第05話 弘徽殿女御





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 都に夜のとばりがおりる。天に織姫と彦星を隔てる星川がさらさらと流れて、真っ黒な帆布キャンバスに美しい光の帯を描いた刻。

 御所を出た八条宮は、雨が降っているわけでもないのに唐傘をさして、朱雀門から羅城門までまっすぐに都を貫く大路を歩いていた。主上おかみから賜った酒を煽り過ぎて、少し足元が覚束ない。地が揺れて、体がふわふわ浮遊しているような心地がする。
 後ろをついて歩く左近が、よろめいた八条宮の体を支えた。


「宮様、危のうございます。御車にお乗りください」
「よい。雨が降る前に、どうしても大路を歩きたいのだ」

「雨など降りませぬ。ご覧ください。今宵も空には無数の星が輝いてございますよ」
「おかしいな。夏が死んだ日と同じ匂いがするのだが……」
「酔っておられるのです。婚礼も控えておりますのに、お怪我などされては大変です。ささ、どうか御車に」


 うん、と今度は素直に頷いた八条宮の手を引いて、左近が宮家の牛車に近付く。左近は後ろの御簾を上げて八条宮を牛車に乗せると、牛引きの者に出立するよう言った。ごとりと車輪が動いて、牛車の屋形が大きく揺れる。


「左近」
「はい、宮様」

「今宵は二条へ。中将の……、名は何と言ったか。とにかく中将の娘と、約束がある」
「しかし……」

「いいから、つべこべ言わずに二条に向かえ」
「宮様の仰せのままに」


 八条宮を乗せた牛車が小路へ入った頃、内裏では弘徽殿こきでんを出た女御が帝の居所である中殿へ向かっていた。夜のお召しがあったのだ。
 宮中は男子禁制ではない。宿直とのいの者が駐在しているし、今宵のように帝が管楽の宴を催した夜などは、あちらこちらにほろ酔いの貴族たちの姿がある。

 しかし、帝の妃を男の目に晒すは禁忌。女御の両脇には、几帳のように生絹すずし帷子かたびらを垂れた屏障具を持った女童めのわらわが、その姿を人目から隠すようにぴたりと付き添っている。当の女御も檜扇をしっかりと顔の前にかざし、容貌を隙なく隠してそろそろと歩みを進めた。


命婦みょうぶ


 渡り廊下の中程で弘徽殿女御が足を止めて、白魚のような手をひとりの女官に差し出す。命婦は、自分の手を受け皿のようにして弘徽殿女御こきでんのにょうごの手を取った。


「いかがなさいました?」
「少し廊下の端に寄って。空を眺めたいの」
「はい。御足元にお気をつけください、女御様」


 屏障具を持つ女童がそそっとそばを離れると、弘徽殿女御は命婦の手引きで廊下の端に寄って顔を上げた。おびただしい星たちが水の流れのように煌めいて、半分欠けた月がそれをじっと見守っている。七夕の伝説を思いながら、弘徽殿女御は小さなため息をついた。


 年に一度とはいえ、神々の怒りを買っておきながら逢瀬を許される彦星と織姫。ふたりがとても羨ましい。殊に、誰の怒りも買っていないのに、なぜこのような仄暗い心持で星を羨望せねばならないの?
 この世の出来事は、奇怪で煩わしい事この上なし。ひとつも思い通りにならない。


「女御様。主上が待ちかねておられますよ」
「……わかっているわ。そうね、お待たせしてはいけないわね」

「参りましょう」
「ええ」


 女童が、再びぴたりと添って屏障具を掲げる。
 弘徽殿は中殿の目と鼻の先にある。帝が一番近い殿舎を妃に与えるのは、寵愛の深さを公然と示すに等しい。これで皇子に恵まれたなら、後宮での地位は安泰。なれど――。

 女御の列は、中殿のひさしの間をしずしずと進んで寝所の前で歩みを止めた。女御に付き添っていた弘徽殿の傍仕えたちが三歩下がって平伏し、夜の御殿おとどの妻戸が開く。

 弘徽殿女御は、手に持っていた檜扇を命婦に渡して、ひとり御殿へと足を踏み入れた。煌々と明かりの灯された聖域には、上品で落ち着いた重ねを着た女官が三人と奥に今上帝が待っていた。


