翌朝、目を覚ますと、すでに楊濤允の姿はなかった。かけられた布団をめくって、重たい体を起こす。真夜中の出来事は悪夢だったのではないかと期待して、下腹部に鈍く残る破瓜の痛みに現実を突きつけられた。さらに、侍女を呼ぶために体の向きをかえた時、両脚の間をどろりとしたものが流れる不快な感覚におそわれた。
ぱたぱたと、複数のせわしい足音が寝所に向かってくる。側仕えの侍女たちのものだろう。立ち上がろうとして寝台に手をつくと、指先に硬いものが当たった。見ると、黄色がかった象牙のかんざしだった。それには見覚えがある。昨夜、楊濤允の髪にささっていたものだ。
蓮珠は、それを手に取ってじっと見つめた。
皇家の象徴である五本指の龍が彫刻されたかんざし。象牙の質や細工の細かさから、相当に高価な品であることは明らかだ。かんざしだけではない。まだ新築の初々しい塗料や木材の香りがするこの宮も、実家をはるかにしのぐ豪華なたたずまいをしている。
陛下の温情だけで、皇籍を剥奪された咎人にここまで裕福な暮らしが許されるものなのだろうか。
「お目覚めでございますか、夫人」
朝に鳴く小鳥のように朗らかな声がして蓮珠が顔を向けると、寝所の戸口に年のころ十五、六の愛嬌ある侍女が二人並んで拝礼していた。青い襦裙を着ているのが陽佳で、深い緑の襦裙を着ている方が嬬嬬だ。昨日、輝蓮宮に初めて足を踏み入れた時から気持ちのいい対応をしてくれる二人を、蓮珠はよい印象を持って覚えていた。
「楽にして」
二人を近くに呼ぶ。本当は、実家から慣れ親しんだ侍女を連れてきたかったのだけれど、濤允がそれを許さなかった。事情のある人だから、他人に知られたくない、知られては不都合なことが山ほどあるのだろう。
「朝食の前に、沐浴をいたしましょう」
陽佳が、蓮珠の手を取って言った。そうね、と立ち上がった蓮珠は、嬬嬬に楊濤允はどうしたのかと尋ねた。
「旦那様は、陛下に呼ばれて皇宮へ行きました」
「そうなの。かんざしをお忘れになっているから、あなたに届けてもらおうと思ったのですけれど」
「お昼を過ぎたら帰ってみえますよ。それに、今夜もこちらへお渡りになられるそうですから、夫人から直接お返しください。その方が旦那様も嬉しいでしょうし」
嬬嬬の健気な笑顔がまぶしくて、蓮珠は気恥ずかしそうな笑みを返す。陽佳と嬬嬬の人懐こい笑顔は、蓮珠の孤独を紛らわす春のひだまりのように暖かかった。
ともあれ、いつまでも婚礼の衣装を着ているわけにもいかない。ほどよく空腹でもあるし、蓮珠は二人を連れ立って湯殿へ向かった。
◆◇◆
楊濤允は、皇宮の回廊を足早に歩いた。
向かう先は、実兄である皇帝が暮らす黄金宮だ。黄金宮とは正式な名前ではない。馬鹿がつくほど金を貼った殿舎を、濤允が心内でそう呼んでいるのだ。
皇宮を訪ねる時、濤允は皇子らしからぬ質素な深衣と表着に身を包む。今日は、安物の絹を黒染めした、下級文官がお召しになりそうな粗末な衣を選んだ。
黄金宮に着くと、入り口に宮女が数人立っていた。陛下は寝所で休まれている、とだけ告げて宮女が扉を開ける。濤允は、いつものように黄金宮の最奥にある寝所を目指した。皇帝の宮は、寝所一室さえも驚くほど広い。濤允は寝所の入り口に立つと、奥の寝台に向かって「陛下」と言った。
「おお、来たか。……っ、早かったな、濤允。少し待て」
薄絹の帳の向こうから、いつものように息を弾ませた趙高僥の声が返ってくる。濤允は、床に両膝をついて胸の前で両手を組むと、顔を伏せて高僥のお出ましを待った。
