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第36話 宮様と愛妻(1)




「気分は悪くないですか?」

「うん、悪くない」

「では、少しずつ」

「うん」


 散蓮華さじですくった粥にふぅっと息を吹きかけて、沙那は用心しながら八条宮の口元に運ぶ。
 間もなく、弘徽殿女御のご乱心からひと月。
 かいがいしく世話を焼く姿がすっかり板についてきた妻の給仕に、八条宮の気分と機嫌は上々だ。上半身を起こしていられる時間も長くなって、自分で口の世話をできるくらいには回復している。

 しかし、こうも堂々と恥も外聞もなく甘えられる機会はそうそうないから、八条宮は沙那の「無理をなさらないで」という親切心にちゃっかり甘えているのである。

 当初、高家の夫人にそのようなことはさせられないと雷鳴壺の女房たちが給仕を申し出たのだが、琥珀色の瞳が眼光鋭く彼女たちを睨んだせいで、沙那が食事の世話係になったという経緯もあった。


「玄幽はどこへ?」

「帝に呼ばれて、中殿に」

「……そうか」


 たいして塩気がなく無味に近い粥だが、妻が口に入れてくれると甘味を感じるから不思議だ。

 沙那が、粥の椀と散蓮華を膳台に戻して、今度は箸で干魚の身をほぐす。
 傷の治りも問題なく、体を起こして食事を摂れるようになったとはいえ、八条宮は玄幽からもうしばらく安静にするようにと言われている。

 しかし、寝てばかりでは足が弱ってしまう。それを心配した沙那が玄幽に相談したら、少しの時間なら廂に出て庭を眺めるくらいはしてもいいそうだ。

 朝の食事が終わると、八条宮は単衣を替え髪を梳き、八条院で過ごす時と同じように身支度を整えて廂へ出た。

 雷鳴壺へは許可なく近づくなと、帝が宮中に触れを出している。白い砂利が敷き詰められた庭は、冬めいた陽光を静かに浴びていた。


「今日もいいお天気ですね」


 寒くはありませんか? 沙那は八条宮の横に腰をおろす。そして、にわかに線が細くなった八条宮の横顔を見ながら、どう話を切り出そうかと考える。

 帝は、毎日欠かさず雷鳴壺にお越しになる。八条宮の顔を見て、沙那にまで労いの言葉をかけてくれる。しかし、菊見の宴でどうしてあのような信じられない出来事が起きたのか、なにもお話しにならない。



 ――生きた心地がしなかった。



 傷口の生々しさや血に染まった衣、蒼白な八条宮の顔を思い出す度に胸が嫌にざわついて動悸がする。


「八条院は変わりないだろうか」


 事件のあと、帝が八条院に報せを届け、それから毎日のように沙那が八条宮の様子を文で伝えているから、八条院の女房たちも事の次第はおおかた知っている。皆とても心配しているようだが、八条宮と沙那の帰りを待ちわびながら、主人に代わってつつがなく新年を迎える準備に勤しんでくれているらしい。頼もしい限りだ。


「はい、変わりないようです。ご心配なく」


 沙那が答えると、八条宮が空風になびく木々を眺めながら一つ、二つ、幼いころの話をした。それから八条宮は、沙那に向き直ってありがとうと言った。


「いえ、わたしはなにも。そばで見守るしかできず心苦しいばかりです。でも、依言様がここまで元気になられて、心底ほっとしました」

「あなたが玄幽を呼んでくれたから、俺は死なずに済んだ」


 八条宮が、傷に障らないように控え目に笑う。


「……もう。わたしの下穿きをご愛用くださるのは嬉しいですけれど、晴れの日にまで着用なさるなんて。しかも、淡泊……。皆に見られないように処分するのは、大変だったのですよ」


 下穿きは、八条宮が着用していた束帯や沙那の袿などの着物と一緒に、すぐに護摩の火にくべられた。血で穢れたものを、いつまでも残しておくわけにはいかないからだ。


「そう言わないで、沙那。あの下穿きを着けていたからこそ、俺はあの状態で玄幽を呼んでもらう口実を思いついたのだから」

「玄幽様を呼んでほしくて、下穿きを引き合いに出したのですか?」

「あなたなら俺の尊厳を守るために、どのような手を使っても必ず玄幽を宮中に連れて来てくれると信じていたよ」

「どうして玄幽様を? 腕が確かな薬師だからですか?」

「それもあるが、帝が玄幽の所在を知りたがっていたから」


 それに、このまま玄幽を八条院に連れ帰れば一石二鳥だ。


「帝が……?」


 きょとんとする沙那に、八条宮が少しかしこまって言う。


「前に夏の話をしたとき、あなたに全てを話せなかった。今ここで、それを話してもいい? あなたが必要ないと思えば、俺はあなたの膝を枕にして大人しく昼寝をする」

「……あの、依言様。どうして弘徽殿女御様が凶行に及んだのか、わたしはそれを知りたいです。依言様にそれをお伺いしてもいいものか、ずっと悩んでいました」

「弘徽殿女御から、なにか俺の話を聞いた?」

「あ、いえ。女御様が依言様を月宮とお呼びになるので、つい気になってしまって。お尋ねしたら、子どものころから見知った仲だとおっしゃっていました。あとは、月宮の妃になるはずだったとも」

