第03話 宮様の求婚(1)




 八条院の前で夜を徹して待っていた疲れもあって、沙那は気を失ったまま眠ってしまった。寝ても覚めての宮様一筋の沙那が眠りの底で見るのは、やはり八条宮はちじょうのみや依言よりこと様の夢だ。


 ……宮様はやっぱり素敵。


 見た目や身のこなしはもちろん、穏やかな話し方も細やかな仕草ひとつまで何を取っても優雅なのに、きぬ越しに触れる御体は逞しくてすごく男らしい。銀糸のような御髪が結い上げられたうなじは、鳥肌が立つくらい美しくて……。女の人みたいに甘い花の香りがする。

 夢の中で、担がれた沙那が八条宮に抱きついてうなじの香りに嗅覚を研ぎ澄ました時、遠くで人の話し声が聞こえた。


「……るの?」
「……せん。またご覧の通りでございまして」

「そう。お前はひさしに出て待っていなさい」
「はい。かしこみまして」


 ……宮様、と小梅の声?


 ふわりと香りを含んだ微風が鼻先をくすぐって、誰かがすぐそばに座る気配がした。衣に焚き染められたお香かしら。意識がぼんやりと夢から現へ戻ろうとする。すると、そっとひたいを押さえられた。肌の感覚で、それが手の平だと分かる。


 ――あたたかい手。


 霞む脳裏に、ふと懐かしい映像が流れ込む。起きなさい、沙那。もう朝ですよ。声はとっくに記憶から失われてしまったけれど、母上はいつまでも起きないわたしの頭を撫でて、優しい声で起こしてくださった。


「……ぅえ」
「なに?」


 沙那は、鮮明な八条宮の声に驚いてぱっと目を開けた。顔を声の方へ向けると、額に置かれた手がすっと離れた。


「ようやく起きたな」
「宮様……」

「このまま昼まで眠るのではないかと心配した」
「……ご、ごめんなさい。わたし、あのまま寝てしまったのですね」

「ぐっすりとね。笑っていたようだけれど、楽しい夢でも見ていたの?」
「寝顔をご覧になっていたのですか?」
「まさか。姫君の寝顔を覗くなど、はしたない真似はしないよ」


 ふっと八条宮が意地の悪い笑みを浮かべる。仰向けの体に掛けられた自分のうちきを両手で握りしめて、沙那は恥ずかしそうに顔を赤らめた。だらしない寝顔を、よりにもよって宮様に見られてしまうなんて。

 八条宮の顔から視線を天井に向けて、それから部屋を見回す。天井や柱の白木は、本来の色味を保ったままだ。それもそのはず、八条院は宮様が宮号を賜って御所を出た時に建てられた新しいお邸だものね。ここは、宮様のお部屋なのかしら……。それにしては、調度品などが少なくて質素過ぎる。
 格子こうしを見ると、まばゆいくらいの白光が差していた。


「起き上がれるのなら、身支度をしてくれると助かるのだが」


 再び八条宮へ視線を戻して、沙那は気を失う前と八条宮の装いが変わっているのに気付いた。薄紫色の直衣のうしに、烏帽子ではなく冠を載せた優美な御姿。夜には見た事のない佇まいだ。


「御所へ参内なさるのですか?」
「いや。大納言殿にお会いする」

「大納言って、わたしの父上ですか?」
「そう」

「どうしてですか?」
「その足では、約束を果たせないだろうから」



「いいえ宮様、御心配には及びません。通います。絶対に、這ってでも百夜通ってみせますから!」

「心配などはしていない。あなたの事だから、そう言うと思っていたよ。これから大納言殿にお会いして、あなたとの婚姻をお許し願おうと思う」

「……こんいん?」
「百夜には満たないが、あなたを妻にするよ」





 ツマニスル。





 ツマって妻よね?
 ひょっとしたらまだ意識がちゃんと戻っていなくて、都合のいい夢を見ているのかもしれない。沙那はツマと言った八条宮の口元を凝視して、自分のほっぺたをつねった。いっ、痛い。夢じゃない!


