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「見事な白驟雨ねぇ。いつまで降るつもりなのかしら」
沙那は小梅に袿を預けると、単衣に切り袴という宮家の室とは思えない格好で廂に立って空をあおいだ。一向に弱まる気配のない雨脚にため息をつけども、悠長に白驟雨がやむのを待っている時間はない。
もうすぐ玄幽が診察に来る時刻になるし、八条宮が帰ってくるまでに宮中へ着ていく衣装を選ばなければならないのである。あな忙しや。
「北の方様。見てのとおり、ひどい雨でございます。今日は、やめておいたほうがよろしいのではございませんか?」
先に階をおりた白髪の女房が、沙那を振り返って言う。沙那は、その女房に向かって首を横に振った。
「菊見の宴のあとに供養なさるとおっしゃっていたから、そう日に余裕がないわ。わがままを言ってあなたにも迷惑をかけてしまうけれど、お願い。今日がいいの」
「迷惑だなんて、とんでもないことでございます。色味を申しつけてくだされば、わたくしが一人で取りにいってまいりますよ」
「なにも言わずに夏姫様の遺品をお借りするのは、無礼だし泥棒みたいで嫌だからわたしも行くわ」
遺品と言いながら、まるで生きている人に対するような沙那の言葉に、女房は心の中があたたかくなるのを感じながらしわの刻まれた目元をくしゃりとゆるめた。
「分かりました。雨で濡れておりますから、足元に気をつけてくださいませね」
沙那に広げた唐傘をさし出して、女房が階のたもとに草履をそろえる。沙那は、高欄に手を添えて慎重にゆっくりと階をおりた。そして、女房から唐傘を受け取って草履に足を通す。
庭に一歩出た途端、唐傘が雨滴に打たれてばらばらばらと激しい音を立てた。白砂が敷き詰められた庭は、もともと水捌けのいい土壌なのか水たまりにはなっておらず、歩くのに特段の不便はない。
とはいえ、唐傘が雨から保護してくれるのは頭だけで、特に足元は庭におりた瞬間にびっしょりと濡れてしまった。しかし構わず、女房と足早に夏の邸を目指す。
夏の邸に着いて、雨の日は火を起こすのも難儀だからと女房が一人で暗い邸内に入る。沙那が縁側で雨宿りをするようにして待っていると、そう時間をおかずに女房がきれいにたたまれた二枚の布を手に戻って来た。
一枚は真っ白、もう一枚は薄い桃色に染められた絹布で、幅二尺ほどで長さは一尺とちょっと。寝るときに枕元に立てる枕几帳の帷子だ。
「几帳の帷子でしたら、ほかにも数枚ございますが……」
「そこまで大きな布でなくてもいいから、これで十分よ」
「では、どちらになさいますか?」
「そうね……。どちらを好んでお使いだったのかしら」
「さぁ、わたくしは夏姫にお仕えしたことがないので存じあげません。ですが、ここの品々は全て夏姫ゆかりのものばかりでございますから、どちらも愛着をもってお使いだったのではないでしょうか」
女房が、やんわりと笑んでみせる。沙那は、夏姫の御文に書かれた筆跡と言葉たちを思い出しながら二つの布を見比べた。
文字はその人をあらわすもの。夏姫様の文字は、細いけれど丸みがあって、角も棘もなかった。それに、使われていた言葉も品がよくて優しいものばかりだった。
「うららかな春のような、ふわりとしたあたたかな色合いが夏姫様らしいと思うの。だから、こちらの薄桃色のほうをいただくわ」
「はい、かしこまりました」
沙那の返事を聞いた女房が、白い絹布を邸内に戻して妻戸を閉める。沙那は、局の方を向いて深々と頭をさげると、心の中で夏姫に布を拝借するお詫びと御礼を述べた。
――大切な依言様のお心を守るためですので、どうぞお許しくださいませ。
沙那と女房は、降りしきる雨の中を本殿へ急ぐ。単衣の肩や袴の裾が濡れてしまったので、沙那は着替えを済ませて作業にとりかかった。沙那が裁縫の道具を入れてある箱から布を断つはさみを取りだしたので、白髪の女房が少し驚いたように目を大きくする。
「あの、北の方様? なにをなさるおつもりなのですか?」
夏の邸から持ち帰った薄桃色の絹布を沙那の前に広げて、女房が尋ねた。沙那は、右手にはさみを持って、左手で絹布を持ちあげる。さすが宮家の姫が愛用していただけあって、亀甲の紋が織りだされた二陪織物は質も手触りも最高だ。
「お月見をしたときに、依言様からこの世で一番好きなものをつかまえていただいたから、それを包む袋を作ろうと思って。いつまでも裸のままにして、傷がついてしまったら大変だもの」
「はぁ……、さようでございますか」
釈然としない様子の女房ににっこりと笑って、沙那は夏姫の絹布にはさみを入れた。手の平に収まるくらいの巾着になるように、大きさを考えながら丁寧に裁断する。
依言様は、遺品を供養するとおっしゃった。護摩の火にくべられてしまったら、全てが灰になってなくなってしまう。だから、これだけは懐に忍ばせてわたしが持っておきたい。
布の裁断が終わったら、次はそれを中表に合わせて両端を縫っていく。雨と雷鳴の音を聞きながら、一心不乱に針を動かす沙那の表情は真剣そのもの。あまりの気迫に小梅をはじめ女房たちは、邪魔をしないようにそろそろと隣の局に移動して衣装選びの準備を始めた。
作るのは小さな袋だから、完成までそう時間はかからない。袋口まで縫って絹の組み紐を通せば、あっという間に出来上がりだ。沙那は、作った巾着にほぐした真綿を詰めて袋口を締めると、手の平にそれを載せて仕上がりを確かめた。
八条宮の心を模した真綿でふっくらと程よく膨らんだ巾着は、どこから見ても流行りの匂い袋に見える。これなら、単衣の合わせの間に挟んでいても不自然ではない。
そうだわ、依言様から香木を少しいただいて入れてもいいかも、と巾着を懐にしまった沙那の顔がほころぶ。しかしそれも束の間、ふとした疑問が頭に浮かんで、沙那は神妙な面持ちで考え込んでしまった。
――依言様の心って、もっとでかくない?
