第01話 百夜待伏せ(1)




 宮様がお生まれになった夜は、望月もちづきに近し赤い月がのぼって、天が不思議なけ色に染まったそうだ。それから、黄金の鳥が御所の上空を舞っていたとか、よく晴れていたのに一筋の巨大な稲妻が走ったとか、ほかにもこの夜に起きた不思議な話がいくつも残っている。天変地異の前触れだと恐れる占術者もあれば、御代が栄える吉兆だと喜ぶ学者もあったのだとか。

 もう二十年も前の出来事で、真相は定かではない。わたしはまだ生まれてもいなかったから、全て大納言として先帝の御代より主上に近侍している父上から伝え聞いたお話だ。





❖◇





 目立たないように身をやつした網代車あじろぐるまが一台、夜の闇にまぎれて小路をゆく。年のころ十七、八の女人二人を乗せたその牛車は、小路をしばらく進んだ所できぃっと大車輪を軋ませて停まった。


「ひ、姫様。今宵は静か過ぎて……、なんだか不気味ではありませんか? おやしきに戻りましょうよ」


 前御簾の脇からちらりと外を覗いた女房の小梅が、肩をすくめて声を震わせる。
 遷都から五代の御代を数えた都は、太陽の下でこそ天子たる帝が居を据える都市の華やかな賑わいを見せるけれど、一転、夜にあっては強盗や物の怪が徘徊する物騒な所だ。

 とはいえ、小梅の言う通り今日は風も音もなくて、その静けさに背筋がぞわぞわとする。ここが都の要である御所から離れた八条だから、余計にひなびて静かなのかもしれない。

 明かり一つない宵の小路には、人の往来はもちろん猫の子一匹いない。邸宅の白壁だけが、死装束を着た幽霊のように暗闇の中に立っていた。


「怖いのなら、小梅はここで太助と待っているといいわ」
「まさか姫様、お一人で行かれるつもりなのですか?」

「ええ、今夜で八十六夜目だもの。ここで諦めるわけにはいかないから」
「お待ちください、姫様!」


 小梅の制止を無視して御簾を巻き上げ、沙那さなは牛引きの太助が前板に揃えてくれた草履をはく。そして、軽やかな身のこなしでしじを踏んで地におりた。


「なんて、まぁるいお月様……」


 見上げた空には、瞳に映しきれないほど大きな金色の望月が浮かんでいる。
 黒い雲の一団が、ゆっくりと月の前を横切っていく。その優雅な風景に、沙那は大納言から聞いた宮様にまつわる話を一つ思い出す。

 それは、今は譲位なされた先帝の御代のこと。
 五十日いかいわいで初めて赤子の宮様と対面した先帝が、その美々しさに人目をもはばからず感嘆なされたというものだ。

 見たこともない特異な、まるで月の光を紡いだような白銀色の頭髪と満月のごとき琥珀色の硝子玉をめ込んだような瞳。万物に神が宿る国を統べる天子であり、神仏への信仰が厚い先帝は、御胸に抱いた皇子の容貌をまじまじとご覧になった。そして、誕生の夜に起きた様々な瑞兆を思い起こされた。


「見よ、この神々しき相を。皇子は、月読尊ツクヨミノミコトの権現ではあるまいか」


 目に涙さえたたえて、藤壺女御様におっしゃたのだそう。そして、月光から生まれい出たような壮麗な皇子に、月宮つきのみやという呼称を授けたと――。

 先にお生まれになっていた日宮ひのみや様と月宮様。二人の皇子は、まるで内裏を照らす一対の光のように仲良くお育ちになった。

 なんて素敵なお話なのかしら。沙那は、照れたように着物の袖で顔を覆い隠す。満月に照らされると、まるで宮様にじっと見つめられているみたいで恥ずかしい。


「ふふふっ」


 閑静な闇に、沙那のちょっと不気味なひとり笑いの声が溶ける。
 宮様と初めてお会いしたのは、御裳着を済ませた翌年の宮中行事だった。御所の左近の桜が花をつけていたから、その季節だったのだと思う。主上主催の歌詠みの宴だったのか管楽の宴だったのか……。

 拝した宮様のあまりの清廉な美しさに、ほかのことは全て頭から吹っ飛んでしまった。本当にお美しくて、あれ以来、宮様以外のものに美しいという感動が起きなくなった。



 ――あの御方の妻になりたい。



 そう願うのは、わたし一人ではないはず。現に宮様は恋多き御方で、その手の噂が絶えない。しかも、耳にする恋のお相手は評判の美姫ばかり。わたしでは眼中にも入らないし、相当な競争倍率だと思う。



 だけれど!



 だからこそ!



 わたしは燃え上がる情熱を宮様にそそぐと決めた。一度しかない人生だもの。燃え尽きるなら、絶対に宮様の腕の中がいい!





 いつの世も、推しに対する女子の情熱は凄まじい。沙那はまず、乙女心を鷲掴みにした美青年について徹底的に調べた。

 八条宮はちじょうみや依言よりこと様は、先帝が鍾愛なされた藤壺女御様がお産みになった第二皇子だ。元服と同時に親王宣下を受け、八条宮の宮号と所領を賜って左京の八条に居を構える独身貴族。

 ……というところまでは、誰でも知っていることだから難なく分かった。けれども、そのほかについては一切の情報がない。つまり、八条宮として御所を出たあとのことは謎に包まれている。

 どうして、正一品の親王様が御所から離れた八条なんかに住んでいるのかしら。どうして、元服の折に添臥そいぶしがいなかったのかしら。肝心な情報は不分仕舞わからずじまいだ。



 ――そんなところがまた、神秘的ミステリアスで素敵!



