第21話 日宮と月宮(1)




 ❖◇❖


 朝鳥の甲高い鳴き声に、沙那はうっすらと目を開けた。ぼんやりとした視界に白木の梁が見える。体が水底に沈んだ鉛のように重たい。それに、下腹部に月の障りのときみたいな鈍い痛みがある。

 両手で円を描くように下腹部をさすって、ゆっくり深呼吸する。すると、こめかみになにかがこつんと当たって、沙那は体を硬直させた。



 ――そうだった。



 昨夜のことをありありと思い出して、寝起きの心臓がばくばくと暴れだす。
 こめかみにくっついているのは依言様のお鼻で、すぐ近くに聞こえるのは依言様の寝息。それに、上掛けの袿を被っているから見えないけれど、胸の上には依言様のものと思われるしなやかな腕が乗っかっていて。

 言わずもがな、二人とも全裸です。依言様側の太腿らへんに当たっている異質なものの正体には……、触れずにおく。



 ――とうとう、わたし!



 恥ずかしくてどうしようもないけど、体の気怠さや痛みは妻になれた証だ。沙那は、胸の上に置かれた八条宮の腕にそっと手を添えると、ふふっと嬉しそうな笑みをこぼした。本当に喜ばしくて幸せな朝だった。

 その日、八条宮はいつもより遅い時間に目を覚まし、共寝の余韻もそこそこに、慌ただしく身なりを整えて八条院を出ていった。御所へ馳せ参じよと御文をたずさえて、帝の使いが八条院を訪ねてきたからだ。沙那は、束帯姿の凛々しい背の君をにこやかに送り出して、女房たちと縫い物に勤しむことにした。

 秋の更衣が済むと、女房たちが数日虫干しした夏の衣を一針一針丁寧に直していく。これは沙那がすべき仕事ではないのだが、手先を使う作業が好きだし、女房たちとのお喋りはとても楽しいので、彼女はいつもこうして女房の輪に加わっている。

 たたんで積まれた衣の山から八条宮が夏に着用していた束帯の袍を手に取って、沙那はほんのりと頬を染めた。

 雲鶴の紋様が織り込まれた、向こうが透けて見える軽やかな黒染めの顕文紗けんもんさ。目を閉じれば、射干玉ぬばたまの黒き御衣みけしを身に装って、宮中を優雅に歩く依言様の姿が浮かぶ。



 ――今日は、早く帰って来てくださるといいなぁ。



 どうしよう。依言様を好き過ぎて、袍まで愛おしく思えちゃう。
 八条宮の衣を抱きしめる沙那に、小梅や八条院の女房たちがあたたかな視線を向ける。さらりと乾いた風に乗って、どこからか覚えのある香りがやんわりと漂ってきた。食欲をそそる、桜餅に似た香りだ。

 沙那が目を開けて部屋を見回すと、文机の上に摘んだ藤袴が生けてあった。沙那は、紫の小さな花弁に秋の深まりを感じながら、裁縫道具の針山に手を伸ばした。





 同じ時分、八条宮といえば。
 中殿の御座で、帝と向かい合っていた。繧繝縁うんげんべりの畳に座った帝が、ふぅと重たいため息をつく。繧繝縁の畳に座れるのは、帝と神仏だけである。

 いつもは仏の如く穏やかなお顔をなさっている帝だが、今日はいつもと様子が違う。脇息に肘をついて頭を抱え、眉間に皺まで寄せている。

 悩んでおられるのか、不機嫌なのか。いかがなさいましたと、一言尋ねればいいのだが、人払いをしてある御座の空気が重たくて、なんとなくいい出せない。八条宮は、帝が話し始めるのを待つことにした。

 しかし、いくら待っても帝はため息をつくばかりで一向に口を開かない。沈黙の時間が続くうちに日差しが強まって、部屋がほんわかとあたたまってきた。昨夜の余韻が抜けきれない体に、睡魔が忍び寄る。そしてついうっかり、八条宮は大きなあくびをしてしまった。


「疲れているようだね、依言」
「あ、いえ」


 八条宮が居住まいを正して「大変失礼を」と頭をさげると、先程まで険しかった帝の顔がにこりとゆるんだ。


「かまわない。私とそなたの仲ではないか。確か、昨日は物忌みだったね」

「ええ、まぁ」


 たおやかな所作で御笏おんしゃくの先を口元に寄せた帝は、バツが悪そうに目を伏せる弟宮を真っ直ぐに見て、さらに表情を崩して軽やかに笑んだ。その表情に、八条宮はどきっとする。真面目で柔和なご尊顔に浮かぶは、げに意地の悪い企みの影。兄宮は時々、人を困らせる悪戯を思いつく。


「疲れているのなら、雷鳴壺かんなりのつぼで一休みするといい」


 雷鳴壺とは内裏にある七殿五舎のひとつで、正しくは襲芳舎しゅうほうしゃという。
 帝に妃は三人しかいない。先帝の御代では八条宮の生母が賜っていた藤壺を過ぎて、さらに梅壺の先。中殿から離れた場所にある雷鳴壺は、当代ではいまだ主に恵まれないまま、帝に許可された古参たちの曹司ぞうしとなっている。


