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第17話 想い人と妻(2)




 沙那は、さっきよりも強い衝撃になんとか耐えた。いろいろな感情が混ざり合って、怒涛のように胸に押し寄せる。それを深呼吸で鎮めると、八条宮が文箱の蓋を開けて沙那の前に置き直した。

 文箱の中には、折りたたまれた紙がぎゅうぎゅうに詰め込まれている。その一つを取って広げると、女性と思しき細々とした手蹟で歌が書かれていた。

 何気ない、ただの日常を詠った歌だ。別の紙を見ると、今度は男性の手蹟で返歌と思しき歌が書かれている。こちらには、少し思慕を匂わせる言葉や言い回しがあった。ただ、手蹟を見るに、どちらも大人ではなく年若い感じがする。


「もしかして、これは依言様と添い臥の方の御文ですか?」

「そう。まだ元服前の、子供だったころのね」

「お相手の方は、なんというお名前なのですか?」

「夏といって、式部卿宮家の姫だった」

「……夏姫様」


 ああ、だからここは夏の邸なのね。
 心の中で納得して次の紙を広げる。そうやって文箱に押し込められた御文を読んでいくうちに、思い合う二人の純粋なやりとりがかわいらしくて、心がじんわりと温かくなった。



 ――御文の中には、確かに夏姫様と依言様がいるのに……。



 悲しみとも無念ともいえる感情が、胸をぎゅっと強くしめつける。そして、沙那の大きな双眸から、ぽたぽたと涙の粒が落下した。


「あなたを、傷つけてしまったね」


 申し訳なさそうに眉尻を下げる八条宮に、沙那はそうではないと頭を左右に振る。どうして元服の折りに添い臥がいなかったのか。予想もしていなかった残酷な事実に、胸が切り刻まれるように痛む。


「依言様が大切な人を亡くしていたなんて……、うっ、わたし……、ひっく、知らなくて……っ」


 知らなくていいことは知らないままでいるほうが幸せかもしれない。いつかの八条宮の言葉を思い出して、沙那はこれまでしてきた自分の行いを後悔した。



 ――恋の噂が絶えない八条宮様。



 わたしは、華やかな依言様しか見ていなかったのだわ。事情を知らなかったとはいえ、好きだとおしかけて一方的に思いを押しつけた。

 依言様はお優しいからわたしを北の方としてお迎えくださったけれど、本当は八条院に夏姫様以外の人を住まわせたくなかったのではないかしら。だから、どれだけ浮き名を流してもずっとお独りだったのでは……?


「……沙那」


 沙那の目からとめどなく涙があふれる。見かねた八条宮が、沙那の手から文を取って文机に置く。

 御文には直接的な愛の言葉は書かれていないけれど、二人がとても親密だったのがひしひしと伝わって来る。優しい言葉だけが、たくさんたくさん書かれているもの。夏姫様に先立たれた依言様の悲しみは、一体どれほどのものだったのだろう。想像するのもつらい。

 耐え切れず、沙那はわーんと声をあげて泣いた。顔が涙と洟水はなみずでぐちゃぐちゃになったけれど、かまわずに泣いた。八条宮があまりにも不憫で、感情をおさえきれなかったのだ。


「……ふ、えっ」


 嗚咽しながら、お二人が可哀想だと沙那が言う。
 八条宮は面食らってしまった。恨み言の一つや二つ言われるかと覚悟していたが、それはなく。傷心から涙を流しているのかと思えば、どうやら顔も知らぬ夏と想い人に先立たれた俺の身を憐れんで泣いているらしい。

 文机の上で広げられて重なった手漉き紙は、歳月の流れに劣化して物悲しく黄ばんでしまっている。夏が埋葬されて数カ月たったころ、式部卿宮様から遺品をお譲りいただいた。あれからこの文箱は一度も開けていない。封印したまま五年の年月が過ぎたのだ。

 当時は三つ年上でとても大人びて見えた夏の手蹟が、彼女の年齢を追い越した今は少し幼くも感じる。交わした文は、糸が切れた数珠のように散らばった記憶の欠片。その一つ一つが、懐かしい二人の日々であり夏が存在した痕跡でもある。

