第17話 目隠し初夜




 遠くから聞こえる夜鳥の低い鳴き声が、地を這うように庭を通り抜けた。八条は、都の外れに近し喧騒を逃れたひなびた土地だ。そのせいか、二条の大納言邸とは違って宵の寂しい静けさがしんしんと身にしみる。

 沙那は、八条宮に言われた通りに夜の食事と寝支度を済ませて北の対屋を発った。馴染みの女房たちに先導されて主寝殿を目指す途中、渡殿から見える風景にしばし足を止める。


「きれいなお月様」


 東から南の空へ移ろう月が、水鏡に落ちてゆらゆらと揺れている。月は、漆黒の世界に輝く唯一の光だ。太陽のようにじりじりと地を焦がす事なく、ふぅわり優しく夜を照らしてくれる。だから、幼い頃からお月様が大好きだった。


 ……などと、心の中で風流に語ってみたりして気を紛らわす。


「姫様、参りましょう」


 手燭で沙那の足元を照らす小梅が、先導の女房に聞こえないように小さな声で言った。
 寝支度はぬかりなく万全だけれど、心の準備がまったく追いつかない。小梅に急かされるまま、沙那は胸をどきどきさせながらここに立っているのである。


「ねぇ、小梅。もう少し、もう少しだけ夜風に当たってもいい?」
「なりません。八条宮様が待つとおっしゃったとしても、お待たせするのは無礼でございますよ」

「……でもぉ。ほら、いろいろとあるじゃないの。乙女には」

「八条宮様を好いておられるのでしょう?」
「もちろん大好きよ。そこは全然ぶれてない」

「でしたら、腹を決めなされ」
「う……、うん」


 いつになく気合いの入った小梅の目力と口調に、沙那は思わずたじろぐ。さぁ参りますよ、と小梅が沙那の手を引いてずんずん歩を進めた。

 腹を決めろと言われましても、そう簡単にできるものではない。
 初夜の一件を、依言様がどうお考えなのか分からなくて不安だった。だから、今夜お誘いいただいてとても嬉く思っている。けれど、素肌の感触とか唇の温かさとか、気を失うまでの記憶がしっかりしているから困っているのよ。


 いかんせん、我が背の君は麗し過ぎる。


 ああ、柔くてまろい体つき(特に胸が)だったらなぁ。目鼻立ちだって、もっとこう、すっときりっと美しく整っていれば、自信を持って励むのだけれど……。


 主寝殿に着くと、今度は小梅に代わって主寝殿の女房が沙那の手を取った。そして、しずしずと御座おましを通り抜けて、八条宮の寝所へ沙那を誘う。そうして、あれよあれと言う間に寝所に連れていかれて、白木の妻戸がぱたりと閉まった。


 控え目に明かりが灯された寝所。その真ん中に設えられた褥の上で、単衣姿の八条宮が優雅に蝙蝠かわほりで香炉を扇いでいる。
 沙那はそろそろと褥に上がって、八条宮のそばに座った。くゆる白煙が、心地よい香りを運んで来る。


「お、おお、お待たせ致しました」
「早かったね」


 ふっと唇を緩めて、八条宮が香炉から沙那に視線を移す。煌めく琥珀色の瞳にどきっとして目を伏せると、今度は単衣の衿から生肌が見えて、沙那は目のやり場に困った。


「あなたを待つ間に、香を焚こうと思っていたのだが……。調合に時間をかけてしまったから、結局、間に合わなかったな」

「この香りは……、伽羅きゃらですか?」
「そう。心を鎮めるには、伽羅がよいと聞くから」

「あ、依言様も緊張なさっているのですね。よかった、わたしだけじゃなくて」
「まぁ、そうだけれど。これはね、あなたのために調合したんだ。少しでもあなたの心が鎮まればと思ってね」


 穏やかな顔で、八条宮が香炉に視線を戻して蝙蝠をゆっくりと上下させる。
 今日は髪をすすぐには日柄が悪かったのだろう。白銀の頭髪は、初夜の時とは違って結われたままになっていた。


 なんて素敵な御方なのかしら。傍にいて、言葉を交わして、様々な表情を見て、知れば知るほど好きになる。

 待ち伏せした日々に感じた優しさを、夏姫様との御文を見て実感した。今だって、わたしの心を少しでも落ち着かせようと気遣ってくださっている。御姿だけではなくて、心の内にある温かなお気持ちに触れる度に想いが積み重なっていく――。


