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第10話 二人の婚礼(2)




 ❖◇❖


 正一品の親王である八条宮の結婚は、そこいらの貴族のそれとは全く異なるものだ。三夜続けて妻の邸に通うこともないし、三日夜の餅を共に食すこともない。内裏に入内するのと同じように三献の儀を厳かに執り行ったのち、共寝して婚儀とす。

 主寝殿の御座で二人が三献酌み交わした神酒は、先帝が直々に神々へ祈りを捧げてお寄越しになられたものだった。

 先帝は、譲位後に八条宮の生母である藤壺女御を連れて御所を出て、今は左京の小高い山に庵を結んでひっそりとお暮しになっている。

 八条宮が先帝の庵を訪ねたのは、婚姻の申し入れからわずか三日後のことだった。八条宮が大納言家の姫を正妻にすると伝えると、先帝は帝とそっくりな優しい目元にしわを寄せて「大変よろしい」と穏やかに頷かれた。

 長く近侍した沙那の父と先帝には若いころからの縁があり、二人の間には勤めや身分を超えた絆がある。先帝は、帝位にあったころも今も、愚直で誠実な大納言に絶対の信頼を寄せておいでだ。

 八条宮は、向かい合って座る沙那を見た。
 乳臭いガキだという噂は、右大臣の息子に言われるずっと前から小耳に挟んでいた。しかし、噂があるばかりで、公達たちの恋の話に沙那が出てきたことは一度もなく、誰もその姿を知る者はいなかった。

 噂の効力とは恐ろしいもので、皆「乳臭いガキ」を敬遠して手を出さなかったのだろう。だから、初めて八条院の前で待ち伏せされた夜に、怪しい者ではない、二条の大納言の娘だと言われて正直驚いた。


「宮様。ナギは女の子ですか?」


 沙那が、首に下げた鈴を鳴らしながらすり寄るナギを膝に乗せて黒い毛並みをなでている。ナギはすっかり沙那を気に入った様子で、なされるがまま「みゃぁ」と三日月のように目を細めて身を任せていた。

 宮中で俺を見初めたのだと、沙那は言った。だが、大納言が宮中に娘を連れて来ていたとは知らなかった。年頃の娘がいれば、普通はそれなりに匂わすものなのに……。大納言はなぜ、沙那を後生大事に隠すような真似をしていたのだろうか。


「宮様?」


 ナギの鈴と沙那の宝冠の垂れ飾りの音が、風鈴のように涼しげな和音を奏でる。八条宮は、沙那のすぐ隣に座り直してナギをさらった。


「どうして雌だと思うの?」
「鈴の紐が赤いからです」
「ナギは雄だよ。体が真っ黒だから、目立つように赤を選んだんだ」
「そうでしたか」


 沙那が、バツの悪そうな顔をする。
 八条宮は、ナギを沙那の膝に戻して顔を覗き込んだ。額を隠すように眉の辺りで切りそろえられた前髪のせいで幼く見えるのは確かだが、乳臭くはないしガキでもない。いかにも朗らかな、かわいらしい顔立ちをしていると思う。


「沙那」
「はい、宮様」
「俺を宮様と呼ぶのは、もうやめないか?」
「でも、宮様は宮様ですよ」
「他人ならそうだが、あなたは俺の妻なのだから」


 あ、また宮様の口から「妻」が出た。もっと声高らかに何回も言ってもらいたいけれど、その度に心臓を射抜かれるから困る。沙那は色白の頬をほんのりと染めて、騒ぐ心を落ち着かせるように、膝の上でくつろぐナギを指先でわしゃわしゃとくすぐった。


「では、なんとお呼びすればよろしいですか?」
「俺は、依言という名なんだ」


 知っています! とっくに存じ上げております!
 体中の細胞が、一斉に雄叫びのような大きい歓声をあげる。早速、「依言様」と鼻息荒く呼ぼうとする沙那を、ナギの「にゃぁ」という猫なで声がはばむ。八条宮の優しい表情がナギに向いて、沙那はせっかくのチャンスを逃してしまった。


「北の方様」


 八条院の女房の一人が、そろそろと沙那に近づいて退出を促す。夜の支度をする時間になったようだ。

 今夜は初夜。そう、宮様改め依言様といよいよ一つのお布団で、寝、る! あの雨の夜も結局朝まで宮様にくっついて寝たけれど、今夜は意味も心構えも全然違う。

 沙那は八条宮に向かって深々と一礼すると、女房に先導されて主寝殿から北の対屋へ向かった。北の対屋に仕えるのは、母親と同じ年頃の女房が五人と沙那より少し年上の若い女房が十人ほどだ。気前のいい者ばかりで、小梅もすぐに打ち解けた様子だ。

 北の対屋に用意された祝いの膳を食べ終わると、ようやく重たい十二単から解放された。
 初夜の支度は、婚礼のそれとは違って実にあっさりとしている。

 水に浸した新しいさらしで体を隅々まで清めて、新調された真っ白な絹の夜着に着替える。その上に実家から着てきた婚礼用の蘇芳の袿を羽織って、お香を焚きながらきれいに髪を梳く。あとは女房たちが御帳台に寝具を用意して、背の君のお越しを待てばいい。

