第04話 宮様の求婚(2)




 大納言が唖然とした頃、沙那は自室で御座おざの段差を椅子代わりにして座り、両足を伸ばして悠長に本を読んでいた。それは数十年前に書かれた小説の複製本で、母親の蔵書の中から見つけたものだ。

 宮中で女御様にお仕えしていた女官が書いたと言われている長編の恋愛小説で、光り輝く美しい皇子様と数多あまたの女君との生々しい恋が描かれている。空想の美しい世界で繰り広げられる儚い恋の駆け引きに、これまでたくさんの人々が魅了されてきたという。

 ぱたんと本を閉じて、沙那はそのまま仰向けに倒れた。そして、大の字になって部屋の天井をじっと見つめる。

 わたしは、一夜限りの恋なんて絶対に嫌。それに、ただ待つだけの胸が苦しくなるような恋も物語を読むだけで充分よ。一生にこの御方ひとりと決めた背の君とは、比翼の鳥、連理の枝でありたい。記憶にある父上と母上のように……。

 ふぅ、と一息をつく。すると、用事で他の局に行っていた小梅が慌ただしく部屋に駆け込んできた。


「姫様、御座にお上がりください。御簾をおろしますので」
「どうしたの?」

「八条宮様がこちらにお越しになられます」
「宮様が?」

「はい。もう先導の女房がそこまで……」
「ええっ?!」

 沙那は慌てて体を起こすと、四つん這いになって急いで設えてある席に移動した。脇息にしがみついて、しとねに座る。


「あいたたた……」
「姫様、大丈夫ですか?」
「う、うん。何とか」


 だいぶ良くなったとはいえ、まだ痛みが残る足で正座はできそうにない。
 ……仕方がない。お行儀が悪いけれど、御簾があるから宮様からはよく見えないわよね。

 そう高を括った沙那は、茵の上で足を伸ばした。そして、深窓の姫君必須道具アイテムのひとつ檜扇ひおうぎをぱらりと広げる。これで御簾の向こうからは、しおらしく座す貴族の姫君に見えるはずだ。本来、背の君以外の殿方に顔を見せるのは御法度で、それが礼儀である事は八条宮のように成人した殿方なら誰もが心得ている。
 そろそろと御簾をおろした小梅が、御簾越しに沙那を呼ぶ。


「それでは、わたくしは八条宮様をお迎えして参りますね」
「うん。失礼の無いようにお願いね、小梅」


 小梅が退出してからほどなくして、八条宮がひとりで部屋に入って来た。小梅と先導の女房たちはどうしたのだろう。そんな疑問が浮かんだのは一瞬で、沙那は絵巻に描かれた雅な大和絵を見るように御簾越しの光景に釘付けになる。

 御簾の向こうは格子が全て上げられていて、夏の花々が咲く庭へと景色が一続きになっている。初夏の日差しに照らされた明るい庭を背に立つ宮様は、夜に見る御姿とは違って……、ううん、いつも見ても言葉が出ないくらい美しい。

 つかつかと、八条宮が御座へ近づいて来る。八条宮は立ち止まる事も無く、そのまま御簾をかいくぐった。そして、さも当たり前のように、沙那のそばに腰をおろした。


 ――あ、あれ? 御簾の意味は?


 みっともない座り方を宮様に見られるのは、とても恥ずかしい。けれど、座り直そうにも介添え無しでは立てそうにない。そもそも、どうして宮様はこちらへ来たのかしら。まだ互いに未婚の身。御簾を隔てるのが作法マナーなのに……。

 八条院で待ち伏せした常識破りな自分を手の届かない高い棚に上げて、沙那はしゅんと気落ちした顔で八条宮を見た。そして、せっかく広げた檜扇を音が鳴らないようにそっと閉じた。


「あなたと話をしたくて、人払いをさせてもらった」
「……ぁ、はい」

「どうしたの? 元気が無いね」
「ご覧の通りお行儀の悪い姿勢で……、申し訳ないやら恥ずかしいやらでして」

「へぇ、あなたも恥じらう事があるんだね」
「ありますよ。特に、宮様の御前ではしおらしくしていたいです、もの」

「しおらしく、ねぇ……。ともかく、足を痛めていることは俺も承知しているのだから、気にしなくてもよいのでは?」

 八条宮が表情を緩めて、くすくすと可笑しそうに笑う。
 宮様の笑顔は、いつもの冷たい感じと違ってちょっと可愛い。整った顔がくしゃってなると、真綿のように柔らかくなるのね。これは新たな発見だわ。


