第06話 雷雨の夜に


 突如降り始めた雨は、瞬く間に本降りとなった。八条宮は、揺れる牛車の中で地を叩く雨音と雷鳴に耳を傾けた。あちこちの邸宅に咲く花々の香りと、重たい湿り気を含んだ雨が奏でる旋律は、宮中で聴く雅楽の音よりも美しい。

 懐中をまさぐって、嗜みとして幼いころから愛用してきた横笛おうてきを取り出す。腹違いの兄宮は、いくら吹いても上達しないと早々に練習をやめてしまった。そして、そなたのような華のある者が奏でてこそ楽器も活きるのだと、この笛を譲ってくださった。互いに、まだ年端もゆかぬわらわだった頃の話だ。

 今宵、主上おかみが主催した管楽の宴で、八条宮は主上に所望されて優雅な調べを披露した。主上はとても満悦した様子で、八条宮をそばに呼ぶと手ずから酒を酌んだ。


「ありがとう、依言よりこと。そなたのお陰で、弘徽殿の笑顔を見られた」


 主上の笑顔を思い出して、八条宮は横笛を握る手に力を入れる。断る事もできたのに、注がれるがまま悪酔いするまで酒を呑んだのは、これが初めてだった。
 大路から二条へ向かう小路へ入った牛車が、酒の回った体をごとりごとりと左右に鈍く揺さぶる。胸の内側をすくように、気味の悪い塊がせり上がってきて酷く気分が悪い。

 このまま名も分からぬ中将の娘のもとへ行っても、たいした事はできなさそうだ。ふっと自嘲するように小さく笑って、八条宮は牛車の前御簾を手の甲で上げる。
 二条へ続く真っ暗な小路は、稲妻が天を走る度に青白く一枚絵のように光って、どこか別の世界へ繋がっているのではないかと思わせるほど不気味だった。


 ――八条院へ戻るか。


 御簾をおろそうとして、ふと八条院の前で待ち伏せをしていた沙那の顔が頭をよぎる。晴れた夜も雨の夜も、底冷えのする雪の夜さえ、一日も欠かすこと無く帰りを待っていた。冷たくあしらった事もあったのに、嬉しそうに笑っている顔ばかりが印象として残っている。とは言え、沙那に対して特別な感情を持っているのかと聞かれたら返事に窮するのだが。
 八条宮は、かちで牛車に付き添う従者を呼んだ。


「左近」
「はい、宮様」

「二条の、中将ではなく大納言のやしきに行ってくれ」
「中将様のお邸には何とお伝えいたしましょう」

「適当に……。そうだな、方塞かたふさがりとでも」
「かしこまりました。そのように手配致します」


 大納言邸の西の対屋では、小梅が沙那の寝支度に勤しんでいた。
 身を清めて夜着に着替えた沙那は、衣桁に掛けられた婚礼の衣装の前で小梅が御帳台に床を設えるのを待った。蘇芳すおうという深い赤色に、白い小葵の紋が入った御衣に触れてうっとりと目を細める。


 ――宮様に会えないのは寂しいけれど、それもあと数日のことだわ。


 枕と髪を入れる黒い漆塗りの乱箱を揃えたあと、御帳台の奥の柱に掛けられたふたつの鏡を磨きあげて、小梅が御帳台から出てきた。


「どうぞ、姫様。横になられてもよろしゅうございますよ」
「ありがとう」


 沙那が御帳台に入って褥に横たわると、小梅が慣れた手つきで束ねた沙那の黒髪を乱箱に収める。小梅は、沙那にしゃきぬをかけて褥の際に座った。


「それにしても、激しい雨でございますね。天の川が見えていましたのに、不思議ですわ」
「そうね」

「今夜は、明かりをともしたままにしておきましょうか?」
「ううん、怖いからいつものように消して」

「心配なさらなくても、わたくしが時々見回りに参りますよ」
「それじゃあ小梅がぐっすり眠れないじゃない。真っ暗なのは怖くないから大丈夫」
「わかりました。それでは、ゆっくりおやすみくださいませ」


 おやすみ、と沙那が目を閉じる。小梅は御帳台の外に出て帳をおろすと、部屋の明かりを全て消して西の対屋を静かに出て行った。ざざぁざざぁと激しい雨音と地を這うような低い雷鳴が、ひとりきりの部屋にこだまする。

 もうすぐ一つ屋根の下に暮らせるって分かってはいるけれど、やっぱり宮様に会いたいな。ひと目でいいから、お会いしたい。八条院に行ってお帰りを待とうかしら。でも大人しくしているよう、宮様に言われたし……。

 なかなか眠りにつけず、沙那は右を向き左を向き、何度も寝返りを打った。そうして、しばらく経ったときの事だった。

 きぃ、と雨音の合間に奇妙な金属の音がした。妻戸が開いた音に間違いない。小梅が戻ったのかしら。それにしては、何だか様子がいつもと違う。

 沙那は、御帳台の中で息を殺して耳をそばだてる。すると、床板のきしむ音が徐々に近付いて、しゅるりと御帳台の帳が揺れた。




 小梅じゃない。小梅は吃驚びっくりさせないように、必ず部屋に入るときに声を掛けてくれるもの。


 もしかして、夜の都を徘徊する強盗……!





「誰?」





 体を起こして目を凝らした次の瞬間、押し倒されて口を塞がれた。抵抗する間もなく片方の手首を褥に押さえつけられて、驚きと恐怖が一気に押し寄せる。真っ暗で状況がよくつかめないけれど、何者かに組み敷かれているのだけは確かだ。


 ――誰か助けてっ!