 しかし、と八条宮は懐をまさぐった。
 今は過去を名残り惜しむより、沙那をどうにかしなければ。沙那の反応は予想外で、泣き止ませる術がまるで分からず焦燥を覚える。



 ――まずは、なにか拭くものを……。



 とは思うが、生憎、懐紙も手巾も軽装時に持ち歩く習慣がない。自分の手を見て途方に暮れ、わんわん泣いている沙那の顔を拭うのは無理だと諦める。指先で掬えるのは、せいぜいほろりと目尻よりこぼれた涙二雫ほどだ。

 しばらくの思案のあと、八条宮は少し迷いつつ、自身が着ている袿のたもとを持って沙那に差し出す。沙那がそれを両手で受け取って遠慮なく顔に押しつけたので、深い紫色の袿はあっという間に涙と洟水まみれになった。


「別にかまわないが、この衣は俺のお気に入りなんだ」

「……どうりで、よい、ひっ……く、……とってもよい香りが、いたします……ふ、うっ」


 そう、と八条宮がふわりと表情をゆるめたので、沙那はこれ見よがしにごしごしと正一品の親王様お気に入りの衣で顔を丹念に拭った。

 こんなに泣いたのは、母上が亡くなったとき以来だ。ひっくひっくと、吃逆しゃっくりのように鼻の奥と喉の間で息が詰まる。八条宮はただ黙って、沙那が落ち着くのを待った。


「すみません。好きになった人を亡くしたお気持ちを思ったら、とても悲しくなってしまって」

「優しいね、あなたは」

「いいえ。依言様の悲しみを知っても出て来るのは涙だけで、お慰めする言葉の一つも思い浮かばないのです」


 沙那がよい香りのする袿で目元をおさえると、八条宮の手が伸びてきて髪に触れた。


「俺と夏の文を見て思うところもあるだろうに、あなたは慰めの言葉を探してくれているのか」


 沙那はむくんだまぶたを精一杯開いて、八条宮を真っ直ぐ見つめる。
 思うところは、ある。多分わたしは今、依言様の想い人の存在を知って少なからず傷ついているし、一度も御文をいただけなかった身からすると夏姫様が羨ましい。でも、そんなのは些細なことで。



 ――大好きな人に、気の利いた言葉をかけられない自分が情けない。


 そう思うと、また目の奥が熱をはらんで涙がわいて来る。


「夏とは幼なじみでね」


 八条宮が文机に広げられた文を一つ手に取って、折り目通りにたたんで文箱にしまう。そして、妻にと望んだ唯一の人だったと話し始めた。

 日々の細かな思い出こそ語られなかったが、八条宮が夏姫をこの上なく大切に想っていたのは明白だった。それは過去形ではなく、今もそうなのだろう。

 しかし当の八条宮は、琥珀色の瞳に悲痛の色を浮かべるでもなく、淡々と他人の記憶をそらんじるように話を続ける。途中、悲しくはないのかと尋ねたら、「もうとっくに涙は枯れてしまった」と言われて余計に沙那の胸はきりきりと痛んだ。


「夏姫様は、どうしてお亡くなりになったのですか?」

「胸を患ったらしい。元々、体が弱かったから、詳しくは調べられないまま病死として処理された」

「お気の毒に……」


 慰めの言葉は思いつかないけれど、できるなら、依言様が悲しみにばかり暮れて一生を終えることがないようにどうにかして差しあげたい。人は誰しも、それぞれが幸せになるべきだもの。夏姫様だってそうよ……。

 沙那は、なにかを思い出したようにはっとして目を見開いた。そして、折りたたんだ文を文箱にしまおうとする八条宮の手を、遠慮がちにそっと両手でつかむ。


「夏姫様のこと、ずっと忘れないでいてくださいね。依言様の記憶が薄れてしまったら、夏姫様が本当におかわいそうだもの」

「嫌ではないの?」

「わたしは、八つのときに火事で母上を亡くしました。今でも、母上が生きておられたらって思います。親への敬愛と想い人への思慕とでは心の持ちようが違いますけど、大切な人であることに変わりはないので……。上手く言えないのですが、依言様が夏姫様を思い続けたなら、きっと次の世では必ずお二人で幸せになれます」