 ともかく、花の命は短し恋せよ乙女。人生の貴重な時間を無駄にはできない。
 八条宮を見初めた翌日、沙那は意気揚々と八条院に恋文を送った。しかし一向に返事をもらえないまま、根気強く毎日送り続けて気づけば半年が過ぎてしまった。

 これでは埒が明かない、そうこうしている間に宮様が結婚しちゃう! と焦った沙那は奮い立つ。あろうことか、八条院の前で宮を待ち伏せしたのである。黙って殿方の訪れを待つのが女人の定め。どんなに好きになっても、女性から男性宅を訪ねるのは絶対にやっちゃいけない禁忌タブーだ。


曲者くせもの


 うっとりするような、波のない落ち着いた低い大人の声。それが、沙那が初めて八条宮からかけられた言葉だった。

 すっかり陽が落ちた刻。身なりは貴族らしいが、女が夜歩きしたうえに顔をさらして男の邸におしかけるなど常識では考えられない。八条宮は、蝙蝠かわほりで秀麗な顔の下半分を隠して、冷ややな目で沙那の頭から足先までを見た。そしてすぐ、近くに控えていた従者に検非違使を呼ぶよう命じた。


「話を聞いてください。お願いです、宮様!」
「なぜ俺が、夜に待ち伏せするような不審な輩の話を聞かなくてはならないの?」
「そっ、それはですね……」


 騒ぎに気づいた八条院の女房が、慌てた様子で邸から出てきた。八条宮が、その女房に「曲者を追い返せ」と言って門をくぐる。

 沙那は、八条宮を引き止めて必死に事情を説明した。そして、ますます不審がられた。しかし、沙那はめげなかった。それから毎日八条院へ通いつめるうちに、季節は秋から冬へよどみなく流れて、さらに御所の左近の桜が蕾を膨らませ始めた。

 二人の間柄に沙那が期待するような特別な変化はなかったけれど、二人はひと言ふた言ささやかな言葉を交わすようになっていった。そしてある夜、とうとう八条宮が根負けする。


「まいったな」


 八条宮は、自分の胸ほどの高さしかない沙那を見おろして、呆れたように小さく笑った。型破りな非常識ではあるが悪い人間ではないようだし、気が済むまで相手をしてやってもいいか。八条宮にあったのは、沙那への恋情ではなくそんな軽い気持ちだった。


「どうしても俺の妻になりたいの?」
「はい、どうしても!」

「俺のことを、なにも知らないのに?」
「それは、これから知っていけば……」

「皆そう言う」
「その辺のにわかファンと一緒にしないでください。わたしは本気なんです!」

「へぇ……」
「信じてください。本気の本気なんです!」

「そう。では、明日から一日も欠かさず、さらに百夜通うことができたら、あなたの本気の本気とやらを信じるよ。俺の北の方として八条院に迎えてやる」

「ほっ……、本当ですか?」
「俺は、嘘が大嫌いなんだ」


 やはり、真心は人心を動かすのよ。宮様との一生がかかっているのだもの。雨が降ろうと槍が降ろうと、必ずや百夜通いきってみせるわ!

 八条宮と百夜通いの約束した時を思い出して、沙那は意気込み新たに宮邸の門の傍らに佇む。
 しかし、張り込みをするようになって、悲しい現実を知ってしまった。月が明々と地を照らす時間だというのに、宮様はいつも八条院にいない。

 異母兄であられる今上帝ととても仲が良いと聞くから、参内してそのまま御所にとどまっているのかもしれない。けれど、恋の噂がつきまとう宮様のことだから、もしかしたら恋人の元へ行っているのかも……。

 ちくりとした切なさが、心にさざなみ小波さざなみを立てる。
 宮様のお相手ってどんな人なのかしら。美人で、宮様と釣り合う大人っぽい人ばかりなのかなぁ。



 はぁ……。



 無意識に出てしまうのは、重たいため息。かわいいと父上や小梅は言ってくれるけど、それは挨拶と同じようなもので、美人とは程遠いのは自分でも分かっている。背も低いし、胸だってぺったんこだし……。裳着を済ませた立派な大人なのに、色気のいの字もないからいつも年齢より幼く見られちゃう。



 壮麗で大人の雰囲気たっぷりの宮様には似合わないわよね、わたし。



 足元の小石をつま先で蹴って、二度目のため息をつく。その時、ざざっと竹垣がざわめいて揺れた。咄嗟に音の方に目を向けてみるけれど、真っ暗でなにも見えない。


「みゃぁ」


 切り袴の裾から、もふっとした毛並みが右の脹脛ふくらはぎをくすぐる。な、なに? なにかいる……っ!
 おそるおそる足元を見ると、宙に浮いた丸い金色のまなこが二つ、横に並んでこちらを向いていた。夜の都を徘徊するのは、強盗か物の怪の類と相場は決まっている。


「みゃあぉ」
「きっ、きぃやぁあああーっ!」


   

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