沙那は面食らったような顔をして、それからすぐ蛍火のように柔らかな笑みをこぼした。声にしなくても、喜んでいるのが一目瞭然だ。
「書くよ」
八条宮が蝙蝠の柄を筆のように握って、沙那の手のひらに歌を詠む。さらさらと迷いのない筆先は、沙那が二度瞬きをする間に三十一の文字を書きあげた。流れるような速さだったので、情けなや、目と皮膚を圧される感触で正確に追えたのは最初の「月」一文字だけだった。
「ええっと」
沙那が真剣に手のひらを見つめていると、八条宮の両手に右手を包まれた。恥ずかしいような嬉しいような、包まれた手から頬に熱が集まって来る。
――なにを捕まえてくださったのかしら。
春に咲く花が好き。いい香りのお香が好き。甘い食べ物だって大好き。父上や小梅、実家の女房たちに八条院の女房たち。この世に好きなものなんて、数えきれないくらいある。だけど、一番好きなものといわれたら――。
「俺はね、沙那。朗らかで優しくて、懸命なあなたが愛おしい。月よりあなたの近くにいて、あなたを思っている」
「依言様……」
「あなたの手の中に俺の気持ちを書いた。ほら、これで俺の心はあなたのものだよ」
沙那は、八条宮の目と握られた手を交互に見て、そのまま固まってしまった。
うららかな春の日。父上と参内した宮中で依言様のお姿を御簾越しに見て、その透影の美しさに感性を奪われた。それだけのことでと笑われるかもしれない。けれど、一方通行の真剣な恋はその瞬間に始まったの。
夜闇への恐怖にくじけず百夜通いを続けられたのは、依言様が毎夜声をかけてくださるようになったから。その目にわたしの姿を映してもらいたくて、声を聴きたくて、言葉を交わしたくて必死だった。
今だって、一方的に好意をぶつけておきながら、浅ましくも愛される日が来るのを夢見ている。妻になれただけでも幸運なのに、依言様には夏姫様がいらっしゃるのに、許されるのかしら――。
沙那が黙ったまま動かずにいると、八条宮の手が戸惑いながら頬に触れた。途端に、夜空のようにきらきらと輝く沙那の目から、ぽろりと雫が落ちた。
「もしかして、この世で一番好きなものがほかにあった?」
八条宮が、困ったように苦笑いをしながら眉尻をさげる。沙那は、慌てて首を横に振った。
「依言様より好きなものなんてありません。でも、よろしいのでしょうか。わたしが依言様のお心をいただいても」
「あなたがいい。あなたなら、慈しんで大切にしてくれると思うから」
八条宮が真剣な顔で言ったので、沙那は右手をぎゅっと握りしめてこくりと頷いた。
「きっと大切に……、大切にいたします」
「ありがとう、沙那」
でもね、そう力いっぱい握ったら俺の心が潰れてしまうよ。
今度は真綿のように柔らかな笑みを浮かべた八条宮が、沙那の涙を指で拭う。そして、伽羅の芳香が鼻の奥をくすぐった刹那、唇を奪われた。軽く触れるだけのくちづけをして、八条宮が沙那の腰を抱き寄せる。
沙那はきゅっと目を閉じて、どきどきと胸の高鳴りを感じながら八条宮のくちづけを待った。しかし、唇に触れたのは、ふにゃっとした冷たい感触。驚いた沙那が目を開くと、八条宮が黒文字に刺した餡子餅を押し当てていた。
「……あ、え?」
「思う存分甘えたら、食べると言っていただろう?」
ほら、と八条宮が餡子餅で沙那の唇を軽くつつく。沙那は、八条宮の顔をじっと見て葛藤した。
ああん、まだ依言様に甘えていたいのに。でも、餡子餅も捨てがたい。
沙那が食べやすいように、餡子餅は一口の大きさに小さく切り分けられている。その心遣いに、沙那はあっさりと菓子の誘惑に負けた。
「では、いただきます」
小さな口でぱくっと黒文字に食いついて、餡子餅を頬張る。そして、口元を袿の袖で隠し、もぐもぐと咀嚼して餡を味わった。小さく割ってあっても、さすが宮中の菓子だ。上質な甘葛煎のほのかな甘さが、あっという間に味覚をさらう。
