第15話 宮様の愛猫(2)




「……ふ、えっ」


 嗚咽おえつの合間に、おふたりが可哀想だと沙那が言う。
 八条宮は面食らってしまった。恨み言のひとつやふたつ言われるかと覚悟していたが、それは無く。傷心から涙を流しているのかと思えば、どうやら顔も知らぬ夏と想い人に先立たれた身を憐れんで泣いているらしい。

 文机の上で広げられて重なった手漉き紙は、時の流れに劣化して物悲しく黄ばんでしまっている。あれからこの文箱は一度も開けなかった。封印したまま五年の時が過ぎたのだ。

 当時は三つ年上でとても大人びて見えた手蹟が、夏の年齢を追い越した今は少し幼くも感じる。交わした文は、糸が切れた数珠のように散らばった記憶の欠片。そのひとつひとつが、懐かしいふたりの日々であり夏が存在した痕跡でもある。

 しかし、と八条宮は懐をまさぐった。
 今は過去を惜しむより、沙那をどうにかしなければ。沙那の反応は予想外で、泣き止ませる術が分からず焦燥を覚える。

 先ずは何か拭くものを……。とは思うが、生憎、懐紙も手巾も軽装時に持ち歩く習慣がない。自分の手を見て途方に暮れ、わんわん泣いている沙那の顔を拭うのは無理だと諦める。指先で掬えるのは、せいぜいほろりと目尻よりこぼれた涙ふた雫ほどだ。

 しばらくの思案の後、八条宮は少し迷いつつ、自身が着ている袿のたもとを持って沙那に差し出した。
 沙那が、それを両手で受け取って遠慮なく顔に押し付ける。深い紫色の袿は、あっと言う間に涙と洟水はなみずまみれになった。


「別に構わないが、このきぬは俺のお気に入りなんだ」
「……道理で、よい、ひっ……く、……とってもよい香りが、致します……ふ、うっ」


 そう、と八条宮がふわりと笑ったので、沙那はこれ見よがしにごしごしと正一品の親王様お気に入りの衣で顔を丹念に拭った。こんなに泣いたのは、母上が亡くなった時以来だ。ひっくひっくと、吃逆しゃっくりのように鼻の奥と喉の間で息が詰まる。


「すみません。好きになった人を失くしたお気持ちを思ったら、とても悲しくなってしまって」
「優しいね、あなたは」
「いいえ。依言様の悲しみを知っても出て来るのは涙だけで、お慰めする言葉ひとつ思い浮かばないんです」


 沙那がよい香りのする袿で目元をおさえると、八条宮の手が伸びてきてそっと髪に触れた。


「俺と夏の文を見て思うところもあるだろうに、あなたは慰めの言葉を探してくれているのか」


 沙那は浮腫むくんだまぶたを精一杯開いて、八条宮を真っ直ぐ見つめる。
 思うところは……、ある。多分、わたしは今、依言様の想い人の存在を知って少なからず傷ついているし、一度も御文を頂けなかった身からすると夏姫様が羨ましい。でも、そんなのは些細な事で。


 ――大好きな人に、気の利いた言葉をかけられない自分が本当に情けない。


 そう思うと、また目の奥が熱をはらんで涙が湧いて来る。
 夏とは幼なじみでね、と八条宮が文机に広げられた文をひとつ折り目通りにたたんで文箱に仕舞う。そして、妻にと望んだ唯一の人だったと話し始めた。

 日々の細かな思い出こそ語られなかったが、八条宮が夏姫をこの上なく大切に想っていたのは明白だった。それは過去形ではなく、今もそうなのだろう。

 しかし当の八条宮は、琥珀色の瞳に悲痛の色を浮かべるでもなく、淡々と他人の記憶をそらんじるように話を続ける。途中、悲しくはないのかと尋ねたら、「もうとっくに涙は枯れてしまった」と言われて余計に沙那の胸はきりきりと痛んだ。


「……夏姫様は、どうしてお亡くなりになったのですか?」
「胸を患ったらしい。元々体が弱かったから、詳しくは調べられないまま病死として処理された」
「お気の毒に……」


 慰めの言葉は思いつかないけれど、できるなら、依言様が悲しみにばかり暮れて一生を終える事が無いように何かしてあげたい。人は誰しも、それぞれが幸せになるべきだもの。夏姫様だってそうよ……。

 沙那は、何かを思い出したように、はっとして目を見開いた。そして、折りたたんだ文を文箱に仕舞おうとする八条宮の手を、遠慮がちにそっと両手で掴む。


「夏姫様のこと、ずっと忘れないでいてくださいね。依言様の記憶が薄れてしまったら、夏姫様が本当におかわいそうだもの」

「……嫌では、ないの?」

「わたしは、八つの時に火事で母上を失くしました。今でも、母上が生きておられたらって思うんです。親への敬愛と想い人への思慕とでは心の持ちようが違いますけど、大切な人である事に変わりはないので……。上手く言えないのですが、依言様が夏姫様を想い続けたなら、きっと次の世では必ずおふたりで幸せになれます」


