story 11




 ◇◆◇



 12月9日。青いハンドバッグと重要書類の入ったA4サイズの茶封筒をふたつ持って医局を出る。タイムカードに打刻して職員通用口から外に出ると、冬陽にしては熱のある強い日差しがさんさんと降りそそいでいた。時刻は12時23分。駅までは徒歩で15分ほどだから、待ち合わせの時間より少し早く着きそうだ。


「あれ、廣崎さん。今日は半休?」


 背後から声をかけてきたのは、数カ月前に医局長に任命された外科の篠田医師35歳である。クセ毛のようなパーマがかもしだすイマドキの外見。濃紺のスクラブの上に羽織ったドクターコートの袖を腕の中ほどまでまくるのは、彼の通年定番スタイルだ。


「ええ、所用があって」
「そっか。廣崎さんの机の上に皆の勤務希望の用紙を置いといたんだけど、気づいたかな」

「はい。来週中には当直と日直を組んで、先生にお渡しします」
「助かる! いつもごめん、廣崎さん」

「いいえ、先生が忙しいのは分かっていますから。けど、わたしが当直と日直を組んでることは絶対に秘密にしてくださいね」


 うん、と笑って建物の中に入っていく篠田の背中を見送って、彩は日傘を広げた。生成りのリネン生地にマリーゴールドがワンポイントで刺繍された、お気に入りの日傘だ。じりじりと地面をこがすような日差しの中、駅前にあるコーヒー専門店を目指す。ヒールの高い靴を好まない彩の足音は、猫の忍び足のように静かだった。



 ――暑いなぁ。



 もう12月だというのに、晴れた日の昼間は夏と変わらない。車通りの多い片側一車線の県道を渡って、駅へ続く小道を歩くこと15分。彩はコーヒー専門店に入ると、スマートフォンの画面をタップしてアプリを立ち上げた。炎天下を歩いて乾いた喉を、冷たいコーヒーでうるおそうと思ったのだ。

 注文カウンターに行く前に店内を見回す。待ち合わせの相手の姿はない。新商品のかわいいフラペチーノにマキアート、それからラテも魅力的だったが、シンプルなドリップアイスコーヒーを注文して奥の窓際に座る。

 店内は、コーヒー特有の芳香と女性たちの陽気な笑い声に満ちていた。壁に掛けられた有名イラストレーターの絵が描かれたカレンダーを見ると、今日の日付に赤字でポイント5倍と書かれている。どおりで、平日に昼過ぎにもかかわらず繁盛しているわけだ。

 彩が勤務する病院は、いわゆる市中の中小病院だ。標榜している診療科は、外科と内科、小児科と麻酔科。病床数は120床ほどで、常勤医師は30人に満たない。一定の基準をクリアして臨床研修施設の認定を受けてはいるのだが、研修医たちは研修プログラムに沿ってよその病院で必修の診療科をローテートする必要がある。

 仁寿たち1年目の初期研修医3名は、11月1日からそれぞれ別の病院での研修が始まっている。仁寿は、一カ月の精神科専門病院での研修を終えて、12月1日から市内の総合病院でER救急の研修中だ。

 そういう事情で、仁寿とは職場で顔を合わせることもなくなった。プライベートでも、合鍵は一度も使わずバッグにしまったままだったから一度も会っていない。だって、自分は医者でも看護師でもない。話相手になれるような専門的な知識とか、共感できるものがなにもないわけで。

 研修や仕事の事務的なサポートはできても、そのほかはなんの役にも立たない。だから、彼のプライベートな時間に踏みこむのは研修の妨げになるような気がして、共同生活するのを思いとどまっている。この一カ月ちょっとの間、ときどき仁寿から送られてくるメッセージに返事を返すだけで、彩の方から連絡を取ることもなかった。

 ちらりと腕時計を見て、ハンドバッグからコンパクトを取り出す。ガラにもなく髪を整えて、ガラにもなく小鼻や口元をチェックしてしまう自分が恥ずかしい。まるでデートに臨む女子みたいで……。

 コンパクトをハンドバッグにしまって、ドリップアイスコーヒーを飲む。待ち合わせの時間まであと5分。久しぶりの再会に少し緊張してしまう。大きなガラス張りの窓の向こうに目を向けると、スーツ姿のサラリーマンや制服の学生たちが闊歩する日常的な光景が広がっていた。


「おまたせ」


 懐かしい声に、彩の視線が声の主へと向く。そこには、黒いステンカラーコートを着た仁寿が立っていた。流行りの丸フレームのメガネが不意をつく。先生、メガネなんてかけてたっけ?


「久しぶりだね」


 脱いだコートをイスの背もたれに掛けて、仁寿が向かいの席に座る。


「彩さん、元気だった?」
「はい、元気にしていましたよ。先生も変わりないですか?」

「うん」

「先生から頼まれていた医師免許証のコピーと、これ……、保健所に提出する書類を持ってきました。確認していただいてもいいですか?」

「ああ……、うん」


 封筒から書類を出して、テーブルに置く。仁寿がそれを手に取って、彩の顔を覗きこんだ。レンズ越しに、つぶらな目がじっとこちらを見ている。


「どうかしました?」
「やっと会えたのに、彩さんが完全に仕事モードだ」


 温度差を感じるなぁ。ぼそりとつぶやいた仁寿が、うなじをかいてがっくりとうなだれる。


「コーヒーを頼んできましょうか?」
「いいよ。彩さん、今日は午後から休みだって言ってたよね。予定があるの?」

「出張の準備をしようと思って半休をとったんです。予定らしい予定はなにも」

「そっか。車は?」
「病院においてます。駅前の駐車場っていつもいっぱいだから、歩いてきたんです」

「じゃあ、とりあえずその書類を持って一緒に僕の家に帰ろう。明日の朝、僕が病院まで送るよ」
「え……、でも」

「実は僕、明けなんだ。救急車8台うけて仮眠をとる暇がなくてさ。書類の確認は、少し寝てからでもいい?」
「あ、ああ、はい。ごめんなさい、気がきかなくて……」

 彩の言葉をさえぎるように、仁寿がコートを羽織って席を立つ。彩は書類を封筒にしまって上着に袖をとおすと、ハンドバッグをつかんで仁寿を追いかけた。狭い道幅の路地を抜けて、駅のそばにある立体駐車場へ向かう。マンションに着くまで、仁寿は一言もしゃべらなかった。