「幸せそうな顔だね。美味しい?」
八条宮が、くしゃりと破顔する。
「はい、とっても」
「まだあるから、気が済むまで食べるといい」
「あ、でも……」
「どうしたの?」
「わたしばかりがいただいては申し訳ないので、依言様も召しあがってください」
本当においしいですよ、と袖から覗く沙那の目がきらきらと輝く。八条宮は少し戸惑ってしまった。実をいうと、菓子の類があまり好きではない。
もともと甘い味が苦手なのだが、元服した日を境に一切そういう菓子を口にできなくなった。あの夜、淑景舎に夏が口にしたと思われる食べかけの菓子が残されていたからだ。
しかし、沙那の好意を無下にはしたくない。それに、苦手だの嫌いだの、沙那に向かってそのような雑言を言うのは気が引ける。八条宮が黙っていると、沙那が顔色をうかがうように小首をかしげた。
「餡子餅はお嫌いですか?」
「……いや」
「お嫌いなのでしたら、無理はなさらなくても」
「あなたが、俺の口に入れてくれるなら食べてみよう……、かな」
沙那の目が一瞬、驚いたように大きく開いたので、八条宮は恥ずかしくなってしまった。羞恥と焦燥で、顔や耳朶に血が一気に集まってくる。先に明かりを消しておいてよかった。心からそう思う。
――なにを言っているのか、俺は。
正一品の親王が、幼子のように妻に給餌をせがむとは情けない。第一、沙那が幻滅したらどうする。しかし、沙那に甘えたい欲にかられているのも事実だ。
――どうかしている。
内心で自嘲しながらも、八条宮は黒文字と餡子餅がのった小皿を沙那に差し出す。沙那は、少しだけ困惑した様子でそれを受け取って、餡子餅を八条宮ではなく自分の口に入れた。
「それは、俺の……」
がっかりする八条宮を横目に、沙那は小皿を膳台に置いて、幸せをかみしめるようにもごもごと口を動かす。咀嚼された餡子餅が喉を滑り落ちると、あっという間に口の中は空っぽになった。
「ああ、美味しい。依言様にも分けてさしあげようかと思いましたが、あまりにも美味しいので、やっぱりわたしがいただきます」
「俺が無理をしていると思ったの?」
「いいえ。よく考えたら、宮中のお菓子なんて滅多に口にできませんから。ただ独り占めしたいだけです」
肩をすくめて、沙那がふふっと愛らしい笑みをこぼしたので、八条宮もつられて笑ってしまった。
「優しいね、あなたは」
八条宮が、鉄瓶の湯を土師の器にそそぐ。そして、それを「熱いから気をつけて」と沙那に手渡した。
月夜を清み、二人の間を静かな時間が流れていく。沙那は、八条宮がそそいでくれた白湯を飲んで月を見上げた。
やがて冬の更衣の時期がくる。そろそろ、夏の邸にお届けする年越しの衣の準備に取りかからなくちゃ。
頭の中で夏姫の手蹟や御歌に感じる柔らかな色を並べて、新しい年の始まりをあらわす白を基調とした五色の重ねを想像する。八条宮から夏姫の話を聞いてから、沙那は供養と来世への祈りをこめて、彼女のために新年の衣装を用意しようと決心していたのだ。
――燈の影にかがよふうつせみの妹が笑まひし面影に見ゆ
沙那の脳裏に、ふと昔の歌人の詠んだ歌が浮かぶ。もうこの世にいない、恋しい人を想う歌。燈ではなく月明かりだけれど……。
依言様は、夏姫様の姿やほほえむ顔、ほかにも忘れられない面影を月明かりに思い浮かべて偲んでおられるのかしら。
――依言様の深い悲しみが、少しでもやわらぎますように。
沙那は、心の中で手を合わせて祈った。
依言様が、わたしと二人で過ごす時間に少しでも幸せを感じてくださったら。真綿のように柔らかな笑顔を、もっともっと見せてくださったら。そうなるように、わたしは依言様をなによりも大切にしたい。
「風が冷えてきたな。そろそろ休もうか」
八条宮が、いつものように穏やかな口調で言った。はい、と沙那がにこやかに返事をすると、八条宮は主寝殿の女房たちを呼んで寝支度をするよう申しつけた。