 なにを言い出すのかと、八条宮が驚いた表情をする。


「ほら、見返りを求めずに功徳というものを積めば、来世で救われると申しますでしょう? ですから、依言様は命のある限り夏姫様のためにこつこつと功徳をお積みください」

「功徳? どのような」

「簡単なことです。一心に今生での妻を大事になさいませ。そうすれば、わたしが依言様と夏姫様の来世でのお幸せをしつこく祈願しますから、きっときっと神様仏様がお二人を巡り合わせてくださいます。身を持ってご存知のように、八条宮様の妻はとっても執念深いのです。効果抜群、霊験あらたかですよ」

「あ、あぁ……」


 呆気に取られる八条宮に、沙那は懐から得意気に小さくたたんだ白い布を出してみせる。


「北の対屋の女房方に指南してもらってお裁縫の技を磨きました。ミヤサマに引けを取らない自信作です。どうぞご覧ください」

「これはなに?」

「依言様の下穿きふんどしです」

「は……、俺の下穿き?」

「いつお披露目しようかと迷いに迷って、懐に忍ばせていたのをすっかり失念しておりました」


 貴族の娘として生まれ育った者が、平気な顔で「下穿き」とはどういう了見か。八条宮は一瞬だけ訝しむように眉根を寄せて、沙那から渡された下穿きをはらりと広げた。

 真っ白な布地に、牡丹の大輪と「愛妻家」の文字が刺繍されている。自信作と豪語するだけあって、確かに見事な出来栄えではある。あるが、しかし……。


「これを身につけろというのか?」

「きっとお似合いになりますよ」

「似合うもなにも……。今生での妻を大切にすることと、どういう関係があるの?」

「まだちゃんと妻になれていないので強くは言いませんけれど、う……、浮気対策です」

「浮気対策?」

「浮気は一人ではできないでしょう? わたしはお相手の方を責めたり恨んだりしたくありません。かといって、依言様に小言を言うのも嫌です。だから、そうなる前に依言様が自戒してくださったらと思いまして」


 沙那と下穿きを交互に見て、八条宮は「なるほど」とつぶやいた。このような下穿きを人に見られでもしたら、それこそ恥さらし。安易によそで衣を脱げないというわけだ。


「別の絵柄と文字の組み合わせで、あと五枚ほどご用意してございます」


 片手の五本指を大きく広げた沙那が、縁の赤くなった目を悪戯っぽく細めて声をひそめたので、八条宮はたまらず声を立てて笑った。

 口を開けて体を揺らし、腹がよじれるほど笑ったのはいつ以来だろうか。いや、夏が生きていたころでさえ、こんなに笑ったことはなかったかも知れない。
 ひとしきり笑った八条宮に、沙那がほっとしたようにほほえむ。


「よかった。笑ってくださって」

「もしかして、俺を笑わせようとしたの?」

「……はい。いえ、お二人の来世でのご縁を願う気持ちは本心です。でも……。夏姫様を忘れないでと申しあげましたが、依言様もご自分の一生をお過ごしにならないと。わたしは、依言様の笑ったお顔をたくさん見たいです。あ、もちろん、きりっと澄ましたお顔も大好きですけれど」


 八条宮が、下穿きを握りしめたまま沙那を抱き寄せる。沙那は夜空に悠然と輝く月を見るように、腕の中から八条宮の顔を見あげた。


「お話を遮ってしまって、ごめんなさい」

「謝らなければいけないのは、俺のほうだ。あなたの気持ちを知っていながら残酷な話をした」

「残酷だなんて。夏姫様のことを知って、もっと依言様を大事にしなくてはと意気込んだ次第です」

「どうしてそう思うの? 普通は嫌がるだろう」

「いいえ、依言様。わたしは、依言様の事情を知りもせず結婚を迫ってしまって……。申し訳ない気持ちでいっぱいです」

「あなたが後ろめたく思う必要はない。あなたを妻にすると決めたのは俺なのだから。この邸に暮らしていれば、いずれ夏のことはあなたの耳にも入るだろうし、そうなる前に俺から話しておきたかった」

