第13話 初夜の蟲毒(2)




 ❖◇❖


 左近に背負われて北の対屋に現れたるは、よぼよぼの……もとい、白髪でひょろりと痩せた男だった。男は東市の近くに住む薬師で、名を坂上さかのうえ玄幽げんゆうといい、もとは典薬寮てんやくりょう典薬頭てんやくのかみを務めていた。内裏に暮らし月宮と呼ばれていた時分、八条宮は怪我や病で数えきれないほど玄幽の世話になったものだ。

 玄幽はだいぶ前に官職を退いて、今は市井の町医者らしいことをやっている。羅城門の外に病で苦しむ民あれば、昼夜問わず駆けつけて無賃で薬を煎じてやる気前のいい御仁だ。

 そのお陰で、玄幽のすすけた色の狩衣はところどころほつれていて、かつて従五位下の位にあった者とは思えないほどみすぼらしい身なりをしている。だが、当時より少し耳が遠くなった程度で、薬師としての知識と腕は今でも健在で信用できる。


「慌てずともよろしい。宮様、北の方の身に起きたことを順に教えてくだされ」


 沙那を診た玄幽が、湯桶で洗った両手を布で拭きながら八条宮に言った。八条宮が記憶をたどりながら説明すると、次に玄幽は小梅から沙那の普段の様子を詳細に聞き取った。ふむふむと頷いて、時折、しわくちゃの黄ばんだ紙に震えた文字を書く。


「悠長に話を聞いている場合か、玄幽。見てみろ。あのような顔色……、尋常ではない。こうしている間に、沙那は死んでしまうのではないか?」

「宮様は、黙ってそこに座っておりなされ。ところで女房殿、北の方が生来健康そのものであるとは間違いござらぬか?」

「はい。物心つく前から、恐れ多くも姉妹のように育ちましたが、姫様が病など一度もございませんでした」

「となれば、悪いものを口にしたか」
「そう申されましても、今日は姫様と同じものを宮様も食されたのです」

「ふむ。床に入るまで変わりはなかったというのも、間違いござらぬか?」

「はい。いたっていつもどおりで、美味しそうに椿餅を召しあがっておられました」

「ほお、夏に椿餅とはめずらしい。その椿餅は、宮様もお食べになったのか?」


 八条宮が、玄幽に向かって首を横に振る。すると、小梅が椿餅の載った黒い盆を「こちらです」と玄幽に差し出した。盆には、白くつやつやとしていかにも美味しそうな姿をした丸い餅が二つ並んでいた。

 沙那の足元でくつろいでいたナギが、盆に近づいて椿餅を嗅ぐ。そして、小さな桃色の舌で鼻の頭をぺろりと舐めて「みゃぁ」と鳴いた。


「体の震えと息苦しさ、か」


 白髭の生えた顎に手を当てて、玄幽が神妙な顔で考え込む。それから椿餅を一つ手に取って半分に割ると、顔に近づけて色や匂いを丹念に観察した。しかし、特に変わった様子はないようだ。

 玄幽は椿餅を盆に戻して、持って来た木箱から乾燥した薬草と小さなすり鉢を取り出した。それをすりこ木でごりごりとすり潰して、女房が沸かした湯に溶く。


「宮様。薬湯を飲ませますゆえ、北の方の体を起こしてくだされ」
「分かった」


 枕とうなじの隙間に腕を通して、青白い顔で横たわる沙那の体を起こす。ただ息をしているだけの脱力した体の重みがずっしりと腕にのしかかると、八条宮は沙那を胸に抱き寄せて小梅に目配せした。

 小梅が布を沙那の胸元に広げて、玄幽から受け取った薬湯を匙ですくう。そして、乾いた唇にそっと匙を当ててゆっくりと傾ける。刹那、沙那の眉間がぴくりとわずかに動いた。


「玄幽。沙那は本当に大丈夫なのか?」

「二、三日寝込むだろうが、儂の言ったとおりに薬湯を飲めば大事には至らぬ。明日もまた、具合を確かめにまいりましょう」

「そうしてくれ。そうだ、玄幽。喉の傷に効く薬はないか? 痕が残ってはかわいそうだ」

「明日、調合した薬をお持ちいたそう」

「頼む」

「むせる様子もなし、その調子でゆっくりと飲ませて差しあげなされ。どれ、その美味そうな椿餅をいただいて、今宵は失礼つかまつろうかの」


 先ほど割った椿餅を懐紙に包んで、玄幽が木箱を手に立ちあがる。
 八条宮は、左近に玄幽を邸まで送るよう申しつけて、腕の中に視線を落とした。沙那の青みがかった白肌と喉の引っかき傷が、否が応でも五年前の出来事を呼び起こす。夏姫の喉にも、獣の爪で引っかかれたかのような痛々しい傷があった。


「八条宮様」


 小梅が、薬湯を飲ませ終わったと声をかける。沙那の顔色は変わらずだが、今は藁をもつかむ思いで玄幽を信じて明日を待つしかない。八条宮は、盆に残った椿餅をじっと見た。椿の季節に作る菓子を、わざわざ夏に出すような変わり者は八条院にはいない。


