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story 03




 時刻は午後六時半。
 終日晴れの予報は大きくはずれて、昼過ぎから降りだした雨は、地面を叩きつけるような本降りになっていた。

 いろは、職場の傘立てから貸出用の傘を拝借して職員通用口を出た。男性用の黒い無地のそれを広げて、雨ににじんだ赤信号が青に変わると同時に小走りで横断歩道を渡る。そこで、予約しておいたタクシーに乗った。
 小柄な中年の運転手が、上半身をひねって制帽の下のくぼんだ目を彩に向ける。


「ヒロサキさん?」
「はい、そうです」
「どちらまで?」
「銀天街までお願いします」


 駅前通りを過ぎたところでタクシーをおりて、銀天街のアーケードを歩く。水曜日の夜、足元の悪い繁華街のはずれは人通りもまばらだ。両脇の店舗は、そのほとんどが昼夜シャッターがおりたままになっている。

 ぽたぽたぽた、と頭に水が落ちて来て、彩は閉じた傘を急いで開いた。
 さびれた商店街は雨漏りがひどくて、アーケードはその役割をまったく果たしていない。傘の下から天井を仰いで納得する。天井は穴だらけで鉄骨がむき出しだった。晴れた夜ならその名に恥じない美しい星空を拝めるのだろうけど、と内心でため息をついて、傘をさしたまま前を向く。

 向こうから、若い男女が寄り添いながら歩いてくる。見た感じ、ませた高校生か大学生だろうか。一本の傘の中で腕を組んで、お互いの顔を見ながら笑ってとても楽しそうだ。

 すれ違いざまに聞こえたふたりの声に、思わず表情がゆるむ。お好み焼きがいい。えーっ、俺ラーメン食いたいんだけど。
 彩が足を止めて振り返ると、そのカップルはアーケードの端にあるお好み焼き屋の前で立ち止まった。そして、ラーメン食いたいと言っていた男子が、彼女と一緒にメニューを指さし始めた。


 ――かわいいなぁ。


 そう心の中でつぶやいて、彩は先を急いだ。
 アーケードの途中で脇道に入って、親友と待ち合わせをしている飲食店を目指す。街灯がとぼしく、ふたり並んでは歩けない細い路地にその店はある。営業中と書かれた小さな看板が目印なのだけれど、常連客でなければ、ここが飲食店だなんてまず気付かないだろう。


「こんばんは」
「いらっしゃい」


 彩が店に入ると、オーナーが調理場から顔を出した。ハスキーボイスがかっこいい40歳くらいの女性だ。


「彩、こっち!」


 カウンター席から、北川きたがわ由香ゆかが手をふる。彼女とは小学校からの同級生で、高校まで一緒だった。彼女は努力に努力を重ねて夢を叶え、内科の専攻医として彩が勤める病院で日々研鑽を積んでいる。


「早かったね、由香」
「うん。今日は彩とゆっくり話しするぞーって、6時過ぎに脱走してきた」
「上級医の先生に見つからなかった?」
「大丈夫。茅場先生がI.Cやってる時間を狙っての犯行だから」
「さすがだね」
「でしょ。まぁ、明日ちくりと十言くらい言われるだろうけど」
「違いない」


 彩は笑いながら由香の隣に座って、カウンターの下のカゴにハンドバッグを入れた。職場からの連絡に備えて、スマートフォンだけは目につく所に置く。
 店内に、客はふたりだけ。まったりと眠気を誘発しそうなオレンジ色の照明と丁度いい音量で流れるジャズが絶妙に心地いい。


「今日は、なにを食べたい?」


 オーナーが尋ねて、「そうねぇ」と由香が腕組みする。この店にメニューはない。食べたいもの、食材、食感などを言えば、オーナーが連想して作ってくれる。しかも、どんな料理もほっぺたが落ちるほど美味しい。


「鶏をカリッと焼いたのをお願いします」
「じゃあ、私はそんなに辛くないペペロンチーノにしようかな。あと、ピンク・レディを。彩はハイボールでいいよね?」
「うん!」


