乾いた秋風が庭をそよいで、視界の端っこで赤紫色の影がちらちらと揺れ動く。沙那の目が、それに誘われるように男から庭へそれた。萩の小さな赤紫色の花は盛りを迎え、溌溂とした緑葉と清々しい青空に映えて目にも鮮やかだ。
想い人とは、誰を指しているのだろう。今日も胸元に忍ばせている香り袋。その方しか知らないし、ほかにいるはずがない。しかし、素性の分からない者に軽々しく話すわけにはいかない。
夏姫の存在は、八条宮の告白があって知り得た事実だ。結婚前、八条宮の様々な噂は耳にしても、沙那がその名を聞いたことはなかった。話し好きな八条院の女房たちも、自分からは一切その話はしない。
宮中で亡くなったと八条宮が言っていたのを思い出して、沙那は触れてはならないなにかがあるのだろうと考えを巡らす。そして、気持ちよさそうに風に吹かれる萩をながめながら静かに檜扇を閉じた。
怪しくとも帝と縁があり八条宮とも懇意な関係にありそうな人に、にべもない返事をするのは外聞が悪く八条宮家の名を貶めてしまう。男のいう想い人が夏姫でなければ、適当に話をそらせばいい。
「心当たりなら、お一人だけ。宮様から教えていただいた御方を存じております」
「では、その者が既に不帰の客となっていることも?」
こくり。男の返答に、沙那は控えめに頷く。
「そうか、依言は式部卿宮家の姫について話をしたのだね。そなたは、依言の信頼を得ているらしい」
「そうだと嬉しいのですが、宮さ……。え? 今……、依言とおっしゃいましたか?」
瞠目する沙那にほほえんで、男がごそごそと袍の懐をまさぐり始めた。
「そなたを騙し、驚かすつもりはなかった。いつもの姿では、なにかと不都合が多いものだから。依言は、私の大切な弟宮だ」
男の言葉に、大きく見開いた沙那の目が点になる。八条宮は先帝の第二皇子だ。ということは、この御方は帝――。
――わたしったら、なんてご無礼を!
慌てて伏せようとする沙那を制して、帝が懐から帖紙を取り出す。
「これを渡したくて、そなたに会いに来た。受け取ってくれるかな?」
「は、はい。謹んで」
沙那は、戸惑いながら素直にそれを手に取る。折りたたまれたというより丸められたといった感じの帖紙を広げてみると、姿を現したのは両手にやっと収まるほどの淡い黄色をした菊花だった。
観菊の宴は、重陽の節句として季節の移ろいを知らせるだけではなく、無病息災を願い邪気を払うために催される祝宴だ。
宮中のいたるところに菊が飾られ、殿上人が帝の御前で歌を詠み、菊の花弁を浮かべた酒を酌み交わす。ふるまわれる料理には秋の実りがふんだんに使われていて、五穀豊穣への感謝も込められた宮中行事である。
「なんてきれいな色味なのかしら」
菊を顔に近づけて、沙那はその香りを堪能した。薬草のような少しくせのある香りが、心地よく鼻腔を満たす。
「今日のために、私の手で丹精込めて育てた菊だ。きっと、どのような邪気をも払ってくれよう」
「恐れ多くございます」
「かしこまらずともよい。そなたの顔を見て声を聴き、依言はよき妻に恵まれたのだと安心できた。私は、依言が過去にばかりとらわれず、幸せであることを心から願っている。永劫、私の弟をよろしく頼むよ、女郎花の君」
沙那は、恐々とした様子で手の中の菊と帝の顔を交互に見る。いつだったか、日宮と月宮は内裏を照らす対の光だと聞いた。心あたたまる話だと思っていたが、こうして帝のご尊顔を拝してそれが事実だと実感する。
心が、小春日和のようにほんわかとあたたかい。八条宮を大事に思う御方がここにもいらっしゃる。それを知って、沙那の八条宮への情はまた深くなり、粗末にしてはいけないと気概が高まる。
