第11話 二人の婚礼(3)




 帳があがったままになっているので、御帳台には照明の光が薄く差し込んでいる。文字を読むには少々暗く感じるが、相手の仕草や表情をうかがうには十分な明るさだ。

 沙那が、律儀に正座をして居住まいを正す。八条宮は、沙那と向き合って同じように正座をすると、しばらく黙って沙那の様子をながめた。

 目が上下左右にせわしなく動いているが、一度もこちらの視線とは嚙み合わない。それに、肩がすくんで、ただでさえ小柄な体がすっかり縮こまってしまっている。

 好きだ、妻になりたい。その一心で、待ち伏せなどと誰も考えつかないような破天荒なことをやってのけたくせに、いつもの勢いはどこへ行ってしまったのか。しかも、胸がぺったんこだなんて、別にわざわざ告白するほどのことでもないのに。


「あ、あの……、依言様?」


 沈黙に耐え切れなくなったのか、沙那のつぶらな瞳が不安げに八条宮を向く。
 八条宮は、思わず笑い声を漏らしそうになって咄嗟に袿の袖で口をおさえた。それに気づいた沙那が、いつかの夜のようにぷくっと頬を膨らませて上目に睨む。


「ひどい。わたしの切実な悩みを笑いましたね?」
「違うよ」

「では、なにがそんなにおかしいのですか?」
「あなたが、かわいらしいから」

「はぐらかさないでくださいっ!」
「本当だよ、沙那。何事も、慎ましいのはいいことだと教わらなかった?」

「おっ、教わりましたけれど、それと胸の大きさとは別の話です。うん、絶対に違うと断言できます」

「そうだろうか」


 会話をしながら、八条宮が沙那の袿を脱がす。緊張のあまり、がちがちに硬くなった体を抱き寄せられて沙那の瞳が大きく揺れた。あっという間にお尻が八条宮の膝の上に乗っかって、背を左腕一本で支えられた状態ですっぽりと懐に閉じ込められる。

 夜這い能力スキル云々ではなくて、本当に月読尊の権化で神通力を操っておられるのではないかしら。そう思わずにはいられない早業だ。

 沙那がじっとして八条宮の腕の中で胸をどきどきさせていると、精緻な顔が視界からはみ出てしまうほど接近してきた。八条宮の耳にかけられた白銀の髪が、はらりと一房落ちて沙那の顔に影を落とす。

 その瞬間、甘さよりも爽やかさが勝る品のいいお香の香りが鼻腔の奥で弾けた。ああ、いい香り。依言様は、香りまで優雅で美しい……。



 ――どうか、これからはほかの香りを移して来ないで。



 琥珀色の瞳がわたしだけを映して、低い声がわたしだけに好きだよと囁いてくださる日は来るのかしら。妻になれたのは奇跡なのだから、多くを望んではいけないと分かっているの。



 けれど、その日を切に夢見ている。



 たとえその日が来ないとしても、わたしは命ある限り依言様だけをお慕いするし、思いを言葉で伝え続ける。だからもし、わたしの欠点を見つけても嫌いにだけはならないでほしい。依言様に嫌われたら心が壊れて、きっとわたしは生きていけないから。


「沙那?」
「好きです、依言様。本当に……、大好き」

「知っている、もう十分にね」


 八条宮の長い指が、沙那の紅潮した頬に触れる。指がつつっと肌をなぞるように顔の輪郭に沿って下に移動して、小さな顎をくいっと持ちあげた。

 ぎゅっと目をつむった沙那の唇に、ふわりと八条宮の唇が重なる。
 あ、椿餅のように柔らかな感触。そう思うと、少しだけ体の緊張がとけた。けれど、心臓は規則性のない強い鼓動を打ち続けていて、背を抱く依言様の腕にもそれが伝わっているのだろうと思うと、やっぱり恥ずかしくて正気を失ってしまいそう。


「……ん、っ」


 上下の唇を順についばむように軽く吸われて少し開いた沙那の唇を、八条宮が舌先で舐めて覆うように深くくちづける。

 しっとりと湿った二人の境界で吐息が幾重にも重なって、体温よりも心地いい温度が唇から全身に広がっていく。


「はぁ……っ」


 いつも鼻で息をしているくせに、口をふさがれるとどこから空気を吸えばいいのか分からなくなるのはなぜだろう。窒息にも似た苦しさを感じて息継ぎをしようとすると、舌を差し込まれた。

 喘ぐようになんとか息をしながら、ぎゅっと両手でこぶしを握ってされるがまま身を任せる。舌先で舌の裏側をくすぐられて、沙那はたまらず小さな声を漏らした。


「……ふ、っ……んっ」


 一瞬だけ唇が離れて、何度かついばんで、すぐにまたくっつく。生まれて初めてのくちづけは、苦しくて、柔らかくて、あたたかくて、頭がじんわりしびれるように気持ちがよくて、とっても不思議だった。

 再び舌が潜り込んできて、口内を舐めまわされる。呼吸が、うまくできない。息があがって、沙那が八条宮の胸を手で押すと、ちゅっと小さな音がして唇からさっと熱が引いた。目覚めを促すように指先で横髪を梳かれて、ゆっくり目を開けると琥珀色の双眸がじっとこちらを見ていた。


