第14話 宮様の愛猫(1)




 主寝殿の前で八条宮と別れて、沙那は御座おましをひとり進んだ。
 手燭の明かりだけを頼りに、半分ほど降ろされた御簾をくぐり几帳を避けて、わき目もふらずに寝所を目指す。主寝殿の中には、いつも八条宮が空薫そらだきしている練香の匂いが漂っていた。山の頂上になびく霞のように、さりげなく、上品に、ふんわりと鼻の奥をくすぐるように。

 その香りは、寝所に近付くにつれて強くなった。麝香が絶妙な加減で混ぜ合わせてあるようで、香りは強まっても不快感をもよおすような刺々しさも嫌味もない。うっとりと、心が落ち着くような香りだ。

 御座の一番奥にある妻戸を開けると、そこが八条院の主がいつも眠っている寝所である。
 無意識に顔が緩んでしまうのは仕方がない。都にどれほどにわかファンがいようとも、ここに入れるのは八条院に住む妻のみ。つまり、妻の特権なのだ。


 ――つま、つまって連呼すると照れちゃう。もう!


 寝所に入って、今にも消えてしまいそうな手燭の火を一番近くにある燭台に移す。すると、ぽっと部屋の一部が明るくなって、目の前に三方を屏風に囲まれた褥が現れた。御帳台のようにとばりに覆われていないから、とっても開放的な感じがする。

 沙那は、ふぅと息を吹きかけて手燭の火を消すと、床より一段高く設えられた褥に上がって枕元の台にそれを置いた。
 本当は上掛け用のうちきや枕の匂いとか、我が背の君のいろんな痕跡を堪能したいところだけれど、我慢、我慢。衝動を抑えながら、大人しく褥の隅に座って八条宮を待つ。

 もう夜明けが近い。遠くから、朝鳥の高らかで清々しい鳴き声が聞こえた。
 良かった、帰って来てくださって。ほっと安心する沙那を、強い眠気が襲う。門の前で待ち伏せをしていた時だって、依言様が八条院に戻って来ない日は一日も無かった。だけど、今夜は心配で眠れなかった。その……、う、浮気だけじゃなくて、途中で依言様に何かあったんじゃないかって。帰りが遅くなる時は教えてと、左近にお願いしておかなくちゃ。

 はふ、と欠伸が出て瞼が落ちてくる。
 依言様、早く来ないかなぁ……。このまま寝てしまいそう。


「沙那」


 寝所に入って来た八条宮が、眠たそうに目をこする沙那の前に座って顔を覗き込む。そして、待たせたねと、沙那を両腕で攫って横たわった。


「依言様、火を消さないと」
「大丈夫だよ。少ししか油が入っていないから、じきに消える」


 沙那は心底安堵したように微笑むと、八条宮の胸に顔を埋めて目を閉じた。上質の絹で仕立てられた夜着を通して、穏やかな心音が聞こえる。ずっと、こうしていられたらいいのに……。

 初夜の一件以来、何かと忌み事が続いてちゃんと妻になれなかった。緊張をほぐすためとはいえ、わたしが色気より食い気を優先してしまったから……。

 はぁ……。吉日を占って初夜の日取りを決め直すと女房たちは話していたけれど、依言様はどうお考えなのかしら。一緒に寝てと頼んだら寝てくれるのだから、ひと言ストレートに言ってしまえばいいのかなぁ。抱いてって。


 ――無理……、絶対に無理よ。わたし、そんな柄じゃないもの。


 どんな顔をして麗しい背の君に向かってそんな恥ずかしい言葉を言えと……? 言いたいのは山々だけれど、軽くあしらわれでもしたら、再起不能になる気がする。だって、好きだから……。

 そこで沙那の意識はぷつりと途切れた。八条宮の手が優しく頭を撫でたので、不思議な術をかけられたようにことりと眠りに落ちてしまったのだ。





❖◇





 八条院の敷地は広大で、沙那が知っているのは北の対屋と主寝殿、それからその周辺のごく限られた生活圏だけだ。
 昼を過ぎた頃、八条宮が見せたい物あると言うので、沙那は好奇心に目を輝かせて八条宮のあとを素直について行った。ひとつ不思議だったのは、八条宮が「夏のやしきに行く」と告げた時の主寝殿の女房たちの反応だった。普段なら数人の女房が同行するところだが、ただ「はい」と返事をするだけで誰もついて来ない。なにか暗黙の了解があるのだろうか。


