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泣きはらした沙那のまぶたが本来の色味と二重をどうにか取り戻したのは、主寝殿に燃ゆるように赤い西日がさし始めたころだった。
夏の邸から、八条宮と沙那が帰って来てかれこれ一時ほど。
沙那は北の対屋には戻らず主寝殿に留まって、八条宮のそばで縫い物に没頭している。特製の下穿きが思いのほか八条宮に好評だったので、早く六枚目をしあげようと驚異の集中力で針を動かす。
八条院の主寝殿に勤める女房は、八条宮が内裏を離れるに際して、先帝が女官の中から選りすぐった者たちばかりだ。当然、彼女たちは八条宮が元服した当時をよく知っている。しかし、親王の穢れに触れるは一大事と心得て、あの夜の出来事や夏姫についてのあれやこれやを口にする不届き者は一人もいない。
そしてなにより、彼女たちは気配りと心遣いの達人だった。沙那が主寝殿に留まったのも、彼女たちからの進言があったからだ。
北の対屋には小梅がいる。小梅は昨夜、寝床に入った沙那が八条宮の帰宅前に寝入ってしまったので、自分の局にさがって休んだ。そして今朝、いつものように沙那を起こしにいって御帳台が空っぽだったから、さあ大変。
姫様がいなくなったと、取り乱した様子で右往左往していたらしい。騒ぎに気づいた主寝殿の女房が、北の方様は宮様の御寝所におられると知らせて、どうにか大事にならずに済んだという。
そんな彼女が沙那の泣きはらした顔を見たら、心痛で倒れてしまうのではないかと主寝殿の女房たちは案じた。それで、沙那を主寝殿にかくまって、北の対屋に裁縫道具一式と縫いかけの下穿き第六番を取りにいってくれたというわけだ。
一方の八条宮はというと、難しい顔でひとしきり考え込んだあと、一心不乱に文などをしたためている。
沙那の涙と洟水に濡れたお気に入りの袿は、年配の女房があきれた顔で持っていってしまった。八条宮は単衣に指貫だけの格好で、部屋を素通りするように吹き抜ける秋の涼し風に吹かれている。着るものはほかにいくらでもあるのだが、今は少し肌寒く感じるくらいがちょうどいい。
八条宮の視界の隅っこで、沙那の手が止まって顔がこちらを向く。
「依言様。真剣な顔をして、どなたに宛てて書いているのですか?」
沙那が盗み見るように文机を覗くと、八条宮が筆を置いて「あなたに」と紙の向きを変えた。沙那は持っていた布地と針を置いて、目を輝かせながらすすっと二、三歩膝を進めて八条宮のそばにいく。そして、文机に両手を伸ばして紙を手に取った。紙には、山桜の花と「淡泊」という文字が書かれている。
「これは?」
「刺繍の図案だよ。あなたの浮気対策に、微力ながら協力しようと思ってね」
「真面目なお顔をなさって、まさかこのようなものをお書きになっていたなんて」
「なかなか難しいものだな。あなたの機転には敵わないが、どうだろう。淡泊な男は敬遠されるだろうし、俺も自尊心が傷つくから誰にも見せたくない」
「自尊心が傷つくって。えっと、淡泊というのはどういう意味なのです?」
「深くは考えなくてもいい。これは単なる下穿きの刺繍なのだから」
ふふふ、と沙那は紙で口元を隠して笑い声をあげた。墨の清々しい香りが、鼻の奥に流れて来る。笑いながら「採用いたします」と言うと、八条宮がまんざらでもない様子で頷いた。
「それにしても、依言様は絵心もあってお姿どころかお手蹟まで美しいのですね。こちら、いただいてもよろしいですか?」
「かまわないよ。あなたに書いたのだから」
「わたし……、待ち伏せを始める前に数カ月、依言様に御文を送り続けたのですが、一度もお返事をいただけませんでした。だから、いつか依言様直筆の御文をもらえたらいいなって夢見ていたのです。嬉しい。こちらを宝物にいたします」
「そうだったのか。それはすまなかったね。実は、女性から八条院に送られてくる文は、俺の手元には届かないようになっている」
「どうしてです?」
「左近に、受け取ったらすぐ燃やせと言いつけてあるから。どうせ、中身は鬱陶しい恋歌だろうから読むのが億劫でね」
――ぐっさーっ。
これは刺さる。む、胸が痛い。刺さるどころか、乙女心が一瞬で一刀両断よ! 無慈悲と辛辣を極めて鍛えあげられた、強靭な言葉の刃だわ。名工が打った太刀より切れ味が鋭いのではないかしら!