「ときに、八条院の女房たちは健やかに過ごしているだろうか」
「はい。そういえば皆さん、もとは宮中にお勤めだったと伺いました。もしかして、ご存じの方ばかりですか?」
「皆は知らないが、年配の者はよく覚えているよ。そなたから、いつまでも息災であれと私の言葉を伝言してくれ。そこの棗を添えて」
「かしこまりました。女房たちは、棗が好物なのですね」
「いや。そなたが美味しそうに頬張っていたから、皆も喜ぶだろうと思っただけだ。生き返るほど美味なのだろう?」
「み……っ、見ていらっしゃったのですか?!」
遠くからざわめきが押し寄せ、どたどたと荒い足音が二人のいる局に近づいて来る。顔を真っ赤にした沙那を見て、しばらくおかしそうに笑っていた帝が廊下のほうを振り返ると同時に、八条宮が慌てた様子で局に駆け込んで来た。
「こちらにおいででしたか、主上」
二人の間に割って入るように、息を切らした八条宮が腰をおろす。設えられた二人用の席に無理やり割り込むものだから、広々とした局で三人だけがぎゅうぎゅう詰めだ。
「依言、狭いからあちらに座りなさい」
「いえ。几帳も隔てず、妻が主上に拝するのは無礼ですので」
「それよりも、足音を立てて内裏を歩くほうが無作法だと思うが」
「主上こそ、そのように臣の装いをなさって。歴代の皇が悲しみますよ」
「似合わないかな」
「主上がお似合いになるのは、黒の束帯ではなく真っ白な御引き直衣です」
兄弟の会話の合間に、沙那が掛盤の白湯をそそっと八条宮に手渡す。八条宮は、それを一気に飲み干して弾んだ息を整えた。八条宮と沙那の阿吽の呼吸に、帝が肩を揺らして笑い声をあげる。
「ところで、主上。俺の妻になにかご用でしたか?」
「私の菊を直接手渡したくてね」
「本当にそれだけですか?」
「本当だよ。さて、用は済んだから、そろそろ中殿に戻って支度をするとしよう」
帝に続いて八条宮が「お見送り申しあげます」と立ちあがり、沙那は賜った菊を潰さないように掛盤に置いて二人に深々と頭をさげる。局を出たところで、帝が歩みを止めて八条宮を近くに呼んで声をひそめた。
「いかがなさいました?」
「思うところあり、五年前に淑景舎で起きたあの件をもう一度調べ直す」
「なにをおっしゃるのです。あの件は、先帝が病死と……」
怪訝な顔で眉根を寄せる八条宮に、帝が「静かに」と言う。
「先日の雨の日、私はそなたと弘徽殿の話を聞いていた。そなたには、過去を引きずるより幸多い未来へ向かって進んでもらいたい。そのためには、裁きが必要であろうと考えた」
「……主上」
「時間がないから手短に話す。そなた、坂上玄幽がどうしているか知らないか? 当時、典薬頭だったあの御仁なら記録を詳細に読めるはずなのだが、官職を退いた者の所在を私は知り得ぬ」
「よく存じています。妻が世話になりましたから」
「病にでもなったのか?」
「いいえ。初夜に御所から届いた菓子を食べて、息ができなくなってしまったのです。玄幽に診てもらってあのとおり事なきを得ましたが、菓子に一位の毒が入っていたようで」
「そうであったか……。後日詳しく聞こう。坂上玄幽を八条院に匿えるか?」
「え、ええ。問題ございませんが」
「見送りはここまででよい。かぐわしい女郎花に虫がとまらぬよう、傍にいてあげなさい」
帝が雷鳴壺から藤壺へ続く廊下を曲がっていく。帝のお姿が見えなくなり、八条宮が沙那のもとへ戻ろうと踵を返すと、巳四刻を告げる陰陽寮の太鼓が鳴った。
