物悲しそうに眉尻をさげる女御に、八条宮は一段と顔をしかめた。
胸の内がしんしんと冷えていくのを感じる。式部卿宮邸で知り合って、言葉で言われたことはないが好意を寄せられているのはそれとなく察していた。しかし、それに気づかないふりをした。
右大臣家の一の姫として生を受け、多くのものに恵まれて大事に育てられたのだろう。女御は、子どものころからなんでも思いどおりにならないと気がすまず、ほかを思いやる親切心の欠片もない冷酷な性格だったから。
遊んでいる最中に夏の具合が悪くなると、不満をあらわに「つまらない」と吐き捨てて局を出ていくような女だ。胸の苦しさに耐えながら、姿の見えなくなった従姉に「ごめんなさい」と謝る夏の気持ちを考えたことは一度もないのだろう。
「口を慎め。帝の妃でありながら、無礼にも程があるぞ」
「本当にひどい人ね、あなたは。わたくしを少しも受け入れてくださらないのだもの」
「いい加減にしろ」
八条宮が語気を強めると、女御は美しい貌を真顔に戻した。
「こうしてあなたと二人で話す機会は滅多にないから、いいことを教えてさしあげましょうか」
「なんの話だ」
「あの夜、淑景舎に命婦を遣わしたの。夏姫ったら、顔なじみの彼女をまったく警戒せずにわたくしからのお祝いを受け取ってくれたみたい。八条院へさしあげたものより少し強い、あれは夏姫が好きな白玉の餡子餅……だったかしら」
青白い稲光が強く閃いて、耳をつんざくような雷鳴に地が揺れる。八条宮は絶句して強い衝撃に精一杯耐えた。
「驚くほどのこと? わたくしの仕業だと思うからこそ、こそこそと人の目を盗んで命婦のもとへ通っていたのでしょうに。でも、命婦からあの夜についてなにも聞き出せなかった。違う?」
「やはり、お前が夏を……、夏を害したのだな?」
唸るような八条宮の声に、女御が檜扇を閉じて笑み返す。刹那、八条宮の頭にかっと血がのぼった。
「どうせ、長くは生きられない運命の子だったのよ。でも、少しだけ後悔しているわ。あなたの心に、死んだあの子が居座ってしまったみたいだから」
淑景舎の床に転がった食べかけの菓子、雨の匂い、人の声、喉の痛々しい傷、荷車に乗せられた夏姫の遺体。加冠の儀を終えた日の夜の断片的な映像が八条宮の脳裏を流れ、弾けるように割れて頭の中で飛び散る。そして、なにを考えるより先に、自分では制御できない狂気が体を支配した。
八条宮は、持っていた象牙の笏を置いて懐中の短刀を探る。そのとき、ざざあっと激しい雨音を伴って、湿った風が中殿の御座に吹いた。
冷たい雨の香りにまぎれて、わずかなお香の匂いが八条宮の鼻をかすめる。八条宮は、普段から自分で調合をするほどお香に精通していてその匂いに敏感だ。上品でさわやかに鼻孔の奥をくすぐるこの香りは、主上の御引直衣に焚き染められた沈香――。
八条宮は懐中から手を抜くと、呼吸を整え、おさまらない狂気をぐっと押し殺すように笏を握って右手に力をこめる。そして、努めて平静を装った。
「そのような軽口をたたいてもいいのか? 特に宮中にはあちらこちらに目や耳がある。俺にそう忠告したのはほかの誰でもない、女御殿だ」
「あら、嬉しい。わたくしの忠告を覚えていてくださったのね。でも、帝が人払いしたこの部屋に、耳や目があると思う? それに、夏姫の一件はとっくに済んだことで、証拠はなにも残っていないのよ」
雨の匂いのせいか、女御にはこのわずかな沈香の香りが分からないらしい。八条宮は、確信をもって女御への非難を口にする。
「想像を絶する卑劣な女だな」
「どうして? わたくしはあなたのためにしたのよ。順番は違ってしまったけれど、あなたはいずれ帝位に就く方ですもの。あなたに必要なのは、先のない宮家の姫でも影響力のない大納言の姫でもない。ちゃんとした後ろ盾を持つわたくしの」
「だから、俺たちは分かり合えず相容れないのだろう。俺は、一度も帝位を望んだことはない」
女御の言葉をさえぎって、八条宮は軽蔑と怒りを込めたまなざしを向ける。沈香が香らなければ、怒りに身を任せて目の前にいる女を殺していたかもしれない。それほど強い怒りと憎しみが八条宮の右手には握られていた。
再び、中殿の御座がしんと静まる。しばらく二人が黙していると、待たせたねと帝が御簾をくぐって御座に戻って来た。
「雨が廂にまで打ち込んでいる。当分、やみそうにないね」
帝が横を通り過ぎて、先程よりもはっきりとした沈香が鼻腔を満たす。間違いない。主上はこの御座の近くにおられたのだ。八条宮は、少し頭を低くして帝への敬意を示す。繧繝縁の厚畳に着座した帝が、懐から折りたたまれた書状を取りだした。
「依言、そばに寄りなさい」
