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第30話 宮様の至宝(2)




 ❖◇❖


 八条宮は、重たい腰をあげて牛車をおりた。弘徽殿女御の声が、まだ耳から離れず鼓膜の奥でこだましている。体は水底に沈んでいるように疲労し、しかし地に足がつかずふわふわと浮遊しているような感じもして、自分が今どういう感情に支配されているのかわからない。

 思い返せば、初めて八条院に足を踏み入れたときも同じ状態だった。まるで、時が五年前に巻き戻ったかのような錯覚に陥る。

 一緒に居するはずだった人を突然うしない、当初の予定より数日遅れて一人歩いた渡殿には、新築の白木の香りが湿った空気に溶けて清々しく漂っていた。夏の手を引いてこの廊下を歩く瞬間を、どれほど夢見ていただろう。

 内裏に献じられた陰陽寮の具注暦に記された吉凶は決して悪くなかったのに、空は今日と同じ黒とも灰とも違う錆鼠色さびねずいろの雲に覆われて、二度と陽光の差さない永久とこしえの暗闇に向かって歩いているようだった。



 ――どうせ、長くは生きられない運命の子だったのよ。



 弘徽殿女御の言うとおり、夏の胸をむしばんでいる病は緩慢ではあるが確実に進行して、八条院で暮らせるのはわずか数年だろうと薬師から告げられていた。

 それでもよかった。生まれたときから病に縛られて、多くの苦痛と我慢をしいられてきた夏が、一時でも人並みの幸福を感じて生きてくれたならと――。


「おかえりなさい、依言様」


 朗らかな声に、八条宮ははっと我にかえって足を止める。無意識に白木の床板に向いていた視線をあげると、目の前に息を弾ませた沙那が立っていた。わざわざ出迎えなくてもいいのに、早く顔を見たくて主寝殿から車寄せまで駆けて来たのだろう。

 沙那の手を取り、主寝殿へ向かって歩き出す。ぎゅっと手を握り返してくれる沙那の温かさに、柄にもなく目の奥が熱くなった。


「玄幽によく診てもらったか?」

「はい、よぉ~く診ていただきました」

「そう。それで、体はなんともなかった?」

「どこも悪いところはなくて、ご覧のとおり元気そのものだそうです」

「よかった。安心したよ」


 主寝殿に入ると、まだ日暮れ前だというのに格子戸がおろされていて、風避けの几帳に火桶まで出してあった。秋雨がやめば季節は冬に移り、風病かぜ咳逆がいぎゃくが流行り始める時期になる。

 今日、玄幽が雑談の最中にそういう話をしたので、沙那が女房たちに頼んで一足先に冬支度をしたらしい。さらに、沙那が座る円座わろうだの横には猫用の布団とやらが用意され、その上でナギが丸まっていた。時々、ナギこそが八条院の主なのではないかとやっかんでしまうのは狭量だろうか。

 着替えをして、沙那とたわいもない会話をしながら夕の食事をする。食事が終わると、沙那が夏の帷子で作った匂い袋を手に載せて見せてくれた。

 匂い袋とは見せかけで、実は月見のときにつかまえた心を入れておくための袋なのだとか。いい出来だとほめたら、依言様の心がこんなに小さな袋に入りきるわけがない。だから、胴体ほどの大きさでもう一つ袋を作ろうと思っていると打ち明けられて大笑いした。


「俺の心を入れておく袋などよく思いついたね。下穿きのときもそうだったが、あなたの着想にはいつも驚かされる」

「素敵でしょう? あとは依言様の香木を少し分けていただけたら嬉しいのですが……」

「いいよ。あなたの好きなものを選ぶといい」

「では、依言様がいつも衣に焚き染めている香りをいただけますか?」

「わかった。程よく香るように、あとで香木を削ってあげるよ」


 嬉しそうに笑って、沙那が礼を言う。そのあとは、女房たちが得意顔で菊見の宴に着ていく沙那の衣装を披露し始めた。しかし、どうも女房たちの感覚センスに納得がいかず一から選びなおす羽目になったせいで、御所での忌々しい出来事を思い出して感傷にひたるいとまもない。



 ――女房より俺のほうが、沙那らしい色と文様を心得ている。



 はっきりいって、つまらないやきもちだった。
 明日の髪研ぎにそなえて髻をほどき、ようやく寝所でくつろげたのは亥一刻を過ぎたころ。まだ、雨は降り続いていた。

 沙那が寝支度をする間に、沈香や白檀を削り、竜脳とほかに数種類の香材を調合する。それを預かった匂い袋に入れる瞬間、沙那の優しさが身に染みて再び目の奥が熱を帯び、五年前に枯れてしまったはずの涙で視界がゆがんだ。

 今日、痛みと怒りで心が粉々に砕けてしまわなかったのは、沙那がこうして守ってくれていたからだったのか。たちまち目からこぼれたしずくが匂い袋の上に落ちて弾けて、濡れた夏の帷子から沙那のために調合した香りが匂い立つ。


