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「騒々しいな」
閉じた扇の柄を牛車の前簾に引っ掛けて外を覗いた八条宮が、通りを照らす陽光のまぶしさに目を細めた。東市の辺りにさしかかったところだろうか。人の声や荷車の音、がやがやとした忙しない往来の喧騒が聞こえる。
東市は毎月十五日まで開かれる官営の市場で、西市では扱っていない品も売られているから、都人だけではなく遠くの地方からも大勢の人々が買いつけに集まって大変なにぎわいだ。
八条宮夫妻を乗せた唐廂車は、東市の人だかりを避けるように小路を進んで大通りへ抜けると、まっすぐに御所を目指した。初めて八条宮と一緒に外出するとあって、沙那の表情は今日の秋晴れのように爽やかで曇りがない。
「ご機嫌だね」
「依言様と二人でお出掛けできるなんて夢みたいで。しかも、行き先が依言様を初めてお見かけした宮中ですもの。昨夜は気持ちが落ち着かなくて、何度も目が覚めてしまいました」
「あなたがそこまで楽しみにしてくれていたとは。張り切ってあなたの衣装を選んだ甲斐があったよ」
八条宮が沙那に意味ありげな笑みを向ける。沙那は、自分が着ている衣を見て、ぽっと顔を赤くした。
薄い桃色の唐衣の下は淡い黄色の袿を重ねて、裏地の鮮明な緑色が黄色の合間に映える十二単。八条宮が今日のために選んだ沙那の衣装は、秋の七草の一つ女郎花を模した色目で、沙那の目鼻立ちや雰囲気と相まってまさに花のごとしだ。
色味が柔らかすぎて宮中でもあまり見かけない色使いだが、珍しいがゆえに人目を引くこと請け合い、秋の宴にふさわしい粋な色といえよう。そしてなにより、この色目には重要な意味が込められている。
――見れども飽かぬ女郎花。
誰もが知る有名な言葉になるほど、女郎花は古くから見飽きない美しさを愛されてきた花だ。衣装に秘められた夫君からの賞賛が恐れ多くてくすぐったくて、ますます沙那の顔は熱くなるばかりだった。
――ああ、御所に着く前に幸福過多でどうにかなっちゃいそう。
沙那は檜扇を広げて、顔を冷ますようにぱたぱたと扇ぐ。
東市の喧騒が遠のいてしばらくすると、唐廂車は御所の門をくぐる前に八条院からつき添って来た舎人や女房たちから御所の役人と女官らに引き渡されて車寄せに向かった。
本来、いくら宮家の室であっても沙那の身分では御車をおりて御所に入らなければならないのだが、今日は特別に帝から宣旨を賜っているから待遇よろしきことこの上ない。
「着いたようだ」
八条宮の声と同時に、がたんと車箱が揺れる。すぐに前簾が上げられて、白砂に反射した陽光が目に飛び込んできた。
「沙那、顔を隠して」
「は、はい」
沙那は、緊張の面持ちで檜扇を顔の前にかざす。先に御車をおりた八条宮が、「おいで」と手をさし出した。顔を隠したまま、沙那は膝で降り口まで移動してその手をつかむと、御車をおりて八条宮の手引きで五段の階をあがった。
御所を訪れるのはこれが二度目。初めてのときは、見るもの全てに好奇心をそそられて、ただ楽しいばかりだった。しかし、今日はどうだろう。
八条宮と上がる宮中の雰囲気はそこはかとなく厳かで、見えない重圧が肩にのしかかるような気さえする。身なりからして高位と思われる女官らに出迎えられて、沙那はすっかり怖気づいてしまった。
そろりと一人の女官が二人に近づく。帝に近侍している典侍だ。
「帝に挨拶して来るから、あなたは典侍と先に襲芳舎へ行ってくれ」
沙那が頷くと、八条宮は「妻を頼む」と沙那の手を典侍に預けた。典侍が、直に肌が触れないように手を袖で覆い、受け皿のように沙那の手を取って深々と一礼する。
「またあとで」
八条宮はそれだけ言い残し、数名の女官に先導されて去っていった。
「まいりましょうか」
典侍が促し、歩を進める。沙那は、ぞろぞろと後ろを女官たちがついて来る気配に恐縮しながら典侍に続いた。
「素晴らしい重ねでございますね。よくお似合いですこと」
大人びて聡明な相をした典侍の笑みに、沙那の胸がどきっと弾む。
「あ……、ありがとうございます」
「八条宮様のご趣向でしょうか」
「……はい」