 伽羅の優美な香りが広がったところで、八条宮が香炉を枕元の台に置いて沙那に向き直る。沙那が背筋をぴんと伸ばすと、節くれ立ったふたつの手が袿の衿をつかんだ。近い距離で顔を覗き込まれて、首から上が一気に熱くなる。


「あなたがとても気にしているようだから、この際はっきり言っておく」
「……は、はい。何を」
「胸の大きさだとか何だとか、俺にはそういうこだわりはない」


 沙那は突然の告白に驚きつつも、とっても重要な事なので真剣な顔で八条宮の目を見つめた。
 だから、婚礼の夜に勇気を振り絞って悩みを打ち明けた時、些細な事のように受け流れたのかしら。こだわりが無いのなら、それも納得。しかし、念には念を入れて確認を……!


「本当ですか?」
「本当だよ」
「信じてもよいのですね?」


 俺は嘘が大嫌いなんだと耳元で囁かれて、袿がするりと肩を滑った。腰を抱かれ、薄絹の衣一枚まとっただけの体を引き寄せられる。身じろぐ間もなく端正な顔が近付いてきて、沙那が反射的にぎゅっと目を瞑ると温かくて柔らかい感触が唇をくすぐった。

 鼻の奥でくすぶるのは、高級な伽羅の香りかそれとも重なったふたりの吐息か。
 食まれて、舐められて、吸われた唇が、しっとりと湿って甘い唾液が口内を満たす。ふわふわとした気持ちよさに頭を支配されて、沙那は八条宮の胸に両手をついて衣を握った。右手に、自分のものではない鼓動が伝わって来る。それはとても力強くて、時々、弾むようにどくんと脈打った。


「はぁ……、っ」


 足りなくなった酸素を求めて口を開ければ、間髪を容れずに歯列を割って舌が差し込まれる。舌が絡み合う不思議な感覚に、意識がくらくら眩む。
 目を閉じたまま、戸惑いながら身を任せていると、大きな手が横髪を撫でて肩に触れ、夜着を留めている腰紐を解いた。夜着の胸元が緩むのが分かって、無意識に体が強張る。

 沙那がたまらず目を開くと、すっと唇が離れてじっと見つめられた。池の水面に落ちた月よりも美しい瞳に、魂まで吸い込まれてしまいそうだ。


「沙那」


 艶やかな吐息をまとった声に、心臓の鼓動が今にも爆発してしまうのではないかと思うくらい極限まで高まる。沙那は藁をもつかむ思いで、今にも投げ捨てられそうになっている自分の腰紐をつかんだ。「どうしたの?」と、八条宮が真顔で首をかしげる。


「依言様にお願いがございます。こっ、これでわたしの目を塞いでくださいませんか?」

「……は?」

「依言様と目が合う度に恥ずかしさで死にそうになるので、目を塞いでしまえばどうにかなるのではと思いまして」


 いい考えだわ! と活路を見出したように目を輝かせる沙那。一方の八条宮は、困った顔をして沙那から視線をそらした。
 沙那は、顔から血の気が引くのを感じた。閨では殿方に身を委ねるのが鉄則。余計な頼み事で気分を害してしまったと、腰紐からぱっと手を放す。


「ごめんなさい。い、今のは無かった事にしてください」


 沙那が慌てて謝罪すると、八条宮はくすっと笑って視線を沙那に戻した。そして、腰紐を沙那の目元に当てて手際よく巻きつけた。


「これでいい?」


 よかった。沙那は、ほっと胸をなでおろした。一瞬焦ったけれど、快く願いを受け入れてもらえてよかった。これなら、いちいち恥ずかしさに身悶えなくて済むもの。あとは、身をお任せすれば万事問題ない。


「はい。ありがとうございます、依言様!」


 朗らかに礼など言われて、八条宮は込み上げる笑いを必死におさえた。
 沙那の言動は、いつも奇想天外で予想がつかない。驚く事の連続で面白くて、何をするにも真っ直ぐで懸命なのが分かっているから、ただただ可愛くて仕方がない。

 八条宮は、沙那の夜着を剥いて丸裸になった体を抱き寄せた。胸の前で固く交差した二本の細腕の下に手を差し込んで、ささやかな膨らみをまさぐる。そして、大きく息を吸い込む沙那の口を荒々しく塞いだ。

   

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