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第05話 宮様の求婚(2)





 ❖◇❖



 さて、八条宮の突然の来訪に驚いたのは、沙那の父、大納言藤原義明である。先立って使いの者からの知らせはあった。しかし、なにがなにやらさっぱり状況を飲み込めずにいる。娘が八条宮を伴って朝帰りをしたうえに、まさに今、突然現れた八条宮から婚姻の申し入れを受けているのだ。

 妻が火事という不幸な出来事で早逝したのは、沙那がまだ八つのときだった。ほかに兄妹もなく、母親に先立たれた娘が憐れで、妻の分まで愛情をそそいでやらねばとつい甘やかした。

 そのせいで、沙那は天真爛漫をとおり過ぎて少したくましく育ってしまった。いや、あれはあれで屈託なく素直で、沙那らしくてよいと思っている。しかし、それとこれとは全く別の話だろう。

 八条院から戻ってきたということは、沙那が八条宮様のもとへ通っていたということ。摂関家の流れをくむ大納言家の姫ともあろう者が、男を夜這うなどあってはならぬ前代未聞の醜聞スキャンダルだ。

 それも、よりにもよって親王である八条宮様が相手だとは……。帝に御子がない今、皇家に何事かあれば帝位に就く可能性のある御方だと分かっているのか、沙那は。

 大納言は、意識が遠のくのを感じてこめかみをおさえた。向かいで、八条宮の蝙蝠がはらりと静かに開く。


「突然このような申し入れをして、さぞかし驚いておられるでしょうね。お許しを、大納言殿」
「いえ。沙那に将来を誓い合った相手がいるなど、とても想像もつかないのです。不束な娘です。さぞやご迷惑をおかけしたことでしょう」

「いいえ、迷惑などは一つもありませんでしたよ」
「しかし結婚とは……。八条宮様には、もっとふさわしい姫君がおられるのではございませんか?」

「八条院に迎えるのなら、沙那姫のような方がよいのです」
「はぁ……」


 腑に落ちない様子で、大納言がため息にも聞こえるような相槌をうつ。
 通常であれば、世のしきたりにならって婿取りをするところだが、相手が親王ではそうはいかない。帝におうかがいを立てて婚礼に最良な吉日を選び、沙那を八条院へ送り出さなければならない。

 宮家の正室になるのだから、栄誉なことではある。しかし、八条宮といえば、このとおり見目麗しき美青年で名うての遊び人だ。添い臥に選ばれていた式部卿宮家の姫が病死してから、浮名ばかり流して一向に身を固める気配がなかった。先帝もそれを大変気にかけておられる。しかし、解せぬ。なぜ、沙那を正室に?


「大納言殿。お気持ちは察しますが、そう警戒しないでください。政治的な意味はありませんよ。俺は帝位に全く興味がないし、そもそもその器ではないので」

「しかし、八条宮様と沙那が深い仲であるとはどうも信じ難く」

「なるほど……。沙那姫の名誉のため胸に秘めておこうと思っていましたが、大納言殿には正直にお話しするべきでしょうか」
「な、なにをです?」


 沙那姫の名誉などと脅すような文句を言われて、大納言の眉根が寄り喉が大きく上下する。


「一年近く、沙那姫は足繁く八条院を訪ねてくれた。その情熱に心打たれたのです」
「は……? 一年も?!」


 八条宮がにこりと笑い、大納言が唖然としたころ、沙那は自室で御座おざの段差をいすの代わりにして、両足を伸ばした格好で悠長に本を読んでいた。それは数十年前に書かれた小説の複製本で、母親の蔵書の中から見つけたものだ。

 宮中で女御様にお仕えしていた女官が書いたといわれている長編の恋愛小説で、光り輝く美しい皇子様と数多あまたの女君たちの生々しい恋が描かれている。空想の美しい世界で繰り広げられるはかない恋の駆け引きに、老若男女問わずこれまでたくさんの人々が魅了されてきたという。

