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まどろみながら、ごろんと体を右へ反転させる。そして、二、三度寝ぼけ眼をぱちくりさせて、沙那は驚きに目を大きくぱっちり見開いた。すぐそこに、八条宮が横たわってこちらをじっと見ていたからだ。しかも、目の高さが同じでまつげの一本一本がはっきりと見えるほど距離が近い。
「おはよう、沙那」
「お、はようございます」
低音が耳の奥をくすぐって、長い指が横髪をさらりとすくう。
――なんなの、この幸せ過ぎる目覚めは!
寝起きから心臓が壊れちゃいそう。
「体の具合はどう?」
「具合ですか?」
ええっと、昨夜は依言様との初夜だった。極度の緊張と依言様から発せられる強烈な色気に耐えながら、あれしてこれして発育不良の胸を思いっきり見られた……。ところまでしか記憶がない。息が苦しくなって、それからどうしちゃったんだろう、わたし。
ひっ。
やだ、もしかして……。
もしかしなくても、妻になり損ねた?!
顔面から血の気が引くのを感じながら、沙那は体にかけられた蘇芳の袿をそっと持ちあげて自分の下半身を目視した。床入りの前に着用した真新しい絹の夜着をまとった体には、乱れも違和感もない。初めてのときは、あの場所が痛むものだと聞いていたのに……。清々しいほどなにも、ない!
ということは、わたしはまだ、お……と、め……?
がくっ。
依言様、悲しきかな体の具合はすこぶる良好です。
「どこか悪いのか?」
青ざめた沙那を心配した八条宮が、体を起こして小梅を近くに呼ぶ。そして、急いで玄幽を連れて来るよう申しつけて、昨夜と同じように沙那を抱き起して胸に収めた。
きゅん。
心臓が収縮する痛みに、沙那が左胸をおさえる。ちゃんと夫婦になれなかったのに、とても丁重に扱われている。こんな包容力を見せつけられたら、どんどん好きになっちゃう。
「胸が痛むの?」
「……はい」
「やはり、まだ油断ならないな。少し待て、すぐに薬師が来るから」
「薬師? あ、いえ。これは、薬では治らない気がします」
「なぜ、そう思うの?」
なぜって……。
八条宮があまりにも神妙な顔をして見つめてくるので、さすがの沙那も「ときめきが」などとは言えず、肩をすくめてごにょごにょと口ごもる。どうした、と八条宮が怪訝な顔をしたところで、白髪の爺様がそろりそりろりと部屋に入って来た。
「早かったな、玄幽」
「こちらへ向かっておったら、左近が迎えに来たのでの」
驚く沙那に、あの御仁は類なき名医だとだけ説明して、八条宮が玄幽に胸が痛むらしいから早く診てくれと催促する。玄幽はやれやれと苦笑いして、八条宮に抱かれた沙那の体を丁寧に診察した。
「ふむ、よいよい。薬を煎じるゆえ、それを飲んで明日まで大人しく寝ておりなされ。どうせ、立つ力はないはずじゃ」
「胸が痛むと言っているのだぞ、本当に」
「宮様は、儂の腕を信頼して呼んだのであろう?」
「そうだが……」
玄幽が、すすけた山吹色の狩衣から出た枯れ枝のような細い腕をせわしく動かす。木箱から練り薬を取り出したかと思えばそれを沙那の首の傷に塗り、次に乾燥した草と粉を出してすり鉢でごりごりと擦る。見た目は呆けた老人なのに、手際のよさには目を見張るものがある。
「あの、依言様」
沙那が、視線を玄幽から八条宮の顔へと移す。なに? と言うように八条宮の片眉があがった。
「わたしは、病なのですか?」
「病というか」
八条宮が答えに詰まると、玄幽が薬草を擦りながら「これ、北の方」と回答を請け負った。
「ただの食あたりじゃ。夜に食い意地を張るから、かような目にあう」
「しょ、食あたり?!」
「しかし、なかなか美味じゃったの。あの餅は」
沙那は、顔を真っ赤にした。そういえば、初夜の途中でお腹が痛くなったような気がする。あの椿餅を食べたのがいけなかったの? 嘘でしょう?
