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茜さす刻。沙那は、白木の廊下に伸びる下襲の裾と影を踏まないように、少し離れて八条宮の後ろをついていく。そして、腕の中であくびをするナギの頭をなでながら、にこにこと笑みをこぼした。
――まさか、明るいうちにお帰りになるなんて。
わたしとは無縁の宮中なる聖地で、依言様はどう一日をお過ごしだったのかしら。今日はなにをなさったのですか? どなたとどのようなお話しを?
ああ、依言様の話をお聞きしたい。うっとりするお声で、心地よい口調で、宮中で見聞きなさったものをわたしに教えてくださったなら、きっと絵巻物よりも素敵な物語に出会えそう。
「依言様」
沙那が呼びかけると、八条宮が歩みを止めてゆっくりと振り返った。優しいまなざしで「なに?」と返してくれる背の君。沈みかけた西日に照らされたその顔があまりにも穏やかで、沙那は頬を赤く染めて「いいえ、なんでもありません」とうつむいた。
いけない、落ち着かないと。早くお帰りになったのが嬉しくて、つい自己中心的な欲望に駆られてしまった。依言様はお優しいから、頼めば一緒にいておしゃべりにもつき合ってくださると思う。でも、ご迷惑になるといけないから……。
「どうしたの?」
「いいえ、本当になんでもありません」
沙那が笑って誤魔化す。すると、八条宮は訝しむような顔をしたあと、廊下の端に寄って空をあおいだ。昼と夜が入れ替わる時刻の、藍色と橙色の明暗の比が絶妙な西の空。東を見れば、濃藍の夜幕にちらほら星が輝き始めている。
「じき、冬だね」
空に目をやったまま、八条宮がぽつりと言う。沙那は、八条宮の隣に立って同じように空を見上げた。日ごとに短くなっていく昼と長くなっていく夜。
秋の夕暮れはきれだけれど、ほかの季節にはない寂さのようなものを伴って、少し不穏な不気味さを感じる。ふいに、大人しく抱かれていたナギが、耳をぴんと立ててするりと沙那の腕からすり抜けた。
「あっ、待って!」
沙那がつかまえようとするより早く、ナギは廊下の欄干を身軽に跳ねて、鈴をちりちり鳴らしながら庭を走り去っていってしまった。
「もう夜になってしまうのに、どこへ行くのかしら」
沙那は、ナギの姿を必死に目で追う。すると、すぐ近くで衣擦れの音がして「沙那」と静かに呼ばれた。ふわりと香る、伽羅の匂いにどきっとする。
「ナギなら心配いらない」
「お腹がすくか寒くなったら、ちゃんと帰ってきますものね」
「うん」
「では、わたしは北の対屋へ戻ります。お疲れでしょうから、ゆっくりなさってくださいね」
「ねぇ、沙那。風もなし、天も美しいから、今宵は二人で観月にでも興じようか」
「……お月見?」
「ほら、ちょうど美味しそうな餡子餅もある」
八条宮が、持っていた螺鈿の細工が見事な黒い手箱の蓋を少し開いて見せる。その中にぎっしり詰められているのは、雷鳴壺の女房が手土産として詰めてくれた餡子餅だ。
早く帰って来てくださったうえに、二人で月を見よう(餡子餅付き)だなんて。今日は、なんていい日なのかしら!