 了解、と調理場からハスキーボイスが返ってくる。すぐにピンク・レディとハイボールが出てきた。ふたりは、グラスを軽く合わせて喉を潤す。


「うーん、生きかえる!」
「ほんとだね。ところで由香、最近ちょっと表情が暗いけど、なにか困ってることがあるんじゃない?」
「……ある。ちょっとだけ愚痴ぐちってもいい?」
「いいよ。親友として真剣に聞くし、医局秘書として問題解決に努める」
「よし、頼んだ」


 彩は、共感の相槌あいづちをうちながら由香の愚痴につき合う。
 医局秘書というと雑用係だと思われがちだけど、みんなの潤滑剤になるのが本業だったりする。人間関係から働き方。研修の制度や内容のこと。医者同士だからこそ、多岐にわたっていろいろとある。

 勤務の組み方でそれが解消できるならそうできるように尽力するし、話を聞くだけでいいなら聞く。目に見えない綻びと摩擦の係数を小さくするために奔走する地味な役回り。神経が擦り切れるくらい気を遣うし、裏方に徹する華のない仕事だなってつくづく思う。

 医局に配属された当初は、個性派ぞろいの集団に頭がおかしくなるんじゃないかって本気で悩んだし、毎日胃がキリキリと痛んだ。夜9時過ぎまで残業した帰りに、職員通用口を出たところで涙が出て、退職のふた文字が何度も頭をよぎった。
 
 それでも、四年の歳月をかけて人間関係が構築されていくうちに、ストレスフルな日々の中に小さな報われが点在するようになって、それがやり甲斐と継続に繋がっている。文句を言いながらでも、みんなが仕事をスムーズにできればそれでよし。そう思えるようになった。
 まぁ、その分、こちらのストレスが過多なのは仕方がないと割り切っている。


「聞いてくれてありがと、彩」


 ひとしきり愚痴を言った由香が、すっきりとした顔をする。彼女はいつもこうだ。たまった鬱憤うっぷんを吐きだして、そのあとは二度とネガティブな話はしないし引きずらない。


「どういたしまして」
「そう言えば、藤崎君たち1年目ってそろそろ院外研修に出るんだよね?」
「ああ、うん」


 彩は、壁の隅っこに掛けられたカレンダーに目を向けた。オーナーの予定だろうか。意味は分からないけれど、十日後の10月27日に大きな赤丸がついている。


「来月から竹内先生が総合病院の外科行って、亜弓先生が医師会の救急でしょ。それから、藤崎先生は精神科。他の科もローテートするから、みんな半年は帰ってこないね。でも、どうしたの? 急に研修医の話なんか持ち出して」

「懐かしくてさ。びしばし鍛えられて帰ってくるんだろうね」
「そうだね。特にうちは研修医に甘いから、よそでは苦労することが多いと思うよ」
「直球で聞くけど、彩は藤崎君のこと本当になんとも思ってないわけ?」


 昔から、由香にはどんなことも包み隠さず話してきた。
 苦い経験も不眠のことも、由香にだけは打ち明けた。彼女だけがこの世で唯一、信頼できる拠り所と言っても過言ではない。それくらい、彩は由香に信頼を寄せて、由香も同じように彩に心を許している。

 由香は、彩が仁寿に告白されてそれを断ったことも知っている。もっとも、彼女は仁寿とも仲がよくて、いろいろと彼の相談に乗っているらしい。けど、どんな相談を受けているのかは秘密だそうだ。肝心なところは口がかたい。


「あのね、由香。実はさ……」

 ハイボールに浸かった丸氷が、カランと涼やかな音を立てる。彩が声をひそめると、由香は目を大きく見開いた。


「うっそ。家に泊まったって、いつよ!」
「土曜日」


 おまたせ、と料理が運ばれてきた。とりあえず食べようか、と由香は彩の言葉を飲みこむようにひとり頷いて、フォークに巻きつけたそんなに辛くないペペロンチーノを頬張った。


   
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