「そなたが宮中から遠のいていた一カ月、雷鳴壺の姉君たちが華やぎに欠けると嘆いていたよ。昼寝ついでに顔を見せてあげなさい。きっと喜ぶ」


 雷鳴壺の古参は、帝や八条宮が幼かったころに花盛りだった者たちで、今は要職を退いてのんびりと日々を暮らしている。気心の知れた者ばかりだから余計な気を回す必要がなく、若い女官が古参たちを恐れて滅多に近づかないので、我が邸のように気兼ねなくくつろげるのだ。

 時々、帝もそこへこっそりと逃げ込んでは、白髪の姉様方に愚痴のようなものをこぼすのだとか。もちろん、宮中においての守秘義務は厳守されていて、古参たちは八条宮にさえ帝の愚痴の内容までは語らない。


「よろしいのですか?」

「よろしいから進言申しあげているのだよ、依言」


 帝の笑みが気になる。しかし、ほどよい陽射しがさしこむ刻に、雷鳴壺の畳に寝そべってまどろむのは大変心地いいだろう。八条宮は、有難く兄宮の好意に甘えることにして、深々と一礼して席を立った。御前を辞する八条宮の背に、書類の整理が済んだら私も雷鳴壺へ行くよと帝が言った。

 中殿を出て廂の端から空をあおぐと、清々しい秋晴れの青が果てしなく広がっていた。次いで庭に目をやると、夏色から乾いた褐色に変色した植木が見えた。中殿から北は、帝の妃が住む区域だ。檜皮葺ひわだぶきの重たい色合いの屋根を被った白木造りの殿舎が並び、殿舎と殿舎がろうで結ばれている。

 なぜ禁裏をこのような造りにしたのか、幼いころは不思議で仕方がなかった。しかし、八条院に移った今では、それもどうでもいい。先帝のご意思で親王となったが、兄宮が皇子に恵まれれば御役御免。元より帝位を望まなかった身である。今後、ここに住む予定もつもりも一切ない。



 ――梅壺を通ってゆくもいいが、折角だから秋めいた庭をそぞろ歩いてみるか。



 八条宮は典侍ないしのすけに浅沓を用意するよう申しつけて、中殿の階をおりた。そして、右手に持っていた象牙の笏を懐中に挟んで、床に引きずっていた下襲したがさねきょを左腕に掛ける。

 しばらく待っていると、典侍が浅沓を手に戻って来た。典侍とは帝に近侍する高位の女官であり、公卿が「浅沓をここへ持て」などと気軽に頼める相手ではない。

 典侍が、宝玉かなにかのように白布に乗せた浅沓を階の袂たもとに置いて、八条宮が履きやすいように向きをそろえる。


「襲芳舎へまいられるそうでございますね。主上にお聞きいたしました」

「ああ」

「わたくしが下襲の裾をお持ちいたしましょう」

「必要ない」

「されど、親王様がそのような成で内裏をお歩きになられるのは、はしたのうございまする」


 典侍のいうとおりだ。しかし、八条宮は典侍を無視して浅沓を履くと、庭におりて雷鳴壺を目指した。弘徽殿の前を通って、次に藤壺の方へ向かって植木の間を脇道にそれる。

 本当は花々を愛でながらゆっくりと歩きたかったのだが、八条宮に気づいた女官たちが騒ぎだしたので、結局は秋を満足に堪能しないまま庭を駆けて雷鳴壺に着いてしまった。

 帝が先触れを出していたようで、雷鳴壺では古参たちが顔をそろえて八条宮を待ち構えていた。平緒を解いて飾剣をはずし、袍まで脱いで、日当たりのよい離れの局にごろりと横になる。

 本当はもう少し楽な格好になりたいのだが、下襲まで脱いでしまうと「愛妻家」の文字が刺繍された下穿きを古参たちに披露してしまうので我慢した。



 ――効果抜群の浮気対策だな。



 古参たちをさがらせて、用意してあった上掛けの袿を肩まで被って目を閉じる。今頃、沙那はいつものように女房たちと仲良く縫い物でもしているのだろうか。いや、もしかしたら俺と同じように昼寝をしているかもしれないな。昨夜を思い出して、ついつい顔がゆるんでしまう。

 朗らかで優しくて。なにをするにも一生懸命で、必死で。沙那を思うとき、浮かぶのは屈託のない笑顔ばかりだ。早くに母親を亡くしたといっていたが……。
 昼寝に最適の気候が、八条宮を眠りへと誘う。八条宮は、まどろんですうっと眠りに落ちていった。

 八条宮が寝入って、どれくらいたっただろうか。局に、一人の女が入って来た。古参たちは皆、八条宮の昼寝を邪魔しないように離れた部屋にいる。女は周囲を警戒するように見回して誰もいないことを確認すると、横たわる八条宮のそばに腰をおろした。



「月宮」



 安らかな寝顔に向かって、女が細い声で呼ぶ。
 椿餅を辿って、会いに来てくれると思っていたのに。大納言の姫君と、何事もなく夫婦めおとになれたということかしら?

 女が身を低くして、美しい顔を八条宮の顔に近づける。その時だった。背後で衣擦れの音がして、女は動きを止めた。そして、命婦が呼びに来たのだろうと振り返る。しかし、そこにいたのは命婦ではなく、白い御引直衣に身を包んだ帝だった。帝の険しい顔に、女の喉がひっと息を詰める。


「なにをしている、弘徽殿」


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