思いもよらない八条宮からのお誘いに、沙那の表情が華やいで大きな両眼がきらきらと輝く。
「支度ができたら迎えをよこすよ。夜は冷えるから、あたたかい格好をして主寝殿に来て」
「はい、分かりました!」
「いい返事だね」
笑いながら手箱の蓋を閉めて、八条宮が主寝殿へ向かって歩み出す。沙那は、遠ざかる八条宮と餡子餅にひらひらと小さく手を振って、その姿が廊下の角を曲がって見えなくなると同時に、喜びに諸手を挙げて北の対屋へ続く廊下を疾走したのであった。
その様子を、八条宮が廊下の角からこっそり覗いて笑っていたことは、本人のために伏せておいたほうがいいだろう。
かくして、八条院は静々と夜の帳に覆われた。
主寝殿の女房たちが、八条宮に命じられたとおりに東を向いた廂に畳を二つ並べて席をしつらえ、廊下を塞ぐように風避けの几帳を席の両側に立てる。それから、席の背に唐絵が描かれた四つ折りの金屏風を置いて、火鉢に火を入れた。
空には三日月とたくさんの星屑がきらめいて、あとは八条院の主人とその妻が席に仲良く座れば、優雅な観月の席の完成である。
沙那は、女房たちが丹精込めて用意してくれた夕餉をしっかりと食し、身を清め、小梅が選んでくれた冬の衣を羽織って迎えが来るのを待った。
薄桃色や朱色に、大人びた濃い紫の重ね。小梅は昔から色彩感覚が優れていて、小梅の手にかかると絶対に似合わないはずの高貴な紫色も難なく着こなせてしまうから不思議だ。
鏡台の丸鏡を覗き込んで、額を覆う前髪を指先で整えて、それから檜扇を開いたり閉じたり。迎えを待つ時間は悠久の時のよう。沙那がそわそわと落ち着かない様子で待っていると、ようやく主寝殿から迎えの女房がやって来た。
小梅と北の対屋の女房たちに見送られて、沙那が主寝殿の女房としつらえられた観月の席に行くと、そこには既に八条宮の姿があった。
「ここに座って」
御座に胡坐をかいた八条宮が、左手で畳をとんとんと軽くたたく。八条宮は、単衣姿に重ねた袿を着ただけの格好で冠も烏帽子も載せておらず、寝支度万端といった様子だ。殿方が髻を見せるのは、そういうときと相手だけだから妙に緊張してしまう。
沙那は、そろそろと御座にあがって着座する。本当はくっついて座りたいけれど、鬱陶しいと思わるのは嫌だから少し間を空けて。
「寒くはない?」
そう尋ねながら、八条宮が高足の膳台から黒文字と餡子餅の乗った小皿を手に取る。それを沙那の前の膳台に置くと、控えていた女房が火鉢にかけていた鉄瓶の湯を土師の器にそそいだ。
「寒くないですよ。風がなくて、本当に穏やかな秋夜ですね」
「そうだな」
八条宮が、女房に明かりを消すように命じる。女房が燭台の明かりを吹き消すと、お互いの顔と手元が見えるくらいの明るさになった。夜空を引き立てるにはこれくらいがいい。
沙那が空を見て「きれい」とつぶやくように言う。すると、八条宮が女房をさげて沙那との間を詰めた。
「寒いのですか?」
「そうではない。あなたにくっつきたかっただけだよ」
「ひぇ……?」
空から視線をさげておそるおそる隣を見れば、八条宮がこちらを向いてにんまりと笑っている。途端に、沙那の左胸が踊り狂い出す。もはや、お月様どころではない。
さすが、元恋多き遊び人だわ。素人のわたしが越えられない壁を、難なくひょいっと飛び越えて来る。
――本当は、わたしのほうから先にくっつきたかったのに……っ!
沙那は、八条宮の左腕に自分の腕を絡ませると、えいっと勇気を振り絞ってもたれかかった。そして、伽羅の上品な香りが焚き染められた衣に頬をすり寄せる。
「餡子餅は食べないの?」
「思う存分、依言様に甘えてからいただきます」
「そう」
「依言様。……大好き」
八条宮は、絡ませた腕にぎゅっと力を入れる沙那の頭を空いた右手でなでた。沙那はいつも、女房たちとどのような話をしているのだろう。
なにか沙那の好きそうな話をしてやりたいが、宮中での出来事を話しても面白くないだろうし……。八条宮は、頭をなでながら沙那が笑ってくれそうな話題を探す。しかしこれといって面白い話は思い浮かばず、代わりに沙那が文の返事をもらえなかったと言っていたのを思い出した。
「沙那、俺に右手を貸してくれないか」
「右手をですか?」
沙那が、名残り惜しそうに八条宮から離れて「はい、どうぞ」と右手を差し出す。すると、八条宮はその手を手のひらが上になるように自分の左手に乗せて、右手に蝙蝠を握った。
「なにをなさるのですか?」
「心を込めてあなたに歌を贈ろうと思ってね。そうだな、あなたはよく池に映る月をながめているから……。水面に揺れる月の代わりに、あなたがこの世で一番好きなものを手の中に捕まえてあげる」
