第08話 正妻と愛猫





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 待ちに待った運命の日がやって来た。
 今日は吉日中の吉日、最高に縁起の良いとされる天赦日てんしゃびである。陰陽寮の暦からよろず良しとされる最良な日を、帝が八条宮と沙那の婚礼の日とお定めくださったのだ。

 そんな訳で大納言邸では、前夜から権威ある寺の僧侶たちが庭に陣を構えて夜通し護摩の火を焚き、空が白む前から女房たちが慌ただしく動き回っている。

 運命の一日は、夜明け前、厳かなる沐浴で幕を開けた。
 人肌と同じ温度の微温湯ぬるまゆを、湯帷子ゆかたびらを着たまま浴びる。先の吉日に洗った髪を濡らしてはいけないので、女房たちが数人がかりで沙那の髪を持った。

 沐浴を終えると、清めた体に婚礼の衣装を纏う番だ。
 婚礼の衣装は特別にあつらえた十二単で、単衣ひとえに左右どちらの腕から袖を通すかに始まって、留め紐の結び方、色の重ね、その他にも事細かく決められた通りに着付けなくてはならない。
 面倒だし手間も時間もかかる。しかし、いくら万良しの天赦日であっても、万物に宿る神々のたすけを得て不吉を遠ざけるためには、すべての手順を誤りなくやり終える事が重要なのである。

 十二単を着たら、次は顔に化粧が施された。長く大納言邸に仕えているベテランの女房が取り仕切って、滞りなく着々と晴れの日の装いが仕上がっていく。

 最後に僧侶が厄を祓った後、小梅が先立って八条宮家より届けられていた真新しい柘植つげの櫛で、腰まである沙那の黒髪を丁寧に梳いた。


「いよいよでございますね、姫様」
「うん」


 小梅が、いつになく緊張した面持ちで沙那の頭頂の髪を結って、金に輝く宝冠を慎重に載せる。あとは、父親と挨拶を交わして八条院へ向かうのみとなった。

 沙那の支度が終わったとの知らせを受けて、大納言が部屋にやって来たのは日が高く昇った刻のこと。大納言は、煌びやかな婚礼の衣装に身を包んだ愛娘を見るや否や、「これはこれは……」と息をのんだ。

 沙那が八条院に通っていたと知った時は、気をやりそうなほど驚いた。八条宮が帰った後に沙那と小梅を部屋に呼びつけて、何という事をしでかしてくれたのかと説教まで垂れた。しかし、大納言と言えど一介の父親だ。大変喜ばしく、万感胸に迫る思いがする。

 好いた男の元へ嫁ぐのは、沙那にとって最上の幸せなのだろう。親とは、子の幸せを心から願うものなのだ。

 大納言は上座に腰をおろして、お雛様のようにしおらしく座る沙那に慈愛のまなざしを向けた。


「無事に今日を迎えて、何よりだな」
「ありがとうございます、父上」

「八条宮様はつかめぬところがおありになる。お前が悲しい思いをせねば良いが……。そればかりが気掛かりだ」

「父上、心配しないで。宮様のように素敵な御方はいないわ。きっと、幸せになります」


 にっこりと笑う沙那に、大納言は「そうであるな」としばし目頭をおさえる。沙那が手元を離れるのだと実感に迫られて、寂しい気持ちが込み上げてしまったのだ。

 沙那が大納言と話をしていると、八条宮家より迎えの者と網代車が到着したと女房が知らせに来た。八条院の方角へ向かうに良しとされる時刻になり、大納言と親しんだ女房たちが見守る中、沙那は小梅と共に八条宮家の牛車に乗り込んだ。

 華やかな慶事の装飾がなされた網代車が、八条宮家の従者や女房を従えて、二条の小路から都大路へ向かう。八条宮より同行を許されたのは、小梅ひとりだった。



 灼熱の太陽が天高く昇って、日光にじりじりと灼かれた都大路が陽炎に揺れる。百花の王と称賛される牡丹でさえ、しょんぼりとこうべを垂れてしおれてしまうほど暑い。

 じっとしていても、じんわりと額に浮かぶ小さな汗の粒。沙那は、ごとごとと揺れる牛車の中でそれを拭った。綺麗に施された化粧が崩れないように、慎重に手巾でぽんぽんと肌を軽くはたく。


「ああ、早く八条院に着かないかしら。いつもはこんなに遠く感じないのに……」


 あまりの暑さに、つい弱音が口をついてしまう。
 無理もない。頭にはしゃらしゃらと豪華な飾りが垂れた重たい金の宝冠をつけて、五衣に唐衣、裳ときっちりとした正装をしているのだ。
 沙那の小柄な体は、20キログラムを超える絢爛な衣装の重たさと真夏の暑さに悲鳴を上げていた。


「ここは、東市ひがしのいち辺り……、でございましょうか。もうしばらくの辛抱でございますよ、姫様」


 前簾まえすだれの脇から外を覗いた小梅が、にこやかに笑いながら沙那を励ます。小梅は沙那の乳母めのとの娘で、ふたりは乳姉妹という間柄だ。年もひとつしか違わないから、本当の姉妹のように仲良く育った。