「大丈夫?」


 沙那は、小さく頷いて返事をする。褥の上に仰向けに寝かされて、夜着の腰紐がしゅるっと絹の擦れる独特な音を立てた。鎮まりつつあった緊張感が、波打つように再び高まっていく。



 ――体が熱い。



 沙那は喉が閉まるような息苦しさを感じて、大きく深呼吸したあと、浅い呼吸を数回繰り返す。


「怖いの?」


 沙那の夜着をゆるめながら、八条宮が優しく尋ねる。怖くはない、そう答えようとしたけれど、喉がひりひりと焼きついて声が出ない。沙那は、声の代わりに八条宮に向かって左手を伸ばした。



 ――なんだか、体が変。



 小刻みに震える沙那の手を握って、八条宮が慰めるようにくちづけを落とす。沙那から恐怖を取り除こうとするくちづけは、先程よりも少し荒いものだった。隙間なくぴたりと唇で覆われて、舌が絡まって、息を奪うように強く吸われる。


「ふ……あ……ッ」


 口からあふれそうになった唾液を飲み下すと、のどの焼けつきが嘘のように治まっておかしな声が出てしまった。また、ちゅっと音がして唇が離れる。乱れた息を必死に整えていると、次は震える手に八条宮の唇が触れた。


「無理強いするのは好きではない。怖いのなら、今宵はここでやめよう」

「いいえ、依言様ですもの。怖くはありません。ただ、どうしていいのか分からなくて。初めてだから、その、緊張だってしています」

「あなたはなにもしなくていいし、考える必要もないよ」

「はい、依言様」
「素直でよろしい」

 いつも涼しい顔が優しくほほむと、それだけで安心できるから不思議。
 するりと八条宮の手をすり抜けて、沙那の左手が褥の上にぱさりと落ちる。ぴくりぴくりと奇妙に震える手で褥に敷かれた真っ白い布をつかむと、夜着の前合わせを一気に開かれた。その瞬間に、ぎゃっと沙那の心臓が大音量で叫ぶ。

 子供のころからまったく成長しなかった胸を、とうとう大好きな人に見られてしまった。母上の胸はどちらかというとふくよかだったから、父上に似ちゃったのね。



 ――ああ、涙が出ちゃう。



 沙那の嘆きをよそに、八条宮が着ていた青い袿を脱ぎ捨てて自身の腰紐を解く。ゆるんだ衿の合わせから覗く、くっきりと浮き出た太い鎖骨と筋肉質な胸元。視線をはずしたくても、目が言うことを聞いてくれない。それどころか、ここぞとばかりに凝視してしまう。だって、好きな人の生肌だものっ!

 沙那の目が鎖骨と胸の筋肉に釘づけになっている間に、八条宮が覆いかぶさってきた。かろうじて袖だけが通された夜着にはもはやなんの意味もなく、二人の上半身が直に触れ合う。


「沙那」


 耳元で低い声が囁いて、大きな手が首元から胸の肌をなでる。考える必要はないと言われたけれど、最初からなにかを考える余裕なんて全然ない。ただ、されること全てが気持ちよくて、くちづけされたときと同じようにふわふわと意識が浮遊し始める。

 額と頬をついばまれて、沙那がくすぐったいとはにかむ。すると、肌をなでていた八条宮の手が、胸のつんとした尖りをかすめて、指先が小さなふくらみに食い込んだ。


「……あっ」


 また体が熱くなってきた。喉もひりひりと焼ける。手が痙攣して、みぞおちの辺りがきりきりとした痛みに襲われる。変だわ。



 ――本当に、体が変。



 沙那が、ひゅうっと息が止まるような呼吸をする。異変に気づいた八条宮が体を起こして沙那の表情をうかがった。


「沙那?」


 目を閉じた沙那の眉間にはしわが寄り、頬は火照っているのに触ると氷のように冷たい。瑞々しく赤みがかっていた唇も、からからに乾いてすっかり色を失ってしまっている。


「どうした、沙那」
「よ……、さま、く……る、し……」


 沙那が、苦悶の表情で声を詰まらせて喉元をかきむしる。


「沙那!」


 八条宮は、夜着の前を合わせて腰紐で雑に留めると、急いで御帳台を飛び出した。几帳を押しのけ、妻戸を荒々しく開けて大声で人を呼ぶ。真っ先に駆けつけたのは、小梅と左近だった。左近を東市の先に住む薬師の邸へ走らせ、小梅に北の対屋の女房を叩き起こして湯を沸かすよう命じる。

 御帳台に戻ると、沙那は仰向けのまま目を閉じて、短く浅い呼吸に肩を大きく上下させていた。


「沙那」


 名前を呼んでも反応がない。
 沙那の夜着を整えて、体をあたためるように小さな体を懐に横抱きして蘇芳の袿でくるむ。よほど苦しかったのだろう。沙那の喉を見ると、かきむしった痕が真っ赤な傷になっていた。それにそっと指先で触れて、沙那をきつく抱きしめる。

 開けっ放しの妻戸の方から鈴の音がして、ナギが勢いよく駆けてきた。沙那の足元にちょこんと座ったナギが「みゃぁ」と小さく鳴いた。