第10話 初夜の蟲毒(2)




 とばりのおりていない御帳台には、燦燦と部屋の明かりが差し込んでくる。八条宮の目は、沙那の表情はもちろん髪の艶や瞳の潤い、頬の染まり具合までしっかりと捕らえていた。

 沙那が、律儀に正座をして居住まいを正す。八条宮は、しばらく黙って沙那の様子を眺めると、形の良い唇に笑みを乗せた。

 視線は行き場に困って、上下左右に忙しなく泳いではいるが一度もこちらの視線とは嚙み合わない。それに、肩がすくんで、ただでさえ小柄な体がすっかり縮こまってしまっている。

 好きだ、妻になりたい。その一存だけで、待ち伏せなどと誰も考えつかないような破天荒な事をやってのけたくせに、いつもの勢いは何処へ行ってしまったのか。これでは、その辺のにわかファンの方が積極的でやりやすい。


「あ、あの……、依言様?」


 沈黙に耐え切れなくなったのか、円らな瞳が不安げにこちらを向く。
 八条宮は、思わず笑い声を漏らしそうになって咄嗟に袿の袖で口をおさえた。それに気付いた沙那が、いつかの夜のようにぷくっと頬を膨らませて上目に睨んだ。


「ひどい……。わたしの切実な悩みを笑いましたね?」
「違うよ」

「では、何がそんなに可笑しいのですか?」
「あなたが可愛らしいから」

「はぐらかさないでください……っ!」
「本当だよ、沙那。何事も、慎ましいのは良い事だと教わらなかった?」

「おっ、教わりましたけれど、それと胸の大きさとは別の話です。うん、絶対に違うと思います」
「そうだろうか」


 会話の合間に、するりと蘇芳すおううちきが肩を滑り落ちる。緊張のあまり、がちがちに硬くなった体を引き寄せられて沙那の瞳が大きく揺れた。
 気付けば、次の瞬間にはお尻が八条宮の膝の上に乗っかっていて、背を左腕一本で支えられて、すっぽりと懐に閉じ込められている。


 夜這い能力スキル云々ではなくて、依言様は本当に月読尊ツクヨミノミコトの権化で神通力を操っておられるのではないかしら。
 そう思わずにはいられない早業だ。


 沙那が八条宮の腕の中で胸をドキドキさせていると、精緻な顔が視界からはみ出てしまうほど近付いて来た。八条宮の耳に掛けられた白銀の髪が、はらりとひと房落ちて沙那の顔に影を落とす。
 その瞬間、甘さよりも爽やかさが勝る品の良いお香の香りが鼻腔の奥で弾けた。依言様は、香りまで優雅で美しい。どうか、これからは他の香りを移して八条院に帰って来ませんように。


「沙那?」


 琥珀色の瞳がわたしだけを映して、低い声がわたしだけに好きだよと囁いてくださる日は来るのかしら。


 妻になれたのは奇跡なのだから、多くを望んではいけないと分かっているの。けれど、その日を切に夢見てる。たとえその日が来ないとしても、わたしは命ある限り依言様だけを想うし気持ちを言葉で伝え続ける。だから、わたしの欠点を見つけても嫌いにだけはならないでほしい。


「好きです、依言様。本当に、大好き……」
「知っている、もう充分にね」


 八条宮の長い指が、沙那の紅潮した頬に触れる。指がつつっと顔の輪郭に沿って下に行き、小さな顎をくいっと持ち上げた。

 ぎゅっと目を瞑った沙那の唇に、ふわりと別の唇が重なる。椿餅つばいもちのような柔らかな感触に、少しだけ体の緊張が解れた気がしないでもない。けれど、心臓は規則性を失った不規則な強い鼓動を打ち続けていて、背を抱く腕にもそれが伝わっているだろうと思うと、やはり恥ずかしくて気がおかしくなってしまいそうだ。


「……ふぁ、っ」


 上下の唇を順についばむように軽く吸われて少し開いた沙那の唇を、八条宮が舌先で舐めて覆うように深くくちづける。
 しっとりと湿ったふたりの境界で、気の抜けるような甘い呼吸が幾重にも重なって、体温よりも心地いい温度が行き交う。不安だし、恥ずかしくてたまらない。けれど、言葉にならないくらい、幸せ。

 口で息継ぎをしようとすると、舌を差し込まれた。瞬時驚いて、されるがままに任せる。体を強張らせる緊張や泉のように心内に湧く恥ずかしさが、舌と一緒に絡め捕られていくような不思議な感覚に意識がふわふわと酔い始める。

 不意に、ちゅっと小さな音がして、艶めかしい吐息が唇をかすめた。
 唇が離れてしまったのだと気付くまで、少し時間がかかった。目覚めを促すように指先で横髪を梳かれてゆっくり目を開けると、満月のような双眸がじっと見下ろしていた。

 八条宮の表情はいつもとそう変わらないが、瞳の揺らめきにいつもと違う感じを受ける。それが何を意味するのか、初心者の沙那には理解できるはずもない。

 そっと褥に体をおろされて、夜着の腰紐がしゅるっと絹の擦れる独特な音を立てる。鎮まりつつあった緊張感が、波打つように再び高まっていく。どうしよう、体が熱い。沙那は、大きく深呼吸したあと喘ぐような浅い呼吸を数回繰り返した。


「怖い?」


 沙那の肩をはだけさせながら、八条宮が訪ねる。怖くはない、そう答えようとしても今度は喉がひりひりと焼けついて声が出ない。沙那は、声の代わりに八条宮に向かって左手を伸ばした。