「ねぇ、小梅。お化粧、崩れてない?」
「大丈夫ですよ」

「本当?」
「小梅は、姫様に嘘など言いません」

「うん、それは分かっているのだけれど……。宮様に、みっともない顔をお見せしたくないの」

「ご心配めされずとも、今日の姫様はとてもお美しいですよ」
「……そう?」


 小梅が身を乗り出すようにして、沙那のほつれた横髪を指先で整える。
 日光の当たらない牛車の中でも艶めく沙那の髪は、まさに濡れ羽色の柳髪だ。白粉をはたかなくとも雪のように白い肌に、くりっとしたつぶらな二重の目。少し低い鼻筋と柔らかそうな紅くて小さな唇。全体の雰囲気が可愛らしくて、成人の証である楕円の殿上眉を堂々と描いていても、沙那は十八歳という実年齢よりもちょっと幼く見える。その事を本人が日頃から気にしているので、小梅は敢えて美しいという言葉を選んだのだった。


「着いたようですわ」


 八条院の門をくぐった牛車が、主寝殿南側のきざはしに寄せられて御簾が上げられた。先に小梅がそそっと牛車をおりて、沙那に手を差し出す。沙那は小梅ではなく、その背後に立つ人物を見て動きを止めた。


「……宮様」


 こうがいに赤と白の生花を飾った冠を戴き、黒い束帯に包んだ御身から溢れる美しさと気品に圧倒される。容姿は見慣れてはいても、今日の宮様は妻だからこそ見られる特別仕様だ。


「どうぞ姫様、御手をこちらへ」


 しびれを切らした小梅が、沙那に催促する。しかし、沙那は八条宮を見たまま微動だにできなかった。


「姫様、八条宮様がお待ちでございますよ」
「……う、うん。わかっているのだけれど、宮様の凛々し過ぎる御姿にこっ、腰が抜けちゃって」


 あはは、と乾いた笑いを漏らす沙那。そんな沙那に、凛々し過ぎる御姿の八条宮が静かに近付く。


「まったく……。足をくじいたり腰を抜かしたり、手のかかる姫様だな。ほら、早く降りて」


 八条宮は沙那の手を引っ張って立たせると、腰を抜かした小柄な体を支えるように背と腰に手を回した。


「……す、すみません」
「先日のように担いでやりたいのは山々だけど、生憎、俺には正装した女を抱きかかえる体力が無い」

「今はそのお気持ちだけで充分です、宮様」
「今は?」


 かの有名な物語に出てくる光る君は、降嫁なされた女三宮様を抱きかかえて六条院にお迎えになったそうな。
 ここはひとつ、光る君のように颯爽とお姫様抱っこしてほしいのが本心だけれど、それは追々。

 とにかく今は、幸せ過ぎて地に足がつかない心地がする。背を支えてくださる御手。ああ、やっぱり宮様って逞しくていい匂い……。


「宮様。わたしを八条院へ迎えてくださった事、心から感謝しています」
「俺はただ、あなたとの約束を守っただけだよ」

「十四日もおまけしてくださいました」
「その前に数ヶ月、俺を待ち伏せしただろう。忘れたの?」
「あっ……、そうでしたね」


 はにかみながら八条宮を見上げて、沙那は可愛らしい唇から舌先をちょこっと出した。
 ちりん、ちりん。可愛らしい鈴の音が、こちらへ近付いて来る。沙那が八条宮の背後に目をやると、首に小さな鈴をつけた黒猫がすぐそこまで来ていた。


「宮様。あの猫は……」


 沙那が言うと、八条宮は沙那から手を放して後ろを振り返った。そして、しゃがんで黒猫を腕に抱いた。


「俺の妻を出迎えに来たの?」


 そう言って沙那の方を向き直した八条宮が、黒猫の小さな額を撫でる。沙那は、八条宮の表情にどきっとして言葉を失ってしまった。とてもとても優しい、まるで親しい者……、いや愛おしい者に接するような顔だったのだ。


 ――そういえば、特別な子だっておっしゃってたわね。


 八条宮が、沙那に近付いて猫を見せる。艶のある黒い毛並みに大きな金色の目。「みやぁ」と甘えるような声は、紛れもなくあの夜の黒猫のものだ。


「名前はあるのですか?」
「ナギと呼んでいる」


 ナギ、と沙那が頭を撫でると、ナギは「みやぁお」と気持ち良さそうに目を細めた。
 広大な八条院の敷地はいくつかに区切られていて、沙那が八条宮に案内されたのは春の邸と呼ばれる所だった。八条院の中心である主寝殿の他に、東の対屋、西の対屋、北の対屋、釣り殿がある。

 庭には、春に花をつける木が造形的に植えられて、大きな池では錦鯉が優雅に水の中を揺蕩たゆたっていた。御座おましへ続く渡殿という廊下を進みながら、宮様と眺める桜はさぞかし綺麗だろうと、美しい花咲き誇る春の景色を想像する。


「足元に気を付けて」


 ナギを抱いた八条宮が手を差し出す。足元を見ると、うっかりつまづいてしまいそうな段差があった。
 やっぱり宮様は心の内に優しいお気持ちをお持ちなのだわ。嬉しさにうっすらと頬を染める沙那の手を引いて、八条宮がひさしから御座に入る。

 じりじりと鼓膜を焦がすような忙しいセミの声。熱い風が、沙那の頭に載った宝冠の垂れ飾りを揺らした。


   

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