「そう……。あなたに話しそびれたのは、弘徽殿女御のことなんだ。でも、誤解しないでほしい。俺とあの者はただの顔見知り。それ以上の関係ではない」


 沙那は、ずいっと身を乗り出して気合いの入った目で八条宮を見つめる。
 八条宮が弘徽殿女御に向けていた、寒々としたまなざし。二人が懇意の仲ではないことは明白だ。八条宮の看病をしながら、どうしてと解けない謎が頭を埋めつくし、今も女御に対する強い怒りが胸を焼く。


「分かりました。では、お昼寝はお話しのあとでごゆっくり」

「うん」


 昔を語る八条宮の声は抑揚なく、表情も明るくない。沙那は、ただじっと聞き役に徹する。
 初夜の食あたりが実は毒のせいで、あの椿餅の送り主が弘徽殿女御だったと言われたときは、さすがに怖くなって体が震えた。そして、夏姫が亡くなった残酷な経緯に愕然とした。

 沙那は、欲望のままに人に危害を加える者がいると身をもって知っている。無残に邸と母親を焼いた盗賊のような人間が、この世には確かに存在するのだ。

 話を終えた八条宮が、単衣の合わせから取り出した香り袋を握り締める沙那の手を取る。


「あなたを危険な目に遭わせておきながら、俺は謝罪の言葉ひとつ口にしなかったな。沙那、すまなかった」

「いいえ、依言様はなにも悪くありません。それに、わたしはこのとおり健やかに生きておりますから、気に病まないでくださいませ」

「ありがとう」

「それで……。夏姫の件はどうなさるおつもりなのですか?」

「帝は俺に、過去を引きずるより幸多い未来へ向かって進んでもらいたい、そのために裁きが必要だとおっしゃった。だから、弘徽殿女御のことは帝に全てお任せしようと思う」

「帝を信頼なさっておられるのですね。依言様はその……、それで心穏やかに過ごせますか?」


 どれほど時がたとうとも、夏を守れなかった後悔や自責の念は消えない。弘徽殿女御につけられた腹の傷と共に生涯この身に残る。だが、沙那が俺の過去を背負う必要はない。


 夏は、俺を許してくれるだろうか。
 俺は沙那と共に在り、沙那を幸せにしたい。愛おしいんだ、沙那が――。


 ぽたっと八条宮の膝にしずくが落ちて弾ける。沙那は、袿の袖で八条宮の目元をそそっと拭った。香り袋を握っていた沙那の手から、ふわりと移り香が香る。


「罪を償わなくてはならないのは、依言様ではなく女御様です。依言様が穏やかに過ごせるよう、わたしも怒りは胸の中にきつく閉じ込めておきます」

「優しいね、あなたは」

「依言様にだけ、ですよ」


 沙那、と八条宮が顔を近づける。鼻先がこつんとぶつかって、沙那は慌てて八条宮の口を手で塞いだ。


「な、なりません」

「なぜ? そういう雰囲気だろう」

「こっ、ここは帝の宮です。ふ、ふぅ……ふしだらな行いは不敬でございます」

「では。八条院に戻ったら、いいの?」


 沙那は、真っ赤な顔でこくこくと頷く。八条宮が笑いながら姿勢を戻すと、ちりちりと鈴の音がして黒い塊が膝の上に飛び込んで来た。


「ナギ!」


 八条宮と沙那が目を丸くして声をそろえる。ナギが体を伸ばして八条宮の胸に前足をつき、押し倒す勢いで顔を舐め回す。


「やめろ、ナギ。俺には、雄と愛情を確かめ合う趣味はないぞ……くッ!」

「みゃぁああ」

「大体、どこから入って来たんだ。内裏は無位の猫がみだりに立ち入っていい場所ではない。こら」


 ナギはひとしきり八条宮をぺろぺろしたあと、今度は沙那の膝に陣取って体を丸めた。頭をなでてほしいという体勢ポーズだ。





「依言はつつがなく、快方へ向かっているようだね」


 八条宮と沙那の様子を御簾越しに見ていた帝が、にこやかな笑みを浮かべる。八条宮の見舞いに訪れたのだが、二人が廂で話し込んでいたので、声をかけるも忍びなく話が終わるのを静かに待っておられたのだ。


「八条宮様に声をかけてまいりましょうか」


 典侍が小声で帝の意向をうかがう。帝は小さく首を振り、音を忍ばせてその場を離れた。





 菊見の宴からひと月と十三日。
 八条宮と沙那、そして坂上玄幽を乗せた牛車が八条院の車寄せに停まった。冬の夜明けきらぬ早朝だというのに、御所から検非違使が護衛し、宣旨や品々を携えた高位の女官らがぞろぞろとやって来たので、八条院の女房たちはその対応に追われて主人の帰還を喜ぶ暇もなかったという。