 声を出せないまま硬直していると、ふっと笑い声がして口を解放された。


「沙那」


 聞き覚えのある声。よく見ると、相手の目がきらりと琥珀色に輝いている。


「宮様……、ですか?」
「そう、俺だよ」


 正体が分かった途端に心底安心して、強張っていた体から力が抜けた。そして今度は、会いたいと思っていた人に本当に会えた喜びで、自然と顔がほころぶ。


「よかった。強盗かと思って、心臓がばくばくしました」
「強盗? 夜這いではなくて?」

「よっ、夜這いなんて、された事が無いから、その、思いつきもしない……、というか……。きょ、今日はどうなさったのですか? 先に知らせてくだされば、起きて待っていましたのに」

「御所からの帰りに、無性にあなたに会いたくなってね。朝まで隣に寝ても?」

「え……、えっと」


 沙那は返事に困った。
 男女がひとつの床に共寝するというのは、ただ横に並んで眠るだけじゃないって事は知っている。衣を脱いで、あれをしてこれをして……。



 相手は宮様なのだから、全然嫌じゃない。



 しかし、まずい。女房の誰かが、殿方は豊満な肉体を好むと言っていた。それが本当なら、宮様に我が胸の発育状況を知られるのは非常にまずい。なぜなら、十歳の時とたいして変化していないのでは? という状態なのだ。ぺったんこを理由に結婚取りやめなんて事になったら、この世の終わり。恥ずかしさと絶望に押しつぶされて、とても生きていけない。

 それに、宮様の事は大好きだけれど、気持ちのこもった愛の言葉をちゃんといただいてからそういうイロイロは致したい。大事だからもう一度言うけれど、言葉に気持ちがこもっている事が重要なの。


「沙那?」
「宮様は、ここでゆっくり大の字になっておやすみください。わたしは別の部屋で寝ますから」

「別の部屋に行ってしまうの? なぜ?」
「ま、まだ婚礼の前ですし……」


 なるほど、と八条宮が沙那から離れて褥にごろんと横になる。沙那は、八条宮が恋の噂の絶えない人だった事を思い出して、しまったと後悔した。閨では殿方に身を委ねるのが作法だと教わったし、面白味のないお堅い女とだと煩わしく思われたかも……。


「とりあえず、小梅を呼んで明かりをつけますね」
「必要ない」
「でも、お直衣のうしを脱がないと窮屈ではありませんか?」
「もう脱いでるよ」


 ……いつの間に?
 妻戸が開いて、御帳台に押し入って来るまでそんなに時間は経ってなかったはず……。


 くっ……、素人のわたしでも夜這い能力スキルの高さを感じる。


 恋人の所でもこうなんだろうか。
 まぁ宮様なら、どこの家でも女房たちがどうぞどうぞと主人のもとへ手引きするだろうし……。場数は相当踏んでいるはずよね。

 うぅむ。正式な妻になったら、宮様がよそで簡単に衣を脱げないように対策しなきゃ。帯の数を増やすか、二重三重に下穿きを着用していただくか……。


「ねぇ、沙那」
「いけません、宮様。明日の朝、こちらに食事などをご用意しますね」

「待て」
「わたしはこれにて。おやすみなさい、宮様」


 手探りで八条宮に紗の衣を掛けて、沙那が立ち上がろうとする。


「待てと言っているだろう、無礼者」


 八条宮が慌てて沙那の手をつかんで、勢いよくその手を引っ張った。うわぁと色気の無い悲鳴をあげて、小柄な体が雪崩れる。それを八条宮が受け止めると、沙那が八条宮を押し倒しているような格好になった。


「ちょ、み、宮様……っ!」


 沙那は八条宮の顔の両脇に手をついて、覆いかぶさらないように必死に自分の体重を細腕で支える。真下から、八条宮がじっと見つめて沙那の視線を捕まえた。


「朝まで隣にいて」
「だめ……、だめです」

「俺は足元が覚束ないくらい酔っているから、多分、あなたが考えているような事はできないよ」
「お酒を呑んだのですか?」

「管楽の宴があってね。主上にすすめられて、少し呑み過ぎてしまった」
「お水……、お持ちしましょうか?」

「優しいね、あなたは」


 助けてください、神様仏様宮様。
 腕はぷるぷる震えて限界間近で、暗い屋内でもまばゆい宮様の神々しい輝きオーラに気圧されて、信念がねじ曲がって体を委ねてしまいそうです。


 だって、なんだかんだ言っても好きなんだもの。


 穏やかな低い声が耳をくすぐるし、暗闇の中でも瞳がきらめいていて……。ああ、宮様への想いがとめどなく溢れてくる。


「宮様」
「なに?」
「好きです。宮様にお会いできて、嬉しい」


 沙那、と八条宮が沙那の肩と腰に腕を回して抱き寄せる。ふたりの顔が近付いて、そっと唇が重なった。
 こっ、これはもしかして、このまま……っ! 沙那はぎゅっと目を閉じて体を硬直させた。しかし、「やっぱりだめ。婚礼の日までは、例え相手が宮様でも純潔を守り抜かねば!」と信念の揺らぎを抑えて意気込んだところで、あっさりと唇の感触が無くなった。


「……あ、あれ?」
「あなたは、抱き心地がいい……」


 それだけ言い残して、八条宮はすぅっと夢の世界へと旅立ってしまった。
 今のは、口づけだったの? よく分からないけれど、どうやら曲者くせものとか物の怪から抱き枕に昇格したもよう。

 ふふっ。
 沙那は、寝息を立てる八条宮の胸に顔をすりすりする。


 ――ああもう、宮様大好きッ!


   

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