 小さく震える沙那の手を握って、慰めるように八条宮がくちづけを落とす。沙那から恐怖を取り除こうとするくちづけは、先ほどよりも濃厚で、優しくも荒々しいものだった。


「ふ……、ぅん」


 口の中を満たした唾液を飲み下すと、のどの焼けつきが嘘のように治まっておかしな声が出てしまった。またちゅっと唇が離れる。くちづけで乱れた息を必死に整えていると、次は震える手に八条宮の唇が触れた。


「無理強いするのは、あまり好きではない。怖いのなら、今宵はここでやめよう」

「いいえ。依言様だもの、怖くはありません。ただ、どうしていいのか分からないだけで……。はっ、初めてだから、その……、緊張だってしています……」

「あなたは何もしなくていいし、考える必要も無いよ」

「はい、依言様」
「素直で宜しい」


 するりと八条宮の手をすり抜けて、左手が褥の上に落ちる。まだぴくりぴくりと奇妙に震える手で褥に敷かれた真っ白い布を握ると、夜着の前合わせを一気に開かれた。ぎゃっ、と沙那の心臓が大音量で叫ぶ。

 童のころからまったく成長しなかったぺったんこな胸を、とうとう大好きな人に見られてしまった。母上の胸はどちらかと言うとふくよかだったから、これは父上の遺伝ね……。ああ、涙が出ちゃう。

 沙那の嘆きをよそに、八条宮が着ていた青い袿を脱ぎ捨てて自身の腰紐を解く。緩んだ衿の合わせから、くっきりとした太い鎖骨と男らしい胸元が覗いている。
 視線を外したくても、目が言う事を聞いてくれない。はしたなくも、ここぞとばかりに凝視してしまう。だって、好きな人の生肌だもの……っ!

 そうこうしているうちに、八条宮が沙那に覆いかぶさってきた。袖だけが通された夜着にはもはやなんの意味も無く、上半身の素肌が直に触れ合った。


「沙那」


 耳元で低い声が囁いて、首元から胸へ大きな手が肌を撫でる。考える必要は無いと言われなくたって、何かを考える余裕なんて無い。
 肌の神経が敏感に拾い上げる温もりとか力加減とか、全部が気持ち良くてくちづけされた時と同じようにふわふわと意識が浮遊し始める。

 もう一度、耳元で静かに名前を呼ばれて、ひたいと頬を啄まれた。くすぐったくて笑うと、すぐに口を塞がれてしまった。まるで閉ざされた箱の中で息を分け合うように、わずかな隙間で呼吸を重ねる。その間に、大きな手が胸のつんとした尖りをかすめて、指先が膨らんではいないけれど柔らかな乳房に食い込む。


「ふっ……んっ」


 また体が熱くなってきた。くちづけで呼吸が荒くなったせいか、喉もひりひりと焼ける。褥の布を握る手が痙攣するように震えて、鳩尾みぞおちの辺りが不快な痛みに襲われる。なんだか、体が変――。
 くちづけへの反応が薄くなって、異変に気付いた八条宮が体を起こして沙那の表情を窺った。


「沙那?」


 目を閉じた沙那の眉間には皺が寄り、頬は火照っているのに触ると氷のように冷たい。先程まで瑞々しく赤みがかっていた唇も、からからに乾いてすっかり色を失っている。何が起きているのか理解できないが、尋常ではない事だけは分かる。


「どうした、沙那」
「よ……、さま、く……る、し……」


 沙那が、声を詰まらせて喉元を搔きむしる。


「沙那!」


 八条宮は、夜着の前を合わせて腰紐で雑に留めると、急いで御帳台を飛び出した。几帳を押しのけ、妻戸を荒々しく開けて大声で人を呼ぶ。

 真っ先に駆け付けたのは、小梅と左近だった。八条宮は左近を東市の先に住む薬師のやしきへ走らせ、小梅に北の対屋の女房を叩き起こして湯を沸かすよう命じると、すぐに沙那の元へ戻った。

 沙那は仰向けのまま、青白い顔をして、短く浅い呼吸に肩を大きく上下させながら眠っていた。いや、気を失っているのかもしれないが、見た目には判断がつかない。
 沙那の夜着を整えて、冷え切った体を温めるように小さな体を懐に横抱きして袿でくるむ。

 喉を見ると、掻きむしった跡が痛々しい傷になっていた。それにそっと触って、沙那をきつく抱きしめる。開けっ放しの妻戸の方から鈴の音がして、ナギが勢いよく駆けてきた。沙那の足元にちょこんと座ったナギが「みゃぁ」と小さく鳴いた。





❖◇





 天には、煌々とした見事な月があった。
 内裏では今宵、主上おかみのもとに麗景殿女御れいけいでんのにょうごが召されていた。御即位から丸二年を経過して、未だ今上帝は皇子に恵まれていない。東宮時代に入内した弘徽殿女御こきでんのにょうごばかりに目をかけておられたが、さっぱりと兆しすらないままに年数だけが過ぎてしまった。


「良いお月様ね、命婦。よろず良しの月は格別だわ」


 弘徽殿のひさしの間から空を仰いで、凛子が美しい顔に笑みを浮かべる。その横顔は、月に照らされて輝く太陽そのもの。この世に類無き美しさだ。
 凛子は、はらりと優雅に檜扇を広げて命婦をすぐそばに呼びつけた。


「八条院に椿餅は届けたの?」
「はい。仰せの通り、婚礼前日にお届け致しました。主上と女御様から初夜の御祝いだと家令に直接……」
「そう。大納言の姫君は、わたくしの椿餅をお気に召してくださったかしらね」


   

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