 自邸に戻った八条宮は、日を置かずに夏姫が埋葬されている寺に向かった。帝の許しを得て、新しい年を迎える前に夏姫を弔おうというのだ。

 八条宮につき添うのは、玄幽と古参の女房、それから帝の命を受けた検非違使たちだ。夏の邸に収められていた縁の品々も全て荷車に積まれて、八条院から運び出された。

 喪服に身を包んだ八条宮を見送り、沙那は主寝殿ではなく北の対屋に向かう。雲一つないよい天気なのに、はらりはらりと真綿のような雪が舞う寒い日だった。


「一緒に行かなくてよかったのですか? 宮様もお望みでしたのに」


 小梅が北の対屋の妻戸を開ける。沙那は部屋に入って敷物の上に腰をおろして、胸元から香り袋を出した。


「二人の時間に、わたしが水を差すのは忍びないでしょう? わたしはここで依言様のお帰りを待ちながら、来世では二人が幸せであるよう神様に祈るわ」

「そんなことをおっしゃって。姫様だって生まれ変わっても宮様と一緒になりたいのではございませんか?」

「そうね。わたし、依言様が大好きよ。でも、来世ではまた母上の子に生まれて、今生でできなかった親孝行というものをしてさしあげたい。きっと恋にうつつを抜かす暇はないと思うから、依言様のことはこの命の限り、精一杯愛すると決めているの」

「姫様……」


 涙を流してずびっと鼻をすする小梅に、沙那は「依言様には内緒よ」と茶目っ気たっぷりに片目をつむってみせたのだった。


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コメント一覧 (6件)

  • にゃんこかわよ♡
    沙那ちゃんいい子だなぁ(´;ω;`)
    来世は宮様と二人で母上に親孝行したらいいんやで。
    ほのぼのした二人の空気がとても良いです。
    沙那ちゃんの恋が成就してよかった!でもそれ以上に宮様が幸せそうで、よかったね宮様!
    鋭い眼光で女房たちを牽制しちゃダメよwww

    • ちまきさん♡

      なんでにゃんこってこんなにかわいいんだろうね🐱
      私アレルギーで飼えないから、ちまきさん家の猫ちゃんとかTwitterのTLに流れて来る癒しのモフモフ達を想像しながらナギを書いてる😁💕
      沙那と宮様が幸せ~な一生を送れるように、ラストスパート頑張ります!

      すっごくノロノロで、何年かかってんねん!ってツッコミたくなる速度だけど、いつも優しく二人とフンドシを見守ってくれてありがとー!

  • 沙那ちゃん、本当に懐が深いしっかりした子ですよねぇ(*´ω`*)宮様のお気持ちもしっかりと受け止め、尊重して邪魔なさらない。
    これは宮様も愛さずにはいられないでしょう。そしてナギがめちゃくちゃ可愛い……!
    ちょっとお邪魔しちゃったけど、宮様は安静になされないといけないし、もふもふは正義ですよねぇ。
    ほのぼの回でございます(*´∀`*)

    • 琉璃さん♡

      推しは命!だから、沙那は宮様を大事にしてるんだと思う~💕
      うんうん、宮様もちゃんと沙那をぎゅってしてほしいなって思いながら書いています✨
      そして、ナギ……というか、もふもふってなんでこんなにカワイイのかー!(*ノωノ)
      もっと「みゃあみゃあ」言わせたかった(笑)

      いつもありがとうございます!
      書いてるとコレオモロインカ病に罹って苦しむんだけど、いつも励ましてもらって楽しい気持ちで書けてます🥰
      心から感謝~🙌💕💕

  • 沙那ちゃんが本当に良く出来た北の方で…沙那ちゃんの包容力で、宮様も心から幸せになっていただきたい!!

    そしてぜひ来世でも比翼連理の夫婦になっていただきたいところですが、夏姫を想って今世に全力投球するところが沙那ちゃんらしいですよね。

    前話最後に凛子様が遭遇した御方とのお話が気になるのと、宮様が診察を受けた時ってノーパンだった?!と今さらながら気づいて『あの下穿きより、ノーパンの方が恥ずかし…いや、やっぱり下穿きの方が恥ずかしいか…』と思うなどしております(笑)

    完結が近づいてきて、嬉しいけれど寂しいです…

    • kaoriさん♡

      沙那は私にとっても癒しの存在で、書いていると嫌な気持ちがすすーっと浄化されます(笑)
      ほんと、宮様には幸せになってもらいたいです😊

      そして、kaoriさんのコメント読んでめちゃくちゃ笑いました!
      というのも私自身、書いていて「あ、ノーパンや。まぁええか😋」と思っていたのです🤣
      あ、そうだ。ここは典薬寮の方々のご配慮で、恐れ多くも親王様のイチモ〇を見ないように、そっと掛け布か何かを被せた……ということで🥳

      ちゃんと完結させて気持ちよく新年を迎えるべく…!頑張ります✨
      いつもありがとうございます!!💖