第09話 初夜の蟲毒(1)




 正一品の親王である八条宮の結婚は、そこいらの貴族のそれとは全く異なるものだ。三夜続けて妻の実家に通う事も無いし、三日夜の餅を共に食す事も無い。内裏に入内するのと同じように三献の儀を厳かに執り行ったのち、夫婦として共に夜を過ごして婚儀とす。

 主寝殿の御座おましでふたりが三献酌み交わした神酒みきは、先帝が直々に神々へ祈りを捧げてお寄越しになられたものであった。先帝は、譲位後に八条宮の生母である藤壺女御を連れて御所を出て、今は左京の小高い山に庵を結んでひっそりとお暮しになっている。

 八条宮が先帝の庵を訪ねたのは、婚姻の申し入れからわずか三日後の事だった。八条宮が大納言家の姫君を正妻にすると伝えると、先帝は今上帝とそっくりな優しい目元に皺を寄せて「大変宜しい事である」と穏やかに頷かれた。

 長く近侍した沙那の父と先帝には若い頃からの縁があり、ふたりの間には勤めや身分を超えた絆がある。先帝は、帝位にあった頃も今も、愚直で誠実な大納言に絶対の信頼を寄せておいでなのだ。

 八条宮は、向かい合って座る沙那に目をくれた。
 乳臭いガキだという噂は、右大臣の息子に言われるずっと前から小耳に挟んでいた。しかし、噂があるばかりで、公達たちの恋の話に沙那が出てくる事は一度も無く、誰もその姿を知る者はいなかった。噂の効力とは恐ろしいもので、皆「乳臭いガキ」を敬遠して手を出さなかったのだ。だから、初めて八条院の前で待ち伏せされた夜に、怪しい者ではない、二条の大納言の娘だと言われて正直驚いた。


「宮様。ナギは女の子ですか?」


 沙那が、首に下げた鈴を鳴らしながらすり寄るナギを膝に乗せて、優しいまなざしを向けながら濡れ羽色の毛並みを撫でる。
 ナギはすっかり沙那を気に入った様子で、呑気に欠伸あくびなどをしてなされるがまま「みゃぁ」と三日月のように目を細めて、気持ち良さそうに身を任せている。


 宮中行事で俺を見初めたのだと、沙那は言った。だが、大納言が宮中に娘を連れて来ていたとは知らなかった。年頃の姫がいれば、普通はそれなりに匂わすものなのに……。大納言はなぜ、沙那を後生大事に隠すような真似をしていたのだろうか。


「宮様?」


 ナギの鈴と沙那の宝冠の垂れ飾りの音が、ちりちりと風鈴のように涼しげな和音を奏でる。八条宮は、沙那のすぐ隣に座り直してナギをさらった。


「どうして雌だと思うの?」
「鈴の紐が赤いから……」

「ナギは雄だよ。体が真っ黒だから、目立つように赤を選んだ」
「……そうでしたか」


 ナギを取り上げられた沙那が、バツの悪そうな顔をする。
 八条宮は、ナギを沙那の膝に戻して顔を覗き込んだ。ひたいを隠す前髪のせいで幼く見えるのは確かだが、乳臭くはないしガキでもない。


「沙那」
「はい、宮様」

「俺を宮様と呼ぶのは、これ限りにしてくれないか?」
「でも、宮様は宮様ですよ」

「他人ならそうだけれど、あなたは俺の妻なのだから」


 あ、また宮様の口から「妻」が出た。もっと声高らかに何回も言ってもらいたいけれど、その度に心臓を射抜かれるから困る。
 沙那は色白の頬をほんのりと染めて、騒ぐ心を落ち着かせるように、膝の上でくつろぐナギを指先でわしゃわしゃとくすぐった。


「何とお呼びすれば宜しいですか?」
「俺は、依言よりことという名なんだ」


 知っています! とっくに存じ上げております!
 体中の細胞が、一斉に雄叫びのような大きい歓声を上げる。御尊名で呼んでもいいなんて、やはり正妻というのは特別なのだ。
 早速、「依言様」と鼻息荒く呼ぼうとする沙那を、腹を上に向けたナギの「にゃぁ」という猫なで声が阻む。八条宮の優しい表情がまたナギに向いて、沙那は機会を逃してしまった。


「沙那様」


 八条院の女房のひとりが、そろそろと沙那に近付いて退出を促す。
 これから、お互いに夜の支度に勤しむのだ。今夜は初夜。そう、宮様改め依言様とひとつのお布団で、寝、る!