 沙那は、少し緊張した面持ちで女房たちが御帳台に床を設える様子をながめた。
 男女の交わりについては、初めて月の障りを迎えたときに一応は教わった。けれども、それについてはさらりと図で示された程度で、閨では逆らわず殿方に身を任せるべしと、心得に重点を置いた講義を受けたに過ぎない。

 逆らう気は毛頭ないけれど、ただ黙って寝床に転がっていればいいのかしら。でもそれだと、人形みたいで嫌じゃないのかなぁ。かといって、なにをどうするかなんて詳しくは知らないし……。

 沙那が初夜についてあれこれ考えを巡らせている間に、御帳台の準備を終えた女房たちが静々と北の対屋を出ていった。

 沙那は、心ここにあらずで菓子置きの盆に手を伸ばす。指先に触れた菓子を手探りで握って、それをかじって奥歯で噛みしめると、甘葛煎あまずらせんのほのかな甘さが口いっぱいに広がった。

 ふと、半分かじった菓子を顔に近づけて凝視する。もちもちとした真っ白な外観に、中に包まれた餡の甘味。二口で食べられそうな大きさのそれは、まぎれもなく冬の名菓、椿餅つばいもちだ。


「ねぇ、小梅」
「いかがなさいました?」

「葉っぱに包まれていないけれど、これって椿餅よね?」
「椿餅? そんなはずは……。椿餅は椿の季節に作る菓子ですから、違うのではありませんか?」

「味が、確かに椿餅よ」
「まだ夏ですのに、不思議ですね。どなたが持って来られたのでしょう?」

「八条院の女房の誰かが気を利かせてくれたのよ、きっと。甘いものって疲れを癒してくれるじゃない?」

「親切でございますね。あとで御礼を申しあげておきます」
「そうしておいて」

「姫様。これから初夜をお迎えになるのですから、食べ過ぎてはなりませんよ」
「分かっているわ。それにしてもこれ、餡子がとても美味しい」

「それはようございましたね。緊張がほぐれますか?」
「う、うん。まぁね」

「では、そろそろ八条宮様をお迎えする準備をいたしましょうか」

 食べかけの椿餅を頬張って、白湯で流し込む。それから一息ついたころ、小梅が水を張った漆塗りの角盥つのだらいを持ってきた。両手を水に浸して顔を洗ったあと、最後に口をすすいで寝支度は完了だ。


「それでは姫様、八条宮様をお待ちくださいませ」
「おやすみ、小梅」


 じっとなさってくださいね、と小梅が念を押して退出する。昼間は通りの喧騒が聞こえていたが、夜ともなれば八条院は静寂に包まれる。

 しんとなにかが張り詰めたような空気に夏虫の鳴き音だけがこだまして、どこか息苦しさを感じるほどだ。思えば、依言様の帰りを待っていた夜も、辺りには人影がなくてとっても静かだったなぁ。

 妻戸が静かに開いて、燭台の明かりがじじっと鈍い音を立てて揺れる。そろそろと衣擦れの音がして、几帳の帷がさらりとなびいた。

 沙那は、視線を床から徐々に上へ上へと向けた。夜着の裾から覗く足とか、着流した袿の夏らしい鮮やかな青色の重ねが、一続きの景色のように視界を流れてゆく。そして、視線が上り詰めた先に八条宮の顔があった。



 ――うわっ!



 もとどりを解いて胸まで垂れた白銀の髪。依言様の色気が、明らかにいつもより増量している! もはや美青年とかそういうレベルじゃない。ど、どうしよう。とてつもなく恥ずかしくなってきた。


「明かりは、消したほうがいい?」


 動揺のあまり、まばたきも忘れて目を丸くする沙那に八条宮が問う。



 ――どうして、依言様は落ち着いていられるの?



 心臓が、どどっどどっと壊れそうなくらい早鐘を打つ。緊張し過ぎて、心なしかみぞおちの辺りが気持ち悪くなってきた。


「沙那、やはり」
「は……、はい。あの、けっ、消していただけるのならそのほうがありがたいです」

「いや、明かりは灯したままがいいね」
「なにっ?」


 じゃあ、なんで聞いたのですか?!
 八条宮としては、暗闇の中で沙那を怖がらせてしまった前科があるから、今日は明かりをつけておくほうがいいと思い改めたに過ぎない。

 おいで、と手を引っ張られて立ち上がると、そのままひょいっと先日のように担がれた。夏物の夜着は薄い。密着した胸や腹に、硬い筋肉の感触が生々しく伝わってくる。同じように、ばくばくとした胸の鼓動が八条宮に伝わっているかと思うと、沙那の左胸はますます不規則でおかしな律動を刻んだ


「みや……、じゃなくて、依言様」
「なに?」

「隠していたわけではないのですが、わたし、むっ……、胸がぺったんこなんです」
「そのようだね」



 ――ぐおっふ。
 乙女の深刻かつ重大な悩みというか秘密を、すさまじい緊張の最中に勇気をふり絞って打ち明けたのに、さらりと受け流すなんて! やはり只者じゃない。

 しかも、なぜかバレちゃってる感じだし。
 乙女の狼狽をよそに、八条宮はすたすたと足早に御帳台に入って、沙那をそろりと褥におろした。


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