「そう言えば、御所へは使いを出したのですか?」
「出したよ。差し障りがないように、物忌みだと言ってね」
「本当に宜しいのですか? サボりがばれたら叱られちゃいますよ」
「あなたが密告しない限りばれない」


 八条宮と沙那は穏やかな秋の日差しの下、主寝殿からきざはしを降りて白砂の庭を東へ向かった。生垣を境にして、向こうの一角を夏の邸と呼ぶらしい。

 庭の草木がきれいに剪定されているところを見ると、普段から細やかに手入れがされているようだ。春の邸には、春に花を咲かせる木花が揃えてある。夏の邸というからには、夏に盛りを迎える木や花が植えられているに違いない。きっと、婚礼の頃は美しい夏の大輪が庭を彩っていたのだろう。

 八条宮が、くつを脱いで夏の邸の階を上がる。沙那もそれに続いたが、蔀戸しとみどが閉められた邸から人の侵入を拒むかのような威圧を感じて、一瞬だけ足を止めた。同じ八条院とは思えないほど、ひんやりとした空気が漂っている。夏が終わって秋めいてきたとか、そういう季節の移ろいとは無関係の低い温度だ。


「依言様。ここは……」


 沙那が控え目な声で言うと、前を歩いていた八条宮が振り返った。
 御所に行く時とは違って、今日の八条宮は冠も載せていないし直衣のうしも着ていない。烏帽子に単衣ひとえ指貫さしぬき、袿を羽織って、一応の身だしなみを満たしただけの寛いだ格好をしている。しかし、その表情はいつもより固いような気がして、沙那は小さく首をかしげた。


「いつの夜だったか。どうしても妻になりたいと言うあなたに、俺の事を何も知らないのに良いのかと尋ねたが、覚えているだろうか」


 八条宮の声は、水面に小波さざなみを立てながらさっと吹き抜けるそよ風のように静かだった。


「覚えていますよ。わたしは、これから知っていけばってお答えしたんですよね」
「そう。だから、あなたに知ってもらいたい」
「このお邸の事をですか?」


 八条宮は問いかけには答えずに、沙那に背を向けて妻戸を開けた。ききぃと、新しい白木の香りに似合わない錆びた金属音がする。扉の向こうは、右も左も分からないほど漆黒の闇だった。八条宮が、妻戸を開け放って中に入る。そして、慣れた様子で五つの燭台に明かりを灯した。

 沙那は、入り口から中の様子をうかがって敷居をまたいだ。部屋には几帳や文机があって、奥の御簾の向こうには御座おざが見える。閉め切ってある割に、やはり庭と同じように手入れが行き届いていて、誰かが住んでいるような気配すら感じられる部屋だ。

 胸が、どくんどくんと嫌にざわめく。几帳の帷子かたびらも御座の小道具も、色味に淡い暖色が使われている。もしここに人が住んでいるとすれば、明らかに女の人だろう。


 だから、女房たちはついて来なかったんだわ。


 沙那が真っ青な顔をして胸をおさえると、八条宮が「座って」と文机を目で指した。言われたとおりに文机の前に座って待っていると、八条宮がどこからか黒い漆塗りの文箱ふばこを持って来て、静かにそれを文机に置いた。


「依言様。ここには、どなたかが住んでいらっしゃるのですか?」
「誰もいないよ」

「でも、この部屋はまるで……」
「誰も住んでいないが、ここには俺の妻になるはずだった添臥そいぶしの品を収めてある」
「えっ?」


 さらりと言われた言葉を、沙那は瞬時に理解できなかった。衝撃が強すぎて、うまく鼓膜で噛み砕けなかったのだ。きょとんと目を丸くして真っ向から見つめる沙那に、八条宮は少しだけ表情を緩めて話しを続けた。