「お話しくださって、ありがとうございます。依言様を好きな気持ち以外、わたしにはなんの取り柄もありませんが、これからもどうぞ……」


 八条宮が、真剣なまなざしで身を乗り出す沙那の目の縁を親指で拭う。


「沙那、あなたは優しい。月明かりのように優しくて、俺には過ぎた人だよ」


 じっと八条宮に見つめられて、沙那の目の奥と頬が熱くなる。


「ずっと北の対屋にこもって、針仕事をしていたの?」

「はい。女房たちが親切に教えてくれるので、つい熱中してしまって」

「そう。忌み事が続いたとはいえ、あなたがあまり俺のところに来ないから、少し気になっていた」

「うっ、すみません。浮気対策に勤しむあまり当の依言様を等閑なおざりにしてしまいました」


 沙那、と顔が近づく。沙那がきゅっと目を閉じると、額にくちづけられた。額を隠すように眉の高さに切りそろえられた前髪越しに、八条宮の柔らかな体温を感じる。


 ――わたしは、依言様のためになにができるだろう。


 一緒にいて、悲しみから解放される瞬間が少しでもあったらいい。そして、夏姫様の供養になることをできたら……。

 八条宮の体温が離れて、沙那は目を開ける。そして、初夜の一件と関係があると言った八条宮の言葉を思い出した。


「それで、依言様。わたしの病は、一体なんだったのですか?」

「あれは……」


 八条宮は一呼吸おいて、沙那に恐怖を与えないように言葉を慎重に選ぶ。


「あの椿餅には、体に悪いものが混ざっていたらしくてね。女房たちには、あなたが口にするものには気をつけるように申しつけてあるから心配しなくてもいいよ」



 ――体に悪いものってなんだろう。



 沙那は、真剣な顔をして黙り込んだ。今まで人の悪意に触れたことのない沙那には、甘味料や塩などの「摂取し過ぎると体に悪い」といわれているものしか思い浮かばない。

 確かに、あの椿餅の甘さは極上だった。上質な甘葛煎がたくさん使われていたのだと思う。でも、甘葛煎でお腹が痛くなったり息が苦しくなったりするのかしら。

 しばらくあれこれ考えていると、八条宮が文机に広げられた御文を全て文箱に入れて、そろそろ戻ろうと言った。
 八条宮が文箱をもとの棚に戻す間に、袿の袖で顔を拭いて沙那も立ち上がる。


「先に外に出て庭で待っていて。俺は火の始末をして行くから」


 言われたとおりに庭で待っていると、すぐに八条宮が出て来て妻戸を閉めた。そして、浅沓をはいて沙那の前に立った。


「まだ涙で濡れてる」


 沙那の目元に人さし指を当てる八条宮のもう片方の手には、愛妻家と刺繍された下穿きが握られている。沙那がそれをつかもうとすると、さっとかわした八条宮が少し身をかがめて耳元で囁いた。


「今夜、ちゃんと夫婦になろうか」


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コメント

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コメント一覧 (2件)

  • 何度読んでもこのシーンめっちゃ好きです。
    好きな人が来世で別の女性と結ばれることを願うなんて誰が出来るよ…!!
    沙那ちゃんの純真で綺麗な心が沁みる〜(´;ω;`)
    こんな沙那ちゃんだからこそ宮様の心も癒されていってるんだよねわかるぅ!
    お空で夏姫様もきっと笑ってるよ。宮様よかったね。゚(゚´ω`゚)゚。

    • ちまき殿~!

      このシーンは、私もうるうるしながら書いてました。
      宮様と夏姫の来世を願うって、読んでる方は切ないよね(´;ω;`)ウゥゥ
      でもだからこそ、宮様がほだされて崩れていくのよ……

      そろそろ次の回あたりでゴングの出番かな?( *´艸`)
      沙那の「宮様離さんぜ😎」な回をお楽しみいただけると嬉しいです🛎🛎🛎
      コメントありがとうございます🙌💕💕

      早くちまきさんともくりたい🥺