第11話 椿餅と杜若




 もちろん、お喜びになられたでしょう。
 そう嬉々として答える命婦には、凛子の真意は伝わらなかったようだ。まさか自分が昨日八条院へ届けた祝いの菓子に呪詛が掛けられ、毒が入っていたとは思いもしないのだろう。当たり前だ。命婦は、今上帝と女御から八条宮の正妻となる姫君への祝いだと聞いているのだから、疑いようがない。

 凛子は、天の月に向かってうっとりと目を細めると、「暑し」とため息交じりにつぶやいて、ゆっくりと檜扇を前後に動かした。髪がそよぐかそよがないかの絶妙な加減で、暑気を祓うようにゆるりと顔を扇ぐ。

 初夜の祝いとは、我ながらよくぞ思いついたものよと感心する。弟宮の婚姻を心から喜ぶ主上おかみの名を添えれば、疑われる事無く大納言の姫のもとへ椿餅つばいもちを届けられる。そして初夜の祝いは、夕餉の時かその後、床入り前に必ず御前に出されるはずだ。

 あの程度の量では、命を奪えないのは百も承知。目的はそれではないから、別に構わない。病弱な夏姫ならいざ知らず、昨日まで健やかだったであろう大納言の姫を病死で片付けるのは無理がある。ただ今宵、大納言の姫の身に何事かあれば、月宮つきのみやは椿餅を辿って必ずわたくしに会いに来る。必ず――。

 皇家と深い繋がりを持つ摂関家の一姫いちのひめとして、生まれた時から宝玉のように大事に大事に扱われてきた。帝の妃となって、いずれは国母に……。そうなるためにこの身は生を受け、現世うつしよを生きている。


 ――わたくしの運命さだめは、何ひとつ間違ってはいない。


 誤っているのは、帝位に就いた御方の方だ。先帝は、月宮こそを東宮にと願っておられたのではなかったのか。そう聞いたから、入内の話があった折にも快い返事をしたというのに、東宮に立ったのはその兄宮様だった。

 帝は、決して悪い御方ではない。むしろ、温厚で真面目で、非の打ち所のない大変優れた御方である。あのような御方の妃となれたのは、神仏に感謝すべき至福であろう。
 けれど華が無く、退屈で、どのような優しさも甘い言葉もこの胸には響かない。他の妃と同衾なさっても、子を授からねばそれで良いと思うだけで、嫉妬のしの字も心に感じない。

 凛子は、ほぅっと息をついて何気なく命婦を見た。
 命婦をそばにい置くようになって、じき五年の歳月が流れる。特別に信頼しているかと言えば、そうではない。しかし凛子は、常陸宮家より引き取ってから誠心誠意、真心を尽くしてくれる命婦に目を掛けている。

 命婦はもう二十五。盛りをとっくに過ぎてしまったけれど、礼儀正しくおしとやかで、顔立ちも悪くない。そろそろ宮中での職を解いて、相応の公達と縁を結んでやってもいいと思っている。正室にはなれなくても、弘徽殿女御の最も近くに仕えた身を粗末に扱う者はいないだろう。


「命婦」
「はい、女御様」

「心に留めた人はいないの?」
「心に留めた人、でございますか?」

「そうよ。恋のお相手」
「……い、いいえ。そのような御方は」

「わたくしが禁じていたのだもの、当然よね」


 凛子がにこりと笑うと、燈籠の明かりの下で命婦が困った顔を赤く染めた。からかわないでくださいませ、と命婦が消え入りそうな声で抗議する。その時、夏の夜風がふわりと命婦の黒髪をそよいだ。


「命婦、それはどうしたの?」


 檜扇を閉じて、その先を命婦の首筋に当てる。そして、首をかしげて命婦の黒髪をそろりと檜扇でのけた。虫に刺されたように赤くなった皮膚。凛子がそれを食い入るように見れば、命婦の喉がごくりと大きく上下する。