凛子りんこ


 帝が、弘徽殿女御に慈愛のまなざしを向けながら近付く。
 宮中で、貴人の真名を口にするのは異である。しきたりに反して帝が弘徽殿女御を名で呼ぶのは、右大臣の一姫いちのひめであり、天界の仙女かくやと言われるほど美しい女御を、他の妃が目に入らないほど深く愛しているからだ。東宮時代から五年添っているが、情はひとつも色褪せない。

 三人の女官が、凛子の袿を丁寧に脱がせる。帝は待ちきれない様子で、ほっそりとした彼女の白い手を取って御帳台にいざなった。

 真っ白な敷布に波打つ豊かな黒髪と、おりた帳に四方を囲まれたうす暗い御帳台で魅惑に艶めく赤い唇。覆いかぶさって、ついばむように赤を食みながら夜着を剥げば、絹よりも滑らかな白肌があらわになる。


「……ぁ、ん」


 ぷるりと弾む胸で誇張する桜の蕾をきつく吸われて、凛子はわずかに開いた朱唇から控え目な甘い声を漏らした。
 凛子が侍る夜は、色事を好まない帝が唯一男になる夜でもある。異母弟である八条宮のような華やかさはないけれど、真面目な人柄がにじみ出た面立ちに浮かぶ余裕の無い苦悶の表情。それは、凛子だけが知る帝の顔だった。


「我が君」


 凛子が呼ぶと、帝はむくりと体を起こして愛おしい妃の顔を覗き込んだ。
 帝に侍るは女人の誉れ。誰よりも愛されて、これ以上を望めばきっと天罰が下ってしまう。しかし、やはりどこかで失望している自分がいる。





 どうして、この身を抱くのが琥珀の月ではないのか。




 心の底に、よどみが蓄積していく。今このときも、美しい月は世の花々を照らして気まぐれにそれを手折るのだろう。憎い。何をはばかるでもなく、月に触れる花々が憎い。そして、それをただ指をくわえてみているしかない我が身が嘆かわしくて、女人の誉れなど無価値に感じてしまう。
 つつ、と凛子の目じりから涙が流れる。





 どうして、今さら妻を娶るのか。





 今まで結婚の話が幾度もあったはず。にもかかわらず、独り身を貫いていたのは、の人への情が消えないからではなかったの?
 わからない。彼の人を凌ぐほど優れた女人なのかしら、大納言家の姫君は……。


「……凛子、どうしたの?」
「悲しいのです」
「何が悲しいの?」


 腫れ物に触れるように、震えた帝の指先が涙をすくう。
 優しい御方。帝は、わたくしが望めば何でも叶えてくださる。だけど、わたくしの望みは一生叶えられる事は無い。口にしたら最後、一族を道連れに地獄へ落ちなければならないのだから。

 凛子は、「いいえ、何でも」と首を横に振って帝のうなじに腕を回す。そして、ぐっと力を込めて帝を引き寄せた。少し首をもたげて口づけると、それに応えるように分厚い舌が口の中に滑り込んでくる。




 依言よりこと様。




 わたくしが求めているのは、この世で最も美しき夜半よわの月。あの尊い琥珀の瞳が再びわたくしを映す日を、帝に身を委ねるこの瞬間にも待ちわびている。

 目を閉じれば、くちゅと舌を吸い上げる月宮つきのみやの姿が浮かぶ。そう、永遠にあの人は月宮のまま。空蝉の時だけが流れて、わたくしの心は遠い昔に囚われている。


「愛しているよ、凛子」


 帝の優しい声に、月宮の像がふっと煙のように消えた。
 青い一瞬の強い光が御帳台を撃つ。それから間を置いて、地鳴りのような雷鳴が轟いた。良く晴れていたはずなのに、激しい雨音が聞こえる。
 静かな愛の言霊に、弘徽殿女御は「わたくしもですわ、我が君」と穏やかな笑みを返した。


   

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