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第27話 ひのみかど(2)




 ❖◇❖


「八条宮様はまだお見えにならないのですね」


 典侍や中殿の女官たちと蔀戸をおろしながら帝に話しかけたのは、右大臣家の四姫だ。彼女は今朝、尚侍として内裏にあがったばかり。にもかかわらず、物怖じしない性格ですっかり場になじんでいる。

 実姉の弘徽殿女御から棘を抜いたような雰囲気の柔らかい顔立ちでにこりと笑えば、新入りに厳しい女官たちもたちまち骨抜きにされてしまうから不思議だ。


「朝議が終わるころに参内するよう伝えてあるから、そろそろ現れるのではないかな。さて……」


 帝は、典侍と尚侍に弘徽殿女御を迎えに行くよう命じると、女官らをさげてそろりと席を立った。廂から簀子縁に出る。外は、激しい雨が降っていた。

 時折、天に閃光が走り、遠くで地を這うような低い雷鳴がとどろく。空は濃い灰色の雨雲に覆われて、まだ午三刻しょうごを過ぎたあたりだというのに、夕刻と錯覚してしまうほど薄暗い。

 雨音に耳を澄まして雨に打たれる庭を無心でながめていると、大殿の方から雷鳴を浄化するような甲高いざわめきが聞こえてきた。ふっと気が抜けたように帝の口の端がゆるむ。どうやら、月読尊がご到着なされたようだ。

 中殿の御座に入って、帝は繧繝縁の厚畳に座り脇息にもたれかかった。



 ――日宮と月宮は内裏を照らす一対の光、か。



 確かに、ほかにもいる弟妹の中で依言だけが私にとって特別だった。依言は見た目こそ華美だが、誰よりも静かで穏やかな凪のような男だと思う。昔から争い事を好まず、いつも私の一歩後ろをついてくるような子だった。声を荒らげて怒る姿などは、一度も見たことがない。

 依言は、添い臥の姫が不幸に見舞われたときでさえ、感情をむき出しにして騒動するような見苦しい真似はしなかった。八条院に居を移したあと一年近く内裏に姿を見せず、邸にこもって一人悲しみに暮れていたそうだ。


「八条宮様が御前にあがられます」


 女官が廂にひれ伏して告げたあと、八条宮が一礼して御座に足を踏み入れる。帝は特に姿勢を直すわけでもなく、八条宮が座って深々と頭をさげる様子をおだやかな表情で見ていた。


「顔をあげなさい」


 帝の許しを得て、八条宮がまっすぐ前を向く。すると今度は、尚侍に先導されて弘徽殿女御が御座に入って来た。帝が、驚いたような顔をする八条宮に、今朝から近侍している右大臣の四姫だと尚侍を紹介する。しかし、八条宮が驚いているのは、どちらかというと弘徽殿女御がこの場に同席していることに対してだ。


「尚侍をおかなくても特に不便はなかったのだが、右大臣にぜひにとすすめられてね。佳人が増えて華やかになるのは悪くないだろう?」

「……ええ、そうですね」


 らしくない帝の冗談に八条宮は妙な違和感を覚えつつ、迎合してさしさわりのない相槌をうつ。それから帝は、弘徽殿女御を自分のそばに座らせてしばらく雑談をしたあと、書状を取りにいくと言って尚侍と一緒に御座を出ていってしまった。



 ――どういうことだ。



 弘徽殿女御と二人残された御座で、八条宮はあまりの居心地の悪さに眉間にしわを寄せる。そして、視界に女御の姿が入らないように顔をそむけた。息の詰まるような沈黙が、部屋の中で重たく沈んで二人の間にわだかまる。


「ひどい雨だこと」


 沈黙を破って、女御がぽつりとつぶやく。八条宮がそれを無視すると、女御は檜扇をはらりと広げて小さなため息をついた。

 女御の母親は式部卿宮の同腹の妹で、幼少の時分、彼女はよく母親と一緒に式部卿宮邸を訪っていた。あれはそう、まだ八つか十か、それくらいの年齢だったかしら。

 夏姫は、生まれたときから胸を患っていて、長く生きられない宿命にあるのだという。わたくしと同じ年なのに、死を待つだけだなんてかわいそう。起きている姿をあまり見ることがなくて、遊び相手にもならない従妹に対してあったのは、深い憐みと同情だけだった。