「む、虫に……」
「いつの事?」

「に……っ、二、三日になりましょうか」
「おかしいわね。命婦が外に出たのは確か昨日、八条院へ使いに行った時だけのはず……。弘徽殿に虫が紛れ込んでいるのかしら。まぁよいわ、刺されたのはここだけなの?」
「は、はい。お……、恐らく」

「夏虫は毒が強いと言うから、跡が残らないようにわたくしが薬を塗ってあげる。わたくしの薬箱から取って来なさい」

「いえ、女御様。恐れ多うございます。他の者に頼みますので……」
「よいのよ、命婦。早く持っていらっしゃい」





❖◇





 左近に背負われて、八条院の北対屋きたのたいのやに現れたるは、よぼよぼの……もとい、白髪でひょろりと痩せた男だった。男は東市の近くに住む薬師で、名を坂上さかのうえ玄幽げんゆうと言い、もとは典薬寮てんやくりょう典薬頭てんやくのかみを務めていた。内裏に暮らし月宮と呼ばれていた時分、八条宮は幾度も玄幽の世話になった。

 玄幽はだいぶ前に官職を退いて、今は市井の町医者らしい事をやっている。羅城門の外に病で苦しむ民あれば、昼夜問わず駆けつけて無賃で薬を煎じてやる気前のいい御仁だ。そのお陰で、玄幽のすすけた色の狩衣はところどころほつれていて、かつて従五位下の位にあった者とは思えないほどみすぼらしい身なりをしている。だが、当時より少し耳が遠くなった程度で、薬師としての知識と腕は今でも確かで信用できる。


「慌てずとも宜しい。宮様、北の方の身に起きた事を順に教えてくだされ」


 ひと通り沙那を診た玄幽が、湯桶で洗った両手を布で拭きながら八条宮に言った。八条宮が記憶を辿りながら説明すると、次に玄幽は小梅に沙那の普段の様子を詳細に尋ねた。ふむふむと頷いて、時折、皺くちゃの黄ばんだ紙に震えた文字を書く。


「悠長に話を聞いている場合か、玄幽。見てみろ、あのような顔色……、尋常ではない。こうしている間に、沙那は死んでしまうのではないか?」

「宮様は、黙ってそこに座っていなされ。ところで女房殿、北の方が生来健康そのものであるとは間違いござらぬか?」
「はい。物心つく前から、恐れ多くも姉妹のように育ちましたが、姫様が病など……。一度もございませんでした」

「となれば、悪い物を口にしたか……」
「悪い物と申されましても、今日は姫様と同じものを宮様も食されたのです」

「ふむ……。床に入るまで変わりは無かったというのも間違いござらぬか?」
「はい。至っていつも通りで、美味しそうに椿餅を召し上がっておられました」
「……ほお、夏に椿餅とは珍しいですなぁ。その椿餅は、宮様もお食べに?」


 八条宮が、玄幽に向かって首を横に振る。すると、小梅が椿餅の載った黒い盆を「こちらです」と玄幽に差し出した。盆には、白くつやつやとしていかにも美味しそうな姿をした、葉に包まれていない裸の丸い餅がふたつ並んでいた。
 沙那の足元でくつろいでいたナギが、伸びをしてちりちりと鈴をならしながら盆に近付く。そして椿餅を嗅ぐと、小さな桃色の舌で鼻の頭をぺろりと舐めて「みゃぁ」と鳴いた。


「体の震えと息苦しさ……、か」


 白髭の生えたあごに手を当てて、玄幽が神妙な顔で考え込む。それから椿餅をひとつ手に取って半分に割ると、顔を近付けて色や臭いを丹念に観察した。しかし、特に変わった所は見当たらない。
 玄幽は椿餅を盆に戻して、持って来た木箱から乾燥した薬草と小さなすり鉢を取り出した。それをすりこ木でごりごりとすり潰して、女房が沸かした湯で溶く。


「宮様。薬湯を飲ませますゆえ、北の方の体を起こしてくだされ」
「わかった」


 枕とうなじの隙間に腕を通して、青白い顔で横たわる沙那の体を起こす。ただ静かに息をしているだけの脱力した体の重みがずっしりと腕にのしかかると、八条宮は沙那を胸に抱き寄せて小梅に目配せした。
 小梅が布を沙那の胸元に広げて、玄幽から受け取った薬湯を匙ですくう。そして、乾いた唇にそっと匙を当ててゆっくりと傾ける。その瞬間、沙那の眉間がぴくりとわずかに動いた。


