第19話 目隠し初夜(1)




 ❖◇❖


 遠くから聞こえる夜鳥の鳴き声が、低く地を這うように庭を駆け抜ける。八条は都のはずれに近く、喧騒を逃れた鄙びた土地だ。そのせいか、二条の大納言邸とは違って宵の寂しい静けさがしんしんと身にしみる。

 沙那は、夜の食事と寝支度を済ませて北の対屋を発った。馴染みの女房たちに先導されて主寝殿を目指す途中、渡殿から見える景色にしばし足を止める。


「きれいなお月様」


 東から南の空へ移ろう月が、庭の水鏡に落ちてゆらゆらと水面に揺れている。月は、漆黒の世界に輝く唯一の光だ。太陽のようにじりじりと地を焦がすことなく、ふうわり優しく闇を照らしてくれる。だから、幼いころからお月様が大好きだった。……などと、心の中で風流に語ってみたりして気をまぎらわす。


「姫様、まいりましょう」


 手燭で沙那の足元を照らす小梅が、先導の女房に聞こえないように耳打ちした。
 寝支度は万全だけれど、心の準備がまったく追いつかない。小梅に急かされるまま、沙那は胸をどきどきさせながらここに立っているのである。


「ねぇ、小梅。もう少し、もう少しだけ夜風に当たってもいい?」

「なりません。八条宮様が待つとおっしゃったとしても、お待たせするのは無礼でございますよ」

「……でもぉ。ほら、いろいろとあるじゃないの。乙女には……」

「八条宮様を好いておられるのでしょう?」

「もちろん大好きよ。そこは全然ぶれてないし、これからも変わらない」

「でしたら、腹を決めなされ」
「う……、うん」


 いつになく気合いの入った小梅の目力と口調に、沙那は気圧されてたじろぐ。

「さぁ、まいりますよ」
「待ってよ、小梅」
「待ちません。さあ!」


 小梅が、沙那の手を引いてずんずん歩を進める。
 腹を決めろと言われましても、そう簡単にできるものではない。
 初夜の一件を、依言様がどうお考えなのか分からなくて不安だった。それに、夏姫様のこともあって、正直、このまま妻として居座ってもいいのかしらと戸惑いもある。

 だから、今夜お誘いいただいてとても嬉しい。けれど、素肌の感触とか唇の柔らかさとか、気を失うまでの記憶がしっかりしているから困っているのよ。



 ――いかんせん、我が背の君は麗し過ぎる。



 ああ、柔くてまろい体つき(特に胸が)だったらなぁ。目鼻立ちだって、もっとこう、すっときりっと美しく整っていれば、自信を持って励むのだけれど。はぁ……。


「姫様。ため息はいけませんよ。不吉を招きます」

「わたし、ため息なんてついてた?」

「はい。しっかり気をお持ちくださいませ!」

「りょ、了解」


 主寝殿に着くと、今度は小梅に代わって主寝殿の女房が沙那の手を取った。そして、しずしずと御座を通り抜けて、八条宮の寝所へ沙那を誘う。そうして、あれよあれという間に寝所に連れていかれて、白木の妻戸がぱたりと閉まった。


 ――小梅も女房たちも容赦ない……っ!


 沙那はちょっと泣きそうな気分になったが、敵陣に乗り込んだからにはもう後戻りはできない。



 ――いや、敵じゃなくて夫君だけど。


 控え目に明かりが灯された寝所。そのど真ん中に設えられた褥の上で、単衣姿の八条宮が優雅に蝙蝠で香炉を扇いでいる。
 沙那はそろそろと褥にあがって、八条宮のそばに座った。燻る白煙が、心地よい香りを運んで来る。


「お、おお、お待たせいたしました」
「早かったね。心の準備はできた?」


 ふっと口元をゆるめて、八条宮が香炉から沙那に視線を移す。きらめく琥珀色の瞳にどきっとして視線をさげると、今度は単衣の衿からちらりと太い鎖骨や生肌が見えて、沙那は目のやり場に困ってしまった。


「あなたを待つ間に香を焚いておこうと思ったのだが、調合に時間をかけてしまったから間に合わなかった」

「この香りは、伽羅ですか?」

「そう。心を鎮めるには、伽羅がよいと聞くからね」

「あ、依言様も緊張なさっているのですね。よかった、わたしだけじゃなくて」

「うん? これは、あなたのために調合したものだよ。少しでもあなたの心が落ち着けばと思って」


 穏やかな顔で、八条宮が香炉に視線を戻して蝙蝠をゆっくりと上下させる。今日は髪をすすぐには日柄が悪かったのだろう。白銀の頭髪は、初夜のときとは違って結われたままになっていた。



 ――依言様って、ほんわかとわたしを照らしてくれるお月様みたい。



 そばにいて、言葉を交わして、様々な表情を見て、知れば知るほど好きになる。
 待ち伏せした日々に感じた穏やかさや優しさを、夏姫様との御文からも感じた。今だって、わたしの気持ちを汲んで落ち着かせようと気遣ってくださっている。お姿だけではなくて、心の内にあるあたたかなお気持ちに触れる度に思いが積み重なっていく。


