第12話 名ばかり妻




 規則正しい寝息の合間に、時折、沙那がむにゃむにゃと口を小さく動かす。八条宮は、寄り添うように沙那の隣で腕を枕にして横になった。

 この世に於いて、死は最たるけがれ。

 親王の元服という晴れの門出を死で穢した夏は、宮家の姫であるにもかかわらず葬儀の一切を禁じられて、都の外れにあるさびれた寺の裏山に埋葬された。そして今もひとり、荒れた冷たい土の下に眠っている。

 荼毘だびにふすも許されなかった体が土に還るには、どれほどの歳月を要するのだろうか。きっと、生きた年月としつきよりも遥かに長くかかるのだろう。


 もしも夏が生きていて、描いた通りの未来いまがあったなら。


 戻れない過ぎ去りし日に詮無い考えを巡らせては、当然訪れたであろう幸せな日々を想像し、絶望し、仕舞いに夏の死を受け入れる。あの時一生分の涙を流したから、涙はもう一滴も出ない。だが、夏を思い出した数だけ心の中で夏が死に、その度に言葉に言い尽くせない悲しみと無念が鋭利に心を切り刻む。


 空がけ色に染まった夜に生まれたのは、月読尊ツクヨミノミコトの権化などではない。禍々しい魔を生み、災厄をもたらす異形の厄神だ。


 大きな欠伸あくびをしたナギの首元で、鈴がちりちりと曇った音を立てる。ナギは忍び足の達猫・・で、いつも足音と気配を消して人に近付く。だから、沙那がいつかの夜みたいに驚いて怪我をしないようにとナギに鈴をつけた。

 沙那の傍がよほど居心地良のか、ナギは丸めた腹部に顔を埋めてそれきりぴくりとも動かなくなった。


「……みやさま」


 不意に、虫の羽音のようにかすかな声が耳をそよぐ。和らいだ沙那の表情に、一瞬、どきりとした。


 ――俺の夢を見ているのか?


 沙那の顔は、目を閉じていても世の煩わしさを霧散してくれるような愛嬌に満ちている。八条宮は、ふっと気の抜けた笑いを漏らして沙那の頭をそっと撫でると、沙那と自分の頭を同じ高さに並べて目を閉じた。





❖◇





 沙那は、微睡まどろむように何度か瞬きを繰り返して、ごろんと体を右へ反転させた。そして、二度三度寝ぼけ眼をぱちくりさせて、驚きに目を大きくぱっちり見開いた。すぐそこに、八条宮が横たわってこちらをじっと見ていたのだ。しかも、目線の高さが同じでまつげの一本一本がはっきりと見えるほど距離が近い。


「……おはよう、ございます」
「おはよう、沙那。もう昼だけれどね」


 低音が耳の奥をくすぐって、長い指が横髪をさらりとすくう。
 うっ、まぶしさに目がくらむ。昼の明るさじゃなくて、依言様がまぶしい! 乱れた御髪がなんとも色っぽくて……、寝起きから心臓が壊れちゃいそう。これぞ、眼福!


「体の具合はどう?」
「……具合、ですか?」


 ええっと。
 昨夜は確か、待ちに待った依言様との初夜だった。極度の緊張と依言様から発せられる強烈な色気に耐えながら、あれしてこれして発育不良の胸を思いっきり見られた……ところまでしか記憶が無い。息が苦しくなって、それからどうしっちゃったんだろう、わたし。




 ひっ……。


 やだ、もしかして……。


 もしかしなくても……、妻になり損ねた……?!


 顔面から血の気が引くのを感じながら、沙那は体に掛けられた紗の衣をそそっと持ち上げて自分の下半身を確認した。床入りの前に着用した真新しい絹の夜着をまとった体には、乱れも違和感も無い。何も、無い!

 初めての時はあの場所が痛むものだと聞いたのに、いつもと全然変わらない。という事は、確実にわたしはまだ、お……と、め……。


 がくっ。
 依言様、悲しきかな体の具合はすこぶる良好です。


「どこか悪いの?」


 青ざめた沙那を心配した八条宮が、体を起こして小梅を近くに呼ぶ。そして、急いで玄幽をここへ連れて来るよう申しつけて、昨夜と同じように沙那を抱き起してその御胸に収めた。


 きゅん。


 心臓が収縮する痛みに、沙那が左胸を押さえる。ちゃんと夫婦になれなかったのに、何だか丁重に扱われているような……。どうしよう、どんどん好きになっちゃう。


「胸が痛むのか?」
「……はい」

「やはり、まだ油断ならないな。少し待て。すぐに薬師くすしが参る」
「薬師……? あ、いえ。これは、薬では治らない気がします」

「なぜ、そう思うの?」


 なぜって……。
 八条宮があまりにも神妙な顔をして見つめてくるので、さすがの沙那も「ときめきが」などとは言えず、肩をすくめてごにょごにょと口ごもる。
 どうした、と八条宮が怪訝な顔をしたところで、白髪の爺様がそろりそりろりと部屋に入って来た。

 驚く沙那に、あの御仁は類なき名医だとだけ説明して、八条宮が玄幽に胸が痛むらしいから早く診てくれと催促する。玄幽はやれやれと苦笑いして、八条宮に抱かれた沙那の体を丁寧に診察した。