 ある盛夏の日、式部卿宮邸に着いていつものように見舞おうと夏姫の部屋へ行くと、お世辞にも上手とはいえない笛の音が聞こえた。夏姫が吹いているのかと思って局に入ると、いつもは床に臥している夏姫がきちんとした身なりで畳の上に正座して、その隣には水干すいかん姿の見知らぬ男子が座って笛を構えていた。

 一つに結われた白銀の下げ髪と琥珀色の瞳。彼の人離れした特異な容姿に驚いて、思わず局の入り口で立ちつくしてしまった。


「いらっしゃい、凛子様」

「……こんにちは」

「どうなさったの?」

「いえ。あの、そちらはどなたですの?」

「月宮様よ。父上が月宮様の笛を指南なさるそうで、これから毎日こちらにいらっしゃるのですって。凛子様も早くこちらへいらして」


 夏姫のきらきらとした目と弾んだ声。あのように意気揚々として笑う夏姫を見たのは初めてだった。月宮との出会いより、そのことのほうが強く印象に残っている。それから式部卿宮邸に行くと、必ずといっていいほど月宮が先に来ていた。

 式部卿宮様と月宮が笛の稽古をする間、夏姫とわたくしはそうを奏でて……。
 そのあとは三人で遊んだけれど、月宮はすぐに具合を悪くする夏姫の体を気遣ってばかりで、わたくしには一片の興味も示さない。月宮のふわりとした美しい笑顔と優しい言葉は、いつも夏姫のものだった。

 月宮はいずれ東宮になると聞いていたし、父上はわたくしを東宮妃として入内させるとおっしゃっている。やがて宮中で共に暮らす日が来るのに、どうして月宮はわたくしを気にかけないのかしら。

 当時、月宮の行動がまるで理解できなかった。そして、死に向かっているはずの夏姫から生命の息吹を感じる度に、とてつもない不快感に襲われた。


「思い出すわね。あの夜も、今日と同じくらい激しい雨が降っていたわ」


 女御が、懐かしい昔語りでもするように言う。あの夜がいつの夜をさしているのか、わざわざ聞き返して確かめる必要はない。八条宮は、嫌悪をあらわにして女御をにらみつけた。


「そう怖い顔をなさらないで。気に障ったのなら謝るから」


 広げた檜扇で口元を隠して、女御がにっこりとほほえむ。
 八条宮は、ふと女御の檜扇の絵柄に目をとめた。檜由来の色をした空に鳳凰が一羽大きく羽ばたき、その周りには金が箔押しされた雲がたなびく。扇の両側に垂れる飾りの絹房も紫や白が鮮やかで、女御の威光を示すような逸品だ。

 絵付け師が手描きする絵柄はこの世に唯一で、同じものは存在しない。どこかで見たような気がする。どこかで……、と記憶を探りはっとする。



 ――あれは、雷鳴壺で主上が持っておられた扇か?



 普段は、檜扇など気にも留めない。だが、帝が女物の扇をお持ちだったのがめずらしくて、その絵柄だけは鮮明に記憶されていた。



 ――確か、見覚えがあるのかと尋ねられたような……。



 嫌な動悸が左胸を打つ。いくら弟とはいえ、人払いをした部屋で妃と男を二人きりにして席をはずすなど、普通はあり得ない。どうして主上は雷鳴壺であのような質問をし、今もこのような状況をお作りになったのだろう。
 じっと檜扇を見つめる八条宮に、女御が小首をかしげながらにこやかに話かける。


「そういえば……。大納言の姫君とは、仲睦まじくお過ごしなの?」

「さあ、どうかな」

「どうして、そうわたくしを邪険にするのでしょう」

「女御殿には関係のないことだから、答える必要がない」

「よくもそのようなことが言えるわね」


 にこやかだった女御の表情に影がさし、平穏だった口調がわずかに波立つ。


「本当なら、わたくしはあなたの妃になるはずだったのよ。それなのに、東宮の地位を捨ててまで夏姫なんかを選んで……。日宮が東宮に決まったときのわたくしの気持ちが、あなたに分かる? 泣いたわ。あなたが東宮にならなかった理由を知って、涙が止まらなかった」


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