 ぱたんと本を閉じて、沙那はそのまま仰向けに倒れた。そして、大の字になって天井をじっと見つめる。

 わたしは、一夜限りの恋なんて絶対に嫌。それに、ただ待つだけの胸が苦しくなるような恋は物語を読むだけで充分よ。生涯にこの御方と決めた背の君とは、比翼の鳥、連理の枝でありたい。記憶にある父上と母上のように、仲睦まじくお互いを思い合って暮らしたい。

 ふぅ、と一息をつく。すると、用事でほかの局に行っていた小梅が慌ただしく部屋に駆け込んできた。


「姫様、御座にお上がりくださいませ。御簾をおろします」
「どうしたの?」

「八条宮様がこちらにお越しになります」
「宮様が?」

「はい。もう先導の女房がそこまで来ております」
「ええっ?!」


 沙那は慌てて体を起こすと、四つん這いになって御座に設えてある席に移動した。脇息にしがみつき、なんとか姿勢を保って敷物の上に座る。


「あいたたた……」
「大丈夫ですか?」
「う、うん。なんとか」


 昨夜ひねった足がずきんずきんと痛んで、とても正座はできそうにない。
 仕方がないわよね。お行儀は悪いけれど、御簾があるから宮様からはよく見えないはずだし……。

 沙那は、正座を諦めて胡坐をかく。そして、袿でうまく足を覆い隠すと、貴族の姫君必須道具アイテムの一つ、檜扇を広げた。これなら、御簾の向こうからはしおらしく座す深窓の姫君の透き影が見える。

 本来、背の君以外の殿方に顔を見せるのは御法度で、御簾を隔てるのが礼儀であることは、貴族なら誰もが心得ている礼儀作法だ。

 いくら毎夜顔を合わせていて、結婚を誓った仲であってもまだ夫婦ではない。だから、八条宮が御簾のこちら側に入ってくることはないだろうと沙那は高を括ったのだ。そろそろと御簾をおろした小梅が、声をひそめて沙那を呼ぶ。


「それでは、わたくしは八条宮様をお迎えしてまいりますね」
「うん。失礼のないように頼んだわよ、小梅」
「はい」


 小梅が退出してからほどなくして、八条宮が一人で部屋に入ってきた。小梅と先導の女房たちはどうしたのだろう。沙那が不思議に思っていると、つかつかと八条宮が御座へ近づいてきた。そして、八条宮は立ち止まることなく、そのまま御簾をあげてかいくぐった。



 ――あ、あれ? 御簾の意味は?



 沙那は、さも当たり前のように向かい合って腰をおろす八条宮に目を丸くする。胡坐なんて深窓の姫君にあるまじき姿勢で座っているのがバレてしまった。座り直したいけれど、介添えなしでは立つこともできないし、どう誤魔化したらいいの、これ。



 ――もう……、宮様ったら。



 お互いに未婚の身なのだから、御簾を隔てるべきなのに。八条院に百夜通いしていた常識破りな自分を手の届かないほど高い棚にあげて、沙那はしゅんと肩を落として八条宮を見る。そして、せっかく広げた檜扇を音が鳴らないようにそっと閉じた。


「あなたと二人で話をしたくて、人払いをさせてもらった」
「……あ、はい。さようでございましたか」

「どうしたの? 元気がないね」
「ご覧のとおり、お行儀の悪い姿勢で座っておりますので、申し訳ないやら恥ずかしいやらでございまして」

「へぇ、あなたも恥じらうことがあるの」
「ありますよ。特に、宮様の御前ではしおらしくしていたいです……、もの」
「足を痛めているのは俺も承知しているのだから、無理をしなくてもよいのでは?」


 八条宮が、表情を崩してくすくすとおかしそうに笑う。沙那の左胸は、つぶさにそれに反応して大きく鼓動した。

 宮様の笑顔は、いつもの冷たい感じと違ってちょっとかわいい。整ったお顔がくしゃってなると、真綿のように柔らかくなるのね。これは新しい発見だわ。

 くっ……、宮様が素敵過ぎて、ときめきが止まらない。このまま心の臓が壊れて、わたしは早死にしてしまうのではないかしら。



 ――だめよ。



 都には、宮様のにわかファンがごった返しているのよ。宮様を残して早逝したら、わたしは絶対に成仏できない。死んでも誰かに宮様を盗られるなんて嫌だもの。死霊になって宮様にまとわりつくのではなくて、なんとしても生きて宮様にくっついておかなくちゃ!

