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第34話 菊の花と檻(3)



 ❖◇❖


 宴の刻が迫る。
 大殿には、帝から参列を許された黒装束の殿上人たちがずらりと並んで座っていた。彼らは扇で口元を隠し、上座に目をくれなにやらこそこそと声をひそめる。帝が御座される繧繝縁の畳の横、弘徽殿女御が独占してきた妃の席に麗景殿女御の姿があるからだ。


「なんとしたことであろう。東宮のころよりご贔屓の弘徽殿様が、奥間におられる」

「面白い光景だな。悠久と思われた寵もついに切れたのか?」

「いくら美しくとも御子を成さぬ妃では……」

「さよう。近頃は召されておらぬと聞き及んでおる。弘徽殿様の父君も肝を冷やしておられよう」

「これ、口を慎め。天下の右大臣様にうっかり聞こえでもすれば、明日から参内できなくなるぞ」

「おお、それは怖い」


 下座から聞こえてくる嘲り交じりの声に、右大臣がぎりぎりと唇を噛む。

 沙那は衣装と髪を整えて、八条宮と共に典侍の先導で雷壺を出た。帝は住まいの中殿で身を清め、神々へ遥拝したのちに出座なされる。宴の開きに際して笛の音を帝に献上する八条宮は、雅楽寮の楽師たちと大殿の南庭に設えられた大舞台に座し、沙那は大殿の奥間に用意された席について帝のお出ましを待った。

 先帝から親王宣下と正一品の位を賜り、帝位継承の権を持つ八条宮が、公式な行事の場で楽師と同列に並ぶ。それは、至高の地位にある日之御門ひのみかどに臣としての礼をつくすに等しい。

 親王は臣にあらず。
 下手をすれば皇家の尊厳を損ねかねない行為だが、この場に八条宮を非難する者は一人もいない。帝と八条宮の立ち位置こそが、先帝が御所を照らす一対の光と称えた日宮と月宮の絆の強さそのものだからだ。

 八条宮が帝位に就く気はないと公然と態度で示せば、宮中に無用な争いを起こさずに済む。守るべきは親王としての体面ではなく、日之御門の安寧な御代。それをわきまえて、八条宮は帝主催の宴に華を添える脇役に徹するのだ。



 ――沙那。


 八条宮は、舞台上から沙那がいる奥間の方へ目を向けた。南庭からは距離があるうえに、御簾がおろされた部屋の中にいる妻の姿は見えない。しかし、笛の音はいかなる距離や垣根を越えて、しっかり妻の耳に届くだろう。

 楽所がくその別当が、禊がれた横笛をそろりと神饌台に置く。先日、八条院で手入れをした新しい笛だ。御所へ向かおうとした車寄せで、笛の音を聴けると表情を明るくした沙那を思い出して、左胸に手をあてる。

 今まで、宮中では帝の御ためにだけ演奏してきた。しかし、今日は。今日だけは、妻のために奏でることをお赦しいただきたい。

 檜の香りのする舞台の床に両手をつき、帝が玉串を捧げて清浄した横笛に向かって額が床に触れるほど深く一礼する八条宮の姿に、並び座っていた殿上人や貴婦人、給仕に勤しむ女官までもが息をのみ、ざわめきが止んだ。


「ご覧あれ。陽光に照らされる月読尊の、なんと美しい」


 上席にいる束帯姿の貴族などが、八条宮の所作に魅了されて憑りつかれたようにその光景と心情を歌に詠む。このうちの数首は後日、菊花と共に八条院に届けられ、八条宮は尻が引き締まる思いをするのであった。

 帝がお出ましになり、皆に言祝ぎの言葉をかけると雅楽の演奏が始まる。
 沙那は、周りを見回して人の姿がないことを確認すると、すすっと膝立ちになって御簾に近づいた。大殿の奥間は、いつもの厳かで質素な佇まいから一転、あちらこちらに白や黄の菊花が飾られ、磁器の香炉からは甘い花の香りのする白い煙が一筋のぼる華やいだ雰囲気だ。

 息を殺し、まるで間者スパイ のようにすだれの隙間に目を凝らす。


 ――依言様はどこかしら。


 黒装束の群れとその先に舞台が設えられた南庭は見えるが、八条宮の姿までは覗えない。沙那が「はぁ……」と落胆のため息をついたそのとき、背後で人の話し声と強いお香の香りが鼻をついた。


「典侍。こちらは、どなた?」


 冷ややかで美しい声。沙那が首だけを回して振り返ると、同じ人間とは思えないほどの美人が広げた檜扇で口元を隠して、声と同じように冷ややかな視線をこちらに向けていた。


「弘徽殿様。このお方は八条宮様のご正室で」

「ああ、そう。この方が……、ね」


 沙那を紹介する典侍の言葉をさえぎって、弘徽殿女御が腰をおろす。女御の十二単の裾野を整えながら、典侍が沙那に目配せした。

 八条宮との結婚で従三位の位を賜った沙那と弘徽殿女御に身分の差はないのだが、帝の妃に礼拝するのがこの場における礼儀だ。沙那は御簾から離れると、居住まいを正して女御に頭をさげた。


「素敵なお召し物ですこと。八条宮様がお選びになったのかしら?」


 先程の冷ややかな印象が嘘のように、女御が可憐にほほえむ。沙那は内心でほっとして、「はい」と無邪気に答えた。


「誉れでしょうね。背の君があのように麗しく、堂々と晴れの舞台にあがっておられるのですもの」

「恐れ入ります」

「八条宮様の笛は耳なじみですけれど、やはりこのような場で聴く音色は特別ね。うらやましい限りですわ。あなた、八条院であの美しい旋律を毎日のようにお聴きになっているのでしょう?」