――食あたりで妻の務めを果たせなかったなんて、末代までの恥だわ……。
しばらくして、玄幽が擦った薬草を湯に溶いて沙那に手渡した。杯の中の湯は少し黄色味がかっていて、湯気からほのかに柑橘が香る。沙那は、ふぅっと息を吹きかけながら、苦い薬湯を少しずつ口に流し込んだ。
沙那が薬湯を飲み干すのを待って、玄幽が八条宮に大事な話があると切り出す。沙那を褥に寝かせて、八条宮は玄幽と共に部屋を出ていった。
「みゃあ」
ナギが、沙那の頬に顔をすり寄せる。玄幽が薬湯に眠り薬を混ぜていたのと、ナギの毛並みの感触が気持ちよくて、沙那はうとうとと眠りに落ちてしまった。
北の対屋を出た八条宮と玄幽は、主寝殿の御座で向かい合った。建築から年月のたっていない八条院の丸柱は、夏の湿気を帯びた熱気の中に白木の甘い香りを染み込ませて、御座の華やぎに慎ましさをひとつ添えている。
「大事な話とは?」
「今後、北の方が口になさるものには、気をつけた方がいいかもしれませぬな」
開口一番、玄幽が苦言を呈す。
「どういうことだ」
「あの菓子には、毒が入っておった」
毒と聞いて、八条宮の顔が険しくなる。しかし、取り乱す様子がなかったので、玄幽は話を続けた。
「ごく少量であったのか、たいして効いておらぬようだが、あれは一位の毒じゃ」
「一位とは、生け垣の一位か?」
「さよう。一位の熟した実は甘く無害じゃが、種や葉に毒があっての。食えば体が震えて呼吸が苦しくなる。口にしてから効果を発揮するまで時間はかからず、量を間違えば死に至る猛毒じゃ。菓子に混ざっておったのは、種か葉か……。さりとて、葉は味が菓子になじまず、種は砕かねば毒が効かぬ。種を粉にして意図的に混ぜたと考えるが自然であろう」
「憶測だけで滅多なことを言うなよ、玄幽。なぜ、あの餅に一位が混ざっていると分かった?」
「持ち帰った菓子を食うたからじゃ。美味かったが、手がしびれて息が切れた」
ほほほ、と笑う玄幽に八条宮があきれたように笑い返す。
「沙那は、本当に大丈夫なのだろうな?」
「心配いらぬ。先程も申しあげたが、一位の毒にしては効果が薄い。あの菓子は、八条院で用意なさったのか?」
「まさか。ここには、季節はずれの菓子を作る者も、主人を害する者もいない。あれは、内裏からの祝いだ」
「ほぉ、帝から賜った菓子であったか。どうりで美味なはずじゃ」
「主上がご存じかどうか定かではないが、弘徽殿から届けられたのは確かなようだ」
「弘徽殿とは、右大臣の一姫じゃな」
玄幽の目が一瞬細くなる。
八条宮の元服よりさかのぼること半年前、帝は東宮に立ち右大臣家の一姫を妃に迎えた。式部卿宮の姫の遺体が荷車に乗せられて筵を被せられたとき、大変な騒ぎの中、淑景舎の廊下で東宮妃がさめざめと泣いていたのを玄幽ははっきりと覚えている。
あとから聞いた話では、東宮妃と式部卿宮の姫は従姉妹という間柄で、幼いころから親交があったそうだ。だから、その死に胸を痛めて、あのように人目もはばからず取り乱していたのだと典薬寮の者が言っていた。
「なぁ、玄幽。俺は沙那の喉を見て、五年前のことを思い出した。夏も、同じような目にあったのではないのか……」
「今となっては、真相は誰にも分らぬ。あの状況では、病死としか言えなかったからの」
「……そうか」
「無念も悲しみもよう分かる。しかし、あの件を蒸し返すのはやめなされ。宮様にとってよいことは一つもない」
「夏は命を奪われただけではなく、親王の門出を穢した罪人として処されたのだぞ。式部卿宮家も宮号を剥奪されて、今や見る影もない」
「それでも、ぐっとこらえて口をつぐまねばなりませぬ。夏姫の一件は、権力者のほかに、先帝や帝もかかわること。真相を暴こうとして証拠の一つもつかめなかったとき宮様の御身がどうなるか、よく考えるがよろしかろう。執念に駆られた正義は、一位の毒より恐ろしい争いの火種じゃ」
「……分かってはいるんだ」
「宮様はもう、独り身ではないじゃろ?」
「そうだな」
それから毎日、玄幽は朝早くに八条院にやって来て沙那に治療を施した。玄幽の的確で丁寧な治療の甲斐あって、沙那はすっかり元気になり、喉の傷も十日後には赤みが引いて目立たなくなった。
さて、今度こそ初夜の成功を! と意気込む沙那であったが、傷が癒えると今度は月の障りに見舞われた挙句、物忌みなどが続いてしまった。
月の障りも物忌みも、穢れや災いといわれる厄事だ。だから沙那は、八条宮に災厄がうつらないように極力北の対屋から出ようとしなかった。本当は、主寝殿に居座って依言様とたくさんお話したいけど、我慢、我慢。
それにしても、手持ち無沙汰な一日の長いこと、長いこと。
絵巻物をながめたり書物を読んだり、そればかりでは飽きるし時間の流れがやけに遅く感じる。そこで、沙那は女房たちの輪に入って、明日の暮らしにはなんの役にも立たない世間話などをしながら縫い物を習ってみることにした。
今まで嗜みとして刺繍などはしていたが、じっと座っているのが苦手でなかなか上達しなかった。しかし、本格的にやってみると案外楽しく性に合っているらしい。それに、女房たちが盛大にほめてくれるお陰で、沙那の裁縫技術は格段に向上した。
その成果として作った、八条宮を模した綿入りの人形「ミヤサマ」は、十三の縫い方の技法を駆使した力作である。それから、治療の御礼にと玄幽のほつれた衣服を手直ししたら、信じられないくらい大喜びされた。
そして、婚礼からひと月後――。
「では、行って来る」
参内するために正装に身を包んだ八条宮を見送って、沙那はがっくりと肩を落とす。
なんてことなの。結局、夫婦の契りを交わせないまま依言様の休暇が終わってしまった。これじゃ、浮気されたって泣き言も文句の一つも言えないじゃない。八条院の外には、にわかファンたちがうじゃうじゃ犇めいているのに……。くっ……。
――憎し、椿餅っ!(とっても美味しかったけど)
さぁっと庭から吹き抜ける風が、にわかに秋の気配を運んで来る。その夜、沙那は夜半過ぎまで起きて待っていたが、いつまでたっても八条宮は帰って来なかった。