 沙那がそんなことを考えていると、八条宮が手に持っていた蝙蝠を床に置いて二人の距離を詰めた。

「心配しなくても、今さらあなたがなにをしたって俺は驚かないよ」
「本当ですか?」
「うん」
「はしたない女だなって、嫌いになったりしません?」
「意味のない質問だな。これから妻になるのに、好きだの嫌いだの」


 八条宮の口から出た二度目の「妻」に、沙那は頬をぽっと赤く染める。
 ああ、そうだわ。わたしは、宮様の正妻(もうすぐ)だった。簡単に嫌いになるのなら、妻にはしないわけで。それに、今日の宮様は今までで一番優しいお顔をなさっていて、距離がとても近い。とっても近い。


「そういえば、その足の怪我……。猫に驚いたと言っていたね」
「はい。宮様みたいに、きれいな金色の目をした黒猫でしたよ」

「それは、俺が飼っている猫だ。よく邸を抜け出す子でね。驚かせてすまなかった」
「猫がお好きなのですか?」
「そうではないよ。ただ、あの子は特別なんだ」


 沙那はくりっとした目で、じっと琥珀色の瞳を見つめる。宮様は、深くて底の見えない湖みたい。神秘的ミステリアスなところが魅力でもあるのだけれど、知らないことがたくさんあって、少しだけ、ほんの少しだけ不安になる。


「沙那」


 八条宮が、袿の上から沙那の右手首をつかむ。
 初めて、宮様に名前を呼ばれた。どくん、と左胸の奥で心臓が大きな音を響かせて収縮する。同時に、閉じた檜扇を握る手が緊張の汗でしっとりと湿り気を帯びた。


「あなたの父君にお許しいただいた。帝に吉日を選んでいただいて、約束どおり北の方としてあなたを八条院に迎える。だから婚礼の日まで、あなたはここで大人しく俺を思っていて」

「婚礼まで、宮様にお会いできないのですか?」


 柔らかく笑んだ八条宮が、ぐいっと沙那の手を引く。薄紫色の直衣に焚き染められたお香がふうわりと香って、沙那の心臓がまたどきっと跳ねた。

 色恋の経験はゼロだけれど、香りの違いくらいは分かる。今は爽やかな香りがするけれど、担がれたときは甘い香りだった。冷静に考えれば、男性が甘ったるい花の香りを好んで焚くはずがない。では、あれは恋人の移り香だったの……?


「沙那」


 八条宮が顔を近づける。沙那が余裕をなくして顔を真っ赤にすると、八条宮は笑んだまま熟れた林檎のような頬に唇を寄せた。


「会えないのかとかわいい科白を言う割に、気もそぞろだな」
「そ、そんなことは」
「しばらくの辛抱だよ、沙那。これでもう、俺はあなたのものになったのだから、なにも憂いはないだろう?」


 八条宮と大納言双方から報告を受けた帝が、慣例に従って陰陽寮の暦から万良よろずよしの最高に縁起のいい八月の天赦日を婚礼の日と定めた。こうして八条宮様ご結婚のニュースは、またたく間に内裏を席巻して都中のにわかファンたちの知るところとなった。

 さらに、帝が祝辞をしたためた御文を添えた品々を八条院に贈ったので、二人の結婚は世紀の一大行事セレモニーとして注目を浴びたのである。

 沙那は、八条宮に会えない寂しさを感じながらも、大納言邸に届く婚礼の衣装や小道具に心躍らせて運命の日を待ちわびた。ときには、八条宮から命を受けたという八条院の女房が大納言邸に訪ねてきて、宮家のしきたりなどを懇切丁寧に教えてくれる日もあった。


 そうやって、日々が過ぎていった。



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