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待ちに待った婚礼の日がやって来た。
二条の大納言邸では、前夜から権威ある寺の僧侶たちが庭に陣を構えて夜通し護摩の火を焚き、空が白む前から女房たちが慌ただしく動き回っている。
運命の一日は夜明け前、厳かなる沐浴で幕を開けた。人肌と同じ温度の微温湯を、木綿の湯帷子を着たまま浴びる。先の吉日に洗った髪を濡らしてはいけないので、女房たちが数人がかりで沙那の髪を持った。
沐浴を終えると、清めた体に婚礼の衣装を纏う番だ。
婚礼の衣装は特別にあつらえた十二単で、単衣に左右どちらの腕から袖を通すかに始まって、留め紐の結び方、色の重ね、そのほかにも事細かく決められた通りに着つけなくてはならない。
面倒だし手間も時間もかかる。しかし、いくら万良しの天赦日であっても、万物に宿る神々の祐けを得て不吉を遠ざけるためには、すべての手順を誤りなくやり終えることが重要なのである。
十二単を着たら、次は顔に化粧が施された。長く大納言邸に仕えているベテランの女房が取り仕切って、滞りなく着々と晴れの日の装いが仕上がっていく。
最後に僧侶が厄を祓った後、小梅が先立って八条宮家より届けられていた真新しい柘植の櫛で、腰まである沙那の黒髪を丁寧に梳いた。
「いよいよでございますね、姫様」
「うん」
小梅が、いつになく緊張した面持ちで沙那の頭頂の髪を結って、金に輝く宝冠を慎重に載せる。あとは、父親と挨拶を交わして八条院へ向かうのみとなった。
沙那の支度が終わったとの知らせを受けて、大納言が西の対屋にやって来たのは日が高くのぼった刻のこと。大納言は、きらびやかな婚礼の衣装に身を包んだ愛娘を見るや否や、「これはこれは……」と息をのんだ。
沙那が八条院に通っていたと知ったときは、気絶しそうなほど驚いた。八条宮が帰ったあとに沙那と小梅を部屋に呼びつけて、なんということをしでかしてくれたのかと説教まで垂れた。しかし、やはり一介の父親だ。娘の晴れ姿に万感胸に迫る思いがする。
好いた男に嫁ぐのは、沙那にとって最上の幸せなのだろう。親とは、子の幸せを心から願うものなのだ。
大納言は上座に腰をおろして、お雛様のようにしおらしく座る沙那に慈愛のまなざしを向けた。
「無事に今日を迎えて、なによりだな」
「ありがとうございます、父上」
「八条宮様はつかめぬところがおありになる。お前が悲しい思いをせねばよいが……。そればかりが気がかりだ」
「父上、心配しないでくださいませ。宮様のようにおおらかで優しい方はいないわ。きっと、幸せになります」
にっこりと笑う沙那に、大納言は「そうであるな」としばし目頭をおさえる。沙那が手元を離れる実感に迫られて、つい寂しい気持ちが込み上げてしまったのだ。
沙那が大納言と話をしていると、八条宮家より迎えの者と網代車が到着したと女房が知らせに来た。八条院の方角へ向かうに良しとされる時刻になり、大納言と親しんだ女房たちが見守る中、沙那は小梅と共に八条宮家の牛車に乗り込んだ。
華やかな慶事の装飾がなされた網代車が、八条宮家の従者や女房を従えて、二条の小路から都大路へ向かう。八条宮より同行を許された大納言邸の女房は、小梅一人だけだった。
灼熱の太陽にじりじりと焼かれた都大路が陽炎に揺れる。百花の王と称賛される牡丹でさえ、しょんぼりと頭を垂れて萎れてしまうほど暑い。
じっとしていても、じんわりと額に浮かぶ小さな汗の粒。沙那は、ごとごとと揺れる牛車の中でそれを小梅に拭ってもらった。きれいに施された化粧が崩れないように、小梅が慎重に手巾でぽんぽんと沙那の肌を軽くはたく。
「ああ、早く八条院に着かないかしら。いつもはこんなに遠く感じないのに」
あまりの暑さに、つい弱音が口をついて出てしまう。無理もない。頭にはしゃらしゃらと豪華な飾りが垂れた重たい金の宝冠をつけて、五衣に唐衣、裳ときっちりとした正装をしているのだ。沙那の小柄な体は、15キログラムを超える絢爛な衣装の重たさと真夏の暑さに悲鳴をあげていた。
「ここは……、東市の辺りでございましょうか。もうしばらくの辛抱でございますよ、姫様」
前御簾の脇から外を覗いた小梅が、にこやかに笑いながら沙那を励ます。小梅は沙那の乳母の娘で、二人は乳姉妹という間柄だ。年も一つしか違わないから、本当の姉妹のように仲良く育った。
「ねぇ、小梅。お化粧、崩れてない?」
「大丈夫ですよ」
「本当?」
「小梅は、姫様に嘘は言いません」
「うん、それは分かっているのだけれど……。宮様に、みっともない顔をお見せしたくないの」
「ご心配なさらなくても、今日の姫様はとてもお美しいですよ」
「そう……、かな」
小梅が身を乗り出すようにして、沙那のほつれた横髪を指先で整える。