宮女たちは皆さげてあるらしい。静かな部屋に、ぎしぎしときしむ木製の音が響く。それから、女の甲高い喘ぎと男の短い呻き声も。これも、いつものことだ。
昼前だというのに、呼び出されたのが外廷ではなかった時点で容易に予想できた。兄上が情事の最中であることは。具合が悪いと偽って、朝議の途中で後宮へ戻ったのだろう。
濤允は礼をとったまま、静かにため息をつく。高僥は、少しでも不安や怒りが心に巣食うと、性的な欲求に全身を支配されて女を抱かずにはいられない病的な色狂いだ。まだ、妃嬪から外朝の人事などへの容喙や女謁がないだけよい。しかし、高僥の性格上、それも時間の問題であろう。
しゃらりと珠のれんが揺れて、真っ白な絹の汗衫を雑に着た高僥が小走りで近づいてくる。高僥は、膝をついて拝礼する濤允を立たせると、弟の引き締まったがたいに勢いよく抱きついた。
「何事かございましたか? 兄上」
濤允は、奥の寝台でのそりと体を起こす全裸の女を高僥の肩越しに見ながら、感情のこもらない口調で言った。あれは妃嬪ではない。見知らぬ女……、宮女だろうか。
「朕を見捨てるな、濤允」
「どういう意味です?」
「宇宰相の娘を手に入れて、朕と距離をおく気であろう」
「まさか。俺が兄上を大切に思っていることは、兄上が一番よく分かっておられるはずです。俺たちの間柄は、これまでどおりなにも変わりませんよ」
「……不安なのだ。臣の中には、いまだにお前こそ帝にふさわしいと考える者がいる。いつかお前が朕を討つのではないかと、怖くて怖くてたまらない」
間もなく二十六になるというのに、二つ下の弟にしがみつく高僥は図体のでかい幼子のようだ。
「兄上、女が聞き耳を立てております。滅多なことは口になさらないほうが宜しいのではありませんか?」
「よい。あれは、あとで処分しておく。誓え、濤允。誰よりも朕の味方でいると、今ここで誓え。朕にはお前しかいない。お前だけがよりどころなのだ。頼む、濤允……っ!」
高僥が、濤允の背に回した手ですがるように安物の衣をつかむ。その呼吸は大きく乱れていて、空腹の獣じみたうなりを伴っている。そのうち頭の血がはじけて、死んでしまうのではないかと濤允は思った。まぁ、腹上死なら兄上に似合いの最期だ。
「父上の後宮で、兄上の子が何人生まれましたか?」
「……知らぬ。数えたこともない」
「長子継承の理に反して、国を乱す気はありません。無用な争いを避けるために、俺は兄上の罪をすべてこの身に引き受けたのですから」
「恨んでいるのか?」
「いいえ」
「よいか、濤允。お前が暮らしに困らぬよう、朕が便宜を図る。だから、朕を見捨てるな。裏切るな……っ!」
「はい、兄上。おおせのとおりに」
濤允の意思を確認して安堵したのか、落ち着きを取り戻した高僥が「さがってよい」と言って離れる。高僥に退室の礼をとる間際、濤允は寝台の女を一瞥した。その目に浮かぶは、女への憐みの色だ。
事情は様々あれど、後宮で妃嬪や宮女が姿を消したり命を落としたりするのは、決してめずらしいことではない。
黄金宮を出ると、真昼の太陽がさんさんと地を照らしていた。蓮珠は今ごろ、なにをしているだろうか。濤允は、蓮珠を思いながら皇太后の宮へ足を向ける。
皇宮へは、高僥の許しなくては入れない。最近、母親の具合がよくないと聞いたので、この機に顔を見て帰ろうと思ったのだ。
皇太后は、木香薔薇が植えてある庭に面した窓際で、いすに腰掛けて飲茶を楽しんでいた。木香薔薇は、薔薇のくせにとげを持たない。花の色味も柔らかく、その名のとおり芳香もよいので、皇太后はこの庭をとても気に入っているそうだ。今が花の季節ではないのは、少し残念である。
