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第26話 ひのみかど(1)




 ❖◇❖


 その日は、夜明けから冷たい秋雨が降っていた。
 観月の夜以降、沙那は主寝殿で八条宮と起居を共にしている。初めはいろいろと落ち着かないことも多かったが、日がたつうちに共同生活にも慣れてきた。

 今日は朝議が終わるころに参内せよと帝からおおせつかっているそうで、八条宮は単衣に指貫、それに袿を数枚重ねて羽織っただけの軽い装いで横笛の手入れに勤しんでいる。帝のおっしゃる「朝議が終わるころに」というのは、昼を過ぎてからゆっくりと参内しなさいという意味らしい。

 歌口と七つの指孔を一つ一つ丁寧に布で拭く八条宮の表情は真剣そのものだ。そのそばで、時香盤からいい香りの白い煙が一筋立ちのぼる。それはお香の燃えた長さで時を計るもので、木製の箱に灰を敷き、その上に八条宮が調合した抹香が畑の畝のように盛られている。


「随分、年季の入った笛ですね」


 文机の上に並んだ三つの横笛の一つをさして、沙那が文机を挟んで真向いから八条宮に話しかける。すると八条宮は、手に持っていた真新しい横笛を文机に置いて、その古い笛を取った。


「これはね、初めて笛を習ったときに使っていたものなんだ。年端もいかない子供のころに新調していただいて長く使ったが、今では音が出なくなってしまって使い物にならない」

「思い出のある笛なのですね。依言様のことですもの、すぐに上達なさったのでしょう?」

「そうでもないよ。笛を指南してくださった式部卿宮様からは、数えきれないほど叱られた。覚えが悪いとね」

「式部卿宮様って、夏姫様のお父君様ですか?」

「うん。小さいころは、笛を習いに毎日のように式部卿宮様の邸へ行った。普段は温厚なのに、笛を握ると人が変わったように厳しい方でね。正直、式部卿宮様の邸に行くのが嫌だったし、笛もあまり好きではなかった」


 遠い昔を懐かしむように、八条宮が笑みを浮かべる。沙那は、いい機会だと話を切りだした。


「依言様に、夏姫様のことでご相談があります」

「相談?」

「はい。もうすぐ冬の更衣の時期ですから、菊見の宴に着用する衣装を選ぶついでに冬の衣もそろえようと思いまして」

「それはいい考えだね」

「それで、夏のお邸にも新年の重ねをお届けしたいのですが、わたしが夏姫様の衣装を選んでさしあげてもよろしいですか?」


 八条宮が、少し驚いた顔をしたあと笛を文机に置く。そして、文机を横にのけると、沙那とひざを突き合わせるように座り直した。

 周りにいた女房たちが、物音をたてないようそれぞれの手を止めて二人の会話に配慮する。八条宮は、沙那の両手を握ってしばらくその手を見つめた。

 夜の都は、昼間と違ってとても物騒で、ただでさえ貴族の娘が夜歩きするのは相当な勇気がいるはずだ。先日聞いた火事の話から察するに、沙那はどれほどの恐怖と戦いながら夜の都に出て俺を待ち伏せ、百夜通いをしていたのだろう。その間、俺がしていたことといえば、恥ずかしくてとても口にできない。

 火事の話を聞いたとき、口には出さなかったが、邸に火を放ち母親の命を奪った強盗が憎くはないのだろうかと疑問に思った。しかし、沙那の性格や日頃の言動を考えると、恨みや憎しみよりも母親を思慕し思いやる気持ちのほうが勝っているように感じる。一方の俺は、夏を奪った運命を呪うように生きてきて、いまだにその死にこだわっている。


「依言様?」


 心配するように呼ばれて、視線を手から沙那の顔に向ける。沙那の黒い目は澄んでいて、嫌な感情は一切見て取れない。沙那の純粋で優しい気持ちに応えるために、俺はどうするべきか。答えは明快で、しかし簡単ではない。それでも、目の前にいる沙那が大事だ、と八条宮は思う。

 沙那のことだから、夏の話をした日からずっと考えていたのだろう。過去を忘れ去って決別するわけではないが、いつまでも引きずって沙那を巻き込むのは間違っている。沙那に、ほかの女への気遣いをさせたくない。