「色彩に八条宮様の愛情の深さや北の方様のお人柄があらわれておいでで、わたくしにまで秋の喜びを分けていただいたような気持ちがいたします。八条宮様の至宝をお預かりいたしましたので、つつしみまして襲芳舎までご案内申しあげます」
「よろしくお願いいたします」
所作ばかりか表情の動きや声色、なにもかもが洗練された典侍相手に、沙那は「至宝だなんて、そんな滅相もない!」と言いたい気持ちをぐっとこらえ、努めてしおらしい返事をした。
典侍から襲芳舎が雷鳴壺と呼ばれるようになった所以などを聞きながら、いくつかの殿舎を通り過ぎて廊を渡る。襲芳舎は思いのほか遠かった。重量のある正装でこの距離を歩けば、明日は全身が痛んで一日動けないだろう。
襲芳舎の一角にある局に入ると、そこには八条宮と沙那のために席が設えられていて、萩が揺れる庭を一望できるように蔀戸や御簾が上げられていた。
「では、こちらで八条宮様をお待ちください。わたくしは帝のお支度がございますので失礼いたしますが、襲芳舎の女官が隣に控えておりますので、ご用がございましたらお呼びくださいませ」
席に座った沙那の衣装を整えて、典侍が車寄せからついて来た女官たちを連れて局を出ていく。一人になると、沙那は魂が出たのかと思うほど大きなため息をついた。
顔を隠していた檜扇を閉じて膝の上に置き、近くの掛盤に手を伸ばす。掛盤には、白湯のそそがれた土師の坏と棗を載せた美しい螺鈿細工の黒漆器が置かれている。沙那の指が迷わずつかんだのは棗だ。それを頬張って白湯を一口飲む。
「ああ、生き返る」
沙那が気を抜いて、完全に油断したそのときだった。
「おや。手に取れば袖さえ匂う美人部師……、かな? これは珍しい。雷鳴壺に華麗な秋の花が咲いているね」
突然、背後から男の声がして、沙那は驚きざまに振り返る。物音一つしなかった。いつの間に入って来たのだろう。慌てて土師の杯を掛盤に戻して檜扇を広げる。男は沙那の慌てふためく様子を楽しむように、そろりそろりと近づいて、八条宮が座るはずの席に腰をおろした。
――だっ、誰?!
一息ついてせっかく落ち着いた心身が、一気に緊張する。女官を呼ぶべきかと思い、しかし男と二人きりの状況で大騒ぎするのはいかがなものかと思いとどまる。
「そう怖がらないで、八条宮家の北の方様。ここは帝の妃が住まう場所だ。帝のお許しなく入れる者はいない。私は、八条宮様と同じく帝に縁があって今日の宴に招かれている。怪しい者ではないよ」
いやいや、怪しい。
沙那は檜扇で横顔をしっかりと隠して、ちらちらと男の身なりを確かめた。依言様と同じということは、親王様かなにかなのかしら。確かに、お顔立ちも上品でお召し物も上等だけれど……。
「失礼を承知でお伺いいたします。どうして、わたしが宮様の妻だとご存じなのでしょう」
「ここを八条宮様と北の方様に休息所として貸したと、帝がおっしゃっていたから」
八条宮と同様の黒い束帯に身を包んだ男は、沙那から庭に視線を移して「のどかだ」とつぶやいた。その顔に、悪い人ではなさそうと直感が告げる。
「さようでございましたか。それで、こちらへはお一人でお越しになったのですか?」
「そう」
「ご不便でしょうから、女官をお呼びいたしましょうか?」
「心遣いはありがたいが、せっかくだから少し秋の野を楽しんでもいいだろうか」
庭に向いたはずの男の視線が、また戻って来た。男の言葉をどう解釈して、どう返せばいいのか分からない。なんたって、沙那は八条宮のほかに男を知らないのだ。これが俗にいう駆け引きなのか普通の会話なのか、その判断にすら迷ってしまう。
――どうしたらいいのかしら。
沙那が泣きそうな気持になっていると、男がふっと軽やかに笑った。
「八条宮様ご自身であなたの手を引いて内裏に上がったと聞いた。その装束にも八条宮様の心が透けて見えるようだ」
「あ、あの……」
「あなたには隠し事などしないのだろうね、八条宮様は」
なにか、腹を探られているのだろうか。しかし、男の話し方からは、八条宮と親密な間柄ゆえの好奇心しか感じられない。この男は、一体何者なのだろう。
「……なさらないと、思いますけれど」
偽りではない。依言様はわたしに正直だもの。檜扇を少し下げて、沙那は男の目を見つめ返す。すると、男が穏やかな声で言った。
「八条宮様には想い人がいたそうだが、あなたはそれをご存じなのかな?」