「俺も昔、あなたと同じように人を好きになった。その話しをしようと思って、あなたをここへ連れて来たんだ」


 沙那は、じっと琥珀色の瞳を見て考え込む。
 聞きたくないと言えばそれまで。依言様は無理にお話しにはならないだろうし、二度とこの話題に触れようともなさらないような気がする。依言様の御心に想い人がいるのはつらいけれど、これはとても大事なお話なのではないかしら。知りたい。だって、他の誰でもない依言様の事だもの。


「誤解しないでほしいのだが、あなたをいたずらに傷つけたくてこのような話しをするのではないよ。あなたが俺に正直であるように、俺もあなたに対してそうあろうと思っている。永くを共に過ごすのだから」

「誤解なんてしていません。依言様は、そのような酷い事をなさる人ではないもの。それに、依言様がわたしと向き合ってくださるのはとても嬉しいんです。ただ内容が内容なだけに、ちょっとというか、だいぶ驚いてしまって……」

「あなたが驚くのは当然だ」
「でも、どうして急にこのようなお話しを?」

「初夜での一件と関係があるから」
「ああ、あの一件は……。わたしが食い意地を張ったばっかりに、お恥ずかしい……」

「あれはね、ただの食あたりではないし、あなたはひとつも悪くない。あなたの事だから、そうやってずっと気に病んでいたのだろう?」


 うん、と沙那は小さく頷く。それから視線をまた八条宮に戻すと、やんわりと微笑みが返って来た。

「玄幽を責めないでやってくれ。玄幽は嘘をついたのではなく、あなたと俺を気遣って食あたりだと言ったんだ」

「……では、わたしは何の病だったのですか?」
「それは、これから順を追って話す。少し長くなってしまうけれど」

「わかりました。……あの、ひとつだけ先に教えてください。妻になるはずだった添臥の方は、今どちらに?」

「どこにもいない。俺が元服した夜に、内裏で死んでしまったから」


 沙那は、先ほどよりも強い衝撃になんとか耐えた。いろいろな感情が混ざり合って、怒涛のように胸に押し寄せる。それを深呼吸で鎮めると、八条宮が文箱の蓋を開けて沙那の前に置き直した。

 中には、折りたたまれた紙がぎゅうぎゅうに詰め込まれている。その一つを取って広げると、女の人とおぼしき細々とした手蹟で歌が書かれていた。何気ない、ただの日常を描いた歌だ。別の紙を見ると、今度は男の人の手蹟で返歌と思しき歌が書かれている。こちらには、少し思慕を匂わせる言葉や言い回しがあった。


「もしかして、これは依言様と添臥の方の御文ですか?」
「うん。まだ元服前の、子供だった頃のね」

「お相手の方は、何という御名前なのですか?」
「夏といって、常陸宮家の姫だった」
「……夏姫様」


 ああ、だから夏の邸なのね。心の中で納得して次の紙を広げる。そうやって文箱に押し込められた御文を読んでいくうちに、思い合うふたりの純粋なやりとりが可愛らしくて心がじんわりと温かくなった。

 御文の中には、確かに夏姫様と依言様がいるのに……。悲しみが、胸をぎゅっと締めつける。沙那の大きな双眸から、ぽたぽたと涙の粒が落下した。


「あなたを、傷つけてしまったね」


 そう言って申し訳なさそうに眉尻を下げる八条宮に、沙那はそうではないと頭を左右に振る。


「依言様が大切な人を失くしていたなんて……、うっ、わたし……、ひっく、知らなくて……っ」

「……沙那」


 御文には直接的な愛の言葉は書かれていないけれど、ふたりがとても親密だったのがひしひしと伝わって来る。優しい言葉が、たくさんたくさん書かれているからだ。夏姫様に先立たれた依言様の悲しみは、どれほどのものだったのだろう。想像するのもつらい。

 耐え切れず、沙那はわーんと声を上げて泣いた。顔が涙と洟水はなみずでぐちゃぐちゃになったけれど、構わずに泣いた。


 八条宮があまりにも不憫で、感情をおさえきれなかったのだ。


   

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