第22話 愛しきよし





 軽く触れるようなくちづけのあと、八条宮が沙那の腰を抱き寄せてちゅっと唇をついばむ。依言様の唇は、温かくてふわふわしていて感触がとても気持ちいい。されるがまま、沙那は大好きな人と触れあう幸せに身をゆだねる。

 しかしそれも束の間、八条宮の体温がすっと離れて代わりにふにゃっと柔らかな感触がした。驚いた沙那が思わず目をあけると、八条宮が楊枝に刺した餡子餅を沙那の口に押しあてていた。


「……ふ、え?」
「俺に思う存分あまえたら、食べると言っていただろう?」


 ほら、と八条宮が餡子餅で沙那の唇を軽くつつく。沙那は、八条宮の顔と手元を交互に見て葛藤した。


 ああん、まだ依言様にあまえたいのにぃ……。


 でも、餡子餅も捨てがたい……っ!


 沙那が食べやすいように、餡子餅は一口の大きさに小さく切り分けられている。その気遣いが嬉しくて、月明かりに照らされる沙那のかわいらしい顔が自然と嬉しそうにほころんだ。


「では、いただきます」


 沙那は、ぱくっと小さな口で楊枝に食いついて餡子餅を頬張る。そして、口元を袿の袖で隠し、もぐもぐとこし餡を味わった。小さく割ってあっても、さすが宮中の菓子だ。上質な甘葛煎のほのかな甘さが、あっという間に味覚をさらう。


「幸せそうな顔だね。おいしい?」


 八条宮がくしゃりと破顔して沙那に言う。沙那は袖で顔を覆って、「はい、とっても」と柄にもなくしおらしい返事をした。真綿のように柔らかな依言様の笑みは、素敵すぎて心臓に悪い。


「まだあるから、気が済むまで食べるといい」
「あ、はい。でも……」

「どうしたの?」
「わたしばかりがいただいては申し訳ないので、依言様も召し上がってください」


 本当においしいですよ、と袖から覗く沙那の目がきらきらと輝く。八条宮は少し戸惑ってしまった。実をいうと、菓子の類があまり好きではない。もともと甘味が苦手だったのだが、夏姫が死んでから一切そういう菓子を口にできなくなった。あの夜、淑景舎に夏姫が口にしたと思われる食べかけの菓子が残されていたからだ。

 しかし、沙那の好意を無下にはしたくない。それに、苦手だの嫌いだの、沙那に向かってそのような雑言を言うのは気が引ける。八条宮が黙っていると、沙那が琥珀色の瞳を覗きこんで「依言様?」と小首をかしげた。


「もしかして、餡子餅はお嫌いですか?」
「……いや」

「お嫌いなのでしたら、無理はなさらなくても」
「あなたが……、俺の口に入れてくれるなら食べてみよう、かな」


 沙那の目が一瞬、驚いたように大きく開いたので、八条宮は急に恥ずかしくなってしまった。羞恥と焦燥で、顔や耳朶に血が一気に集まってくる。

 なにを言っているのか、俺は。正一品の親王が、幼子のように妻に給餌をせがむとは情けない。第一、沙那が幻滅したらどうする。しかし、そう思う一方で沙那に甘えたい俺がいる。今まで、誰に対してもこんな気持ちになったことはなかったのに……。

 どうかしてる、と内心で自嘲しながら、八条宮は楊枝のささった餡子餅がのった小皿を沙那にさしだした。沙那が、少しだけ困惑した様子でそれを受け取って餡子餅を八条宮ではなく自分の口に入れる。そして、沙那は小皿を膳台に置くと、幸せをかみしめるようにもぐもぐと咀嚼そしゃくした。


「依言様にも分けてさし上げようかと思いましたが、あまりにもおいしいので……。やっぱり、わたしがいただくことにします」
「俺が嫌がると思ったの?」
「いいえ、美味しい宮中の菓子を独り占めしたいだけです」
「優しいね、あなたは」


 八条宮が、鉄瓶の湯を土師の器にそそぐ。そして、それを「熱いから気をつけて」と沙那に手渡した。
 月夜つくよを清み、二人の間を静かな時間が流れていく。沙那は、八条宮がそそいでくれた白湯を飲んで月を見上げた。やがて冬の更衣の時期がくる。