濤允が宮女の案内で部屋に入ると、皇太后は瞬時驚いて、すぐに嬉しそうな笑みをこぼした。先帝の皇后であった皇太后は、年を重ねても美しく気品に満ちあふれている。高く結われた髪にさされた金の歩揺や皇家の黄に染まった襦裙が、とてもよく似合う。高僥は父親の相を継いでいるが、濤允は外見も中身も皇太后にそっくりだった。
「皇太后」
濤允は、母親の傍に立って礼をする。すると、皇太后が濤允の手を取って、向かいのいすに座るよう言った。
「よそよそしい呼び方はよして、濤允。私はあなたの母なのですから」
「では、母上。お加減はいかがですか?」
「このとおりよ。それよりも、今日はどうしたの? 婚礼を済ませたばかりでしょうに」
「陛下に呼ばれました」
そう、と皇太后が憂いの目を庭に向ける。
「あなたが高僥より先に生まれていたならと、いつも思っているの」
「母上、そのことは言わない約束です。食うに困るわけでもなし、自由がきく今の暮らしを俺は気に入っています。なにより、夫人に後宮の暮らしを強いる必要がない。帝位に就いていたら、このような幸せは味わえなかったでしょう」
あなたは優しい子ね。皇太后は、言葉の代わりに目尻にしわを寄せて茶を一服含んだ。濤允もそれに従って、宮女が淹れた茶をありがたくいただく。
「宇家の娘はどうなの? 気位の高い、難しい子だと聞いたけれど」
「後宮へ入るための教育を受けてきたのですから、それは致し方のないことです。ですが、俺は夫人の胸の内にある優しさを信じています。お祖母様の古希祝いで、俺に声をかけてくれたのは彼女だけでしたから」
「あらあら、憎らしいわね。あなたが誰かに肩入れするような物言いをするなんて。今は婚礼のあとで忙しいでしょうから、落ち着いたらここへ連れていらっしゃい」
「夫人をですか?」
「心配しなくても、取って食ったりはしませんよ。ただ、のんびりと三人で飲茶を楽しみたいの」
「……はぁ。そういうことでしたら」
困ったことになった。
皇宮から自宅へ向かう軒車の中で、濤允は頭を抱えた。皇太后の誘いを断る理由も必要もない。しかし、蓮珠はどうだろう。皇宮への未練を断ちきれていないだろうから、彼女を傷つけて心情を逆なでするだけではないのか。
皇宮と湖光離宮は目と鼻の先だ。
悩みを解決する暇もなく、軒車はすぐ屋敷についてしまった。
日が落ちて、湖光離宮に夜の帳がおりる。夏虫が鳴いていた庭はしんと静まり返って、遠くからほーほーとふくろうの低い鳴き声が聞こえ始めた。
蓮珠は、寝支度を済ませて濤允を待った。あとは寝るだけ。世話は必要ないから、陽佳と嬬嬬はさがらせた。二更を過ぎる。しかし、まだ来ない。昨夜のように、真夜中に来るつもりだろうか。
手に持っていた象牙のかんざしを机において、夜着のまま部屋を出ると、回廊の吊り灯篭がかすかに揺れていた。肌には感じないけれど、夜風が吹いているらしい。
寝所を出てすぐの回廊からは、空がよく見える。綺羅星を従えて悠然と輝く杪夏の月。今日は、猛禽類のかぎ爪のように鋭い形をしていた。ふと、人の気配を感じて、柳がそよぐ庭に目をくれる。すると、そこに濤允の姿があった。
着丈の長い白の表着をまとって月明かりを浴びる濤允のすらりとした黒い影が、その足元から玉砂利の上に伸びている。
「あ……」
旦那様。濤允様。あなた。
どう呼べばよいのか分からず、濤允を見つめたまま立ちつくす。強い風が、回廊から庭へ吹き抜けていった。夏が終わる、そんな気配をかもした風だった。