「ふむ、良い良い。薬を煎じるゆえ、それを飲んで明日まで大人しく寝ておりなされ。どうせ、立つ力は無いはずじゃ」

「胸が痛むと言っているのだぞ、玄幽。本当に」
「宮様は、儂の腕に信頼あって呼んだのであろう?」

「そうだが」


 玄幽が、すすけた山吹色の狩衣から出た枯れ枝のように細い腕を忙しく動かす。木箱から練り薬を取り出したかと思えばそれを沙那の首の傷に塗り、次に乾燥した草と粉を出してすり鉢でごりごりと擦る。見た目は呆けたような老人なのに、手際の良さには目を見張るものがある。


「あの、依言様」


 沙那が、視線を玄幽から八条宮の顔へと移す。なに? と言うように八条宮の片眉が上がった。


「わたしは、病なのですか?」
「病というか……」


 八条宮が答えに詰まると、玄幽が薬草を擦りながら「これ、北の方」と回答を請け負った。


「心配は要らぬよ。ただの食あたりじゃ。夜に食い意地を張るから、かような目にあう」
「しょ……、食あたり……?」
「しかし、なかなか美味じゃったの。あの餅は」


 沙那は、八条宮が部屋を訪れた時に鳩尾みぞおちの辺りが気持ち悪かったのを思い出した。やっぱり、あの椿餅つばいもちを食べたのがいけなかったんだわ。食あたりで初夜お預けだなんて、恥ずかしい……。

 しばらくして、玄幽が擦った薬草を湯に溶いて沙那に手渡した。茶杯の中の湯は少し黄色味がかっていて、湯気からは柑橘が香る。沙那は、ふぅっと息を吹きかけながら、苦い薬湯を少しずつ口に流し込んだ。

 沙那が薬湯を飲み干すのを待って、玄幽が八条宮に大事な話があると言った。沙那をしとねにおろした八条宮は、玄幽と共に部屋を出て行った。
 涼しげな鈴の音がして、近付いて来たナギが沙那の頬に顔をすりすりする。毛並みの気持ち良さに眠気が誘発されて、沙那はことりと眠りに落ちてしまった。

 北の対屋を出た八条宮と玄幽は、主寝殿の御座おましで向かい合った。
 まだ建築から年月が経っていない八条院の丸柱は、夏のしっとりとした熱気の中に白木の甘い香りを染み込ませて、御座の華やぎに慎ましさをひとつ添えている。

 八条宮が元服の儀を終えた夜、無垢な白い装束に身を包んだ常陸宮家の夏姫は、内裏の奥にある淑景舎しげいしゃでお勤めの刻を待っていた。
 元から体が丈夫ではなかった夏姫は、特段不調は無かったものの念のため当時典薬頭てんやくのかみを務めていた玄幽に脈を診てもらったという。緊張で少し脈は乱れていたが、大きな問題は無かったと玄幽は証言したし典薬寮の記録にもそう書いてある。しかし、玄幽が淑景舎を出てわずか半時後に悲劇は起こった。


「今後、北の方が口になさる物には、気を付けた方が良いかもしれませぬなぁ」
「憶測で滅多な事を申すなよ、玄幽。あの椿餅が原因なら、俺は内裏へ赴かなければならない」

「ほぉ……、帝から賜った菓子であったか。道理で美味なはずじゃ」
主上おかみがご存じかどうか定かではないが、弘徽殿から届けられたのは確かだ」

 弘徽殿と言えば右大臣の一姫いちのひめか、と玄幽の目が一瞬細くなる。八条宮の元服より半年前に、今上帝は東宮となった。夏姫の遺体が荷車に乗せられてむしろを被った時、東宮に入内していた右大臣の一姫が淑景舎の廊下でさめざめと泣いていたのを玄幽ははっきりと覚えていた。


「儂に知らぬ毒は無い。ごく少量であったのか……、たいして効いておらぬようだが、あれは一位イチイの毒じゃ」
「一位とは、生垣の一位か?」

「左様。実は甘いが、種に毒があっての。食えば体が震えて呼吸が苦しくなる。さりとて、誤って種が餅に混ざったとは考え難し。種のまま入っていれば口に入れて噛んだ時に気付くゆえ、粉にして意図的に混ぜたと考えるが自然であろう。どういった意図かまでは分からぬがの」

「なぜ、あの餅に一位が混ざっていると分かった?」
「持ち帰った餅を食うたからじゃ。美味かったが、手が痺れて息が切れた」

 ほほほ、と笑う玄幽に、八条宮は「さすが玄幽だな」と呆れたように笑い返した。
 それから玄幽は、毎日八条院を訪れた。玄幽の丁寧な治療の甲斐あって、沙那はすっかり元気になり、喉の傷も十日後には赤みが引いて目立たなくなった。

 さて、今度こそ初夜の成功を! と意気込む沙那であったが、傷が癒えると同時に今度は月の障りに見舞われた挙句、物忌みなどが続いて、夫婦の契りを交わせないまま婚儀からひと月近くが経ってしまった。


「では、行って来る」


 御所へ行くためにばりっと正装に身を包んだ八条宮を見送って、沙那はしゅんと肩を落とす。
 どうしよう……。一線を越えないまま、依言様の御休みが終わってしまった。これじゃ、浮気されても文句言えないわよね。八条院の外には、にわかファンたちがうじゃうじゃひしめいているのに……。


 くっ……。


 ――憎し、椿餅っ!!(美味しかったけど)


 さわりと庭から吹き抜ける風が、にわかに秋の気配を運んで来る。その夜、沙那は夜半過ぎまで起きて待っていたが、いつまでたっても八条宮は帰って来なかった。


   

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