「驚かせてごめん」
「そりゃ驚くよ。恋愛はこりごりだって、彼の求愛を突っぱねたんじゃなかったっけ?」
「まぁ、うん……。いろいろあって、押しに負けちゃったというか」
「なるほど。確かに彼、ぶれずに我が道をいくタイプだもんね。あれは強烈だわ」
「それもあるけど……、わたしも悪かった」
「へぇ、そう」
由香が、意味ありげに笑う。
土曜日は定時きっかりに仕事をきりあげて、病院から少し離れた職員専用駐車場に向かった。途中でメッセージの受信音が鳴って、バッグからスマートフォンを取り出してみたら母親からだった。
元気にしてるの。
たまには帰っておいで。
短い文が、改行をはさんでふたつ並んでいた。車で片道1時間ちょっとの距離なのに、気付けば1年近く実家に帰っていない。お母さん、心配かけてごめんと心の中で言いながら、車に乗って返事を打ちこむ。それに夢中になっていると、突然、助手席のドアが開いて藤崎先生が乗りこんできた。
「ふーっ、間に合った」
彼は、息を整えながらそう言ってドアを閉めた。驚きのあまり、状況をのみこめずに声が出なかった。どうにか声を絞り出した時には、彼はシートベルトを締めて、いつでも出発してオーケーだよ! な状態になっていた。
「……あの、降りてください」
「一緒に帰ろうよ」
「いえ、すみません。予定があるんです」
「予定って?」
はい?
いきなり乗りこんできてなに言ってるの?
なんでプライベートなことをあなたに教えなきゃいけないの?
そういう言葉はぐっと飲みこんだ。
貴重な時間がつぶれていく。家に帰ってシャワーを浴びて、バーに行って、早く不眠から解放されたい。それに、ふたりきりのところを誰かに見られたら……。女性が圧倒的に多い職場で、一度変な噂が立つととても厄介なのに。
「ちょっと気晴らしに行きたくて」
「僕も行っていい?」
「だめです」
「ひどいなぁ、即答しないでよ。そんなに僕のこと嫌い?」
軽やかな笑顔が、心にちくりと刺さる。彼がどうして好意を向けてくるのか、理由は知らない。心当たりもないし、見当もつかない。
ただ、先生は睡眠導入剤を服用するように男と寝る女とは違う。もっと素敵な女性と楽しい恋愛をしてほしい。だから、きっぱりあきらめてもらうために決心した。軽蔑されたらそれも本望。彼の未練を断ち切るために、言ってしまおうって。
「先生がどうのじゃなくて。困るんです、先生が一緒だと」
「困る?」
「はい。相手を探しに行くので」
「相手って?」
「セックスの相手です」
先生は、期待どおり目をぱちくりさせて、とても驚いているような顔をした。けれど、それは一瞬のことで、すぐにいつもの柔らかな表情に戻った。
そして、探さなくてもここにいるじゃない。にこやかに、さらりと、そんなことを言われた。
「で、ちゃんとつき合うの?」
由香が胸まである巻き髪を耳にかけて、彩の顔を覗き込むように見る。彩は、その視線から逃れるように、残りのハイボールを一気に飲み干した。
本当に、私が悪かった。はっきりと突き放せば良かった。
美味しいはずのハイボールが、ただシュワシュワと炭酸の刺激だけを残して喉を落ちていく。
両親とも医者で、有名な国立大を卒業して、これからどういう道に進むのかは分からないけれど、医者として大成していくのだ、彼は。
医局秘書として、大切な初期研修の2年をしっかりサポートしなきゃいけないのに……。わたしは、何をやってるんだろう。
カラン、と空になったグラスの中で、小さくなった丸氷が音を立てる。
「つき合わない」
「何で?」
「先生には、研修に集中してもらわなきゃ」
「彼のこと嫌いってわけじゃないんだね?」
「わからないよ。わたし、藤崎先生のことをそういう対象として見てないから」
「藤崎君は、彩のことをそういう対象にしか見てないよ」
「いや……、わたしなんかよりいい人たくさんいるのに、何でだろうね」
「でた、わたしなんか論。彩って、なんでも我慢するじゃない? 仕事でもそうだしさ。特にここ数年は、病気のことでいっぱい泣いたし悩んだでしょ? だから私、彩にはたくさん笑ってほしい」
「……由香、ありがとう。嬉しくて涙が出そう」
「こんな事で泣かないでよ、涙がもったいない」
照れるように笑って、由香がカクテルを注文する。オーナーが、カクテルとハイボールをカウンターに置いた。オーナーは、彩がハイボールしか飲まないのを知っているのだ。
ふたりが「ありがとう!」と声を揃えると、オーナーは「ゆっくりしていきなね」と言って厨房に入って行った。
「藤崎君に病気のこと話した?」
「そんな重たい話できないよ」
「話してみたらいいのに。彼、彩のこと全力で受け止めるんじゃないかな。心が安定したら、不眠だって治るかもしれないよ?」
「そう、かな」
「頑固だなぁ、彩は。6年も片想いするって、並大抵のことじゃないよ。なにはともあれ、一線をこえたら一瀉千里。これから覚悟してたほうがいいわね」
「ど、どういう意味よ」
彩が、動揺を隠すように髪を触る。そのとき、スマートフォンの着信音が鳴った。画面に「藤崎先生」と表示されている。それに気付いた由香が、早く出なよと肘で彩を小突く。
「ちょっとごめんね」
「いいよ、気にしないで。ほら」
覚悟なんて物騒な言葉を聞いたからか、さっき飲んだハイボールが喉の奥に引っ掛かってごろごろ言う。彩は咳ばらいをして画面をタップすると、「はい、廣崎です」と仕事用の声で電話に出た。