「沙那が食べた椿餅は、大納言邸から持参したのか?」

「いいえ、こちらに用意してございました。八条院の女房方が姫様にお気遣いくださったのだろうと思ったのですが……」


 小梅が困った顔をすると、控えていた北の対屋の女房の一人が「あの」と口を挟んで、椿餅を菓子置きに載せたのは自分だと言った。


「御所から、初夜の祝いとして届いたのです」

「御所というのは、帝からという意味か?」

「いいえ、宮様。帝と弘徽殿女御様からだと聞いております」


 弘徽殿の名に、八条宮は顔をしかめる。いかに寵を受けていようとも、女御は帝と名を連ねて品を送る身分にない。それに、わざわざ嫁ぎ先に祝いを届けるほど、弘徽殿女御と沙那の間に特別な親交があるとも思えない。そこはかとなく、嫌な胸騒ぎがする。


「椿餅が入っていた入れ物をここへ持て」


 八条宮が命じると、その女房はすぐに棚から朱塗りの箱を取って来た。箱の蓋に描かれた杜若かきつばたに、八条宮の背筋がぞわりとする。杜若は、恋しい気持ちを込めた歌によく使われる花だ。そして、高貴な紫色の花弁が似合うと、帝が弘徽殿女御にお与えになった印でもある。


「皆、もう下がってよい。今宵のことは、騒ぎ立てず口外しないように」


 女房たちが、心配そうな視線を沙那に向けながら部屋を出ていく。いつまでもそばを離れようとしない小梅をなだめて、八条宮は沙那を御帳台の寝床に運んだ。小梅が退出すると、部屋には八条宮と沙那、そしてナギだけになった。

 沙那にくっついて体を丸めたナギが、「みゃあ」と甘えるような声で鳴く。


「大丈夫だよ、ナギ。沙那は眠っているだけだから」


 沙那の頬に手を当てると、冷たかった肌はいくらか体温を取り戻していた。ほっとすると同時に、沙那の様々な表情や言葉が頭をよぎる。



 ――沙那と同じように、俺も必死に恋をしていた。



 先帝は、俺を東宮にとお考えだった。だが、俺は不忠と心得ながら辞退申しあげた。
 妻に望むのはただ一人。

 東宮になって何人もの妃を持つのは嫌だと駄々をこねたとき、先帝はとても悲しそうな顔をなされた。皇の血筋に生まれた者として、そんな些細な理由で帝の意に反するのは、帝位への軽蔑だととがめられてもおかしくない愚行だ。

 しかし、先帝は苦悩の末に俺の願いを聞き入れて、親王になることを条件に、式部卿宮家の夏姫を添い臥に選んでくださった。

 規則正しい寝息の合間に、沙那がむにゃむにゃと口を小さく動かす。八条宮は、寄り添うように沙那の隣で腕を枕にして横になった。

 加冠の儀が行われた夜、夏は添い臥の務めを果たすために、内裏の奥にある淑景舎で俺を待っていた。もとから体が丈夫ではなかった夏は、特段不調はなかったものの念のため当時典薬頭だった玄幽に脈を診てもらったという。

 緊張で少し脈は乱れていたが、大きな問題はなかったと玄幽は証言したし、典薬寮の記録にもそう書いてある。しかし、玄幽が淑景舎を出てわずか半時後に悲劇は起こった。



 この世において、死は最たる穢れ。



 親王の元服という晴れの門出を死で穢した夏は、宮家の姫であるにもかかわらず葬儀の一切を禁じられて、都のはずれにあるさびれた寺の裏山に埋葬された。そして今も一人、荒れた冷たい土の下に眠っている。

 荼毘だびにふすも許されなかった体が土に還るには、どれほどの歳月を要するのだろうか。きっと、生きた年月よりもはるかに長くかかるのだろう。



 もしも夏が生きていて、描いたとおりの未来いまがあったなら。



 戻れない過ぎ去りし日に詮ない考えを巡らせては、当然訪れたであろう幸せな日々を想像し、絶望し、しまいに夏の死を受け入れる。あのとき一生分の涙を流したから、涙はもう一滴も出ない。

 だが、夏を思い出した数だけ心の中で夏が死に、その度に言葉に言い尽くせない悲しみと無念が鋭利に心を切り刻む。

 空が灼け色に染まった夜に生まれたのは、月読尊の権化などではない。禍々しい魔を生み、災厄をもたらす異形の邪神だ。

 大きなあくびをしたナギの首元で、鈴がちりちりと曇った音を立てる。沙那のそばがよほど居心地いいのか、ナギは丸めた腹部に顔を埋めてそれきりぴくりとも動かなくなった。


「み……や、さま」


 虫の羽音のようにかすかな声が耳をそよぐ。沙那のにこやかな表情に、八条宮はどきっとした。



 ――俺の夢を見ているのか?



 沙那の顔は、目を閉じていても世のわずらわしさを霧散してくれるような愛嬌に満ちている。八条宮は、ふっと気の抜けた笑いを漏らして沙那の頭をそっとなでた。


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