「あ、いえ、それが……。実は初めてなのです。ですから、今日をとても楽しみにしておりました」

「初めて? どういうことかしら。わたくしは幼い頃から聴いておりましたのよ、月宮の笛を」


 ふふっと女御が軽やかな笑い声を立てたところで、帝のご出座を知らせる蔵人頭の声が大殿に響く。古くからの縁を感じさせるような女御の言葉が引っ掛かるが、沙那は帝をお迎えするために御座へ向かって叩頭した。

 百官が一同にひれ伏す様は、圧巻だ。
 清廉な白の御引き直衣に身を包んだ帝が、御座に鎮座して言祝ぎの言葉を述べる。次いで、帝は貴族たちに叩頭させたまま南庭の八条宮を労い、隣に座している麗景殿女御の懐妊を告げた。

 再び、ひそひそと殿上人の群れが声をひそめる。右大臣の顔は心なしか紅潮し、笏を握る手は小刻みに震えている。怒りかなにかに耐えているのだろうか。

 実り多き秋に舞い込んだ皇の慶事に殿上人が沸き立つ中、菊見の宴は雅楽の一曲である越殿楽の調べで幕を開けた。澄んだ秋空高く響き渡る八条宮の甲高い笛と楽所の楽師たちが奏でる弦や打楽器のゆったりとした壮大な旋律が、宮中にあるものすべてを優雅な世界へ誘う。

 沙那は目を閉じて、南庭から流れて来る雅楽に集中した。思わず涙が出てしまいそうほど美しい音色。初めて聴く八条宮の笛は、心が震えるほど優美だ。


「さすがね、月宮は」


 はらりと檜扇の開く音と女御の独り言に、沙那ははっと目をあけた。


「女御様は、宮様と旧知の仲なのですか?」

「ええ、子どもの頃からよく知っているわ」

「そうなのですね。月宮とお呼びになるので、そうだと思いました」

「あら、ご存じないの? 月宮が東宮になっていたら、わたくしが月宮の妃になっていたのよ。そういう仲だったの、わたくしと月宮は」




 ❖◇❖




 越殿楽が終わると、八条宮は帝の御前に呼ばれ、左右の大臣より先に菊の花びらを浮かべた祝酒を賜った。帝は、八条宮と楽師たちの演奏にたいそう満悦なされたらしい。蔵人頭に命じて、舞台の楽師たちにもお褒めの言葉をくだされた。

 しばらく公卿たちと歓談や公達の舞などを鑑賞したあと、八条宮は帝の許しを得て奥間に足を運んだ。


「沙那」


 御簾越しに意気揚々とした声で妻を呼び、御簾をかいくぐる。そして、沙那とその横に座っている弘徽殿女御を見て表情を険しくした。


「類稀なる至上の音色でしたわ」


 弘徽殿女御が満面の笑みをたたえて、広げた檜扇を顔の前にかざす。弘徽殿女御と視線が交わると、八条宮の表情はますます険しくなり眉間にしわが寄った。


「典侍はどこだ。なぜ、帝の妃が俺の妻と同席している」

「典侍はさがらせました。ここは音の聞こえがいいから、沙那様とご一緒させていただいただけよ。そう怖い顔をなさらないで、八条宮様」


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コメント

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コメント一覧 (6件)

  • 嗚呼…宮様の優美な所作が、私の頭の中にバッチリ再生されました!眼福です!!ありがとうございます!!!

    で、弘徽殿の女御…
    沙那ちゃんが傷つけられていないことを祈ります…宮様!しっかり守ってね!!

    そしてこの後、ヤンデレ帝がどう出られるのか楽しみです。

    • kaoriさん♡

      ぬおー!
      嬉しい、めちゃくちゃ嬉しいです!
      宮中にいるような気持ちで書いてました( *´艸`)

      この後、弘徽殿がやりますので、どうぞお楽しみに💝
      いつもありがとうございます!

  • ついにご対面!
    次回が楽しみすぎる〜!
    というか、前回の更新見逃してて…なんてこったい…
    穏やかな帝とても良い…♡
    こういう優しい人がチラッと見せる狂気とかほんとたまらん。
    凛子様も好きなのでこれから成敗が来るのかな〜と思うとハラハラしちゃいます。
    帝はどういう裁きを下すのか…!
    宮様と沙那ちゃんはもうすっかり心が通じ合っててほっこり(*^ω^*)

    • ちまきさん♡

      帝、優しいのよー!
      でもね、でもね、凛子様を心から愛していたがゆえに、これから鬼化します(`・ω・´)ゞ
      私も優しさの裏に隠れた狂気、大好物だわ🤤

      ちまきさんの締め切り追い込み作戦、めちゃありがたかったです!(笑)
      いつもありがとうございます!
      しかし、Rシーンがまた遠のくのどうにかなりませんか/(^o^)\

  • 弘徽殿女御のやばさが際立つ感じ…!これはもう宮中に色々と噂が立ってしまいますねぇ。彼女が子供が出来ないというのも後押ししてしまいそう。どうなるんだろう、その辺もとても気になります(*‘ω‘ *)
    宮様の笛の音は大変美しいのでしょうねぇ、一度は聞いてみたいものです♡
    雅な映像が頭に浮かびます、更新ありがとうございました♡めちゃくちゃ楽しみにしていましたー!

    • 琉璃さん♡

      弘徽殿女御、ほんとうにヤバいー!
      そして、琉璃さんの洞察力が鋭くて、めっちゃドキドキ💓してます( *´艸`)

      お仕事とかで心が疲れて何も考えたくない時にyoutubeで雅楽を聴くんだけど、すごく綺麗♬
      平安時代にタイムスリップしたいなぁ~って割と本気で思っちゃう😁

      いつもありがとうございます!
      琉璃さんの優しさに目がウルウルしてます、本当に🥺🌹