 くっ……、宮様が素敵過ぎて、ときめきが止まらない。このまま心の臓が壊れて、わたしは早死にしてしまうのではないかしら。


 だめよ。
 都には、宮様のにわかファンがごった返しているの。宮様を残して早逝したら、わたしは絶対に成仏できない。死霊になって宮様にまとわりつくなんて嫌よ。何としても、生きて宮様にくっついておかなくちゃ!

 沙那がそんな事を考えていると、八条宮が手に持っていた蝙蝠かわほりを床に置いてふたりの距離を詰めた。


「心配しなくても、今さらあなたが何をしても俺は驚かないよ」
「でも……。わたしの事を、はしたない女だって嫌いになったりしません?」
「意味の無い質問だな。これから妻になるのに、好きだの嫌いだの」


 八条宮の口から出た二度目の「妻」に、沙那は頬をぽっと赤く染める。
 ああ、そうか。わたし、宮様の妻(もうすぐ)だった。簡単に嫌いになるのなら、妻にはしないわけで。それに、今日の宮様は今までで一番お優しい御顔をなさっていて、距離がとても近い。とっても。


「そういえば、猫に驚いたと言っていたね」
「はい。宮様みたいに、綺麗な金色の目をした黒猫でした」

「それは、俺が飼っている猫だ。よく邸を抜け出す子でね。驚かせてすまなかった」
「猫がお好きなのですか?」

「そうではないよ。ただ、あの子は特別なんだ」


 沙那はくりっとした目で、じっと琥珀色の瞳を見つめる。宮様は、深くて底の見えない湖みたい。神秘的ミステリアスなところが魅力でもあるのだけれど、知らない事が多過ぎて少しだけ……、ほんの少しだけ不安になる。


「沙那」


 八条宮が、袿の上から沙那の右手首をつかむ。
 初めて、宮様に名前を呼ばれた。どくん。左胸の奥で心臓が大きな音を響かせて収縮すると同時に、閉じた檜扇を握る手がじっとりと湿り気を帯びる。


「あなたの父君にお許しいただいた。吉日を選んで、約束通り八条院にあなたを迎える。それまで、あなたはここで大人しく俺を想っていて」
「婚礼まで宮様にお会いできないのですか?」


 柔らかく笑んだ八条宮が、ぐいっと手を引き寄せた。薄紫色の直衣のうしに焚き染められたお香がふうわりと香って、沙那の心臓がまたどきっと跳ねる。
 色恋の経験はゼロだけれど、香りの違いくらいは分かる。今は爽やかな香りがするけれど、担がれたときは甘い香りだった。
 冷静に考えれば、男性が甘ったるい花の香りを好んで焚くはずがない。では、あれは恋人の移り香――?


「沙那」


 八条宮が顔を近付ける。沙那が余裕を無くして顔を真っ赤にすると、八条宮は笑んだまま熟れた林檎のような頬に唇を寄せた。


「会えないのかと可愛い科白を言う割に、気もそぞろだね」
「そ、そんな事は」
「しばらくの辛抱だよ、沙那。これでもう、俺はあなたのものになったのだから、何も憂いは無いだろう?」



 八条宮様ご結婚のニュースは、またたく間に内裏を席巻して都中のにわかファン(傍点)たちの知るところとなった。そして、八条宮と大納言から報告を受けた今上帝が祝いの言葉を添えた品々を八条院に贈った事で、ふたりの結婚は世紀の一大行事セレモニーとして注目の的になったのだった。


 沙那は八条宮に会えない寂しさを感じながらも、大納言邸に届く小道具や婚礼の衣装に、心躍らせて婚礼の日を待ちわびた。時には、八条宮から命を受けたという八条院の女房が訪ねてきて、宮家のしきたりなどを懇切丁寧に教えてくれる日もあった。


 そうやって、日々が過ぎていった。


   

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