 そろそろ、夏のおやしきにお届けする年越しのかさねの準備に取りかからなくちゃ。
 新しい年の始まりをあらわす白を基調として、夏姫の手蹟や御歌に感じる柔らかな色を思い浮かべて五色の重ねを想像する。供養と来世への祈りをこめて、沙那は夏姫のために新年の衣装を用意しようと決心していた。そんな沙那の隣で、八条宮がじっと月をながめていた。



 ――ともしびの影にかがよふうつせみの妹が笑まひし面影に見ゆ



 八条宮の横顔を見た沙那の脳裏に、ふと昔の歌人の詠んだ歌が浮かぶ。もうこの世にいない、恋しい人を想う歌。燈ではなく月明かりだけれど……。依言様は、夏姫様の姿やほほえむ顔、忘れられない面影を月明かりに思い浮かべて偲んでおられるのかしら。



 依言様の深い悲しみが、少しでもやわらぎますように――。



 沙那は、心の中で手を合わせて祈った。
 依言様が、わたしと二人で過ごす時間に少しでも幸せを感じてくださったら。真綿のように柔らかな笑顔を、もっともっと見せてくださったら。そうなるように、わたしは依言様をなによりも大切にしたい。八条宮が歌を書いてくれた右手をぎゅっと握って、沙那は八条宮の横顔を見つめる。


「風が冷えてきたな。そろそろ休もうか」


 沙那の視線に気づいた八条宮が、いつものおだやかな口調で言った。はい、と沙那がにこやかに返事をすると、八条宮は主寝殿の女房たちを呼んで沙那の寝支度をするよう申しつけた。沙那が、席を立って女房たちと部屋に入る。

 沙那が去って八条宮ひとりになった観月の席に、白髪の女房がひとり火桶の火を始末するためにやってきた。この女房は、先帝の御代に八条宮の生母である藤壺女御に仕えていた。先帝の命により八条宮とともに御所を出て以降、八条院の女房方を取り仕切っている。


「宮様。火を消しますので、上着をお召しくださいませ」


 八条宮の肩に、女房が上着をかける。八条宮がそれに袖を通すと、女房は鉄瓶の湯を火桶の灰にまいた。炭火が、くすぶって夜闇に白煙をくゆらせる。


「まこと清らかでよき御方でございますね、北の方様は。大納言家の姫君であらせられますのに少しも気取ったところがなくて、わたくしどもにまで親切にしてくださいますのよ」

「沙那が初めて八条院に現れたときにも、あなたは同じことを言っていたね」
「あら、覚えておいででしたの?」

曲者くせものを追い返せと命じたのに、あなたは従わなかった」
「恨んでおられるのですか?」
「いや、そうではないが……」

「北の方様が本当に曲者であれば、宮様のいいつけに従いましたけれど。わたくしは、女院より宮様のことをくれぐれもと託されています。それに、宮様のご誕生からお世話つかまつったのですもの。宮様の幸せを願うのは、当然でございましょう?」

 女房が、優雅な笑みをたたえる。そのとき、沙那の寝支度が済んだと知らせがきたので、八条宮は蝙蝠かわほりを女房に渡して立ち上がった。


「宮様、北の方様を大切になさいませね。どこへお通いになろうとも、北の方様のような御方には巡り合えませんよ」
「……そうだな」


 ふふっと、背後から女房の笑い声が聞こえる。八条宮は、女房を残して主寝殿の寝所へ急いだ。寝所に入ると、寝床に単衣姿の沙那が座っていた。

 いつの間に帰ってきたのか、ナギが沙那の膝に陣取って「にゃあ」と甘えている。腹を上に向けて、すっかり沙那に心を許している様子だ。
 女房といいナギといい、八条院の者たちは少し沙那に懐きすぎではないのか? 俺の妻なのに。ふと、わけの分からない小波のような苛立ちが胸をよぎる。


「依言様、今夜はナギもここで一緒に寝ても」
「だめだ」


 沙那の言葉をさえぎって、八条宮がさらうようにナギを抱きかかえて寝所の外に閉めだす。それから八条宮は寝床に戻って、きょとんとする沙那を膝に座らせた。


「依言様、ナギがかわいそうですよ」
「これから女房たちがナギに餌をやるから」
「あ、そうでしたか。それなら、しかたありませんね」


 ほがらかに納得する沙那の首元に、八条宮が顔をうずめる。もしかして俺は、嫉妬深い男なのだろうか。沙那に甘えるナギが、なぜか憎らしく思えてしまった。



 はっ……、ばかな。



 相手は猫だぞ?