わたしの背の君は、元名うての遊び人だけど、本当は一途で、でもわたしを妻としてちゃんと大事にしてくださる御方なのよ。頼まなくたって早く帰って来るし、ぺったんこな胸にも文句一つ言わないし、下穿きだって毎日愛用しているし……。
沙那は、指先でやけどの痕に触れた。燃えさかる邸から逃げ出すときに焼けた角材が当たって負った火傷は、幸いにもそんなに目立つ場所でも大きさでもない。けれど、前髪をかき分ければ見えてしまうし、見た目も手触りも醜悪だ。
依言様に火傷のことを打ち明けたときの気持ちは、思い返すもの気が引けるほどの不安と恐怖でいっぱいだった。だから、気にしない素振りをしてくれた優しさが本当に嬉しかったの。いつも穏やかで、お月様の光みたいに優しくて……。
――絶対に、手の平サイズじゃないわ!
手の平に歌を書いていただいたから、つい勝手にそう思い込んでしまっていた。大好きな人の心の大きさを見誤るなんて妻失格よ。わたしのばか……ッ!
――どうしよう。夏姫様の貴重な帷子を、意気揚々と切って縫っちゃったわよ。
沙那が、青ざめた顔をしてがっくりと肩を落とす。すると、そこへナギが現れて「にゃあ」と甘えるように体をすり寄せた。ナギの頭をなでながら、なにやらぶつぶつと独り言をつぶやく沙那。
隣の局に衣装を並べ終わって、几帳越しに沙那の様子を見ていた女房たちが心配してひそひそと声をひそめる。
「北の方様ったら、一人で笑ったり青くなったりしてなんだか変だわ」
「もしかして、お体の具合がすぐれないのでしょうか」
「それは大変! 北の方様の身になにかあったら一大事よ!」
「しっ、声が大きい」
「ご、ごめんなさい。つい」
「玄幽様によく診ていただかないと」
「そうね。玄幽様が来られたら、すぐに診ていただきましょう」
噂をすれば影がさす。それから半刻もしないうちに、坂上玄幽が八条院を訪ねてきた。
実は八条宮が出かけたあとすぐ、沙那は玄幽の邸に使いをやって雨がひどいから日を改めるよう伝えた。しかし、薬師としてなにより人身第一の玄幽である。宮様におおせつかった予定を変えるのはよくないと、この雨の中をところどころ穴のあいた唐傘をさして来てくれたのだ。
「うむ。どこも悪しきところはなく、喉の傷ももう少し塗り薬を使えば、痕も残らずきれいに消えよう」
沙那の診察を終えた玄幽が、はまぐりの殻に練り薬を分けて小梅に手渡す。沙那は、袿に袖を通して居住まいを正した。
「今日は荒れた天気にもかかわらずお越しくださって、ありがとうございました」
「なんのこれしき。それはそうと、女房殿にお渡ししたのは特製の傷薬で、かつて月宮もようお使いになられたものじゃ。効果の程は宮様が身を持ってご存じであろうから、確かめてみるとよい」
「依言様が、傷薬をよくお使いになったのですか?」
「今は朴念仁のように澄ましておられるが、月宮はとてもわんぱくな童子であられての。内裏の庭を駆け回って転ぶは日常で、木から落ち池に飛び込み、とにかく怪我が絶えなかった」
「あの依言様が……。信じられない」
ほっほっほっ、と玄幽が薬や道具を木箱にしまいながら昔を懐かしむように笑う。沙那は、女房に湯と砂糖菓子を用意させて玄幽を手厚くもてなした。
「兄の日宮はじっと座って学問にはげむ御方であったから、太陽と月が逆だと皆が言うておったわ」
「玄幽様は、依言様の幼いころをよく存じなのですね」
「典薬寮の長を務めていた時分は、月宮のお陰で典薬寮ではなく内裏にいる時間のほうが長かった。先帝のすすめで笛を始めてからは、随分と行儀がよくなられたようじゃが」
まるで我が子か孫の成長を振り返るように目を細める玄幽に、主寝殿の女房たちが同調して懐かしいと言った。彼女たちも長く宮中に勤めていたから、当時を思い出したのだろう。
雨脚が強くなり弱くなりを繰り返して、空に稲妻が走りごろごろと低い雷鳴が響く。玄幽は、砂糖菓子を味わいながらしばらく沙那や女房たちと世間話をしたあと、ほかにも行く所があると言って八条院を去った。
時間が、刻一刻と過ぎていく。女房たちと宴の衣装を選んで、沙那が縫い物に没頭していると、車寄せに牛車が止まったと女房が知らせに来た。本日も日暮れ前、早い八条宮のお帰りである。