日光の当たらない牛車の中でも艶めく沙那の髪は、まさに濡れ羽色の柳髪だ。白粉をはたかなくとも雪のように白い肌に、くりっとしたつぶらな二重の目。少し低い鼻筋と柔らかそうな紅くて小さな唇。
全体の雰囲気がかわいらしくて、成人の証である楕円の殿上眉を堂々と描いていても、沙那は十八歳という実年齢よりもちょっと年下に見える。そのことを本人が日頃から気にしているので、小梅はあえて美しいという言葉を選んだのだった。
「着いたようですわ」
八条院の門をくぐった牛車が、主寝殿南側の階に寄せられて御簾があげられた。先に小梅が牛車をおりて、沙那に手を差し出す。沙那は小梅ではなく、その背後に立つ人物を見て動きを止めた。
「宮様」
礼服の黒い束帯に身を包んで、右手に象牙の笏を持つ八条宮の姿に、宮中で透き影に心と感性を奪われたあの日を思い出す。
――わたし、本当に宮様の妻になるんだ……。
あんなに夢見て、今日を心待ちにしていたのに、どうしてかしら実感がない。
「どうぞ姫様、おりてくださいませ」
しびれを切らした小梅が、沙那に催促する。しかし、沙那は八条宮を見たまま微動だにできなかった。
「姫様、八条宮様がお待ちでございますよ」
「……う、うん。分かっているのだけれど、宮様の凛々しいお姿にこっ、腰が抜けちゃって」
あはは、と恥ずかしさを誤魔化すように乾いた笑いを漏らす沙那。そんな沙那に、小梅を押しのけて八条宮が手をさしのべる。
「まったく。足をひねったり腰を抜かしたり、手のかかる姫君だな。ほら、早くおりて」
八条宮は沙那の手を引っ張って立たせると、腰を抜かした小柄な体を支えるように背と腰に手を回した。
「あ、ありがとうございます」
「先日のように担いでやりたいのは山々だけど、生憎、俺には正装した女性を抱きかかえる体力がない」
「今はそのお気持ちだけで充分です、宮様」
「今は?」
かの有名な物語に出てくる光る君は、降嫁なされた女三宮様を抱きかかえてお邸にお迎えになったそうな。ここは一つ、光る君のように颯爽とお姫様抱っこしてほしいのが本心だけれど、それはまぁ追々。とにかく今は、幸せ過ぎて地に足がつかない心地がする。
「宮様。わたしを八条院へ迎えてくださったこと、心から感謝しています」
「俺はただ、あなたとの約束を守っただけだよ」
「十四日もおまけしてくださいました」
「その前に、俺を待ち伏せしただろう。俺は、百夜どころか一年近くあなたにつきまとわれたんだ。忘れたの?」
「あっ、そうでしたね」
はにかみながら八条宮を見上げて、沙那はかわいらしい唇から舌先をちょこっと出した。
ちりん、ちりん。
鈴の音が近づいて来る。沙那が八条宮の背後に目をやると、首に小さな鈴をつけた黒猫がすぐそこまで来ていた。
「宮様、あの猫は?」
沙那が尋ねると、八条宮は沙那から手を放して黒猫を腕に抱いた。
「あなたに怪我をさせた犯人だよ」
黒猫の小さな額をなでながら「俺の妻を迎えに来たの?」と猫に話しかける八条宮の表情に、沙那はどきっとして言葉を失う。まるで親しい、いや愛おしい者に接するような顔をしていたからだ。
――そういえば、特別な子だっておっしゃっていたわね。
八条宮が、沙那に近づいて猫を見せる。艶のある黒い毛並みに大きな金色の目。「みやぁ」と甘えるような声は、まぎれもなく足を痛める原因となった黒猫のものだ。
「名前はあるのですか?」
「ナギと呼んでいる」
沙那が八条宮の真似をして頭をなでると、ナギは「みやぁお」と気持ちよさそうに目を細めた。
「かわいい」
「大人しくて人懐こい子だから、嚙みついたり引っかいたりはしないと思うが、慣れるまでは用心しておいてくれ」
「はい、分かりました」
「では、こちらへ。女房たちがあなたを待っている」
広大な八条院の敷地はいくつかに区切られていて、沙那が八条宮に案内されたのは春の邸と呼ばれる所だった。八条院の中心である主寝殿のほかに、東の対屋と西の対屋、そして沙那が住む北の対屋と釣り殿がある。
廊下から一望できる庭には、春に花をつける木が造形的に植えられて、大きな池では錦鯉が優雅に水の中を泳ぎ回っていた。御座へ続く渡殿という廊下を進みながら、沙那は庭に淡い色の花が咲き乱れる春の風景を想像する。
「足元に気をつけて」
ナギを抱いた八条宮が、沙那に向かって手を差し出す。足元を見ると、うっかりつまずいてしまいそうな段差があった。八条宮の気遣いに、沙那の胸は一層幸福に満たされる。
――ほら、やっぱり宮様の心の中には、優しいお気持ちがたくさん詰まっているのよ。
うっすらと頬を染める沙那の手を引いて、八条宮が廂から御座に入る。
じりじりと鼓膜を焦がすような忙しいセミの声。熱い風が、沙那の頭に載った宝冠の垂れ飾りを揺らした。