 なぜ俺が猫相手に張り合わねばならないのか。八条宮は、努めて冷静を保ちながら沙那の薄い首筋の皮膚を食んで舐めた。


「ん……っ」


 体を硬直させて声を殺す沙那の腰ひもを解いて、首の肌を吸いながら単衣の合わせから手をしのばせる。手の平で胸のふくらみをなでると、沙那が体をぴくりとさせて小さな悲鳴を上げた。


「待ってください、依言様。むむむ、む、胸は、その……っ!」
「俺は気にしないと言ったはずだが」
「でも、恥ずかしくて。こっ……、心の準備が」

「沙那」
「……はい」

「もうすぐ、宮中で菊見の宴がある。あなたにも参列してもらうから、女房たちと衣装を選んでおいて」
「わたしが参内するのですか?」

「そう。あなたは宮家のしつで従三位の位にあるから、俺と一緒に主上の御前に上がるよ」


 会話に気を取られているうちに、するりと単衣が肩を滑り落ちる。あらわになった胸を隠そうとする沙那の細腕をつかんで、八条宮が沙那を寝床に組み敷いた。


「帝の御前にわたしが……。なんだか、とても緊張します」
「俺に胸を見られたり触られたりするよりも?」
「そ、それは……!」


 くすっと笑って、八条宮が沙那にくちづける。沙那は、心臓が破裂してしまいそうな緊張に耐えながら八条宮に身を任せた。

 同刻、右大臣邸では右大臣が自慢の池をながめながら先程から幾度となく深いため息を繰り返していた。悩みの種が、心深くに根づいてしまっているのだろうか。彼の眉間には悩みと同じ深さのしわが刻まれて、肉づきのいい顔には険しい表情が浮かんでいる。右大臣の目下の悩みといえばただひとつ。内裏にいる一姫いちのひめの事だ。



 弘徽殿様が夜の御殿おとどに召されておらぬそうな。



 これは、このところ宮中でよく耳にするようになった噂である。
 一姫は、今上帝の妃たちの中で誰よりも早く入内し、長く帝の寵を独占してきた。時は経てども、帝は他に目もくれないご様子。心配も焦りも必要はなく、やがて一姫が皇子を産みまいらせたあかつきには、帝が必ずやその皇子を東宮にしてくださる。右大臣はそう思っていた。

 国が建ち永年。すめらぎの権威とじんの権力は、もつれた糸のようにきつく絡み合って今日にいたっている。権力は皇の権威なくしては得られず、皇の権威もまた臣の権力なくしては保たれない。

 関白の座を狙う右大臣にとって、一姫の威光にかげりが見えるは由々しき事態であった。
 今、東宮になれる唯一は、先帝より親王に叙された八条宮依言だけだ。その八条宮が、沙那を正妻に迎えたことも右大臣の焦燥に拍車をかけている。

 大納言へのおそれはない。大納言は権力に無欲で、ひたすら主上につくすだけの善良な男だ。問題はそこではく、このまま帝に御子のない状態が続いて八条宮が東宮になれば、八条宮と薄縁の我が身の先行きは憐れ。関白の座は遠のいて、右大臣の地位さえも危うくなる。

 あと数日もすれば四姫が帝の尚侍ないしのかみとして内裏にあがる。姉妹で寵を争うはいささか外聞が悪いが、前例のない事ではない。右大臣は、こめかみをおさえて深い深いため息をついた。

 この夜、弘徽殿女御は心して帝をお待ち申し上げた。しかし、いつもならとっくにお越しになっている刻を過ぎても御渡りがない。

 純白の夜衣に大人しい色目の重ねを着て、御座おましにじっと座る弘徽殿女御の手元を無情な時間が過ぎてゆく。そして、どっぷりと夜が更けたころ、中殿の典侍ないしのすけが弘徽殿を訪れた。入念に化粧を施しいつにも増して美しい弘徽殿女御に、ひれ伏した典侍が淡々と告げる。


「主上は、麗景殿へお渡りになりました。今宵はもうお休みくださいませ、女御様」


【補足】

  • サブタイトル「しきよし」→「愛しい大切なあなたに」
  • 本文中の「月夜つくよを清み」→「明かりに照らされて」
  • 和歌の引用:万葉集 巻十一 二六四二

   

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