に、蓮珠はただならぬ雰囲気を感じておののいた。


「急にお呼び立てして申し訳ありません、宇宰相」
「話は皇宮で皇太后様にお聞きしました」
「三日後に、趙高僥が蓮珠を召し上げるそうです」


 濤允の言葉に、宇宰相が手で顔を覆って深いため息をつく。


「私は、濤允殿の后となるよう蓮珠を躾けました。あのような奸者に大事な娘をやるつもりはない。やはり、なんとしてでも先帝を説得するべきでした。濤允殿に帝位を継がせるべきだと。そうすれば、濤允殿が玉座に座り、我々は賢帝の御代を支える一助となれたはずだ」


 趙家の祖が長子継承を唱えて、気が遠くなるほどの星霜を経た。志を持って努力を重ねても、長子でなくては月にも太陽にもなれない。愚かな兄の贄となり、明け方の空に張りつく白い月影のように人目にも触れず、ただ天と共に空を巡って消えていくだけだ。


「いいえ、宇宰相。先帝が趙高僥に帝位を譲ると決心なされた時、俺は趙高僥の身代わりになって処分を受け入れる道を選びました。失敗を恐れたのです。そんな俺が帝位に就いたところで、賢帝になれたはずがありません」

 宇宰相は、濤允の発言を否定するかのように首を横に振って、奥の席に座る蓮珠に目を向けた。宇家の娘として、皇后になって然るべきと教え育てた。だから、誇りを傷つけられて婚礼後数日もしないうちに、実家に帰りたいと泣きついてくるのではないか。そう案じていた。

 趙高僥ではなく趙濤允が天子になっていたなら、蓮珠を皇宮へ嫁がせて皇后にしていた。趙高僥を帝位に就けてはいけない。先帝に進言もしたが、長子継承を覆すは趙家祖代への不忠だと聞き入れてはもらえなかった。太皇太后からの圧力もあったのだろう。

 蓮珠を湖光離宮に嫁がせたのは、権威や栄光よりも幸せを願ったからだ。趙高僥と縁を結べば、否応なしに運命を共にしなくてはならなくなる。沈んでいく船に我が子を乗せる親などいない。

「……濤允殿。三日の間、湖光離宮の門を閉ざして外へ出ないでください。その間にかたをつけます。次に湖光離宮の門が開く時、趙家の治世は終わっているでしょう」

「はい。俺はもう、世に暮らす一介の平民です。夫人にも累が及ぶことのないよう、よきに計らってください。俺は二度と皇宮の門をくぐらない。蓮珠と穏やかな一生を送れたら、それが本望ですから」


 宇宰相は楊濤允との話が終わると、蓮珠と短い時間会話を楽しんで湖光離宮を出ていった。
 その日の夜は、荒れた天気になった。風が吹き荒れて、激しい雨が地を叩きつける。回廊にも雨が打ち込んで、水浸しになっていた。輝蓮宮に帰ろうにも帰れず、蓮珠は濤允の庵で一晩過ごすことになった。


「ひどい雨だ」


 縁側の戸を閉めながら、濤允がつぶやく。蓮珠は、床に敷かれた寝具の傍らに落ち着かない様子で座っていた。華にも品にも欠ける。その言葉どおり、楊濤允のねぐらはがらんとしていて質素すぎる。それに、寝台を使っていたから、床敷きの布団なんて今まで一度も寝たことがない。正座したまま手を伸ばして、布団の端をめくる。


「お許しを、蓮珠」


 濤允の声に、蓮珠の手がぴくんと跳ねた。いつの間にか隣に座った濤允が、布団を触っている蓮珠の手をつかまえる。


「俺は気に入っているのですが、あなたには寝心地が悪いかもしれない」
「……ひ、一晩だけですし」
「一晩だけ? つれないな」


 手を引っ張られて、小さな悲鳴を一つ上げる間に押し倒されて組み敷かれた。今日は大変な一日だったように思う。宇宰相と楊濤允の会話を思い出しながら、蓮珠は唇を重ねようとする濤允の目を見つめた。


「困りましたね。あなたに見つめられると、どうしていいか分からなくなる」
「わたくしは、賢帝にふさわしくあれと父上からきつく言われていました。父上のいう賢帝とは、濤允様のことだったのですね」
「まさか。俺は色を好み、後宮の妃嬪まで手籠めにして皇宮を追い出された放蕩皇子ですよ」