 急に何を言い出すのかと、八条宮が驚いた表情をする。


「ほら、見返りを求めずに功徳というものを積めば、来世で救われると申しますでしょう? ですから、依言様は命のある限り夏姫様のためにこつこつと功徳をお積みください」

「功徳? どのような」

「簡単な事です。一心に今生での妻を大事になさいませ。そうすれば、わたしが依言様と夏姫様の来世でのお幸せをしつこく祈願しますから、きっときっと神様仏様がお二人を巡り合わせてくださいます。ご存知のように、八条宮様の正妻はとっても執念深いんです。効果抜群、霊験あらたかですよ」


 はぁ……、と呆気に取られる八条宮に、沙那はじゃっじゃーんと懐から得意げに小さくたたんだ白い布を出してみせる。


「ここひと月、北の対屋の女房方に指南してもらって刺繍の技を磨きました。ミヤサマに引けを取らない自信作です。どうぞご覧ください」

「これは、何?」

「依言様の下穿きふんどしです」
「は……、俺の下穿き?」

「いつお披露目しようかと迷いに迷って、懐に忍ばせていたのです」

 貴族の娘として生まれ育った者が、何食わぬ顔で「下穿き」とはどういう了見か。八条宮は一瞬だけ訝しむように眉根を寄せて、沙那から渡された下穿きをはらりと広げた。

 真っ白な布地に、牡丹の大輪と小さく「愛妻家」の文字が刺繍されている。自信作と豪語するだけあって、確かに見事な出来栄えではある。あるがしかし……。


「これを身につけろと?」
「きっとお似合いになりますよ」

「似合うも何も……。今生での妻を大切にする事とどういう関係があるの?」
「まだちゃんと妻になれていないから強くは言いませんけど……、う、浮気対策です」

「浮気対策?」
「はい」


 沙那と下穿きを交互に見て、八条宮は「なるほど」とつぶやいた。このような下穿きを人に見られでもしたら、それこそ恥さらし。安易に他所よそで衣を脱げないという訳だ。


「別の絵柄と文字の組み合わせで、あと五枚ほどご用意してございます」


 と、片手を大きく広げた沙那が、縁の赤くなった目を悪戯っぽく輝かせて声を潜めたので、八条宮はたまらず声を立てて笑った。

 口を開けて体を揺らし、腹がよじれるほど笑ったのはいつ以来だろうか。いや、夏が生きていた頃でさえ、こんなに笑った事は無かったかも知れない。大事な話の途中だったのに、これでは真面目に続けられそうにない。

 ひとしきり笑った八条宮に、沙那は「よかった。笑ってくださって」とほっとしたように微笑んだ。


「もしかして、俺を笑わせようとしたの?」

「……はい。いえ、おふたりの来世でのご縁を願う気持ちは本心です。でも……。夏姫様を忘れないでと言いましたが、依言様もご自分の一生をお過ごしにならないと。わたしは、依言様の笑った御顔をたくさん見たいです。あ、もちろん、きりっと澄ました御顔も大好きですよ」

「沙那……」


 八条宮が、下穿きを握りしめたまま沙那を抱き寄せる。沙那は夜空に悠然と輝く月を眺めるように、腕の中から八条宮の顔を見上げた。


「お話しを遮ってしまって、ごめんなさい」
「謝る必要はない。俺の方こそ、あなたの気持ちを知っていながら残酷な話をした」

「残酷だなんて。夏姫様の事を知って、もっと依言様を大事にしなくてはと意気込んだ次第です」
「やはり、あなたは優しい。淡い月明かりのように優しくて、俺には過ぎた人だ」


 じっと八条宮に見つめられて、沙那の頬が熱くなる。


「ずっと北の対屋にこもって、針仕事をしていたの?」
「はい。女房たちが親切に教えてくれるので、つい熱中してしまって」

「そう。忌み事が続いたとは言え、あなたがあまり俺のところに来ないから、少し……、気になっていたんだ」

「うっ……。すみません、浮気対策に勤しんで当の依言様を等閑なおざりにしてしまいました」

 沙那、と顔が近付く。沙那がきゅっと目を閉じると、ひたいに口付けられた。額を隠すように眉の高さに切り揃えられた前髪越しに、八条宮の柔らかな体温を感じる。

 そう言えば、わたしの病は一体何だったのかしら。自分で遮ってしまった話の続きが気になったけれど、ちゃんと妻になってと耳元で低い声が囁いた瞬間、沙那の頭の中は真っ白になった。


   

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