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story 05




『今、電話大丈夫?』
「はい」

『もう家に帰った?』
「いえ。銀天街で北川先生と食事中です」

『そうなんだ。食事のあとでいいんだけど、時間ないかな』
「病院で何かありましたか?」

『仕事のことじゃないよ。いろさんに会いたいなと思って』
「あ……、ああ、そういうことですか。えっと、まだ食べてる途中なので時間が掛かりそうです」

『わかった。終わったら連絡してよ、迎えに行くから』
「は、はい」
『僕も今からサマリ書いたり他にもしなきゃいけないことがあるから、急がなくてもいいからね。それじゃ、あとで』


 彩が電話を切ると同時に、由香が「帰りますか」と上着を羽織る。


「どうしたの?」
「こら、彩。藤崎君が待ってるんでしょ?」
「待ってないよ。だって、急がなくていいって、今からサマリ書くって先生が言ってた」
「なに寝ぼけたこと言ってるの。それ、彼なりの気遣いだよ。いいから、ほら、早く」
「う、うん」


 ふたりは、店を出て真っ直ぐ繁華街へ向かった。駅前の大通りで由香がタクシーに乗り、彩はそれを見送ってスマートフォンをバッグから出す。そして、画面を見つめたままため息をついて途方に暮れた。
 由香は気遣いって言ってたけど、本当にサマリを書いてる最中だったらどうしよう。仕事の邪魔をするのは良くないし……。

 しかし、画面にデジタル表示された時刻は19:47。明日の事を考えると、あまり遅くなるのもね、と彩は意を決して仁寿じんじゅに電話をかけた。
 指定された書店の駐車場で待つこと10分弱。彩の前に、白いアルファロメオ・ジュリエッタヴェローチェが停車した。
 お疲れさまです、と遠慮がちに助手席に乗る。


「お疲れ様。食事中に電話してごめんね」
「いいえ。こちらこそ、仕事の邪魔しちゃってすみません。サマリ、書けました?」


 シートベルトを締めながら尋ねると、書けたよとにこやかな笑顔を向けられた。何だか気まずい。一方的にそう感じて、彩はいそいそと視線を前に移す。


「彩さんに似合いそうなスコッチ・ウイスキーを買って来たんだ。あと、ライムも」


 え?


 驚いて再び運転席に視線を戻す彩の膝に乗った青いハンドバッグを取って、仁寿がそれをバックシートに置く。
 ハイボールにライムを搾って飲むのが好き。どうして、それを先生が知ってるの? そんな話、したことないのに。


「彩さんの家ってどこ?」
「家はちょっと……。散らかってますし、とても狭い部屋なので」
「そっか。じゃあ、着替えだけ取って、僕の家で飲む?」


 はい?


 驚く彩にかまうことなく、車が動き出す。


「この通りをどっちに行くの?」
「あの、先生」
「後ろから車が来てる。どっち?」
「……ひ、広原町の方へ」


 一線をこえたら一瀉千里。由香の言葉が頭の中でリフレインする。
 車を走らせながら、楽しそうにたわいもない話をする仁寿の横顔を見て、彩は昔を思い出した。初めて好きになった人も、明るくてよく笑う人だった。好きだよって、いつも言ってくれた。だけど、散々セックスにつき合わされて、つまらないとあっさり捨てられた。


『お前、声がよくないんだよな』


 彼の捨て台詞ぜりふに、心はひどく傷ついて見事に砕けてしまった。それからだと思う。眠れない夜に苦しむようになったのは。それから、セックスのときに声を出すのが怖くなったのも。

 なんて皮肉なんだろう。セックスが良くないってけなされて不眠になったのに、セックスをしなきゃ眠れないなんて。ほんと、笑っちゃう。

 セックスは愛の行為なんかじゃない。相手の性欲を満たして、こちらの不眠を解消してもらうだけのもの。不眠でつらいとき以外は必要ない。恋愛だってそう。あんな風に傷つくのはもうこりごり――。


「医局に戻ったら、彩さんがいないんだもん。焦っちゃった」
「どうしてですか?」
「いつも8時頃までいるのに……。また、眠れてないのかと思ってさ。よかった、北川先生と一緒で」


 交差点の信号が黄色から赤に変わって、車がゆっくりと停車する。車の減速と同じスピードで、仁寿が助手席に顔を向けた。


「今、僕のことを気持ち悪いって思ってるでしょ」
「はい、とっても」
「ひどいなぁ。そこ、否定するとこ!」
「冗談ですよ。いろいろとすみません。あのことはもう……、忘れてください」


 信号が青に変わる。仁寿は、何も答えなかった。
 ハンドルを握る横顔を眺めながら、彩はしみじみと思う。
 初めて会った時、先生は19歳の医学生だった。あれから6年が経つけれど、顔つきが大人びただけで中身は全然変わらない。

 柔らかな物腰と表情、雰囲気にも滲み出ているおおらかな性格が人を惹きつける。飄々としているように見えて実は努力家で、上級医の先生たちが指導し甲斐のある有望株だって喜んでいる。
 だから余計に、罪悪感みたいなものを抱いてしまう。

 彩のアパートに着き、来客用駐車場に車を停めて2階に上がった。彩の後ろを、上機嫌な顔をした仁寿がついていく。


「ここ、僕の家から歩いて10分かからないんじゃない? 彩さんが近場に住んでるなんて知らなかったな」
「知ってたら怖いですよ」
「確かに、そうだよね」


 開錠して玄関を開ける。
 妙に緊張してしまう。だって、父親以外の男性を入れるのは初めてだから。


「どうぞ」
「お邪魔します」


 仁寿が、男子禁制の根城アパートに足を踏み入れる。廊下から順に照明をつけて、彩は仁寿にリビングのソファーに座るよう言った。


「すぐに準備しますから、大人しくしていてくださいね」


 彩がリビングを出ていく。
 仁寿は言われたとおり、大人しくソファーに座って彩を待った。
 物が少なくて、きれいに片付いた部屋だ。職場でも、彼女の机の上は整頓されていて、書類や道具が散らかっているのを見たことがない。
 ふと、壁に掛けられたコルクボードに目がとまる。ピン留めされた小さな紙。目をこらして、印字された文字を読む。


 10/18(木) 14:45 A-CT(骨盤腔)
 廣崎 彩
 Mucinous cystic tumor of borderline malignancy.


 明日の日時。検査の予約みたいだけど……。
 あごに手を当てて、記憶をさかのぼる。彼女の体にはっきりとわかる手術痕はなかったけれど、しっかり診断名が書かれている。手術をして、病理検査の結果まで出ているということだ。


「お待たせしました」


 彩が戻ってきた。仁寿は、慌てて視線を彩に向けて立ちあがる。
 以前、本で読んだことがある。人が敬語をつかうのには理由があるそうだ。集団生活を円滑に営むための常識的な使い方ともうひとつ、他人との距離を保つため。つまり、これ以上は親しくなりませんよという意思表示だ。

 仁寿は、彩のそばに行って荷物を持った。二重のきれいな目をくりっとさせて、彩が「ありがとうございます」と言う。


「彩さん、明日は仕事だよね?」
「はい」
「1日?」
「いいえ、午前中だけです。どうしてですか?」
「秘書さんに頼みたいことがあるのを思い出してね。明日、朝礼が終わったら時間をもらってもいいかな。忙しいなら、明後日でもいいよ」
「わかりました。明日、先生が病棟に行く前に声をかけますね」
「ありがとう、助かるよ。じゃ、行こうか」


   
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