「玄幽。沙那は本当に大丈夫なのか?」
「二、三日寝込むでしょうが、わしの言った通りに薬湯を飲めば大事には至らぬ。明日もまた、具合を見に参りましょう」
「そうしてくれ。そうだ、玄幽。喉の掻き傷に効く薬は無いか? 跡が残ってはかわいそうだ」
「明日、調合した薬をお持ち致そう」
「頼む」
「むせる様子も無し、その調子でゆっくりと飲ませて差し上げなされ。どれ、その旨そうな餅をいただいて、今宵は失礼仕ろうかの」


 先ほど割った椿餅を懐紙に包んで、玄幽が木箱を手に立ち上がる。
 八条宮は、左近に玄幽を邸まで送るよう申し付けて、腕の中に視線を落とした。沙那の青みがかった白肌と喉の引っ搔き傷が、否が応でも五年前の出来事を呼び起こす。夏姫の喉にも、獣の爪で引っ掻かれたかのような痛々しい傷がくっきりと残っていた。


「八条宮様」


 小梅が、薬湯を飲ませ終わったと声を掛けた。沙那の顔色は変わらずだが、今は藁をもつかむ思いで玄幽を信じて明日を待つしかない。八条宮は、盆の上に残った椿餅をじっと見た。椿の季節に作る菓子を、わざわざ夏に出すような変わり者は八条院にはいない。


「沙那が食べた椿餅は、大納言家から持参したの?」
「いいえ、こちらに用意してございました。八条院の女房方が姫様にお気遣いくださったのだろうと……」


 小梅が困った顔をすると、控えていた北対屋の女房のひとりが「あの」と口を挟んだ。女房はずいずいと膝を進めて前に出ると、盆に乗せたのは自分だと言った。


「御所から初夜の祝いが届いたのです。それで、床入りの前にお出ししなくてはと思いまして」
「御所というのは、主上からという意味か?」
「いえ、宮様。帝と弘徽殿女御様からと伺いました」


 弘徽殿の名に、八条宮は顔をしかめる。弘徽殿は兄宮の寵姫ではあるが、主上と名を連ねて品を送る身分にない。祝いを贈るほど、沙那と特別な親交があるとも思えない。そこはかとなく、嫌な胸騒ぎがする。


「椿餅が入っていた入れ物をここへ持て」


 八条宮が命じると、その女房はすぐに棚から朱塗りの箱を取って来た。八条宮は、箱の蓋に描かれた杜若かきつばたに背筋がぞわりとするのを感じた。杜若は、恋しい気持ちを込めた歌によく使われる花だ。そして、高貴な紫色の花弁が似合うと、主上が弘徽殿女御にお与えになったしるしでもある。


「皆、もう下がってよい。今宵の事は、騒ぎ立てず口外しないように」


 女房たちが、心配そうな視線を沙那に向けながら部屋を出て行く。いつまでも傍を離れようとしない小梅をなだめて、八条宮は沙那を床に寝かせた。小梅が退出すると、部屋には八条宮と沙那、ナギだけになった。
 沙那にくっついて体を丸めたナギが、「みゃあ」と甘えるような声を出した。


「大丈夫だよ、ナギ。沙那は眠っているだけだ」


 沙那の頬に手を当てると、冷たかった肌はいくらか体温を取り戻していた。ほっとすると同時に、沙那のいろんな顔や言葉が頭をよぎって、強張っていた八条宮の表情がほぐれる。

 沙那と同じように、俺も必死に恋をしていた。
 妻に望むのはただひとり。東宮になって何人もの妃を持つのは嫌だと言った時、父上はとても悲しそうな顔をなされた。しかし最後には、俺の願いを聞き入れて常陸宮家の夏姫を添臥そいぶしに選んでくださった。


   

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