帝が、御前に座り直した八条宮に書状を手渡そうとする。しかし、八条宮の手は笏を握ったままそれを受け取ろうとしない。よほど強く握っているのか、八条宮の手は小さく震えて皮膚の色が変色していた。それに気づいた帝がその手を取り、笏を引き抜いて代わりに書状を持たせる。
「菊見の宴の招待だ。これを渡したくてそなたを呼んだのに、私としたことが寝所に置き忘れていた」
「あ、ありがとうございます」
「最近、そなたのつき合いが悪くなったと皆がぼやいている。浮いた話も聞かなくなったし、大納言の娘を大事にしているようだね」
「はい。俺にはもったいない、優れた人ですから」
「そうか。そなたが良縁を得て、私も安心した。菊見の宴で会するのが楽しみだ」
帝の慈愛のこもった柔和な笑みに、八条宮の手のこわばりが解けてすっと力が抜ける。燃えあがるような怒りがいくらか落ち着いて、頭が冷静を取り戻した。
宮中には、あちらこちらに目や耳がある。もしもそれが主上の目や耳だったなら、いかに弘徽殿女御といえども言い逃れはできないだろう。もちろん、いつから近くにおられたのか、話がその耳に届いていたのかは定かではないが……。
八条宮は、書状を丁寧に懐中に忍ばせると、いつもの調子で帝に語りかけた。
「ああそうでした、主上。婚礼の前日、八条院に菓子を届けてくださったそうですね。かさねがさねお心遣い賜り、痛み入ります」
帝が、はてと訝しむように眉根を寄せて脇息に左肘をつく。
「そなたの婚礼に際しては、前例にならって婚礼前に祝いの品を贈ったはず。いくらかわいい弟宮とはいえ、私が宮中の慣例をやぶることはない」
帝らしい真面目な答えに、八条宮は納得してふっと表情をゆるめた。
「それは、ご無礼つかまつりました。俺が、うっかり女房からの報告を聞き違えたのでしょう。御所から……、いえ、帝と弘徽殿女御からだと言われたので、てっきり主上からの祝いだと思い込んでしまったようです。俺にも妻にも、弘徽殿女御から祝いをいただくような心当たりがないものですから」
「弘徽殿だと? それこそ、なにかの間違いではないのか?」
「いいえ。菓子は、杜若が描かれた朱塗りの箱に入っておりました」
杜若と聞いた帝の顔が凍りついて、同時に女御の顔が蒼白になる。帝は顔を横に向けて、鳳凰の檜扇に隠れた女御の表情をうかがった。
「依言」
「はい、主上」
「宴の当日は、雷鳴壺を休息所として使うといい。今から雷鳴壺に行って、女官らにそのように申しつけよ」
「よろしいのですか?」
「よい」
「それでは、そのようにいたします」
八条宮が、深々と一礼して御前を辞す。八条宮が去った御座で、帝は弘徽殿女御の顔をじっと見つめた。
「そなたと依言の間に、幼少時からの縁があるのは承知していたが……。どうやら、ただならぬ思いがあるようだね。先日の雷鳴壺での出来事は、私の見間違いなどではなさそうだ」
「違うのです。あれは、ごっ、誤解でございます」
「誤解?」
帝は、鼻で笑って女御の檜扇を取りあげる。雷鳴壺で、依言はこれに見覚えはないと即座に答えた。
――では、凛子はどうか。
それを確かめたくて、わざわざ朝議が終わったあとに依言を呼んだ。壁で隔たっているのに、隣の塗籠にはどういうわけか御座の話し声や音がよく聞こえる。先帝にこっそり教えていただいたのだが、御座と塗籠の狭間には風の通り道があるという。
「我が、君……」
雨音にかき消されてしまうほど小さな声。姿は凛子なのに、まるで凛子ではないような弱々しさだ。雷鳴壺での凛子もこうだった。
――かわいそうに。
言葉にすれば憐憫の念のようだが、これは憐みでも同情でもない。愛情がすっぽりと抜けて、からからに乾いたような感情がこみあげる。
日宮が東宮に決まったときの気持ちを、包み隠さず申してみよ。害したとは、どういう意味だ。長く生きられない運命の子は、依言の添い臥か。ここで問い詰めたら、素直に答えるだろうか。いや、それでは済まされない。
「相手を手にかけるほど、月読尊が好きか?」
「なにをおおせになるのです」
青ざめた女御が、目に涙をためてわなわなと唇を震わす。帝は、穏やかな顔で女御の檜扇を床に投げつけた。床にたたきつけられた衝撃で、要の留め具がはずれて檜の薄板がばらばらに散る。檜扇に描かれた高貴な鳳凰は、無残にも羽をもぎ取られたような姿になってしまった。
温厚な帝が初めて見せた怒りに、弘徽殿女御はなす術なく呆然とそこに座っているしかない。雨脚がますます強くなって、雨が中殿の廂にまで容赦なく打ち込む。
典侍や尚侍、そして女官らが駆けつけて格子をおろし始めた。それにかまわず、帝は女御の手首をつかんで引き寄せる。そして、女御のおびえた目を覗き込むように顔を近づけた。
「よいか、帝位は私の血筋に継がれるべきものだ」
「は……、はい。そのとおりでございます、我が君」
「私のそばでほかの男を慕うのは許さないよ、凛子。そなたは、私の女御なのだから」