しばらくそうしていると、濤允が気づいて駆け寄ってきた。傍に来た濤允は、慌てた様子で表着を脱いでそれを蓮珠の肩にかけた。
「まだ暑いとはいえ、夜更けにそのような薄着で外へ出ては風邪をひいてしまいますよ」
蓮珠は、結構ですと言いかけて言葉を喉にひっかける。濤允の優しいまなざしと表情に、不意をつかれたのだ。濤允の背丈に合わせてある表着は、蓮珠の身にあまって回廊の石畳に裾野を広げている。蓮珠が急いで裾を持ちあげると、体がふわりと宙に浮いた。
「おっ……、おろしてください!」
「こうすればあなたの体も冷えないし、俺の衣も汚れないでしょう? 俺に触られるのは、そんなに嫌ですか?」
蓮珠は、返事に窮した。嫌ではある。けれど、それが問いの答えとして正しいのかよく分からない。蓮珠を横抱きにかかえて、濤允が寝所の敷居をまたぐ。蓮珠は、ちらりと濤允の顔を見上げてすぐに視線をさげると、小さな声で濤允に尋ねた。
「庭で、なにをなさっていたのですか?」
「迷っていました」
「ご自分のお屋敷ですのに?」
信じられない、と真顔で柳眉を寄せる蓮珠に、濤允が「いえ、そうではなくて」と困ったように笑む。
「あなたの寝所に入っていいものかと、迷っていたのですよ。昨夜も庭でああしていました」
「だから、あんなに遅かったのですか?」
「はい」
寝台に腰かけるようにおろされる。今宵の寝具は、昨夜とうってかわって真っ白い新雪のような色をしていた。濤允が、昨夜と同じように足元にひざまずいて、蓮珠の錦鞋を脱がす。蓮珠は、思わず足を引っ込めた。昨夜の記憶がそうさせたのだ。
「体は、大丈夫ですか?」
蓮珠の足から手を離して、ひざまずいたまま濤允が問う。蓮珠が小さくうなずくと、濤允はよかったと言うようにくしゃりと表情をゆるめた。
「今日は、陛下に呼ばれて皇宮へ行ってきました」
「陽佳と嬬嬬がそのように申しておりました」
「母が、あなたに会いたいそうです」
「皇太后様が?」
「はい。それで、あなたにお願いがあります。俺と一緒に皇宮へ行ってくれませんか?」
無理にとは言いません、と濤允がつけ加える。蓮珠は、少し困った顔で考え込んだ。楊濤允の夫人として皇宮へ赴く……。陛下の妃嬪たちとも顔を合わせる機会があるのだろうか。それは少し、誇りを傷つけられる。本当なら、妃嬪たちを従える立場にあるはずだったのに……。
しかし、どのような事情があっても、皇帝の生母である皇太后の誘いを断るわけにはいかない。蓮珠は、小さく首を縦にふった。
「ありがとう、蓮珠」
濤允が蓮珠の夜着の裾を指先でつかみ、身を低くして額につける。どうして、この人は簡単に頭を垂れるのだろう。昨夜だって、ひどい言葉を浴びせたのにちっとも怒らなかった。本当に男としての矜持も皇子としての誇りも持たないのかしら。それとも、大罪を犯したから身を慎んでいるの?
蓮珠の夜着から、濤允の手が離れる。濤允は立ち上がると、蓮珠の横髪を梳き上げるように柔らかな頬を両手で包んだ。濤允の顔が近づいて、肩から表着が滑り落ちる。
離して。
蓮珠の拒否は、朱唇をふさいだ濤允の口に吸われて溶けてしまった。蓮珠が濤允の両手首をつかむと、すぐに唇が離れた。唇の上に、不思議な感触と熱が残っている。蓮珠の頬を包んだまま、濤允が静かに言った。
「今宵は、衣を脱いで肌を合わせたい」
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