「宮様、本気でおっしゃってます?」
「本気の本気で言っているつもりだ。八条院の周りを、夜な夜な物の怪が地を這ってうろついているなどと噂になったら困るからね」


 物腰の柔らかさとは裏腹に、絵に描いたように美しい宮様の御顔にはいつもの冷ややかな相が浮かんでいる。口調だって淡々としていて、こう言っては失礼だけれど、とても求婚プロポーズといった雰囲気ではない。それに、これから妻になる人を「物の怪」とは言わないと思うの、普通は。


 まぁ……、わたしが一方的におしかけて迫った結婚だもの。宮様にとっては、嬉しくも何とも無いわよね。


 だけど、嬉しい。一生分の幸せを浴びているみたい。
 宮様はいつも澄ましておいでだけれど、きっと心には温かな気持ちをお持ちなのよ。だって、毎夜待ち伏せする不審者を検非違使に突き出すことはしなかったもの。それに、帰って来ない日は一日も無くて、毎日必ず目を合わせて言葉を掛けてくださった。いつもと様子が違うだとか、あなたの事だからとか、わたしをちゃんと知ってくださっている。


 だから、本当に夢みたいで嬉しい――!


「それで、あなたに心変わりは無い?」
「無いです。宮様の妻になる事だけを考えて、今を必死に生きていますからっ!」
「足の他に異常はないようだな。安心した」


 ほら起きて、と差し出された手を勢いよくがしっと握って起き上がる。宮様は少し呆れた顔をなさったけれど、「ありがとうございます、宮様」と感謝を伝えると、やんわりと微笑んでくださった。



❖◇



 さて、八条宮の突然の来訪に驚いたのは、沙那の父、大納言藤原義明である。先立って使いの者から知らせは受けていたが、娘が八条宮を伴って朝帰りをしたうえに、只今、その八条宮から婚姻の申し入れを受けている。何が何やら、さっぱり状況を飲み込めない。

 妻が不幸な出来事で早逝したのは、沙那がまだ八つの時だった。
 他に兄弟も無く母親に先立たれた娘が憐れで、妻の分まで愛情を注いでやらねばとつい甘やかした。そのせいで、沙那は天真爛漫を通り過ぎて少々野性的に逞しく育ってしまった。いや、あれはあれで屈託なく素直で、沙那らしくて良いと思っている。

 しかし、それとこれとは別の話だ。
 八条院から戻ってきたということは、沙那が八条宮様のもとへ通っていたということ……。
 摂関家の流れをくむ大納言家の姫が、男を夜這うなどあってはならぬ前代未聞の醜聞スキャンダルだ。それも、あろうことか親王である八条宮様を……。

 主上おかみに御子が無い今、皇家に何事かあれば帝位に就く可能性のある御方だと分かっているのか、沙那は。
 大納言はふらりと意識が遠のくのを感じて、蟀谷こめかみを押さえた。向かいで、八条宮の蝙蝠かわほりが静かに開く。


「突然このような申し入れをして、驚いておられるでしょうね。お許しを、大納言殿」
「滅相も無い。お恥ずかしい話ですが、沙那にそのような相手がいた事すら知りませんでした。不束な娘です。さぞやご迷惑を……」

「いいえ、迷惑などはひとつも」
「しかし結婚とは……。宮様には、もっと相応しい姫君がおられるのではございませぬか?」

「八条院に迎えるなら、沙那姫のような方がよいのです」


 通常であれば、世のしきたりにならって婿取りをするところだが、相手が親王ではそうはいかない。主上に伺いを立てて婚礼に最良な吉日を選び、沙那を八条院へ送り出さなければならない。

 宮家の正室になるのだから、栄誉な事ではある。しかし、八条宮と言えば、見ての通り見目麗しき美青年で名うての遊び人だ。添臥そいぶしに選ばれていた常陸宮家ひたちのみやけの姫が病死してから、浮名ばかり流して一向に身を固める気配が無かった。先帝もそれを大変気に掛けておられるところだ。


 しかし、なぜ沙那を?


「大納言殿。お気持ちは分かるが、そう警戒しないでください」
「宮様と沙那が深い仲であるなど、どうも信じ難い……」

「一年以上、沙那姫は足繁く八条院を訪ねてくれた。その情熱に心打たれたのです」
「一年?」

「はい、正確には一年と三ヶ月です」
「……いっ、一年と三ヶ月も?!」


   

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