「これくらいでいいかな」


 伽羅の優美な香りが広がったところで、八条宮が香炉を枕元の台に置いて沙那に向き直る。沙那が背筋をぴんと伸ばすと、節くれ立った両手が袿の衿をつかんだ。近い距離で顔を覗き込まれて、首から上がかっと一気に熱くなる。


「あなたがとても気にしているようだから、この際はっきり言っておく」

「……は、はい。なにを」

「胸の大きさだとかなんだとか、俺にはそういうものへのこだわりは一切ない」


 沙那は突然の告白に驚きつつ、とっても重要なことなので真剣な顔で八条宮の目を見つめ返した。だから、婚礼の夜に勇気を振り絞って悩みを打ち明けたとき、些細なことのように受け流されたのかしら。こだわりがないのなら、それも納得だわ。しかし、念には念を入れて確認をしなくちゃ。


「本当ですか?」
「本当だよ」

「二言はございませんね?」
「ない」

「信じてもいいのですね?」


 俺は嘘が大嫌いなんだ、と耳元で囁かれて袿がするりと肩を滑り落ちた。腰を抱かれ、薄絹の単衣一枚まとっただけの体を引き寄せられる。

 身じろぐ間もなく端正な顔が近づいてきて、沙那が反射的にぎゅっと目をつむると、あたたかくて柔らかい感触が唇をくすぐった。この感触は覚えているから、唇が触れているのだとすぐに分かる。

 食まれて、舐められて、吸われたあと、口をぴたりと覆われて甘い唾液が口内を満たす。鼻の奥でくすぶるのは、高級な伽羅の香りかそれとも重なった二人の吐息か。

 沙那は八条宮の胸に両手をついて衣を握った。右手に、自分のものではない鼓動が伝わって来る。それはとても力強くて、時々、弾むようにどくんと脈打った。


「はぁ……っ」


 足りなくなった酸素を求めて口を開けば、間髪いれず歯列を割って舌が差し込まれた。狭い口の中で分厚い舌が暴れるように動き回って、舌が絡んで、引っ張られて、唾液も呼吸も啜るように吸われる。水に溺れるような息苦しさに、もやがかかったかのように頭がしびれる。

 それは苦しいのに気持ちがいい、言葉にできないような感覚だ。それに酔うように身を委ねていると、横髪をなでた大きな手が肩に触れて、さらにその下をまさぐった。


「ぅん……っ」


 単衣の上から指先で胸の粒を弾かれて、全身の肌がそわりと粟立つと同時に体がびくっと震える。
 沙那がたまらず目を開くと、すっと唇が離れて代わりにじっと見つめられた。池の水面に落ちた月よりも美しい瞳に、魂ごと吸い込まれてしまいそうだ。



 ――どうしよう、依言様と目が合うだけで心臓が壊れちゃう。



 八条宮が、沙那の腰紐を引き抜く。沙那は藁をもつかむ思いで、今にも投げ捨てられそうになっている自分の腰紐をつかんだ。


「どうしたの?」

「依言様にお願いがあります。こっ、これでわたしの目を塞いでくださいませんか?」

「……は?」

「依言様と目が合う度に恥ずかしさで死にそうになります。だから、目を塞いでしまえばどうにかなるのではと思いまして……!」


 なんていい考えなの、と希望の活路を見出したように目を輝かせる沙那。一方の八条宮は、困ったような顔をして沙那から視線をそらした。

 沙那の顔面からさっと血の気が引く。閨では殿方に身を委ねるのが鉄則。余計な頼みごとで気分を害してしまったと反省して、沙那は腰紐からぱっと手を放す。


「ごめんなさい。今のは、聞かなかったことにしてください」


 沙那が慌てて謝罪すると、八条宮がくすっと笑って腰紐を沙那の目元に巻きつけた。


「きつくない?」

「え? あ、はい」


 沙那の返事を聞いて、八条宮が右耳の上辺りで腰紐を結わえる。沙那は、ほっと胸をなでおろした。気を悪くなさったのかと思ったけれど、こころよく願いを受け入れてもらえてよかった。これなら、いちいち恥ずかしさに身もだえなくて済む。あとは、身をお任せすればなにも問題はない。


「ありがとうございます、依言様!」


 朗らかに礼など言われて、八条宮は込みあげる笑いを必死におさえた。沙那の言動は、いつも奇想天外で予想がつかない。驚きの連続で、しかしなにをするにも真っ直ぐで一所懸命なのが分かっているから、かわいらしく思えて仕方がない。

 八条宮は、沙那の夜着を剥いて丸裸になった体を抱き寄せた。胸の前で固く交差した二本の細腕の下に手を忍ばせて、ささやかな膨らみを手のひらで包む。そして、大きく息を吸い込む沙那にくちづけた。


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