 それは初めてではないけれど、あの雨の夜と今夜とでは心構えが全然違う。
 沙那は八条宮に向かって深々と一礼すると、女房に先導されて主寝殿から北の対屋へ向かった。


 天赦日の夜は、音も無く静かに訪れた。
 北の対屋に仕えるのは、母親と同じ年頃の女房が五人と沙那より少し年上の若い女房が十人ほどだ。どのようにして八条院へ集められたのか詳しくは分からないけれど、気前の良い者ばかりで、実家からひとり付き添ってきた小梅もすぐに打ち解けた様子だった。

 北の対屋に用意された祝いの膳を食べ終わると、ようやく重たい十二単から解放された。
 初夜の支度は、婚礼とは違って実にあっさりとしたものだ。水に浸した新しいさらしで体を隅々まで清めて、新調された真っ白な絹の夜着に着替える。その上に実家から着てきた婚礼用の蘇芳すおううちきを羽織って、お香を焚きながらきれいに髪を梳く。あとは女房たちが御帳台に寝具を用意して、八条宮のお越しを待てばいい。

 沙那は、少し緊張した面持ちで女房たちが御帳台に床を設える様子を眺めた。
 男女の交わりについては、初めて月の障りを迎えた時に一応は教わった。けれども、それ・・についてはさらりと図で示された程度で、閨では逆らわず殿方に身を任せるべしと、心得に重きを置いた講義を受けたに過ぎない。

 逆らう気は毛頭無いけれど、ただ黙って褥に転がっていればいいのかしら。でも、転がっているだけでは人形みたいで嫌じゃないのかなぁ。かと言って、何をどうするかなんて知らないし……。

 沙那があれこれその事に考えを巡らせている間に、御帳台の準備を終えた女房たちが静々と北の対屋を出て行った。

 心ここに在らずで、沙那は菓子置きの盆に手を伸ばす。指先に触れた菓子を手探りで握って、それをかじって奥歯で噛み締めると、甘葛煎あまずらせんのほのかな甘さが口いっぱいに広がった。
 沙那はふと、半分かじった菓子を顔に近付けて凝視する。もちもちとした真っ白な外観に、中に包まれた餡の甘味。これは紛れもなく椿餅つばいもちだ。


「ねぇ、小梅」
「いかがなさいました?」

「これって、葉っぱにくるまれていないけれど椿餅よね?」
「椿餅? そんなはずは……。椿餅は椿の季節に作る菓子ですから、違うのではありませんか?」

「味が、確かに椿餅よ」
「不思議ですね。どなたが持って来られたのでしょう?」
「八条院の女房の誰かが気を利かせてくれたのよ、きっと。甘いものって疲れを癒してくれるじゃない?」

「親切でございますね。後で御礼を申し上げておきます」
「そうしておいて」

「姫様。これから初夜をお迎えになるのですから、食べ過ぎてはなりませんよ」
「分かっているわ。それにしてもこれ、餡子が美味しい」

「それはようございましたね。程よく緊張がほぐれましたか?」
「まぁ、ね」

「では、そろそろ八条宮様をお迎えする準備をいたしましょうか」
「うん」

 食べかけの椿餅を頬張って、温かいお茶で流し込む。それから一息ついたころ、小梅が水を張った漆塗りの角盥つのだらいを持ってきた。両手を水に浸して顔を洗ったあと、最後に口をすすいで寝支度は完了だ。


「それでは姫様、八条宮さまをお待ちください」
「おやすみ、小梅」


 じっとなさってくださいね、と小梅が念を押して退出する。昼間は通りの喧騒が聞こえていたが、夜ともなれば八条院は静寂に包まれる。しんと何かが張り詰めたような空気に夏虫の鳴き音だけがこだまして、どこか息苦しさを感じるほどだ。思えば、依言様の帰りを待っていた時も、辺りには人影が無くてとっても静かだった。

 燭台の明かりがじじっと揺れて、妻戸が静かに開く。そろそろと衣擦れの音が向かって来て、几帳のかたびらがさらりとなびいた。
 沙那は、床から徐々に視線を上へ上へと向けた。
 夜着の裾から見える足首とか、着流した袿の夏らしい鮮やかな青色の重ねが、ひとつの景色のように視界を流れてゆく。そして、視線が上り詰めた先に八条宮の顔があった。

 ごくっと、沙那の喉元が大きく上下する。
 もとどりを解いて胸まで垂れた白銀の髪。依言様の色気が、いつもより増量している気がする! ど、どうしよう……、とてつもなく恥ずかしくなってきた。


「明かりは、消した方がいい?」


 緊張のあまり質問の意味を理解できず、ぽかんと口を開ける沙那に八条宮が手を伸ばす。
 今日の日を待ち望んでいたのに、心臓が壊れそうなくらい緊張が高まって、心なしか鳩尾みぞおちの辺りが気持ち悪い。さっき、椿餅を食べたのがいけなかったかしら。


「沙那」
「……は、はい。あの、けっ、消していただけるのならその方が」

「やはり、このままがいいね」
「ひぇっ?」


 おいで、と手を引っ張られて立ち上がると、そのままひょいっと先日のように担がれた。夏物の夜着は薄い。密着した胸や腹に、硬い筋肉質な体の感触が生々しく伝わってくる。
 同じように、ばくばくとした胸の鼓動が八条宮に伝わっているかと思うと、沙那の左胸はますます不規則でおかしな律動を刻んだ。


「みや……、じゃなくて、依言様」
「なに?」

「わたし、むっ……、胸がぺったんこなんです」
「そのようだね」


 お、乙女の深刻かつ重大な悩みを、物凄い緊張の最中に勇気を振り絞って打ち明けたのに、少しの動揺も無くさらりと受け流すなんて……。流石、百戦錬磨の依言様だわ。しかも、なぜかばれちゃってる感じだし。

 乙女のただならぬ狼狽ろうばいをよそに、八条宮はすたすたと足早に御帳台に入って、沙那をそろりと褥におろした。


   

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