 帝位がどうのなんて難しい話は、よく分からない。けれど、楊濤允が背負った罪は、すべて現皇帝陛下の犯した罪――。
 嘘ばっかり。蓮珠が言うと、濤允はばつが悪そうに苦笑いした。


「初夜で罵ったこと、怒っていらっしゃいますか?」
「いいえ、蓮珠。どのような言葉でも、あなたの声なら俺にとっては迦陵頻伽のさえずりです」


 燭台の明かりが、濤允の顔立ちに陰影を添えてゆらゆら揺れる。
 太皇太后様の古希祝いで楊濤允に声をかけたのは、憐みと好奇心からだった。人道に背いた咎人だと、さげすんでいたのだ。無知で愚かな自分が恥ずかしい。


「……濤允様」


 なにも知らず、無意味な誇りでこの人を傷つけた。いえ、わたくしは父上の気持ちすらも分かっていなかった。


「許してください」


 声を震わす蓮珠の額に、濤允がそっと口づけを落とす。

「蓮珠。あなたはなにも心配しなくていいし、気に病む必要もないのですよ」
「でも」

「そうだ。天気のよい日に書肆しょしへ行って、あの俗書の続刊を買いましょうか」
「嫌ではないのですか? 夫人が俗書を好むなんて」

「あなたにだけこっそりお教えします。俺は、禁書に手を出していますから、俗書などどうということはありません」

「禁書ですって?」

「はい。恥ずかしい話ですが、後宮の妃嬪を手籠めにして皇宮を追い出されたのに、俺にはその……、女性の経験がなかったので……。あなたにそれを気取られないよう、閨のあれこれを禁書で勉強しております」


 濤允が顔を赤くしたので、蓮珠もつられて赤くなってしまった。
 一度だけ、春画なるものをちらりと見たことがある。恥ずかしくて、とても見られたものではなかった。それを凌ぐであろう禁書とは、一体どのような内容なのだろう。しかも、勉強しておりますって……。突然の告白に、それまでの話はすっかり頭から飛んでいってしまった。


「蓮珠にお願いがあります。両の手足をついてそこで四つん這いになってくれませんか?」
「……え、はい?」
「ほら、早く」


 言われるがまま、蓮珠はわけが分からない状態で四つん這いになった。背後に忍び寄った濤允が、蓮珠の真っ白なくんをまくり上げて柔尻に指先をくい込ませる。そして、尻の割れ目を左右に広げた。


「……な、なにをなさるの?」


 蓮珠は驚いて腰をひねる。すると、濤允が顔をうずめて、舌先で陰核をつんつんと突いた。


「あ…っ、ん」


 生温い濤允の舌が、固くなったり柔らかくなったり器用に形を変えながら秘裂を丁寧に舐め上げていく。舌で暴かれるのはとても恥ずかしい。


 でも、すごく気持がちいい。


 上体を支える腕が、ふるふると震える。余計な自尊心が、気持ちよさに溶けていく。ぴちゃぴちゃと、膨れた赤い尖りを舌でもてあそばれて口で啜られると、蓮珠はたまらず喉を反らして小さな悲鳴を上げた。



 ◆◇◆



 楊濤允の屋敷は、皇帝がお暮しになっている皇宮からほど近い都の一等地に、楼閣のような正門を構えて威風堂々と建っている。禅譲ぜんじょうにより趙家の治世が滅して数年。今はもう、濤允の屋敷を離宮と呼ぶ者はいなくなった。

 時折、楼閣のような門が開いて、屋敷の主人と夫人が街へ出かける。手を繋いで街を歩く二人は、評判の鴛鴦おしどり夫婦だ。

 春の盛りが過ぎて初夏にさしかかったある日の朝。
 輝蓮宮の庭の一角で、木香薔薇が満開になった。しわのある貴婦人の手を引いて、蓮珠はゆっくりと庭を歩く。空から、柔らかな日差しがそそいでいる。今日もいい一日になりそう。


「足元に気をつけてくださいませね、お母様」
「ありがとう」


 楊濤允によく似た顔をほころばせる貴婦人の笑顔は、とげのない木香薔薇のように可憐で上品だ。あぁ、幸せ。蓮珠の胸をすっとその言葉が通り過ぎた瞬間、少し膨らんだ腹の内側を小さな命が蹴った。


   

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