「だが、あなたの文は読んでみたかったな。きっと、その辺のにわかファンたちとは一味違ったのだろうね」
「え、あ……、そっ、それはもちろん……!」
鬱陶しい恋歌ばかりを書きまくりましたよ。確かに、その辺のにわかファンと一緒にしないでと言ったけれど、書くに決まっているじゃありませんか。好きなのですからっ!
――くうっ。
淡泊と言う二文字を見つめる沙那の目が、じんわりと熱くなる。一日も欠かさずに送り続けたわたしの文は、依言様の目に触れてもいなかった。だから、一度も返事が来なかったのね。心をこめて書いたのに……。切ない、泣きそう、と意気消沈して沙那はふと思う。
「ということは、依言様が御文を交わしたのは夏姫様だけ?」
思わず、心の声がそのまま口から出てしまった。沙那が「すみません」と肩をすくめると、八条宮が優しい声で「そうだよ」と答えた。
――なんだ。
目の奥に集まっていた熱が引いて、沙那の顔に明るい笑顔が浮かぶ。恋の噂は数えきれないほど耳にしたけれど、なんて誠実な方なのかしら。
――やっぱり、依言様は素敵よ。
沙那は、慈愛のまなざしで図案を見つめる。すると、八条宮が、女房を近くに呼んで床入りの用意をするよう申しつけた。
そうだった。
夏の邸で囁かれた言葉を思い出して、沙那の頬がぽっと赤く染まる。
「沙那。北の対屋で食事をして、身を清めたら俺の寝所においで」
「は、はい」
「迎えはよこさないから、あなたがいいと思う頃合いに来てくれたらいいよ」
「よろしいのですか? 少し、お待たせしてしまうかもしれません。こっ、心の準備が……」
「かまわないよ。あなたが俺の帰りを待った月日に比べたら、どうということはないからね。もし、どうしても心の準備ができなかったら日を改めよう」
こくりと沙那が頷く。沙那は、下穿きの図案を大事そうに持って主寝殿を出ていった。それから少したったころ、今度はナギが主寝殿にやって来た。
山歩きでもしていたのか、体のあちこちに枯れ葉がくっついている。八条宮はナギを抱えると、主寝殿の階をおりて浅沓をはいた。そして、薄暗くなった庭を、夏の邸に向かって歩いた。
「みゃぁ」
前足の先を舐めて、ナギが鳴く。
日が沈むと、秋はぐっと深みを感じさせるように外気を冷やす。単衣と指貫だけの軽装ではさすがに寒い。
夏の邸に着いた八条宮は、火つけの道具と手燭、それから夏姫と交わした御文をしまってある文箱を持って庭に立った。空を見上げれば、秋らしい月が煌々と輝いている。
「みゃお」
ナギが甘えるように鳴いて、八条宮の足元に体をすり寄って来た。ナギは、夏が二条の河原で拾った猫だ。親とはぐれたのか、子猫のナギは橋のたもとで「みゃぁみゃぁ」とひっきりなしに鳴いていたそうだ。
『ほら見て、月宮様。この子、月宮様と同じ瞳の色をしているのよ』
ナギを抱いた夏が、嬉しそうに笑ったのをよく覚えている。体が弱くて寝ていることの多かった夏は、ナギを飼うようになってからよく笑顔を見せるようになった。
夏によくなついていて、そばを離れなかったナギ。元服当夜、ナギは夏と一緒に淑景舎に来ていた。そして、出来事の一部始終を金色の眼でしっかりと見ていた。
「お前が人の言葉を話せたなら、夏を害した者をあの場で捕らえられたのに」
「みゃお」
「だが、今となってはどうしようない」
死ぬまで、胸に秘めておくこともできた。夏の存在を知って、沙那は傷ついただろう。
八条宮はしゃがんで手燭に火を灯すと、文箱から夏姫の文を一つ取ってその火にかざした。
――俺があなたを望まなければ、今でも生きていられたのかな。