「お待たせいたしました」


 妻戸が開いて、沙那が寝所の様子をうかがうようにひょこっと顔を出した。慌てて目元を拭って匂い袋の口をしばると同時に、夜衣姿の沙那が身を寄せ合うように隣に座る。涙を見られてはいないかと心配になったが、どうやら杞憂のようだ。


「もしかして、香木を削ってくださったのですか?」


 うん、と頷いて匂い袋を手渡すと、沙那は早速それを鼻に近づけて香りを確かめた。


「これは……、依言様の匂いではありませんね。甘くて優しい、お花みたいな香りがします」

「あなたに似合う香りを作ってみたのだが、どうかな。好みでないのなら、調合しなおすよ」

「いいえ、大好きです」

「気に入った?」

「もちろんです。ありがとうございます、依言様。大事にいたしますね」


 目を輝かせながら匂い袋を懐にしまおうとする沙那の手首をつかんで、腰を抱きよせる。小柄な体を膝に乗せるのにそう力は必要ない。沙那と目線の高さを合わせるには、この体勢が一番だ。

 沙那は、以前ほど目をそらさなくなった。恥ずかしそうにしていても、ちゃんと目を見てくれる。そんな些細な変化すら、愛おしく思えてしまう。

 沙那の口が少し開く。しかし、今日は沙那より先に気持ちを伝えたくて、柔らかな唇に親指を乗せて言葉を封じる。


「好きだよ、沙那」


 沙那の目が、驚いたように大きく見開いた。


「俺は生涯、あなたを大切にする」


 決して、夏と来世で出会うための功徳ではない。本心でそう思っている。沙那に、この思いは通じるだろうか。どきどきしながら、沙那の反応を待つ。

 すると、沙那の手が頬に触れて顔が近づいた。そして、ふわりと唇が重なった。色事に奥手な沙那の不意をつく行動に、思考停止してしまったのはいうまでもない。


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コメント

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コメント一覧 (6件)

  • 感涙…

    気持ちが通じあって、
    その気持ちを伝え合えることの、
    なんと尊いことか…

    宮様にも沙那ちゃんにも、本当に幸せになってほしいです…

    • kaoriさん

      私も、書きながら目が潤んでいました。
      宮様がちゃんと気持ちを伝えたので、沙那が責任をもって幸せにしてくれると思います!
      だって沙那ですから……
      幸せになる未来しかないッ!(*´艸`)✨

      いつもありがとうございます!😍🙌

  • 依言様に分かってしまった真実…
    辛いという言葉で表せないくらい…心が壊れちゃうよね
    辛い…
    でも沙奈は凄いよなあ…
    何か感じるものがあったのかそうでなくとも車寄せで待っていてくれたのはとても良かったと思う
    包み込むような優しさがあって本当に凄い
    たまに凄いことを思いつくけどそれもまた凄い!沙奈が居てくれて良かった…と思いました🥹

    朝の出勤前に読めて幸せでした😍
    今日も頑張れますがんばるッ(*’^’*)」

    • ひらりさん

      こんにちは🌤✨
      宮様、本当につらいと思います。
      でも五年前と違って今は沙那がいるので、どうにか前を向いて生きていってほしい……と願いながら書いています🙏💕

      そうですよね、沙那はちょっと……いや、だいぶ?破天荒(笑)
      書いていて、悲しくて重たい場面なのに沙那が出て来るとほほえましくなる感じがとても好きです✨
      私にとっても沙那は癒し(*ノωノ)

      わー!
      なんて嬉しいお言葉でしょう!
      私もひらりさんのコメントを読んで元気をいただきました😍
      午後も頑張りまーす💖

      コメントありがとうございました!🥳

  • 依言様が女房に嫉妬してるのよきですよね〜(*‘ω‘ *)もう確実に宮様のお心はしっかり捕えている。殺伐とした帝周辺があってからこそのこのほのぼのさ♡咳逆の説明も興味深く読みました!
    もうその頃から、インフルエンザあったんですねぇ。「俺は生涯、あなたを大切にする」でキュン死!私も宮様に言われたいなーー(*˘︶˘*).。.:*♡

    • 琉璃さん

      宮様、落ちたな( ˘ω˘ )👍✨(笑)
      御所が不穏過ぎて、二人がほのぼの~だよね(*´艸`)

      そうそう、咳逆!
      風邪とは明確に区別されて記録に書かれてるから、インフルエンザじゃないかって言われてるんだって👀
      昔からあったんだね~!って私もビックリでした✨

      あの……私、シトリー様にすんごい上から「お前を大事にしてやってもいいですよ」みたいに言われたくて、今日もお昼休みに電子書籍版シトリー様を読んでいる~🥳
      琉璃さんの小説をタブレットでめくる幸せよ✨
      午後も頑張れるわ~😍

      コメントありがとうございました!🙌💖