「俺の妻は、あなただけだよ」


 八条宮の言葉に、沙那の目が大きくなる。


「だから、その気遣いだけで十分だ」

「でも、夏姫様だけが取り残されるみたいでかわいそうです」

「そうならないように、菊見の宴が終わったら、日を選んで夏の遺品を供養しようと思う」

「どうしてですか? 大切な思い出なのでしょう?」


 沙那が、必死の形相で身を乗り出す。


「俺の未練で、いつまでも夏をこの世に縛りつけるのはよくないと思ったから。あなたが嫌でなければ、俺と一緒に供養してくれないか?」


 もしかして、わたしに配慮くださっているのかしら。それなら気遣いはいらない。そう言おうとして、沙那は言葉を飲み込んだ。八条宮の口調や表情は穏やかだけど真剣で、本心を話してくれているのだと実感したからだ。


「……よろしいのですか?」


 うん、と八条宮が頷く。そのとき、時香盤から太い煙があがった。辺りに、一際強く伽羅の香りが漂う。御所へ行く支度をする時間を告げる合図だ。


「今日は玄幽を呼んでいるから、体の調子をよく診てもらって。あとは、菊見の宴の衣装を決めておくように」

「分かりました」


 沙那にほほえんで、八条宮が立ちあがる。それから八条宮は、女房たちと身支度にとりかかった。今日は私的に帝のもとへ参るだけだから、と八条宮は正装ではなく布袴ほうこの装いに着替える。これは、束帯の袴を指貫に代えた礼装である。

 着替えが終わると、今度は髪を結い直して纓を垂れた冠を頭に載せる。あとは懐紙をたたんだ帖紙たとうを袍の懐に挟んで象牙の笏を持てば、身支度は完了だ。

 支度を終えた八条宮が、主寝殿を出て車寄せに向かう。沙那も女房たちと一緒に車寄せまで見送りに出た。空がどんよりと灰色の雲に覆われて、秋雨が降り続いていた。


「依言様」


 沙那は、牛車に乗り込もうとする八条宮を呼び止める。


「どうしたの?」


 八条宮が、振り返って目線を合わせるように身を低くした。


「依言様の笛を、わたしも聴いてみたいです」

「菊見の宴で聴けると思うよ。帝が俺の笛の音を気に入ってくださっているから」

「本当ですか?」


 沙那の表情がぱっと明るくなったので、八条宮の顔もつられるようにゆるむ。


「では、行ってくるよ」

「あ、依言様。待ってください」


 八条宮に一歩近づいて、沙那が声をひそめる。


「今日も、早くお帰りくださいね」


 少しうつむいてもじもじとする沙那がかわいくて、八条宮は柄にもなく頬を赤く染めて御所へ向かったのだった。


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コメント

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コメント一覧 (4件)

  • 依言さまと沙那
    凄くゆっくり穏やかに愛が育まれているなあと幸せな気持ちになりました🥰
    依言さまがどんどん沙那を好きになってどんどん純粋に可愛く心が綺麗になっていってて(きっと前から心の深い所は綺麗だったんだろうけど)凄く素敵ですね〜☺️
    この2人は凄く穏やかだけど…
    参内せよ…何事もありませんように🥹
    巻き込まれませんように🥹🥹🥹

    いつも素敵なお話をありがとうございます😊

    • ひらりさん

      読んでくださってありがとうございます❤
      激しい愛情ではないのですが、このスピード感というかゆっくり関係が深くなっていく感じがいいですよね☺
      私も書きながらほっこりしている時があります(^^)

      次回は……ちょっと宮中でなにかが起きるかもしれません😥
      ドキドキ👀💦

      こちらこそ、いつもありがとうございます!
      こんなに楽しい気持ちで書けるのもひらりさんのお陰です💕
      宮様カップルに負けないくらい、私も幸せです(*ノωノ)✨

  • 沙那ちゃんの細やかな心遣いに涙が込み上げますね。本当に心根の優しい子で、宮様の大切な人や思い出も全部包み込んで愛する懐の厚さを感じました……もじもじする様子も可愛い!(*´艸`*)
    宮様は相変わらず美しく、雅で眩いばかり……私もすかいさんの作品を見習い美しく書けるよう精進します!続きがとてもたのしみー!

    • 琉璃さん

      早速読んでくださって、ありがとうございます!
      推しのすべてを愛する気持ち……、私たちにもあるよね( *´艸`)キャッ✨

      琉璃さんの小説、とっても綺麗です!!(大声)
      何度もしつこく言うけど、映画を見ている気分で読める細やかで流れるような描写とか言葉選びとか、いつも凄いなぁ✨って思ってます。
      しかも作品ごとにいろいろな書き分けをしていて、えっちだし、かわいいし、かっこいいし、臨場感すごいし、そりゃ無意識にレビュー処女捧げちゃうよ🥺
      私も感想欄にこっそりお邪魔しますね( *´艸`)

      いつもありがとうございます!
      くじけそうになる度に、琉璃さんの「頑張れー!」に励まされてるよ~😭💕
      心から感謝しています(^^)