その答えが知りたくて、虚無と知りながら真実を追い求めている。もし、夏が誰かに害されたのだとして、俺が本当に罪を償わせたいのは犯人ではなく俺自身なんだ。だから、泡沫の恋に身を投じても、もう二度と誰かに思いを寄せて妻にすることはないと心に決めていた。
しかしある夜、沙那が現れた。見るからに不審で怪しい女だと思っていたのに、沙那にあるのは純粋な俺への思いだけだった。
大納言に娘の愚行をやめさせろというのは簡単だっただろう。それをしなかったのは、一途な沙那の気持ちを無下にしていたずらに傷つけたくなかったからだ。
俺のように、心から慕う相手と結ばれない悲しみを味わわせなくない。もしも沙那が、自分の意志でここへ通うのをやめるのなら、それが一番いい。そう思っていた。
暗がりの中、手漉き紙が西日のような赤い炎に炙られ、燃える。炭になった紙の破片がひらひらりと、まるで死者の魂を富士の尾根に導く黒蝶の羽ばたきのように宙を舞う。夏姫の文は無重力にふわりと浮いたあと、あっという間にちりぢりになって暗がりに消えた。
――今でもあなたが恋しいよ、夏。
あなたを忘れる日は絶対に来ない。けれど、あなたへの未練を断とう。沙那は、あなたのために心を痛めて泣いてくれた。あまつさえ、あなたと俺の来世まで願ってくれた。
傷ついただろうに、自分よりも他を思いやる。
俺は、沙那のように心の美しい人に会ったことがない。
あなたを思慕しながら今夜を迎えるのは、沙那の純真を踏みにじる蛮行だと思うから、今ここであなたと永遠の別れをする。神仏の怒りを買って、もう二度とあなたとは巡り合えないかもしれない。それでも、これ以上、沙那を傷つけたくないんだ。
八条宮は、時間をかけて御文を燃やした。
思い出の欠片が、一つ、また一つ、真っ黒な喪色の花弁になって散ってゆく。その間、ナギは八条宮の傍らに香箱座りをして、その様子をじっと見ていた。文を燃やし終えた八条宮の手が、ナギの頭をくしゃりととなでる。
「この前は餌を抜いて悪かったな。お前には、礼を言わなければならないのに」
「にゃあ」
百夜通いきれず俺への思いをきっぱりと絶ってほしいと願っていたのに、沙那は毎夜八条院にやって来た。そしてあの夜、ナギに驚いて足を痛めた沙那を、俺は放っておけなかった。
「なぁ、ナギ。沙那は今夜、俺のところに来てくれるかな」
「みゃあ?」
コメント
コメント一覧 (2件)
今でもあなたが恋しいよ
ああー…良い…(´;ω;`)
ケジメをつけて沙那ちゃんを大切にしようとする宮様最高ですわ…
死者は超えられないからね
でも沙那ちゃんは夏姫を大事にしてる宮様が今までよりもっと好きなんだと思うよ
これは涙腺崩壊すぎる
回転寿司屋で一人泣く怪しい女になってるんですけど、どうすれば…( ;∀;)
ファンからの恋文を燃やし尽くす酷さが好きですwwある意味平等www
ちまきさん
回転寿司屋🍣で一人泣く女……🤣
想像してちょっと笑ってもうたょ( ´艸`)
亡くなった人を超えるのは無理だよねぇ。切ない……
でも、沙那の愛情はやきもちとか妬みとかにはならないんだよね。何ならもう、宮様と宮様の大事な人ごと包んじゃう!って感じで🥰
宮様は宮様で、そうそう!ファンからの恋文は読みもせずに燃やす!🔥
なんて残酷な平等なんだ……ッ🤣🤣🤣
私は沙那も宮様も大好きなので、二人には幸せになってもらいたいよ~💕
そして、ちまきさんが回転寿司なん皿たべたのかも気になる😋🥳
電子書籍の続報、めちゃくちゃ楽しみに待ってます!
ルカ&リアのファンレターもアマゾさんに送ってるんだけど、無事に転送してもらえるかしら🥺
いつもありがとー!
嬉しくていつもウルウルしながら読んでます💌💕