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内裏では今宵、麗景殿女御が中殿に召されていた。即位から丸二年を経過して、いまだ帝は御子に恵まれていない。東宮時代に入内した弘徽殿女御ばかりに目をかけておられたが、さっぱり兆しすらないまま年月だけが過ぎてしまった。
「ねぇ、命婦。万良しの月は格別ね」
廂の間から空をあおいで、凛子が美しい顔に笑みを浮かべる。その横顔は、月に照らされて輝く太陽そのもの。この世に類なき美しさだ。
凛子は、はらりと優雅に檜扇を広げて命婦をすぐそばに呼びつけた。
「八条院に椿餅は届けたの?」
「はい。おおせのとおり、婚礼前日にお届けいたしました。帝と女御様から初夜の御祝いだと家令に直接お渡ししてございます」
「そう。大納言の姫君は、わたくしの椿餅をお気に召してくださったかしら」
「もちろん、お喜びになられたでしょう」
嬉々として答える命婦には、凛子の真意は伝わらなかったようだ。まさか自分が昨日八条院へ届けた祝いの菓子に呪詛がかけられ、毒が入っていたとは思いもしないのだから。
凛子は、天の月に向かってうっとりと目を細めると、「暑し」とため息交じりにつぶやいて、ゆっくりと檜扇を前後に動かした。髪がそよぐかそよがないかの絶妙な加減で、暑気を祓うようにゆるりと顔を扇ぐ。
初夜の祝いとは、我ながらよくぞ思いついたものよと感心する。弟宮の婚姻を心から喜ぶ帝の名を添えれば、疑われる心配もなく大納言の姫に菓子を届けられる。そして初夜の祝いは夕餉かそのあと、床入り前に必ず御前に出されるはずだ。
あの程度の量では、命を奪えないのは百も承知。
目的はそれではないから、別にかまわない。病弱な夏姫ならいざ知らず、昨日まで健やかだったであろう大納言の姫を病死で片づけるのは無理がある。
ただ、今宵大納言の姫の身に何事かあれば、月宮は椿餅を辿って必ずわたくしに会いに来る。
――必ず。
皇家と深い繋がりを持つ摂関家の一姫として、生まれたときから宝玉のように大事に大事に扱われてきた。帝の妃となって、いずれは国母に……。そうなるためにこの身は生を受け、現世を生きている。
――わたくしの運命は、なにひとつ間違ってはいない。
誤っているのは、帝位に就いた御方のほうだ。先帝は、月宮こそを東宮にと願っておられたのではなかったのか。そう聞いたから、入内の話があった折に快い返事をしたというのに、東宮に立ったのは月宮ではなく日宮だった。
帝は、決して悪い御方ではない。
むしろ、温厚で真面目で、非の打ち所のない大変優れた御方である。あのような御方の妃となれたのは、神仏に感謝すべき至福であろう。
けれど華がなく、退屈で、どのような優しさも甘い言葉もこの胸には響かない。ほかの妃と同衾なさっても、子を授からねばそれでいいと思うだけで、嫉妬のしの字も心に感じない。
凛子は、ほぅっと息をついて何気なく命婦を見た。
命婦をそばに置くようになって、五年の歳月が流れた。特別に信頼しているかといえば、そうではない。しかし凛子は、式部卿宮家より引き取ってから誠心誠意、真心を尽くしてくれる命婦に目をかけている。
命婦はもう二十五。盛りをとっくに過ぎてしまったけれど、礼儀正しくおしとやかで顔立ちも悪くない。そろそろ宮中での職を解いて、相応の公達と縁を結んでやってもいいと思っている。正室にはなれなくても、弘徽殿女御の最も近くに仕えた身を粗末に扱う者はいないだろう。
「命婦」
「はい、女御様」
「心に留めた人はいないの?」
「心に留めた人でございますか?」
「そうよ。恋のお相手」
「……い、いいえ。そのような御方は」
「わたくしが禁じていたのだもの、当然よね」
凛子がにこりと笑うと、燈籠の明かりの下で命婦が困惑したような表情をした。からかわないでくださいませ、と命婦が消え入りそうな声で抗議する。そのとき、夏の夜風がふわりと命婦の黒髪をそよいだ。
「命婦、それはどうしたの?」
凛子が、檜扇を閉じてその先端を命婦の首筋に当てる。そして、首をかしげて命婦の黒髪をそろりと檜扇でのけた。虫に刺されたように赤くなった皮膚。凛子がそれを食い入るように見れば、命婦の喉がごくりと大きく上下する。
「む、虫にかまれたのです」
「いつのこと?」
「……っ。二、三日になりましょうか」
「おかしいわね。あなたが外に出たのは昨日、八条院へ使いに行ったときだけのはず……。弘徽殿に虫がまぎれ込んでいるのかしら。まぁ、よいわ。刺されたのはここだけなの?」
「はい」
「夏虫は毒が強いというから、痕が残らないようにわたくしが薬をぬってあげる。わたくしの薬箱から薬を取っておいで」
「いえ、女御様。恐れ多うございます。ほかの者に頼みます」
「よいのよ、命婦。早く持っていらっしゃい」
凛子は再び月に視線を戻して、はたと思いあたる。三日前、弘徽殿の庭で八条宮と会ったのを思い出したのだ。