「彩さんの荷物は、寝室に置いたままにしてあるよ。僕はシャワーを浴びてくるから、彩さんはリビングで待ってて」

 玄関で靴を脱ぐと、仁寿はそれだけ言い残してさっさと浴室に行ってしまった。車の中でも無言だったし、わたし気にさわることをしたかな。でも、不機嫌な感じでもないし……。先生、どうしたんだろう。

 無人の廊下で「はい」と気の抜けたような返事をしてリビングを目指す。彩は、リビングに入って瞠目した。ダイニングテーブルの上には本が散乱して、ソファーの前のテーブルにも雑誌が広げられたままになっていたからだ。先生らしくない、そう思ってテレビの前のテーブルに近づく。


「やっぱり、大変なんだ……」


 内科と違って救急は大変だって、ほかの研修医から聞いたことがある。仁寿が当直で救急車を8台うけたと言っていたのを思い出しながら、彩はテーブルに広げられている薄っぺらな雑誌に手を伸ばした。

 それはどこの医局にもおいてあるといわれる、年間定期購読料20万円超えの有名なイギリスの医学雑誌だ。幅5ミリあるかないかの天と前小口に、朱色で病院名が押印されている。どうやら、総合病院の図書室から借りてきたらしい。

 開いてあるページを閉じないようにテーブルの隅に雑誌を寄せて、次はダイニングテーブルに散乱した本をそろえて積み重ねた。キッチンはきれいに片づいていたので、ソファーに腰かけて仁寿を待つ。しばらくすると、すっきりとした表情の仁寿が、左手に掛布団を右手にコミック数冊を持って颯爽とリビングにあらわれた。


「本を片付けてくれたんだね。ありがとう、彩さん」


 リビングを見回した仁寿が、彩に笑顔を向ける。いつものにこやかな顔と声色に安心するけど、やっぱりメガネに違和感を感じてしまう。それは見た目に対してではなく、知らなかったという意味での違和感だった。


「毎日、忙しそうですね」
「特別忙しいはずはないんだけど、なんか時間が足りなくてさ。僕の要領が悪いのかもね」


 はい、と仁寿に渡されたコミックを自然な流れで受けとって、彩がソファーの端に寄る。すると、仁寿がメガネをテーブルに置いてソファーの上に寝転んだ。ソファーの幅は仁寿の背丈に足りないから、必然的に彩の太腿ふとももが枕になる。


「な、なにしてるんですか?」
「お昼寝」


 太腿に乗った仁寿の頭部を驚いた顔で凝視する彩にかまわず、仁寿がクッションを器用に使って首が痛くならないように体勢を整える。それから、長身の体を丸めて肩まで掛布団をかぶった。

 なにもわたしを枕にしなくても。寝心地だってよくないのでは。

 そんな言葉が浮かんで、でも、と彩は口をつぐむ。朝から普通に仕事をして当直に入るのだから疲れてるだろうし、今はいろいろ言わないほうがいいか……。


「彩さんの顔を見たら、ほっとした」


 太腿に頬をすりすりして仁寿が目を閉じる。はふ、と大きなあくびをして仁寿はそのまま寝入ってしまった。ほのかに香るラベンダーは、先生の匂い。寝顔をまじまじと見てみると、童顔だと思っていた顔は鼻筋とかあごとかの骨格がしっかりしていて大人の色気みたいなものがある。

 ぴんと伸ばした背筋をソファーの背もたれに預けて、仁寿の頭が動かないようにもぞもぞと小さな動きでお尻の位置を調整する。それから仁寿が持ってきたコミックに手を伸ばした。それは十数年前、女子中高校生の間で大流行してアニメにもなった少女マンガだった。当時に買ったのだろうか。年季の入った黄ばんだ紙が年月を物語っている。


 ――なつかしい!


 ぱらりと1巻の表紙をめくって、内心で歓声をあげる。中学生のころ、このマンガが大好きだった。思春期の乙女心が、主人公とその彼氏の恋愛にぞっこんだった。

 そうそう、ここでゆうがかっこいいこと言ってドキドキするのよ! とか、ここ感動的なんだよねと心の中で大はしゃぎして、泣きそうな顔をしたりニヤニヤしたりを繰り返す。読み進めてはページを戻り、彩は時間を贅沢に使ってマンガの世界に入りこんだ。

 すっかり夢中になって、はっと腕時計を見ると1時間近くたっていた。仁寿が起きる気配はない。


「藤崎君」


 彼が医学生だったころ、彩は仁寿をそう呼んだ。彼は、病院が主催する医学生向けの集会に欠かさず参加して、熱心に話を聞いてくれる学生だった。人とうちとけるのが早くて、彼がいるとそこに集まった皆が笑顔になった。仁寿が大学四年生なった春、彩は医局秘書課に異動になって医学生担当からはずれた。


「どうしてわたしなんかを好きなのよ。つまらない女なのに」


 独り言を言って、彩の指先が仁寿の首筋に触れる。すると、もぞっと掛布団が動いて手首をつかまれた。



   

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